さもゆ
2024-11-15 20:44:22
43899文字
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【A英】英二と寂しんぼおばけ

携帯がないから原作の59丁目時代、A英前提のおばけ×英二があるよ!あと多少の流血描写。

2019.4.30 たまごのお粥pixiv投稿作品

 冷蔵庫と壁の隙間に挟まった目玉と視線が絡み合ったら、取る行動は次のうちどれか。

 1、二度見する
 2、悲鳴をあげる
 3、飛びずさる

 正解は、……全部でした。



1



 ──ぎょっとして自分の見たものを疑い、間違いなく暗闇にある目と目が合ったことを悟ると、ウヒャアッと甲高い声を上げて後ずさった。足がもつれてすっ転び、腰を強かに打ち付ける。
 痛みに呻くより先に出そうになった心臓を押さえるべく口を覆う。ひゅっ、と喉から軋んだ息を吸っては吐く。
 なんだ、今の。
 なんだ今の。
 目玉?
 目玉だった。手指しか入らない暗がりから、何かがじっとこちらを見ていた。
 尻もちをついたまま、信じられない思いで大きくて静かな冷蔵庫を凝視する。いやいや、待て待て、脳みそが暴れる心臓に命令していた。
 気のせいだろう。気のせいだ。あんな隙間に何がいるっていうんだ。そもそも、なんで何かがいるって思った? だって、目が合ったから。どうして? 目があるからだ、そこに。
 抗いようのない答えをもとから持っていた。大体、僕は、最初から。
 あの僅かな隙間に違和感を覚えたから、引き込まれるようにして普段掃除もしないところをわざわざ覗いたんだ。もとから、何かがいると思って。
 でも実際に何かがいた場合、腰を抜かす以外に一体何をしたらいいんだろう。
 ただただ衝撃によって鼓動を打ち鳴らし、冷や汗をかくしかない。冷蔵庫は動かない。当たり前だ。冷蔵庫は稼働音がするだけで主体的に動き回る家電じゃない。では、冷蔵庫の裏側に張り付いているあの何かは?
「英二っ?」
 びくっと身を強張らせる。名前を呼ばれた方を振り向けば、慌てた様子でコングとボーンズが駆け寄ってきていた。
「どうした? 今の、お前の悲鳴だったよな?」
「転んだのか?」
 はく、声を出そうとして、失敗した。二度ほど手応えのない空気入れのような呼吸をし、ようやく押し出した声はひどく震えていた。「れ、れいぞうこ」
「冷蔵庫?」
 コングが歩み寄っていく。扉に手をかけようとしていたので、違うんだと人差し指で示した。
「壁との、す、隙間に」
「隙間?」
 訝りながらも割腹の良い彼は壁に横っ面を押し付け奥を覗いた。もし何かが彼に飛びかかったらどうしようと遅れて怖くなったが、くるりと何事もなく振り返った。
「なんだよ、何も無いぞ」
 傍らで背に手を当ててくれていたボーンズが、からりと笑う。「ネズミでも見たのか? 苦手そうだもんなあ」確かにネズミは苦手だ。急に飛びかかられたら近くの人物に縋りつく(現に縋りついた相手には「なんだよ、女みたいな声出しやがって!」と怒られた)くらいには苦手だ。
 けれどネズミのような小さく丸い目玉じゃなかった。
 たとえネズミだったとしても、こんな厳重警備された高級アパートメントの、しかも部屋の中にいるのは不自然すぎる。
 こんなこと考えるのもゾッとするが人間の目玉でもなかった。
 暗闇でも目が合ったと気づく、大きく歪んだ、ぎょろりと光る目玉だったんだ。
「ほ、ほんとに、何もいないの」
 僕のあまりの震えように益々困惑したらしいコングは、もう一度隙間を注意深く探り、首を振る。「いないぜ。ただちょっと埃がひどいですよ、英二主夫」からかいに乗る余裕もなく、僕はボーンズの肩に支えられながら立ち上がり、恐る恐る隙間を覗いた。
 ぱちり。
 目の前で、ぎゅっと引き絞ったような、冷蔵庫と壁の隙間なのだから当然歪んだ形の、濡れそぼって黒く光る目が、窮屈そうに瞬いた。
 きゃあっ
 女もびっくりの悲鳴を上げて、僕は床にぶっ倒れた。



 ホラー映画はそれなりに楽しんで怖がるし、高校時代の合宿先、旅館のすぐ傍に墓があった時なんかは仲間と大いに怪談で盛り上がるくらいには、オカルト関係に興味を持てる。ただし娯楽として、だ。
 現実にそういう目に遇うとなると話は変わってくる。めちゃくちゃに怖いし、めちゃくちゃに怯える。だってそうだろう。殺人鬼の話をしているだけなのと目の前に殺人鬼が現れるのとでは恐怖具合が格段に違うはずだ。そしてみんな思うんだ、まさか自分が遭遇するとは!
 本当に。まさか自分が遭遇するとは。

「倒れたって聞いた。大丈夫か? 病院は難しいが、医者ならすぐにでも呼べる。調子は? 気分はどうだ?」
 見ていて誰より安心する緑色が、今ばかりは不安でゆらゆら陰っている。ベッド脇に佇む彼は、ベッドの一時的住人である僕よりよほど住人らしい顔つきをしていた。
 えらく心配させてしまっている。そりゃそうだ。用事から帰ってきたら同居人が急に気絶したと部下から聞かされれば、自虐に陥りやすい彼はなんでもこじつけて自分のせいだと思ってしまうだろう。
 僕はベッドから身を起こし、慎重に言葉を選んだ。
「大丈夫。お医者はいらないよ。調子も悪くない。気分は、……ちょっと良くない」
 言っている通りだった。体調は全然平気だ。気分の問題。
……何があった? あいつらに話聞いても、サッパリだったぜ」眉根を寄せられた。
 僕は頷く。頷きながら、どう言おうか悩んだ。何せ僕もサッパリなのだ。もしやあれは夢か幻影なのではないかと、一旦気を失って覚めたらむしろ幻に決まってると思いたい気概だし。
 でも、じゃあ、この視線は?
 扉や障害物を隔てた向こうから、まだ見られているような気がする。
 自意識過剰だ。感覚が変に壊れてしまったんだ。
 僕は彼を見上げた。「あのさ」口を閉じる。彼はまた開くのを辛抱強く待ってくれる。
「あの、」
「なんだ?」
……冷蔵庫と壁の隙間、見た?」
 アッシュは首を振った。
「あいつらも言ってたな。見たけど、ただの隙間だった。何かあったのか?」
「うん、そう……
 僕はたぶん、笑えていたと思う。口の端をなんとか上げれた、と、思う。
……ネズミ、見たかと思って。勘違いだったかな。その、疲れてるのかも」
 アッシュは不審そうに眉間に皺を作ったけれど、それだけだった。ああ、下手なことをした。これじゃあ彼に丸わかりの気遣いをしたと思われても仕方ない。何か隠していると思われたかも。あるいは、疲れの原因が自分にあるのではと思い込んだかも。アッシュは最近、出かける頻度が多いから。
「ほんとに、なんでもないんだ」
 先ほどよりも力強く笑ってみせた。何を見たにせよ気絶するのはなんでもなくないのだが、自分のためにもなんでもなくしたかった。何もなかった。何も見なかった。何もなかったけど、ちょっとびっくりして倒れただけだ。それだけ。
「そうか」アッシュは言った。「少し、寝ろ。顔色が良くない」そのまま出て行きそうな素振りに、思わずシャツの裾を掴んで止める。
「ぼ、僕も行く」
「寝てろよ。お前、倒れたんだぞ」
「じゃ、じゃあ、行かないで」
「英二?」
「一人にしないで。心細い」
 彼をあのなんだかよく分からない目玉がいる部屋に一人にするのも嫌だった。
 掴んだ裾を軽く引っ張り、上目で必死に言い募る。
「眠るまで、そばにいて。起きた時にもいてほしい。どこにも行かないで」
 我ながら無理のあるお願いだと呆れかけた。彼は引き留めたって勝手に行ってしまうひどくて優しい人なのだ。残りの今日も、明日も、やりたくなくてもやらなければならないことが、たくさんあるだろう。怪我でも病気でもない僕に構っている暇などない。それに今、僕は眠いわけじゃない。
 ところがアッシュは困ったふうに眉を顰めると、「甘えただな、オニイチャンは」やけくそのように言いそれまで近づいてこなかった距離を詰めた。ベッドに腰を下ろし、ようやくお互いの視線が対等になる。
「ほら、寝ろよ。どこにも行かないから」
 裾を掴む手を握り込まれた。温かい。
「う、うん。ありがと……
 僕は身を横たえ、言ったからには瞼を大人しく閉じてみた。
 そうして手は温かかったし、すぐ傍にはアッシュがいるし、精神は少し疲弊していたしで、素直な体は意思とは反対に、緩やかに眠りに落ちてしまった。



 飛び起きた。
 寝室は暗く、枕元の時計は10時を指している。しまった、3時間も寝ていた。
 アッシュは?
 眠る前まで脇にいた彼はおらず、どこにも行かないって言ったじゃないかと焦り降りかけると、隣のベッドが膨らんでいるのに気づいた。
 金髪が覗いている。アッシュだ。
 どこにも行かないでって言ったから、こんな時間から隣で寝てくれたんだ。眠ってしまったんだ。かわいいやつめ……。わざわざ自分のベッドに入っておねむとはやっぱりまだまだ子どもだな……
 自分のことは棚に上げて一人ニヤついていると、今の今まで温まっていた身体に寒気を感じ身震いした。寒い。何か温かい飲み物を飲みたい気がする。自分は倒れる前に夕飯を取ったけど、そういえばアッシュは食べて来たんだろうか。シーツをきゅっと掴む。
 どうする。
 寝室を出るか、出ないか。
 飲み物は口実だ。それがないと出ない一択。朝までここから動きたくない。怖い。鮮明に脳裏に焼きついている。今も、見られている気が、する。
 でも朝になったからといって何かあるのか? 夜だからこんなに不安に? それは一理あるだろう。夜は人間が不利な時間帯だ、本来なら眠る時間、気温も下がるし気分も下がる、ただの暗闇を疑ってしまう。ただの、暗闇じゃないことが本当にあるのかもしれない。たとえば、冷蔵庫と壁の隙間。それは朝になったらただの暗闇に戻るものなのか。朝日が昇ったとて影はずっと影だしそこにいるものはずっとそこにいるものなのでは。冗談じゃない。
 僕は隣のアッシュを暫し見つめ、そろりとベッドから足を下ろした。ぶるっと震え、鳥肌が立った腕を擦る。身一つなのは恐ろしくて枕を引っ掴み抱き締め、痛いほどの静寂の中を扉に向かって歩いて行った。確かめるだけだ。これが、気のせいだと分かるために、寝室を出てしまえばいい。

 ドアノブを掴むと冷たさに身が竦んだが、構わず開けた。
 薄暗がりがべったり部屋を満たしている。かちこち、時計の音がしたが自分の鼓動の速さにかき消されてしまう。まるで時間の流れが違うようだった。空気は張り詰めていて、僕がそれを不注意に緩めてしまわないよう気を遣って進入していかなければならなかった。一歩一歩、音を立てないよう、自分か、はたまた暗がりを住処とする目に見えない何かを驚かせまいと、息さえ殺して歩き進める。
 やがて冷蔵庫の前に辿り着いた。
 中のものを無感動に守っている音がする。
 電気を、つけてくれば良かった。ここに来ることを最重要事項にしていたためその他の行動がすっぱり抜けていた。ばか。ばかだ。
 ばかなことに、僕は分かっていて覗こうとしている。
 五感以上の感覚って本当にあったんだ。嫌な予感。視覚も嗅覚も聴覚も触覚も味覚も反応していないのに、分かってしまう。最初からだった。信じたくなかったから悪足掻きしていただけ。普段ひっそり眠っている感覚が、怖気となって背筋を撫でている。
 僕は冷蔵庫と壁の隙間を覗いた。

 目が合った。

 狭いところに無理やり押し込まれたみたいな歪んだ目玉が、僕をじっと見ていた。

 枕をラブシーンの抱擁より強く抱き締め、ひゅっと鳴った喉を諌めるよう奥歯を噛み、よろよろ後ずさる。心臓が激しく内壁を蹴り、こんなの労働外過激心拍数だと喚いていた。
 なんだこれ。なんだあれ。
 僕はどうしたらいいんだ。
 後ろを振り返る。床と壁、家具、とにかく周りを見渡す。何もいない。
 不気味で非現実的なのは、あれだけだ。どうしたらいい? こういう時って、怖がる以外に何をすれば?
 ホラー映画のように唐突にアクションが起こってくれないから、こちらが動くしかないから困る。この状況で何をしたらいいか考えなければならないなんていっそ残酷だ。僕が月刊ムーの記者だったらインタビューでも始められるのに!
 なんとか笑いに変えようと頑張る心とは裏腹に、膝は震え切っていたし手足なんて神経がなくなって身体の付属物になっていた。棒立ちのまま衝撃をやり過ごす。
 そしてがちがちに強ばって付属物になっていた足に神経が再び通うと、僕はまた歩み寄って冷蔵庫の裏を見た。
 目が合う。一つ目だ。大人の掌ほどの長さ。
 黒い。暗闇に、ぎゅむりと挟まっている。
 その黒い歪んだ目尻から、ぽつりと雫が零れた。暗闇を滑り落ちて闇に同化し、どこに落ちたか分からなくなる。
……泣いてるの」
 僕は面白いほど呆気に取られた。
 まさか。そんな。嘘に決まってる。

……出られないのか?」
 
 窮屈そうに闇色の瞼が瞬いた。



 ゴースト・・・(死者の)魂、幽霊、怨霊。
 クリーチャー・・・獣。(人に対しての)動物。(神が創りし物に対して)人や悪魔が創った物。
 モンスター・・・(巨大な)怪物。化け物。
 UMA・・・(英語で)謎の未確認生物の略。
 
 僕はううんと唸った。唸ったまま英和辞典を閉じた。自分の中で調べた単語を分かりやすく更に噛み砕いた日本語に直し、どれかひとつを選び取ろうとした。
 冷蔵庫と壁の隙間から引っ張り出したあの生物は、果たしてどれに分類されるのだろう。

 ゴースト? 幽霊という感じじゃない。透けてないし、何かの動物という形相をしていない。
 クリーチャー? これを人か悪魔が創り出したのならそうなんだろう。
 モンスター? 巨大ではないし、凶暴そうではない。
 UMA? これが一番しっくりくる。謎の、恐らくどの図鑑にも載っていない未確認生物。しかし生物なのかという疑問が出てくる。無機物じゃないことは確かだし、他に言いようがないから生き物ということにしているけれど、あれは人にとって良くないものだろう。

 僕はソファから身を乗り出し、リビングの影で震えている黒い物体を観察した。あれと接触したのはもう昨日のことである。

 どうかしていた。
 暗がりに挟まる目玉がどうにも憐れみを誘い、僕は隙間に手を突っ込んでいた。「手を伸ばして」あろうことか話しかけ、ひょっとすると英語は伝わらなかったりするのだろうか日本語の方が良かったかなとトンチキなことを危ぶめば、もぞりと動いた。闇が伸びたようだった。目の周りの闇が蠢き、遠慮がちに形を作って僕の手に伸ばされた。
 触れ合った瞬間のゾッとすることといったら!
 右手の指先から足先まで痺れを及ぼし、肌はぷつりぷつりと粟立って全身が寒気に包まれた。あ、これ、良くないやつだ。悟ったが、ええいと掴んで(氷を握りこんだようだった)引っ張った。
 ずるぅり。
 そいつは流動して出てきた。スライムに似ていた。アメーバのようだった。けれど見ているだけで不安になる闇色で、そしてひとつの大きな目玉を持っていた。出てきてみると案外ぱちっとした、白目の面積が極端に少ない黒く濡れそぼった目玉だった。
 べしゃっと床に着地すると、ささっとテーブルの下に隠れた。影が動くのに似ていたが、あれは意思を持って、かつ素早かった。「ええ……」それからいくら話しかけても掴もうとしても逃げられたので、僕は大人しくベッドに戻ったのだ。もしかしたら夢かもしれない、と一抹の期待を抱いて。

 残念なことに夢じゃなく、そいつは朝起きた僕の足元を横切り(僕はひえっと控えめに叫んだ)手近な隠れ場所(物の隙間とか影とか一見気づかないとこだ)に次々に移動しながら僕の一挙手一投足を見てきた。今はソファに座る僕を棚の後ろからじっと見てきている。
 ああ、どうしよう。
 辞書を引いてみたってあれがなんなのか分からなかった。アメーバみたいだけど、アメーバじゃないよな。アメーバってあんなに大きくないし人間が見て分かる目玉はついてないし。あれはそんな理科の教科書に載るような存在じゃないぜ絶対。
 おばけ。
 日本語だとそうなるのかもしれない。そうしたとして、だから、昨日から思ってるけど、僕はどうしたらいいんだ?

「英二」

……アッシュ」
 慌てて座り直す。起きてきたアッシュは珍しくちゃんとしていた。寝惚けていない。しかもまだ朝だった。
「お、おはよう。今日早いね。朝ごはん僕もまだなんだ、一緒に──」
「お前な、」
 少々不機嫌顔で口を開いた。
「昨日はあんなにしおらしかったのに、起きたら俺を置いてっちゃうの? ひどいよ」妙にしなを作って言うものだから、僕はぶふっと噴き出した。
「いいんだよ、僕が先に目覚める分には」
「ひでぇな」
「だって僕は絶対にきみを置いていかないからね」
 アッシュはちょっとばつの悪い顔をして、隣に腰かけると僕を見つめた。
「よく眠れたか?」
「きみが隣にいてくれたおかげでね」
 僕はわざとくねっと身体を曲げてみた。たぶん彼のようにしなは作れていない。僕のおふざけを察した彼は、ニヤリと笑った。
「顔色は……いいな」
「いつもいいさ」
「体調は?」
「いつも通り」
「気分は?」
「朝からきみと話せてご飯も食べれる。最高だよ」
「はっ、完璧だなオニイチャン。今日も変わらず男前だぜ。黒真珠の瞳に吸い込まれそう」
「きみも変わらず、えーと、つやつやのキウイみたいな瞳だね」
「それ褒めてんのか?」
「ほ、げほっ、褒めてる」
「笑いが隠せてない」
 額を軽く小突かれた。小突いた手はそのまま前髪を上げ、額にぴったり引っ付く。骨張っていて、温かな手は、僕の額に熱がないことを測るとすぐに離れていった。「あんまり無理すんなよ」無理させてんのは俺だな、と続けられそうだったので、僕はアッシュの手を引いて立ち上がった。
「朝ごはん食べようぜ。昨日のうちに肉じゃが作っておいたんだ。自分で言うのもなんだけど、絶対に美味い」
 


 分かったことがいくつかある。
 あれは僕にしか見えていないということ。
 僕が誰かと一緒にいる時は絶対に姿を見せないということ。
 そのくせどこかから視線だけを向けてきていること。
 そして、……とっても、臆病だ。
 自分の目と精神を疑い、アッシュや部屋を訪ねてくるリンクスメンバーにそこはかとなく仄めかして(こいつ大丈夫かと哀れっぽく接されたので早々にやめた)日々を過ごしていくうちの、結論がそれだった。
 あのおばけは臆病だ。
 たとえば、僕が誤ってコップを落とした時、部屋中の暗がりが蠢いた気配がしたかと思えばそいつは飛び出してつんのめって転けた。足らしい足はないのだが黒い塊が跳ねて床に激突したのを見た。思わず、だ、大丈夫かい、と声をかけるとぴゃっと飛び上がっていなくなる。その時に思った。あ、こいつ、ちょっとマヌケなのかもしれない。隙間に挟まって泣いていたようなおばけだし。
 こうなると人間、益々感覚がおかしくなってくるもので、僕は奇妙なおばけとの半同居生活に三日後には慣れていた。
 害がないのが大きかった。
 夜寝る時に襲いかかられるのではと思ったが、夜はそいつも眠るそうでテレビの裏や椅子の下でひっそり動かなくなる(どうやら冷蔵庫との隙間は懲りたらしく近づこうとしない)。大変規則正しく反省的なおばけである。ほんの少しかわいいと思わないでもなかった。
 アメーバおばけと邂逅して四日目の朝、おばけと半同居していると知らないアッシュが、言いにくそうに切り出した。
「数日、家を空ける」
 僕は鍋をかき混ぜていた手を止めて、なんてことないふうに振り向く。
「どうして、って、訊いていいやつかな」
「どうして? って訊いてくれよ」
「どうして?」
「お前のためにエメラルドを採ってくる」
「なんだい、それ」
「熱烈だろ」
「ひどいね、かなり」
 僕はコンロの火を止めて、ちらっと鍋を見やってから、飄々としているアッシュに言った。「そんなものより、味噌がいいな。ちょうどなくなりそうなんだ」「欲がないな」「そうかな。これ以上ないくらいの、我儘だよ」アッシュは僕の全てをきっと分かっていて、分からないふりをしているから、僕もそうしようと笑いかけた。
「それで、いつ帰ってくる? 出張から戻る旦那様には、ご馳走を用意しなきゃ駄目だからね」
「早くて、三日。遅くて五日。でも待っていてくれるなら、それより早く帰ってこよう。嫁さんの手料理は温かいうちが一番だからな」
 寸の間沈黙が下り、二人同時に咳き込んだ。げらげら笑い合う。僕たちはたまに演劇のような台詞回しに本音を織り交ぜて話すことをしていた。これが案外楽しくおかしいのだ。それに、英会話の上達にもなる。僕は笑い過ぎて滲んだ涙を拭った。
 ……大丈夫、分かっているよ。
 部屋の隅の暗がりから視線を感じた。
 ……だいじょうぶ。
 彼が採ると言ったエメラルドが、誰かの心臓の形をしているかもしれないことくらい。
 わかっている。

 その日の夜、彼は散歩でもする体で出て行った。どこで誰と(もしくは誰に)何をしに行くのか、僕は一つも訊かなかった。帰る家がここであると彼が承知なら、それだけでいいと思ったからだ。
 夕飯の残りを冷蔵庫に仕舞い終え、さて風呂に入るかテレビを見ようか迷ってみる。自分の中で天秤はとっくに傾いていた。けれどもそれをするには気力を多大に遣うだろうから、まず一日を終える準備をしようと浴室に向かう。
 シャワーを浴び、パジャマに着替え、歯磨きをする。いつもならこれで早々にベッドに入るが、僕は毛布を引っ張ってきてリビングのソファに座った。毛布にすっぽり包まり、立てた膝に顎を埋める。
 見られている。
 後ろだろうか。
 そいつと二人きり(数え方はなんだろう)になると、部屋の温度がぐんと下がる気がする。あれは良くないものだ。なのに、何もしてこない。僕とて最初の頃は神父様でも連れてきた方がいいのではと思ったけれど、今じゃ何かしてきてからでいいかと怠惰になっている始末。精神科に行く選択肢もいつの間にか消えた。
……お前は、喋らないんだね」
 英語で呟く。そう、会話を試みようと思ったのだ。
「口が、ないもんね」
 手も足も頭もない、液体か気体のようなおばけ。
「せめて、意思が疎通できれば、いいんだけど……
 しかし疎通したところで、どうするんだろう。月に帰すとか? あれはアメリカらしくエイリアンの一種なのだろうか。ここに来てからというもの、テレビの映画番組を見過ぎだと思う。これは映画じゃなく、現実なんだから。真面目に考えないと。真面目ってなんだ。なんだかよく分からないアメーバ的おばけと、良くないと感じながら一緒にいる状況は、どこからが真面目でどこまでが非真面目なんだ。
 僕は底のない思考を払うべく濡れた頭を振った。
「これから、三日間、夜はずっと一緒だと思う。昼間はボーンズたちが来てくれるらしいから……。どうしような、不安じゃないって言ったら嘘になる」
 言語など伝わっていないだろうと、ひとりごとを続ける。
「不安なんだよ、ほんとはね」物言わぬおばけと自分しかいない空間でなければ、誰の耳にも届かない小さな声だった。「こういう時こそ、行かないでって、言えたらいいんだけどな」
 だって僕は分かっているのだ。見てきたのだ。聞いて、触れてきたのだ。アッシュの今を生きる事情を。ほんの少し、彼にとって一滴にも満たない苦渋を、味わってきたのだ。
 僕は言いたいことは言うし、間違っていると思ったら彼に注意し口論する。でも、こういう時、彼が一人で決めて僕の見ているところとは違う場所へ行く時、本気で縋りついて止めることができない。それは、してはいけない。本当は、みっともなく引き留めて、縋りつき、無理やりにでもここから飛び立たせてあげたいけど。
 でもそれが、アッシュのためになるかどうかが分からないんだ。
 だから、彼が、傍にいてくれと言うなら、自分はずっとそうしているだろう。
 それだけが、まるで世界の全てみたいに、そばにいる。
……ひとりは、あんまり寂しすぎる」 
 言うつもりのないことを漏らしてしまったと口を引き結ぶが、どうせ誰もいないのだ。構いやしない。
 僕が時々凄く寂しくなることを、あいつは知っているだろうか。オニイチャンなのにな。長男ってそんなもんだ。たぶん。
 はあ、溜め息を吐き出して手指を擦り合わせる。寒い。もう寝た方がいいだろう。指先が冷たい。僕は立ち上がり、毛布の前を掻き合わせた。

「さびしい?」

 僕しかいない部屋に、子どもの声が響き渡った。
 正確には、僕と、目玉のおばけしかいない部屋に。 
 ゆっくり首だけで振り向き、すぐにソファから立ち上がった。毛布がばさりと床に落ちる。口の端から白い息が漏れ出て、ぞわっと全身が総毛立ち、身が震えた。
 ソファの後ろ、僕の目の前、不自然に膨れ上がった暗がりの中で大人の拳ほどはある目玉が、僕をじっと見ていた。波のようにさざめき、風船のように膨れ、僕の身長を超すと濡れそぼった黒目が下を向く。

「さびしい?」
 目玉が傾いた。

――ッ」悲鳴か不明瞭な言葉を出そうとした喉は、急に入り込んだ冷気に侵され激しく咳き込んだ。身体を折り曲げ、涙と咳をぼとぼと落とす。だから言ったじゃないか、あれは良くないものだって! 僕は胸中で自分を罵り、ひゅうひゅう煩わしい首を押さえぼやける視界をあれに合わせた。
「さびしい?」
 お前のその声は、どこから出してるのかな。
……寂しいよ」 
 そして僕のこの答えは、一体どこから。どこにも出すつもりのなかった大事な言葉だった。
 表面張力ぎりぎりまで張った涙が、耐え切れずに頬を滑り落ちていく。ぼやけた世界の中、暗がりが動いた。なんとか視界をクリアにしたくて瞬き、両目を強引に拭う。

 すると、そこには、一人の子供が佇んでいた。
 吐く息が無色になる。寒さは途切れ、さっきまで確かにサボっていた暖房が何事もなく働き始める。どっと汗が噴き出た。
 ソファの背凭れからひょこりと顔を出している子供の髪は金色で、子供らしい大きな瞳は緑色だった。肌は白く、丸みのある頬は薄っすら赤い。恥ずかしそうに、じっと、こちらを見ている。

「あ、……

 僕はその子を見たことがあった。数枚、写真でだ。何も、怖くて酷いことなんか知らなかった、そのまま成長してほしかった、でも彼の世界は彼に優しくしなかったから、小さく悲しく弱く、強くならざるを得なかった子。
 ――アッシュ。アスラン。
 写真で見た通りの子供服を着たその子が、こてりと首を傾けた。
「さびしい?」
 動いた口から高い声が発された。紛れもなくその子が喋っていた。紛れもなく、その子は、あのアメーバ一つ目おばけであると僕は察していた。
 察していたけれど、死ぬほどびっくりしているけれど、足は変わらず震えているけれど、僕はソファに膝を乗り上げ、その子に触れ合える距離まで近づいた。
「ア、」
 どちらで呼ぶべきか、なんて馬鹿みたいなことを考えている。頭のどこかでこの事態に怯えていない自分が一等おかしいと理解していたが、それでも目の前の子供は大人が守るべき小さな存在だった。
 普段見ているより、ぱちっとして無邪気な翡翠色が、じわりと水を湛える。「さびしくないの」消え入りそうな声量で問われた。このおばけは臆病で、この子は純粋で、僕は馬鹿だった。
「寂しくないよ」 
 おもむろに腕を伸ばし、小さな頭を引き寄せる。髪は指の間を心地よくすり抜け、背凭れ越しに抱いた肩は柔く華奢で、でも体温だけはゾッとするほど冷たい。触れたところから痺れが走る。
 そんなの気にならないくらい、抱き締めた途端涙が溢れ出た。今、僕の腕の中にいるのはなんなのだろう。アッシュじゃない。現実的じゃない。現実にしたかった。おこがましく、甘ったれで、思ったってどうしようもないのに。
 僕は、ずっと、こうしてあげたかった。
……アスラン」
 幼い彼を抱き締め、名前を呼ぶ人は、もういない。僕じゃ到底なり得ない。
 どうしてこんなに小さな子が、平和から追い出されなければならなかったんだろう。
「アスラン、……アスラン」僕はひたすら彼の名を呼び、泣き続け、冷たい体に温度を分けてあげたくて強く抱き締めた。なのに、僕の腕はどんどん重怠く、錆びた鉄のようになって、彼を温めることもできずに冷たくなっていく。
 これは良くないことだ。この子はあのアッシュじゃない。人間でもない。簡単に受け入れてはいけないものだ。
 でも、そしたら、良いことって一体なんなんだ?
 瞼が重くなってくる。膝立ちさえ辛くなってきてソファに倒れ込んだ。怠くて、眠い。
 もしかしたらこれが夢かもしれなかったけど、夢に落ちる間際、僕が見たものは、嬉しそうに泣き笑いするアスランの幸せな表情だった。



2



 騒音でお隣から訴えられてもおかしくないほどチャイムが鳴らされている。
 最初は間隔を空けていたものが、次第に一秒も置かず鳴らされまくっている。
 僕はチャイムの『ビイイイ』が『ビイビイ』になり、『ビビビビビ』になった頃、ようやくソファから身体を起こした。節々がバキバキ、枝を折った音を身の内に響かせた。
「う……
 信じられないくらい身体が重い。ソファで寝こけてしまったからか。喉が渇いている。頬は皮膚が突っ張っている。腫れぼったい目を擦り、「はいはい」掠れ声で返事しながら覚束ない足取りで玄関まで気持ち急いだ。
 一応寝癖を手で押さえる配慮をして、ドアを開ける。予想通りの二人組の顔が、眦を釣り上げていた。
「おい、今確認もせずにドア開けて」「寝起きか? なんかあったんじゃねえかと」そうしてボーンズとコングの台詞は不自然に途切れた。眦が下がり、チャイムを連打していたとは思えない狼狽えた態度で、握っていた拳を彷徨わせる。「大丈夫か?」何を心配されたのか分からなかった。
「大丈夫って?」
「顔色が悪すぎる」
「黄色人種みたいだな」とコング。
「黄色人種だよ。英二、つまりだな」とボーンズ。「土気色って言うのか? とにかく、ひでえ顔色ってことだ」
 僕は顔を触ってみた。触ったところで色は分からないけど、頬の手触りがざらざらしていることは指の腹から伝わった。「……泣いてたのか?」なるほど、これは涙の痕だ。
 動揺している二人の前で、僕はちょっと自分でもどうかと思うほど冷静だった。
「ごめん、実は昨日、深夜にホラー映画見ちゃってさ。そのままソファで寝たら怖い夢見るわ暖房が切れるわで散々だったから、たぶん、そのせい」
 へらりと笑う。二人は顔を見合わせ、僕の言が本当か嘘か探っているようだったけど、ひとまず真実は置いておくことにしたらしい。労わるように腕を取った。
「寝た方がいいぜ。それか、鏡を見るか。自分が病人らしい病人だってことを分かるべきだな」
「病人だなんて、大袈裟だよ」
「いいや、前にぶっ倒れた例もあるし」
「あれはネズミが……」言えば言うほど彼らの不審が高まると思った僕は、「そうだね」体調が宜しくないのは事実だったので、病人らしく頷いた。「寝ることにしよう、ちゃんと、ベッドで。ごめんね。あ、冷蔵庫に入ってるもの、適当に食べていいよ。あと、そう、アッシュは何か──」ボーンズが部屋に入るよう促しながら、やれやれ首を振った。
「母親みたいなこと言うなよな、英二。俺たちはこの三日間、お前が平穏無事にいてくれたらいいんだから。俺たちのことは気にしなくていい」それからコングと同時に言う。「ボスなら大丈夫さ」

 布団の中に潜り込んでも一向に温まる気配がなく、僕は諦めて上体を起こし、立てた膝に頬杖をついた。
「きみのせいだよね、十中八九」
 クローゼットの影がもぞりと蠢いた。そこにいる。もう、なんだかよく分からない暗がりに話しかけるのに、躊躇しなくなってしまった。
 昨日のことはきちんと覚えている。
 アメーバ的一つ目おばけが、喋り、変形し、アッシュの幼少時の姿になった。あの時の僕は正常で異常だったろう。おかしくトチ狂ってることを知っているのに、それを受け入れている。夢じゃなく、現実だと分かった上で。
「きみは……なんなんだ?」
 暗がりは喋らない。今まさに目覚めました、というふうに黒目がぱちりと瞬き、僕をじっと見つめた。黒は完全な黒ではなく(確かこの世界に完全なる黒色はない。将来的には光を完全吸収する黒色が生まれるかもしれないと、高校時代の美術教師が熱く語っていた)青やら赤やら、絵の具を片っ端から混ぜ合わせた黒目だった。ぐるぐる渦巻き、時折、ちかっと星が瞬いているようにも見える。
 薄ら寒くなり、僕は視線を布団の白に移した。
「わりと、怖がってはいるんだぜ」
 ……怖い。
 恐怖は機能している。
「なのに、きみが、……怖がらせようとしてこないから」
 昨日のあれは。
 僕が、寂しいと言ったから、反応したんだろう。優しさか、同情か、気まぐれか、戯れか、でもきっと僕を貶めようとして動いたものではなかった。結果的に、その行為が、人体に悪い影響を及ぼしただけだ。こういうの、なんて言うんだっけ? ヤマアラシのジレンマとか、そんな感じかな。
 おばけは、ドジで、臆病で、おそらく僕に興味があって(隙間から出してくれた恩人だと思われてたりして。じゃああれは、お礼?)、なぜか僕の友人の、写真でしか見たことのない姿になれる。
 僕はぼんやり考えた。……ヤマアラシのジレンマって、片方に針がない場合、どうなるんだろう。
「きみを、なんて呼ぶべきなのか、本気で分からなくなってきた」
 もぞもぞ。おばけが身じろいだのを感じる。居心地の良い体勢を探しているのかもしれなかった。
「きみの名前は?」
 白から黒へ、視線を移すが、ぱちっと一度瞬きしただけで、そいつはやはり何も返してくれない。
 しばらく待ってみてもそれ以外に反応がなかったので、僕は大人しく、冷たい布団にくるまるしかなかった。

 動きがあったのは夜。コングとボーンズが後ろ髪引かれる思いで帰って行ったあと、ほぼずっといたベッドに就寝するべく乗り上げた時だった。
 カーテンの下からするする暗闇が滑ってきて、大股二歩くらいの距離に留まると、餅のように膨れた。てっぺんにある目玉が僕を必死に見上げている。
……どうしたんだい」
 参ったな、と微かに危ぶんだ。やっと、コングとボーンズに顔色がマシになったと言われたところだったのに。
 けれど、心配してくれた二人に泊まっていってと言わなかったのは、こういうことだった。良くないのは、分かってる。
「話をしようか」
 僕はベッドに胡座をかいた。
 なるべく話し相手を見ないように、弄ぶ手先に目を落とす。
「なんの話を、しようかな」
 実質一人きりの静かな寝室では、小さな囁きでもよく聞こえた。
 いつもは、こうして彼の帰りを待つしかない一人きりの夜の時は、今よりもっと不安になる。
 どこぞで彼が傷つけられていないか、傷つけていないか、彼が自分を大切に思ってくれていることは誰からもの認識だけれど、それ故にどこぞに行ったまま帰ってこないのではないか。
 そこまで考えると、一気にあらゆる不安に支配される。過去の悲しく辛い出来事を思い起こし、現在の日常の不安定さに気づかされ、約束されない未来に怯える。
 そうして一人黙って眠りについて、目覚めてきみを見た時、僕がどれほど安堵しているか、きみは知らない。
 その不安を、今ばかりは、零しても許されるのではないか。
 ここには、僕と、僕の寂しさを知っている不気味で不思議な何かしかいないのだから。
 僕は唇を湿らし、シーツを撫でた。
「僕は、待てるよ」
 積もりに積もった、あるいは、染みに染みた、吹かれることも絞られることもなかったものを、少しずつ口から出していく。
「僕は、待てる。信じてる。アッシュが、彼の、くそみたいな運命のような何かに負けず、必ず自由を手にするって」
 この国の言語であり友人と語り合う言語である英語は、「……でも、昨日も言ったように、時々ひどく不安になる」今はおばけに聞かせるでもなく、ただの自分のための呟きだった。
「僕は、あいつにとって子供で、世間知らずで、明るいことだけを持っているように見られているかもしれないけど、二歳上なんだ。……わからないよ、わからないけど、信じないようにしているけど、でも」
 この部屋で、彼が僕の膝に縋りつき泣いたことがある。今だけでいい、と言われた。そばにいてくれ、ずっとなんていわない、いまだけでいい──ずっとだ。
「ずっとなんて、あるのかな」
 そのただの呟きは何より重くて、部屋をべったり張り付いている暗闇に音もなく沈みこんだ。
 僕だけは、そこを疑ってはいけなかった。
「ずっとなんて……
 僕だけは信じている。
 世界中の全部が敵でも、自分だけは彼の味方でいる。同じ人間に犯され、傷つけられ、銃で人を殺さざるを得なかった、自分より二つ下の少年が、本当は誰より繊細で優しく尊いことを、知っている。分かっている。何を?
 僕は何を信じ、分かっているつもりでいるんだ?
 難しい話だ。僕は難しい話が好きじゃなかった。僕は銃も世間様のヘドロみたいな暗闇も経験せずに育った。それでも、十九歳だった。言葉が、なんの約束にもならないことくらいは、そして人を殺した人間が罪もなく生きていくのが無理なことくらいは、充分に分かる年齢だ。無力で中途半端で助けにならない、子供か大人か曖昧な年齢。
「疑うな」
 彼の前では、無邪気に、あたかも一つの眩い道しか見えていないふりして、『ずっとだ』なんて。本当は怖くて不安で堪らないのに。
 いやだ。信じていたい。信じなければならない。じゃないと。
 彼のそばにいられない。
 はああ、僕は深々溜め息をし、髪の毛を掻き混ぜた。これだから一人の夜は嫌なんだ。ううん、今は、もう一匹(だから数え方が分からないのだってば)いるけれど。だからこそ普段決して溢れさせはしない、いつの間にか心を蝕む水を吐いたのだった。
「今日は、寂しい? って、訊いてくれないのかい」
 おどけるようにして顔を上げると、そこには、子供が立っていた。
 
 アスランだ。

 暗闇の中、金の髪をきらきら輝かせ、緑の瞳でじっとこちらを見ている。
 一つ目のアメーバおばけ。臆病でドジで、僕につきまとう――たぶん、寂しがりや。
「さびしい?」
 こてん、小さな頭が傾いた。

 僕は両腕を持ち上げ広げた。
「寂しくないよ。……おいで」
 子供は惑う素振りをしたあと、そろそろとベッドに近づいてくる。中々ベッドに上がって来ようとはしないので、「持ち上げて、いいかな」肯定も否定もなく、都合のいいように受け取って両脇に手を入れると、目をまん丸くしたが嫌がられなかった。
 僕の横に座らせ、一緒に布団を被る。離した僕の手は冷たさで震え、痛いくらいだった。触れずともそばにいるだけで寒く、動くのが億劫になる。布団が雪のようだった。僕は膝を抱え、隣で不思議そうに布を触る子供に話しかける。
「名前、なんて言うの?」
 僕がしていたようにシーツを撫でていた小さな手を止め、上目で見つめてきた。
「アスラン」
……うそ。違うよ。きみの、名前は?」 
「わかんない」 
「そうか……
 途方に暮れた顔と声で言われ、僕も眉尻を下げる。このおばけは、僕が思うよりうんと幼いのかもしれない。それに、名前がなくとも些細なことじゃない気がした。少なくとも、この姿の彼を何か他の呼び方で口にするのは、違和感があった。「じゃあ、アスランと、呼ぼう」十七歳の彼は、どうしたら本名のまま生きられただろうか。
 アスランと呼ばれたおばけは、血の通った人間の、とびきりの笑顔を浮かべると、「きょうは、さびしくないの?」全身を傾けた。真夜中でも臆することなく、夜明けの翡翠は輝きを放っている。その中にある僕の瞳はどうしようもなく黒い。
「寂しくないよ」
 ……さびしいよ。
「きみがいるからね」
 ……きみがいないから。
 傾けていた身体をゆっくりもとに戻すと、アスランは目をぱちっと瞬かせた。おばけと同じ仕草だった。何もかもを見透かされている。僕は不格好に笑いかけた。「話を、しよう」
「はなし?」
「うん。なんでもいいんだ、眠るまで……同居人とは、お話しないと」人じゃないけど。「何か、訊きたいことはある? 僕はたくさんあるな」アスランは首を振った。ずり下がっていた保温性のない布団をかけ直してやりながら、秘密基地の内緒話を始める。
「きみは、どこから来たの?」
「わかんない」
「何をしたいの?」
「わかんない」
「きみは、何者?」
「わかんない」あっ、という顔をしたあと、自信ありげに笑った。「アスラン」
 明るく、溌剌で、まろい声色だった。
 見ても、聞いても、ただの、大人に守られるべき子供らしかった。  
「ねえ、アスラン。きみに、こんなこと言っても、困るんだけどね」 
 僕は手を伸ばし、その小さな頭を撫でた。途端に右手は凍傷を起こしかけ、髪を梳く手触りを感じなくなる。上体を屈ませ目線を同じにした。
「きみは、もっと、幸せになるべき人間なんだ。ああ、いや、きみは人間じゃないけど、……自己満足だな。ごめん。きみに言っても、本当にしょうもない」
 でも、と続けた。
「しょうもないのに、思っちゃうんだよ。幼いきみを抱き締め、守り、愛情を注いでくれる人と、ずっと一緒に暮らせたら、どんなに良かっただろうって。僕には分からないことだらけで、分かりたくないことばかりで、けどきっと、その時間が長く続いていたら――
 ――そうしたら、僕ときみは、袖を振り合う多生の縁さえなく、お互いの存在を知らずに生きただろう。それとも、全く別の形で、出会うことくらいはあるのかもしれない。
 何が駄目だったんだろう。彼は、悪い子じゃ、ないのに。こんなに優しい子なのに。
 僕のような人間をそばにおき、唯一とするその過程は、本来なら全くいらないはずなのに。
……僕は、つらい。うまく言葉にできないのも、アッシュのそばにずっといたいことも、何もできないのも、すごく。僕がいても、彼は孤独で、」 
 喉が引きつった。
 泣いてしまう。
 泣くな。誰のための涙だ。自分のために泣くな。泣くな……
 下唇を噛み締め、瞼をぎゅっと閉じた頬に、冷たく小さな手が触れた。冷たさは頬を通り抜け、鼻を刺激し、口の中を侵して白い息となり出て行った。僕はアスランを見た。
 丸い翡翠の瞳は、水面下のようにゆらゆら揺れている。
「こどくって、なに?」
 はは、僕は笑った。頬にある手を包み込み、彼を抱き締めた。ソファの背凭れ越しじゃない抱擁は、なんとか保っていた活動機能が急激に凍りつき、意識を剥奪しにかかってくる。
「孤独っていうのは、寂しいってことだよ」 
 微睡み、ぼやけ、天地が引っ繰り返る前に、僕は伝えたかった。
「きみは、寂しくて、孤独だけれど、僕は……愛してるんだ。でも、それだけじゃ、駄目なんだよ」 
 それだけじゃ、彼を守ってあげられない。
 左目から一滴涙が滑り落ち、腕の中で僕を見上げていたアスランの額を濡らした。眠たい。眠る時間だ。アッシュ、早く帰ってこないかな。あいつも、寂しがりやなはずなんだから……
 僕は涙の濡れるアスランの額に、見様見真似のおやすみのキスを送ると、せめて彼を潰さないよう寝転がった。おやすみ、アッシュ。アスラン。
 おやすみ。よい夢を。



 コングとボーンズの慌てようったらなかった。
 何度チャイムを押しても中から反応はなく、わざわざ固定電話をかけてみても住人は出ない、ドアを叩いても開けられない、挙句に自分たちのボスであるアッシュが何事かの用のため帰ってきていないのだから、その僕への心配はひとしおだったろう。
 ドアマンに相談し管理室やらなんやらに事情を持ち込みドアを外から開けようかという瀬戸際に、ようやく中から住人である僕が出ると、二人は安堵を浮かべる暇もなく盛大に表情を強張らせた。
 曰く、死にかけの人。
 顔は青白く、両目の下に隈があり、風が吹いただけで倒れそう。らしい。
 そんなことはない。確かに全身怠いし寒気はするし歩くのも億劫だが、別に死にかけているほど悪くはなかった。
 ドアマンにまで病院を紹介されたものだから、僕は丁重にお礼を言って、慌てふためく二人を部屋に招き入れた。ハッとした二人はすぐに僕をベッドに突っ返そうとしたけれど、僕は頑固に断り折衷案でソファに座る。何かの気遣いなのか、リンクスメンバーはこの家の寝室には入ろうとはしないので。
 何かいるか? 体調は? 薬買ってきた方がいいかな、飯は? やっぱり昨日から体調不良だったんだろ、なんも大丈夫じゃねえじゃねーか。矢継ぎ早に投げられる温かな言葉にちくちく心を痛めながら、僕は一つ一つに答えていく。
 何もいらないよ。体調はまあ、ちょっとね。薬もいいや、風邪じゃないと思うし、ゆっくりしてたら治るさ。ご飯は、ごめん、あんまり……大丈夫だよ。大丈夫。
 だから、アッシュに伝えないでほしいな。
 毛布のミノムシとなった僕が寒さに耐えるように言うと、温かいお茶を淹れてくれていた二人は明確に困った顔をした。
 きみたちの考えてることは分かるぞ。僕は言った。
 親愛なるボスに、ボスの友だちの不調を今すぐ告げるべき、ってのと
 親愛なるボスが、今、厄介事をしている中、友だちの不調はむしろ重荷になるので告げないべき、ってのと
 ボスの友だちでもあり、自分たちの友だちでもある奴が、あまりに不調そうで気が気じゃないので、やはり告げるべき。いや、まずは、アレックスに相談しよう
 ってところでしょ。ふふん、合ってた?
 言われたボーンズとコングは、顔を見合わせ、じゃあ俺たちもお前の考えてること当ててやるよ、僕の両隣に座る。
 まずは俺から。英二は実はすこぶる体調が悪く、それをアッシュに伝えたくない。重荷になるんじゃねえかってのは、英二、お前の考えだろ? なあ、ボーンズ。これは正解だろ
 珍しく冴え渡ってんなコング。じゃあ俺は、こっちの正解を言うぜ。英二は、俺たちがこのことを絶対にアッシュに伝えると考えてる。まあ、実際、そうするけどよ。そこは譲れねえけど。でも、まあ、今すぐじゃない。英二が、本当のほんっとーに! 大丈夫! ってんなら、ただの風邪ってことにしてやってもいいとは、思ってる。ただの風邪なら、騒ぎ立てる必要ないし……アッシュが帰って来てから言えばいい……うん。な、コング
 ひっじょーに、あとが怖い気がするけどな。
 こう考えてるとは、知らなかっただろ? 
 僕は瞳を輝かせた。罪悪感はもちろんあった。優しくて勇敢で友だち思いの二人の腕を抱き込みじゃれた。
 ありがとう! 大丈夫、明後日、アッシュが帰ってくるまでには、治ってる。ただの疲労からくるものとか、そんなのだよ、これは。大丈夫、ご馳走作んなきゃいけないからな! ありがとう!
 低体温のせいで二人の腕は火傷しそうなほど温かく感じる。二人は僕の冷たさにぎょっとしていたけど、僕の喜びように観念したらしかった。再三体調を気遣い、暖房の温度を上げたり飲み物を絶えず置いてくれたり。夕方になっても顔色の復活しない僕に、今日は泊っていくと言ってくれた。
 僕はほんの少しだけ迷ったのを自分で自分が嫌になりながら、ありがとう、何かあったら、すぐ起こすね、と返した。

 僕がコングとボーンズの傍にいた昼間中、ずっとベッドの下で蹲っていたらしいおばけは、僕がパジャマ姿で寝室に入り歩み寄ると一つ目を細めて瞬きし、もぞもぞと出てきた。
 今日の朝――正確には昼前だった――目覚めた時には、既に陽の光の当たらない暗がりから、起き上がれないでいる僕を見つめていた。
 起き上がれなかった。目は覚めているはずなのに意識は霞がかり、手足は動かず、音も聞こえなかった。しばらく待ったら徐々に五感が戻ったが、死人のよう、と比喩されるほど顔から色が失せていた。それでも、まだ、動ける。気持ちが悪いとか、どこかが痛いとか、そういうのはない。
 大丈夫だ。
 でも、ごめん。コング、ボーンズ。
 これは自業自得で、何がいけないのかちゃんと分かっているし、どうすべきなのかも分かってる。
 僕が、こいつを、拒絶すればいいんだ。
……やあ。昨夜は、悪かったね。意味の分からないことを、つらつらと……」 
 隣の部屋のソファでは、心優しいコングとボーンズが夜の番人になっている。聞こえはしないだろうが、僕は殊更小さく囁きかけた。
「今日で、終わりにしないと」
 良くないことだから。こいつと触れ合うのは、世の理とか、自然の摂理とか、そういう人間の侵してはいけないものに反している。このまま続けていれば、……僕は目覚めなくなるだろう。「明後日には、たぶん、アッシュが帰ってくるんだ。明日はご飯を作っておきたいし、体調も万全にしておきたい。だから」僕の前まで床を滑って来たおばけは、膨れたり萎んだりし始める。
 大きな目玉は悲しそうだった。
「そんな目で見ないでくれ」
 捨てられた犬猫を思わせる態度にぐっと唇を引き結ぶ。近づき過ぎた。寂しいからと、引き寄せ過ぎた。それで放り出すなんて、僕はひどい奴だ。おばけの裁判所があったら有罪確定。牢獄行き。
……この、家には、いていいから。どうせ、僕にしか見えないんだし。でも、もう、あんなふうには」
 目を合わせているのが心身共に辛くて逸らし、しかしハッキリ言わないととまた戻すと、おばけは子供の姿になっていた。
 驚きはしないが、眉根を寄せる。「その顔で、そんな顔しても、駄目なものは駄目」ハッキリ言う言葉は、アスランの泣きそうな表情のせいで脆く溶けてしまった。僕は悲しんでいる彼の傍を通り抜け、ベッドに潜り込む。寝てしまおう。寝ちまえばいい。
 瞼の裏側の青やら赤やらの踊る色をおばけの目みたいだと思いながら、じっと見てくる気配に言う。
「おやすみ、アスラン」
 
 どれぐらいの間だったろう。
 数十分、もしくは、数分。
 とにかく僕が冷たい布団の中でうとうとし、半分眠りだした頃、ベッドの上に何かが乗って来た。
 夢現でもそれが何か分かった僕は、こら、と諫めようとした。寂しがりやのおばけさん、僕とて寂しいけれど、僕たちは寂しいだけで触れ合ってはいけないんだよ。
 
 額に氷が落ちた。
 ばちっと瞼を開き切る。
 なんだ? 視界は白一色だった。と思うとそれは僕の上から退き、脇に座る。白いと思ったのはきっと彼の細い首で、氷だと思ったのはきっと彼の唇だった。 
……あ、……
 また、どちらで呼ぶべきか、なんて愚直に考えている。

 そこには、少年がいた。
 白い肌に、金色の髪、緑の瞳。半袖から覗く腕は華奢で、一見少女のようにも見える。
 アスランが――写真で見た幼い頃のアッシュが――僕のよく知る十七歳に至るまでの、成長過程のような、十四、五歳の少年だった。
 見たことはないけれど、おそらく、いや絶対に、この子もアスランなのだ。
 頬は丸みがなくなり、瞳も切れ長だ。金色の睫毛は瞬きする度に音がしそうなほど長い。
 しかし、面影はあったし、彼がこうして今の大きなアッシュになったのかとしみじみできるほど、少年は紛れもなく一昨日からの少年だった。

 これには驚いて動けないでいると、アスランは悪戯が成功したみたいに首を傾げた。
「ねえ、今日も、寂しくない?」
 声は、今のアッシュより、少し高い。
 しかも、幼い子供の拙い喋り方じゃなくなっている。
……僕はきみの親か何かだったのかな」
 子供の成長に喜ぶ大人って、こんな感じなのだろうか。思わず込み上げてきた何かを抑えるべくパジャマの胸元を掴んだ。起き上がろうとして、やめる。流されるな。さっきまでの決意はどこいった。そんなもの最初から硬くはなかったけども。
……寂しく、ないよ」
 答えると、アスランはにんまり笑う。
「そう、良かった」
……きみは、」
「何?」
「一体、なんなの」
「分かんない」ニヤリと口角を上げた様は、まさしくアッシュだった。「アスラン」自信ありげに名乗る。
 ああ、どうしよう。
 寒い。冷たい。良くない。良くないぞこれは。一番良くないのが、そうだと分かってて眠る指示を飛ばしてくれない僕の脳みそだ。突き放せと弱々しく訴えている心臓だ。もっと強く跳ね飛んでくれ。
 くそ。
 せめてもの抵抗として寝そべったまま(怠くて起きれないというのもある)、僕はろくな危険信号も鳴らしてくれない頭だけを彼に向けた。
「さっき、僕に、キスをした?」
 アスランはきょとんとした。
「昨日、してくれたから」 
……なるほど」
「キスっていうんだね」
「あれは、そうだね、おやすみのキスだよ。僕もしたのは初めてだったけど。寝る前に、愛しい子に優しく送るものだと……思う。たぶん」
 映画の知識しかないあやふやな説明に、アスランは翡翠を煌めかせる。
「愛しい子?」
……そうだよ」 
 その、姿で。
 無邪気にそういうことを訊いてくるのは、やめてほしい。
 僕は理解している。きみが、一つ目の、アメーバみたいに移動する、おばけだってことを。冷蔵庫と壁の隙間に挟まり泣いていて、掃除機をかけている間は隅で壁に張り付こうとして失敗し、コップを落としただけで部屋中を転がりまわる、臆病で、寂しがり屋で、可愛くて、恐ろしい、僕の生命をゆっくり脅かしてくる良くない存在だって。理解している!
 僕は気づいてしまった。
 この相反する心情には、覚えがありまくった。
 殺人鬼の話をしているだけなのと、目の前に殺人鬼が現れるのとでは、恐怖具合が違う。でもその殺人鬼が、本当は凄く優しくて臆病で、孤独で、誰も殺したくないのに周りがそうさせてくれない、悲しい人だったら? 本当は、殺人鬼なんかじゃない、ただの、十七歳の、僕の友だちだったら? 恐怖なんて全く別の怖さに変わる。臆病なのは僕だ。彼を守ってくれない世界も、僕も、怖くて憎い。信じているのに。
 そんなだと、いつか、彼をなくしてしまいそうだと、どこかが気づいている。
 それでも、そばにいることが一番良くて、悪くて、簡単で、難しいことだった。
 結局はそういうことだった。僕はこのおばけを、良くないと理解していながら突き放せない。
……愛してるとか愛しいとか、あいつに言っても、気持ち悪がられるだろうな」  
 真面目に言ったら泣かれるか、受け止めるふりしてその実受け止め方が分からない顔をされるか。
 冗談で言ったら冗談で返されるか、ゲイ扱いされるかだろう。
 僕の呟きに、アスランは不思議がったようだった。
「気持ち悪いの?」
 純粋無垢な少年を見上げ、彼が小さな頃に教えられるべきだったことを、穏やかに言って聞かせる。
「ううん。愛っていうのは本当にあって、温かくて、平和で、優しいものなんだ。愛で満たし合える誰かと一緒にいることは、とても幸せで……おやすみのキスを、したくなるだろうね」
 アスランは星を散りばめたようにパッと明るくなる。背後の闇は冷たく虚しい。
 笑顔を見せる彼の手を取り、僕は更に紡いだ。
「けど、世の中には、それだけじゃなくて。むしろ、きみは……穏やかな愛情とは、無縁のところで生きてきた。キスも、きっと、いいものじゃなくなった」
 刑務所で、メッセージ受け渡しをするための、手段の一つ。
 彼は、本気で好きになった子と、好きでキスをしたことがあるだろうか。僕は、残念ながらないけれど、今になればファーストキスがきみで良かったと、素直に思うよ。こんなこと言うと、また嫌がられるかな。
 昨日より大きく、まだ僕より小さな手を握り、枕から重い頭を持ち上げる。
「それでも、これから先、誰かと愛し合って、心の底からの――キスや、そういう愛ある行為を、してほしいと……きみに言っても、仕方ないけど。願ってる」
 彼には、自由を手にして、幸せに笑っていてくれないと。
 困る。
 手を離し、枕に頭を乗せ、そろそろ寝よう、言おうとしたら。
 小さな顔が近づいてきて、突然のことに何も反応できなかった僕の唇に、アスランの唇が合わさった。心臓が凍りそうなほど冷たく、無機質なキスだった。「え……」わけが分からず離れた少年を見つめる。金の髪がさらりと僕の顔にかかる距離で、不安そうに訊いた。「嫌だった?」
 い、いや、嫌とかそういう問題じゃないだろ。
 動けないが、どもり具合で僕が大変困惑しているのを察してほしい。
「な、なん、なんで」
「だって……口じゃ、駄目だった?」
「いや、そりゃあ、キスは口にもするけど、でも口にするのはそれこそ本気で愛しい人じゃなきゃ」
「愛しいって何?」 
「そ、そこからかあ」
 今までのやり取りはなんだったんだ。
 僕は脱力し、勤勉で訊きたがりな彼と目を合わせ、自分が思う『愛しいとは』の講義を始めた。
「そうだな、愛しいっていうのは、たとえば。孤独で寂しい人がいるとするだろ。その人に寄り添って、その人のために何かしてあげたい、一人にさせたくない、そう思うことが、『愛しい』かな。そして、その人も同じように思っていてくれれば、人間は、口と口を合わせることがある。それがキスだ。……たぶん」
 あれ、と食べてもいない魚の小骨が肋骨のあたりで引っ掛かった。
 その理論でいくと、僕とアッシュは、…………
 ……知らねえ。知らん。僕たちは友だちだ。そういうのじゃない。そういうのってなんだよ。暗号的な意味がないキスをしても、おかしくない?
「と、とにかく」
 僕は何かを区分しているもとから曖昧だった境界線を、ぼかしたまま放って置き、ごほんと咳払いした。
「軽々しく、しちゃいけないものなんだ。口にキスするのは。きみだって好きな人の、人じゃないな、おばけの一人や二人くらいいるだろ。……人じゃないけど」
 おばけに言い聞かせているのかアスランに言い聞かせたいのか我ながらどっちつかずだ。
 講義終了とばかりに顔を背ける。本日はこれで閉講致します。先生は疲れたので帰ります。追加質問がありましたら後日にしてください……
「じゃあ、俺は、あなたが、愛しいんだ」
 生徒は帰りがけの先生を結論をまとめたノートでぶん殴ってきた。先生と生徒だけの教室で、大事件だ。教務課に誰か走って行ってくれ。人を呼んでこい!
 だが僕たちしかいない、しんと静まり返った寝室で、僕は再び頭をアスランに向けた。我が意を得たりという顔をしている。おいおい、意見は一致していないぞ。
「僕のこと、愛しいって?」
 アスランはこっくり頷く。
「じゃなかったら、キスしないよ」
「いや、きみな、ちょっと待って。こんがらがってきた」
「あなたは、優しいし」
「それは、きみが、ものを分かっていないから」
「温かいし」
「それも、きみが、冷たいから」
「寂しがってる」
「そんなことはない」
「一人に、させたくないよ。なりたくない。俺は寂しかった」
「ああ、……アスラン。頼む、その姿で、そんなこと言わないでくれ」
「キス、嫌だった? 口と口を合わせては、駄目?」
 ぐう、喉が変に唸った。純粋で健気な少年に、年上らしく素敵な答えを用意したいけれど、その素敵なものの中に自分を入れるのは違うような気がした。なのに彼は迷いの一つもない眼差しを向けてくるから、僕は年上らしく正直に答えるしかない。
「嫌じゃないし、駄目でもない……でも、口と口のキスは、好きな人と」
「好きだもん」
「でも、違う、」「違わない」「待って、ちゃんと、説明できるようにするから──」枕から上がらない頭に、金髪がさらさら降ってきて、黒髪と混ざる。近すぎて彼が目を閉じているのか開けているのかさえ分からなかった。ただ、合わさった唇は冷たく、柔らかかった。
「や」
 やだ、日本語が出かかった口の中に、舌が入ってくる。氷のように冷たく、滑らかで、つるつるしている舌が、咥内を探るように舐めた。
 やだ、やだ。これは良くない。駄目なやつだ。証拠に、どんどん眠くなってくる。寒くなってくる。瞼を開けていられなくなってくる。抵抗できなかった。しなかったのかもしれない。
 こんなに冷たいのに、僕は満たされてしまっているようだった。



3


 
 どこか遠くで誰かが騒いでいる。
 なんとなく耳に馴染む声のような気もするけど、僕の知っている二人組は果たしてこんな声の出し方をする人間だったろうか。いつも、身体に見合ったちょっと高めの声と低めの声が、今は、なんだか切羽詰まって何度も何度も「英二」と呼んでいる。叫んでいる。えーじ、エイジ、英二。ああ、うるさいな。それって誰の名前だ。「英二、おい、目ェ開けろッ!」遠くで聞こえていた声が、急に、耳の近くでぐわんと響いた。
 それって僕だ。
 そして、やっぱり、コングとボーンズの声だ。
 僕は薄っすらと目を開け、ろくに見えない視界の中、乾いて引っ付いた唇をこじ開け二人を呼びかけた。掠れた息がひゅうと鳴っただけで、声さえ出なかったが、それでも二人は僕の意識が戻りつつあるのを分かったようだった。「英二!」声に喜色が含まれる。どうしたんだい。僕は言おうとしたけど、舌も口の中に張り付いていて上手くいかない。何かがこびりついている。
「待ってろ、今すぐ医者呼んでくるから」
 医者? 
 どちらかが慌ただしく出て行く気配がした。ちょっと待ってよ。医者って? 誰か大怪我でもしたのか? 手首を持ち上げようとして、失敗する。指先を動かせたかどうかも感覚がなくて分からない。そこでようやく気づいた。僕か。僕だな。医者を呼ぶべき患者って。嘘だろ。
 徐々に見えているものの輪郭が明瞭になっていく。耳を塞いでいた膜のようなものに穴が開き音が鮮明に、「よ、」死んだように固まっていた舌は動かすことに成功した。「呼ばなくていい」しまったこれ日本語だ。
 僕の何かしらの言葉を聞きつけた、今までぼやけていた色黒の、ということはコングか、コングだ、彼は僕の顔を覗き込んで表情を歪めた。怒っているのか泣きそうなのかあるいは両方だった。
「気がついたのか? 英二お前、どうしちまったんだよ、全然大丈夫じゃねえじゃねェか」
 やはり常よりだいぶ気を張った声だ。僕は安心させたくて英語を話す。
……だいじょうぶ」これはひどい。 
「どこがだよ!」コングは怒鳴るのを必死に抑え込んでいた。「分かってんのか? お前、これ」
「医者は、呼ばなくていい」
「ハア? お馬鹿なこと言ってんなよ、お前な、――俺たちはてっきり、お前が死んでんのかと」
「大袈裟だよ……
「大袈裟ァ? 中々起きてこねえから部屋入ってベッド覗いてそしたら血塗れの枕ンなか死人みてえに目閉じてるダチ見た奴を目の前にして同じこと言えんのかくそ」彼は大層ご立腹な様子だった。「きみって、そんなに、速く喋れたんだね……」ほとんど何を言ってるのか理解できなかった。
 コングは目も頬も口も歪ませる。
「血ィ! 吐いて! 倒れてたンだよお前は!」
 叫ばれる。
 瞼に骨でも詰まったんじゃないかと思うくらいぎこちなく瞬きし、僕は彼を見上げていた目を横にずらした。僕はベッドの上で寝ていた。ここは寝室だった。そして、本来白いはずの枕が、僕の黒髪の後ろで赤色を主張していた。
…………え」
 枕と、鼻の奥から、血臭が漂っている。
 それを感知した途端、口の中にこびりついていたものが何か理解し、一気に鉄の味が広がった。不味い。気持ち悪い。なんだこれ。本当に僕の口から血が出たのか? 「こわ……っ」思わず漏らすと間髪入れず反論が返ってくる。「こっちの台詞だバカヤロウ」
 呻きながら身体を起こそうとしても首が僅かに持ち上がっただけで、首から下は脳と繋がっていない肉の塊のようだった。もぐら叩きのもぐらってこんな心地なのかもしれない。などと現実逃避できるくらいには唯一巡らせられる思考回路はわりとこのことを大事に思っていない。
 何せ原因は分かっている。横目にしていた枕から、窓とは反対側にある不自然な暗がりに視線を移す。隣の、アッシュのベッドの下、もぞもぞと影が動いていた。
 ぱち。
 闇色の瞼が一度開き、目が合い、おばけはハッと瞠目すると飛び上がる。あ、ベッドの天井にぶつかった。べしゃっと着地したおばけは黒く丸まってふるふる震える。時折ちらちらと窺ってくる。
「はは」
「おい、どうした?」
「案外、反省してるのかも……
 コングはほとほと困り声を落とした。
「反省するくらいなら、最初から絶不調だって言ってくれ、頼むからよぉ」
「うん……
 ……そうだよね、ごめんよ。
 でも、心の方は、調子がいいような気がするんだ。僕は血の味のする咥内を舐めた。
 不味い。
 
 リンクスメンバーが度々お世話になっている限りなく違法に近いお医者様によると、枕の赤いのは吐血でもなく喀血でもなく鼻血らしい。良かった。胃や肺が破れていたらどうしようかと思った。
 良くなかった。確認してみると、コップ一杯分は超える出血量で、鼻の入口付近の粘膜を傷つけただけじゃ出ない多さらしい。けれど、あれやこれやと診察や問診をし、髭を蓄えた老人は最終的に「過労」だと診断した。
 過労。
 これに猛然と異議を唱えたのがコングとボーンズだった。
 過労って、ンな馬鹿な。疲れただけであんなに枕が真っ赤になんのかよ。こいつちょっと前からずっと顔色悪かったんだ、なんか病気に決まって――このヤブゥ! ぎゃいぎゃい吠えられても構わず部屋を出て行く老医のあとを二人は追って行き、寝室の扉が閉じても微かに言い合う音がした。
 ごわついていた鼻の下と口の中は綺麗になっている。医者が到着した頃には自力で起き上がれるようになっていたし、今も怠いがもうベッドを乗り降りできる。
 枕のない(ボーンズが洗濯機の中に放り込んでくれた)ベッドに横たわり、安静にするようにという治療法を――ちなみに、あの老いたお医者様は確かに仏頂面で愛想の欠片もなかったが、ヤブではないと思う。彼らも今まで世話になったのなら、それを分かっているはずだ――お医者様の言いつけ通りに守ろうとした。つまりは、しばらく、寝ていなければならない。
 僕は天井を眺め、次いで大きくて広い窓を隠しているカーテンを見やる。
 もうすぐで夕方に差し掛かる陽光と、白い枕を染めた赤色と、普段なら絶対に入ろうとしない寝室の扉を開けた彼らの心境・ここに呼んでもいい医者を探し回った苦労を思って、僕は唇を噛んだ。
 申し訳ないことをした。
 僕は、彼らのボスが気にかけている存在で、彼らにとっては気にしなければならない存在だ。しかし、それを取っ払っても、僕たちは友だちだった。
 コングが言っていた通り、友人が鼻から下を真っ赤にして死んだように眠っていたら、大丈夫じゃねえだろと怒鳴りたくなる。心配するし、泣きたくもなる。そういう配慮が、遅れて胸に沸いたのを、僕は少しばかり情けなくなり嫌悪した。何もかもが鈍っている。
 あの二人には、きちんと、謝っておかないと。お礼もしないと。
 迷惑だったろう。自分たちがここに住んでいることは、表立ってはいけないのに。
 彼らはこのことを報告するだろうか。するに決まっている。アッシュを慕い、尊敬し、畏怖しているのだから、怒られるのを覚悟で伝えるに決まっている。僕のせいだ。なんとか、アッシュのお叱りを、僕だけに向かせてみせる。だって全面的に悪いのは僕なのだ。
 アッシュはなんと言うだろう。……日本に帰れ。
 そしたら僕はなんと返すだろう。帰らない。きっぱりそう言えるだろうか。前を向き、胸を張って、地に足を着いて、きみのそばにいたいと返せるだろうか。
 ……分からなくなってきた。
 頬を押しつけていたシーツが冷たくなる。暖房で温まっていた部屋の温度ががくんと落ちる。カーテンから漏れ射していた光が色を失った。
 僕は横向きになり、冷たい布団を被り直すと、ぎゅっと目を瞑った。
「駄目だよ」
 反省しているんだから。
 何か言いたげな視線を背中に、僕はひたすら眠気が訪れるのを待った。
 
 コングとボーンズが気遣わし気に寝室の扉を何度か開けるのを、僕は夢現に感じていた。その度に何か言うべく首をもたげようとするのだけれど、ぼんやりした意識に包まれ唇が僅かに動くだけ。眠っているわけではないし、眠くもないはずなのに、寝返りを打つのも億劫で動けない。
 寒いなあとも思っているのに、身体はしんしんと表面から奥まで入り込んでくる冷たさに、最早震えることもなかった。不味いなあと思う。乾いて、こびりついた、錆びた鉄のにおいと味がまざまざ蘇るだけじゃない濯いでも取れないまずさが、心臓のあたりから血液と共に全身を巡っている。
 それが、心臓の鼓動より大きく速く、髪の先から足の爪先まで侵したら、今度こそ終わりだろう。死んでしまう、のだろうか。
 目覚めなくなるのは予感しているけど、それ即ち死かどうかは怪しい。あいつ、どういうつもりなのかな。取り憑いて殺すつもりなのかな。
 それは絶対にない。悪気のない生き物なのだと確信している。あのおばけは寂しいだけだ。少しでもそういう、人に仇なす態度だったら、追い出せるのに、ほんと。
 今もベッドの下の暗がりから僕を見ているのが分かる。
 震えている。あんなに冷たいくせして、本人(本おばけ?)はちっとも寒がる様子はないから、あれはやはり怯えているんだろう。僕はどのタイミングで鼻血を出したんだろう。きみとキスしちゃってる最中だったら、とんでもなくホラーだ。ごめんね。でも、きみのせいなんだよ……
 ……きみのせいだとお互い知ってるのに、きみはそれが恐ろしく、僕に悪いと思っていて、そして迷子みたいに震えている。針の仕舞い方が分からないヤマアラシ。悲しい一つ目のアメーバ的おばけ。
 きみを温めるには、どうしたらいいんだろうね。
 そばにいるだけでは、一向に温まらない。そばに、いるのに。物理的に隣にいるのが解決策じゃなければ、他にどんな策があるっていうんだ? 肉体じゃなくて精神面とかか。おばけの精神面を温めるって、それはつまり――

 ――ベッドがぎしりと軋んだ。

 頭の中を満たしていた取り留めのない思考の海が、さっと引いていく。
 もとから開いていたのか閉じていたのか、いまいち視認を怠っていた目を瞬かせ、凍えた息を吐いた。夜がやってきたんだ。夜中だ。いつの間にかカーテンから射し込む光が青白く、濃い影は揺れているように見える。音のない、静かで、冷えた真夜中がやってきた。
 僕は横を向いたまま、ベッドに膝を乗り上げたのであろう後ろの気配に言った。
「ごめん」
 僕には、できない。
「さわらないで」
 あたためてあげたい人が、唯一の人が、いる。心身ともに捧げたって構わない人。もうすぐで、帰ってくるはずだから。僕は待っていないといけないんだ。
 きみをあたためる術を、僕は、持っていない。
 あの物悲しい声を聞かずにすむよう、耳を塞いで身体を丸める。ごめん、ごめん。卑怯で、身勝手で、きみの寂しさを埋めてあげられなくてごめん。僕は、アッシュのために、生きていたい。目覚めなくなるのは困る。あいつより早く起きて、ご飯の用意して、寝坊助を叩き起こすのは僕の役目なんだ。そう思っていたい。
 後ろの気配は、一瞬固まったかと思うと、やがてベッドから下りたようだった。
 僕は更に強く耳に手を押しつける。話しかけられたら、僕はきっと、返事をしちまう。それだけでなく、振り返り、「寂しい?」って僕から訊くだろう。そうしたら、温かくならないハグをして、ザ・エンドだ。髪の先から足の爪先まで氷で侵され、昏々と眠り続けることになる。僕には分かる。
 しばらくしてから手をどかし、瞼を持ち上げる。そろりと首を後ろに捻ると、変わらずベッドの下にそいつはいた。大きな黒目を僕に向け、なぜか眦を不思議そうに歪めている。その様子に僕も首を傾げたけど、あれ、もしやその状態じゃ言語を理解できなかったのかな、と都合のいいように解釈して、また背を向けた。
 僕には分からないことだらけで、だから、ベッドに乗り上げたのが本当は誰かなんて、考えもしなかったのだ。
 


 夢を見ている。幸せな夢だ。
 ケープコッドの豊かな草原の中、僕とアッシュは並び立っている。きみは指をさし、暁が世界を覚ましていくのを知らせる。珍しく風は穏やかで、遠くでうぉんと犬の鳴く声がして、なんだかきみは今より大人な姿で、柔らかく僕の名を呼ぶ。
 寒くないか? って、当たり前に僕を引き寄せる。
 寒くないよ。僕は言った。熱いくらい。でも、心地がいい。
 俺もだ。きみは笑って頷いた。
 腰に回された腕は温かく、熱かった。世界は緩やかに起床し、眩い光で満たされていた。
 僕も彼の名を呼ぼうと口を開き、でもAの一音さえ喉から出なかった。まただ。どちらで呼ぶべきか分からない。夢の中でさえこれだ。誰かが望む幸せな夢。僕が一番望んでいる。
 現実では、光の中で、きみが、僕を眩しがって、まるでそれ以上近づいたら罰を受けるみたいな顔をする。それが全て、過去になる夢。傲慢で、強欲で、自分のための狡い願いだ。僕が、僕こそが、きみに、ずっとそばにいてくれと言いたい。
 言われたって、きみは困るだろう。全くひどい男だぜ。僕じゃなかったら、とうに見限ってる……

 きみの幸せって、なんだい? 僕が訊いた。

 俺の幸せ? きみはニヤリと笑う。お前と一緒にいるのが何より幸福だよ。

 どうしようもないエゴイズム! 僕は顔を覆って未だ眠っている静かな海に崖から飛び込みたい気持ちになった。盛大に水飛沫を上げて、海の体内を驚かし、魚たちにつつかれてしまいたい。
 なのに夢の中の僕ったら、今の僕には到底真似できない笑い方をする。主観と客観が溶け込んでいるからよく分かった。お前、そんな表情、それじゃまるで、愛を告げるより明白だ。
 僕はきみの幸せを願ってる。自由を手にし、孤独を捨て置き、きみが愛する人と朝焼けを眺めることができたら、どんなにいいだろうと思ってる。
 これに嘘はない。
 嘘はない、けど。
 僕も──僕の口が動く──僕も、そうなんだよ。きみと一緒にいるのが、一番幸せなんだ……
 ほんとか? きみが白い歯を見せて笑う。なら、一緒にいよう。
 いつまで?
 いつまででも。ずっとさ。
 僕は彼に抱きついた。しっかり腕を回し、回された。信じられないくらい幸せな抱擁だった。
 僕は泣きたくなった。まだ吐き出しきれていない、言うつもりのない言葉が腹の中にあっただなんて。あらかたおばけに言ったつもりでいた。
 本当は、彼が自由の身になった時、僕だけじゃない世界の素晴らしさに気づいた時、他の誰でもない、僕を隣においてほしい。彼の口から、彼が幼い頃から甘受していいはずの幸福に関する望みを、全て僕にぶちまけてほしい。彼の孤独を取っ払い、埋められる存在になりたい。魂をもって、いつもきみとともにありたい。それを彼自身が難しいことぜんぶかなぐり捨てて望んで、受け入れてくれたら……
 夢のような夢。
 ずっとを疑っているのは、僕の方なのに。
 だから、現実には、起こらない。

 その時、暁に果てまでを照らされた海がとうとう目覚めた。
 崖の下で、さざめき、生き物を抱いて、翻弄し、包み込む、暗い暗い底を持った広くて大きな海。世界中の人間の涙を煮詰めて、表面だけろ過して風で冷ましたみたい。僕の胸の内。
 その表面の冷たい空気が海から押し流されてくる。きみが、顔を顰めて、帰ろうぜ、と言う。
 うん。僕は頷いた。うん……。冷気が草原を滑り、身体を離した僕たちの間を漂う。
 ごめん。
 僕は言った。暁を背負う、大人びた、幸せな夢の中のアッシュに言った。
 
 帰らないと。
 
 夢の中のきみは、幸せを充分に受け止められる大人のようだけれど。
 どうやら僕の帰るべきところにいるきみは、幸せが怖くて満足に触れることもできない臆病な子供なんだ。それから、僕も。そんなきみに暗い底を晒したくはない人間なんだ。
 
 さよなら。ありがとう……

 僕は日本語で囁き、お辞儀をすると、崖まで一直線に駆け出した。
 そして、目に見えない壁を越えるように、飛び込んだ。
 海の底は何色だったろう。どんな形をしていたかな。
 幸せな夢が覚める。



「きみが、見せてくれたの?」
 暗い暗い海の底を思わせる大きな一つ目が、僕を見下ろしていた。
 仰向けで寝ている僕を覆い被さるように膨れ上がっているおばけは、歪んだ目尻を、じわりと滲ませている。「また、泣いてたんだね……」僕は手を伸ばそうとして、けれど持ち上がらなかったので諦めて、変わりにちょっと微笑んでみせた。
「大丈夫だよ」
 何も大丈夫じゃなかった。
 おばけは僕に覆い被さっているけど、その暗がりは少しも僕に触れていなかった。ただ懇願するように見ている。星か夜光虫がちかちか煌めく黒目を見つめ返し、その中の僕が口を開くのを、僕は見ていた。
「寂しい?」
 僕が訊くと、おばけは、もぞりと蠢いた。
「さびしい」
 小さく答えた。
 そっか。
 寂しいのは、嫌だよな、誰でも。
 僕は腕を広げる代わりに両の瞼を閉じる。「おいで」それが一番いいと思った。
 瞼の裏側に塗りたくられていた絵の具の闇に、透き通った緑色が瞬く。そっと開けると、翡翠の瞳が金色とともに輝いていた。ここだけ、夜明けが来たみたいだ。ひどく冷たい朝だ。
 ひゅう、白い息が漏れ出た。
 十四、五歳のアスランは、華奢な手足で覆い被さったまま、泣きそうな顔をしている。
 僕はどうにか頭を動かして、顔の横についている腕に頬を擦り寄せた。びく、と強張る。
……怖い?」凍えた頬で訊ねた。
「怖いよ」アスランは呟いた。「あなたに、触れるのは、良くない」
……昨日は、ごめんね。驚いただろ」
「俺のせいだよ。分かってるんだ」
「そうだね。お互いちゃんと分かってる」
「だから……
「お別れ?」
 胸が痛くなる顔をされる。実際に、ずきりと、肺が痛んだ。
「きみは、寂しいんだよね」
……寂しい」
「僕もだよ」
 冷たく細い腕に、更に擦り寄る。
「すごく、寂しい。ずっとそばにいたい。ずっとって、言いたいし、言われたい」
 海の底から砂をすくう。すくわれた砂は、海中を舞い、元の場所には戻れず、全体を巡っていくだろう。僕の言うことは、それだった。
「でも、きみは、あいつは、たとえ同じように思っていても、……一人で、どっか行っちまうんだ。僕は、待つか、背中を追いかけるだけ。隣にいるのは短い間だけだ、きっと。信じたいのに、一人の、人間として、とても愛してるのに……
……それだけじゃ、駄目なんだね」
「そうだ。それだけじゃ駄目なんだ」
 だからといって、では、どうすればいいかも分からない。
 だって、僕には、それしか。
 彼が望む形でそばにいることが、一番、良いことだから。僕にできることで、僕も望んでいることだから。
 僕は彼を守りたいのに、敵が何であるかもよく分かっていないんだ。きみが怯え、拒絶し、撃ち殺したくなるものから守りたいのに、それがどんな形をしてどんな色を持ちどんなにおいがするのか、一つも理解してやしない。それなのに、きみは、僕のことを、特別な友人として接してくれるだろう。こんなことは思いたくはないけれど、幸せなのに、残酷だ。きみも思ったことがあるのかな。
 アッシュ。きみの心からの幸せって、なんだい? どうしたら幸せになれる?
「アスラン」
 冷たい腕に鼻を擦りつける。鼻の奥がつんと痛んだ。
「話を、しよう」
「話?」
「そう。孤独と、愛の話を、へたくそにもしたから。次はなんだろうな……
 アスランはまだ反省している顔のまま、逡巡すると、僕に触れないぎりぎりの距離で隣に寝そべった。僕も重い身体を横向きにして、布団をかけてやり、少年と額を突き合わす。
「じゃあ、最後に」
 陳腐な発想だ。
「幸せの話を、しよう」

「幸せの話?」
 目の前にいなければ聞き逃してしまいそうな小声だった。
 僕もぐっと声を落として、ひっそりと笑う。「幸せって分かるかい?」
 アスランはぱちっと瞬きして、視線をうろつかせると、僕をおずおず見返した。「孤独じゃなくて、愛しい人がいて、温かいこと?」正解だ。大正解。僕はその通りだと頷いた。
 一般的で、最も欲がなくて、なのに中々叶わない、叶っても気づかないことがある、おとぎ話のような幸せ。一人ぼっちじゃなくて、隣に心の隙間を埋めて愛し合える人がいて、ぽかぽか穏やかで温かい。そういう幸せを手にしてほしい。
 そういう、綺麗なものばかり教えてあげられたらと思うけど、最後だ。どうなるかは正直深く考えていない。しかしこれを最後にしなければならないことは身体が物語っている。「あのね」僕は金色に黒色が混じるくらい額を寄せ、囁く。
「幸せってやつは、たぶん色々あるんだ」
 金の睫毛がふるりと震えた。
「色々?」
「うん。さっききみが答えたものも、もちろん幸せだ。幸福の一つ。そして、僕が彼に押しつけがましく願ってるもの。しかしね、きみ、世の中は、それだけの幸福で溢れているわけではないのですよ」
 わざと格式張って言うと、無自覚な生徒は興味深く「そうなのですか」と凍える息を吐いた。素直でかわいい子だ。僕は目を閉じ、じっと見つめてくる緑色を思い描いた。「そうなのです」ここに来て、彼らと出会い、嫌というほど知らしめられた。
「人の数だけ、それぞれの幸福がある。孤独も、愛もそうだ。全部、素敵で温かいものだと言いたいけれど、それだけじゃないのが現実だ。世の中には、愛する人の自由を奪い、孤独を与え、不幸を味わわせることで幸せになる人間もいる。傷つけたり、陥れたり、無理やりに屈服させることでね」
「それは……幸せなの?」
「それも幸せらしい。誰かにとっては」
「ふうん。悲しいね」「とてもね」「あなたの幸せは?」僕は目を開けた。「あなたの幸せは、どんなの?」「……愛について話した時に、」夢の中で答えは出ている。
「僕は、きみに、誰かと愛し合ってほしいと言ったけど」
「うん」
「あいつが、本当の本当に幸せなら、それがどんなものでも、なんでもいいんだ。でも、」
「うん」
「でも、できることなら、ずっと一緒にいて、二人で幸せになりたい」
「うん」
「けど、僕は、ずっとを信じていないのかもしれない」
……うん」
「分からないんだ。何も……。幸せに、なってほしい。なるべき人だ。温かくて、穏やかなものに包まれるべきなんだよ、あいつは。そしたら僕も幸せだ。でも……
……怖いの?」
 ……怖い。
 様々な幸福が決められていない形で存在している中、アッシュが望む幸福とは、一体どんな形で手に入るのだろう。それは本当に幸せなのだろうか。僕はそれを幸福だと思えるだろうか。彼の幸せを望みながら、いざそれが自分の思うものと違ったら、僕は果たして心の底から良かったと祝福できるのだろうか。それはいつ起こるのだろう。いつかは必ず起こることだ。まさか、彼が、このまま地獄で生き続けるとは思えない。泥土から離れて、こびりついた土を払い落とせる日が来るに決まっている。
 その時、僕は?
 部屋を囲んでいる夜が収縮し、怖気となって背筋を走り抜けた。
 自分のことを――僕は目の前の夜明け色した何かに縋りつきたくなったが、ぐっと下唇を噛んで耐えた――自分のことを気にしていては駄目だ。不安がっては駄目だ。それは、彼の、妨げになる。だからこうやって、一人で、なんだかよく分からない生き物に吐露している。最後だから。これで最後。
 この三日間、本来なら口にすることのなかったものを吐き出すことができたのは、こいつのおかげだった。
「きみが、いなくなったら」
「何?」 
「案外、困ってしまうかも」
……どうして?」喜んでいいのか判断し兼ねている。
 僕も眉を下げて笑った。
「これから先、一人で不安な夜が来た時、どう過ごすべきかと思ってさ。なんだろうなあ、最初はあんなにびっくり仰天してたのに。今じゃこんなに……愛しい」
 自分で言っていただろ。
 お互いに寂しがらせたくなくて、おやすみのキスを送りたくなるのが、愛しいということだと。おかしなことに、僕はこのおばけをそう思っているらしかった。
「アスラン。きみの、幸せは?」
「俺の幸せはね」
「うん」
「あなたが、寂しくなくて、愛し合える人と温かくいられることだよ」
……ほんとに?」
 アスランは僅かに身を引いて、唇を開き、閉じて、また開いた。
「ずっと一緒にいたい」
 ぐらりと部屋中の暗がりが揺らいだ。
「ほんとは、一緒にいたい。見て、触れて、話したから、分かる。あなたは優しい。温かくて、人を愛していて、愛されてる。でも、寂しいみたいだ。……俺じゃ駄目なの?」
「言わないでくれ」
 あんまり弱すぎる抵抗だった。
 緑色の瞳は僕を強く射抜いている。
「俺はあなたといるのが一番幸せだ。良くないことは分かってる。でも、……ずっとそばにいたい」
「アスラン」 
 その姿で、その声で。
 言わないでほしかった。
 アッシュ・リンクスでもアスラン・J・カーレンリースでもない、一つ目のドジで寂しがり屋で素直なおばけの姿で言われたら、僕はこんなに泣きそうにならなかっただろうか。
 ううん。
 だって、その言葉は、僕が欲しくて欲しくて堪らない言葉だったのだ。
 熱くなった目頭から冷たい雫が鼻を横に滑っていく。心臓が痛い。「……おいで」片方に針がないヤマアラシがどうなるか、終点はここだった。
「おいで。眠ろう」
「けど、」
「いいんだ。僕たちは寂しくて愛を持ってて、お互いの幸せを望んでる。他に何かあるかい?」
……そばに寄っていいの」
 僕は手を伸ばし、彼の頬、ヤマアラシの針に触れた。実際にずぶりと刺さって血でも出てくれたら後戻りできたかもしれない。けれど、もう、刺さったままでもいいかなと思ってしまったのだった。傷だらけになって血塗れになっても、それで彼は自分を責めるだろうけど、決して彼のせいじゃない。僕はそれでいい。それで、一緒に、いられるなら……
「来て」
 僕が微笑んで言うと、躊躇いがちに手を重ねたアスランは、慎重に身を寄せてきた。まだ細っこくて薄い背中に腕を回し、引き寄せる。つららが触れたところからゆっくり突き刺さっていくよう。そばにいるためには必要なことだった。
「あったかい」
 アスランは小さく僕の胸元に縋り、泣き笑いの表情で見上げる。
「ほんとに、いいの」
「いいよ」
「最後だよ」
「構わないよ」
「ずっと一緒?」
……ずっと一緒」
 つるりとした頬を緩やかに撫でるにつれ、瞼が徐々に視界を狭めていく。
 暗闇が侵食し、冷蔵庫と壁との隙間みたいになった頃、金と緑が隙間を縫って輝いた。
「おやすみ」
 そうして唇に氷が落ちるのを、半ば意識の外側で感じた。
 冷たく凍えたおやすみのキス。ああ、だから、口にするのは……まあいいか。
 僕は瞼を閉じきり、諦めた。
 しかし、とうとう、僕はきみを温めることができなかった。だから、いいよ。
 いくらでも凍えさせてくれて、構わない。
 頭の中だけでなく胸の内も眠っていく。耳の奥で聞こえていた血潮と鼓動の音が鳴りを顰め、少し血のにおいをさせた鼻は初めて呼吸の仕事を放棄しようとしていた。
 明けない夜がやってくる。
 ……そして。

 バンッ―― 

 ――と。
 唐突に、突然に、夜を脅かす聞き知った轟音が響いた。
 一瞬だった。その一瞬で、僕の意識は浮上し色を取り戻し気配を探った。部屋中の影という影が弾け、怯え、さっと隅に集まるのを感じたすぐ、激しく咳き込んだ。
 げほごほ肺に溜まった冷気を押し出すように咳をし、両目から大量の水を落とす。痛い。苦しい。寒い。何がどうなってるんだ。鼻からも液体が溢れ、一部は喉を滑り落ち咳とともに吐かれた。ぼたっと布団に赤い染みができる。これは、やばいやつだ。
 自分の咳き込む水っぽい音と、後れを取り戻すように急ぐ鼓動のせいで、僕は気づかなかった。

「英二」
 
 名前を呼ばれた。凄く余裕のない、切羽詰まった声だった。
 ぐいと引っ張り上げられ、温かいものに抱き込まれる。滲んでぼやけた視界、確かな金色と緑色が見えた。「ア――」ごぽりと血と唾液が口の中で混ざって何も言えない。……温かい。
 アッシュだ。
「英二、こっち向け、俺を見ろ」
 アッシュは、俯いて咳き込む僕の顔を強引に上げさせると、その口で僕の鼻を覆った。
 えっ?
 何をされたのか信じられず瞠目すると、びっくりしすぎたせいで涙が二、三粒大きく零れたのを最後にぴたりと止まる。じゅっ、と耳を疑う音が僕の鼻、アッシュの口の中でこもった。
 はっ?
 べろりと鼻の下を生温かい舌で舐められ、啜られた。喉に伝い落ちかけていた粘性のある血液が、逆流し、汚く鼻に戻っていく。結構前、麺を啜れないアッシュに啜り方を教えたのをなぜか思い出した。
 ラーメンや蕎麦を啜るよりよっぽど完璧に僕の鼻から出る液体を啜り上げた彼は、仕上げとばかりに鼻を舐め、そしてペッとベッドの下にそれを吐き捨てた。べちゃっ、と床に飛び散った音がした。恐ろしくてそっちは見られない。
 赤く汚れた口元を腕で乱雑に拭ったアッシュは、次いで僕の顔も丁寧に袖で拭ってくれる。
「大丈夫か」
……い、い、今の」
 尋常じゃない震え声だった。
「今の、合ってたの。処置の仕方として」
「息は?」
「で、できてる」
「血は?」
「とま、止まった」
「じゃあ合ってる。適切な処置だ」
「うそだ……
 しかし咳はなく、鼻と喉を侵すものも何もなくなっている。酸素を血臭とともに吸えている。彼の処置は適切で、正真正銘の蘇生法だった。「今すぐ……」死んでしまいそうなくらい心臓がうるさい。「水で、うがいするべき。今すぐに」赤く染まった袖を掴んで訴えた。
 随分久しぶりに感じる彼の顔が、盛大に顰められた。
「他に、言うことはないのか」
 不機嫌を隠そうともしない態度に、混乱を極めている僕の頭が必死に働く。「ええと」約三日ぶりだ。三日ぶり? ということは、彼曰く、早めに帰って来てくれたというわけだ。いつ帰ってきてたんだ。「お、おかえり」「ただいま。他には」「ええ、その。あっ、ごめん、ご馳走作れてない」「俺だって味噌を買ってきてない。他は」「ほ、ほか? ええと」「英二」僕はアッシュの目を見た。
 エメラルド。翡翠。夜明けの輝き。
 強く、美しく、熱いほどの温度が僕に向けられている。
「お前は俺のそばにいるんだろう」
 アッシュが言った。
「なら、あんなわけ分かんねえ奴についていくな。頼むから。お前は俺の……
 ぎゅうと抱き締められる。
……誰にも、何にも渡したくない。英二」
「アッシュ、」 
 温かい。
 僕を抱き締める力は強く、強張っていた。怯えているのだと分かった。「アッシュ」せっかく止まっていた涙がぶわりと溢れた。つららが、全身を突き刺していた氷の針が、みるみる溶けていく。そんな。どうして。きみは、きみの幸せは。どうなってしまうの。そんなこと言って、いつかは。きみは、『今だけ』しか考えていないんだろう。
「いやだ」
 みっともない。
「僕は、そばに、いられない」
 消えてしまいたい。
「きみの、幸せが、分からないんだ。僕は、きみに、」
「俺の幸せはッ」
 耳元で大声が上がった。
「お前が全部教えてくれた! 寂しくない夜も、無償で愛される温かさも、穏やかな幸せも、何もかもだ! それをお前が否定するなよッ、英二、お前が生きていないと俺は幸せになんかなれない!」
 まあなんて熱烈で。
 なんて過激な。
 愛の告白より激情的。
 そして、あまりにもアッシュらしい言い方だった。
 僕が、生きていないと。漠然とした、何より大切な条件。そりゃそうだ。彼は、常に、生か死か、その二択を迫られてきた。それに、今の状況。彼の目には僕は死に近く映っているのだろう。
 僕はなんだか笑えてきてしまった。何をぐだぐだ悩んでいたんだろう。僕が生きていないと幸せになれない? それはつまり、『ずっと』と同じことじゃないか。僕が、生きていれば、いいんだから。そうすればアッシュは幸せであれると言っているのだ。ばかやろう。
 何も解決していない。
 僕はアッシュの幸せを願っている。望んでいる。彼が真実、幸福を得られたなら、それがどんなものでもいいと、思っていたい人間だ。実際は違う。僕だって、きみが幸せに、生きていないと、困る。できることなら、僕の隣で。けれど彼は僕なんかよりよほど死に近い人なのだ。
 結局、確証がほしいだけだ。
 十七歳のアッシュ・リンクスが、そんな短い時間を突然終えてしまわない確固たる証拠が。
「あ、」
 言え。
「あっしゅ、」
 言ってしまえ。
 
 死なないで、と言ったら。
 彼を縛ることになりはしないか。
 彼にとって、僕は、『ずっと』を信じ、暗い暗い海の底など知らない人間だ。
 その僕が、彼の生を疑うようなことを告げたら、彼は失望するんじゃないのか。
 どこが無償の愛なのだ。

「さびしい」 
 その時、窓とは反対側の部屋の隅、不自然に震える暗がりが言った。
 あんなに暗く冷たかった寝室に射し込むカーテン越しの朝焼けから、逃げるように縮こまり、一つ目をぎゅっと閉じて眦から闇色の涙を零している。
「さびしい」
 だめなんだね。 
 おれじゃだめなんだ。
 子供の声で泣き、ひとりぼっち、寒く悲しく震えている。
 胸が締め付けられる思いがした。現に、背中に回された腕の力は強くなり、僕を圧迫し、暗がりに目がいかないよう抱え込んでいる。えぐ、嗚咽が狭い気道を通り抜けた。
「ごめん」
 ごめん、ごめん、ごめんなさい。
 ずっと一緒だって言ったのに。
 締め付けている腕からなんとか逃れようと、もがく。あのおばけを、抱き締めてあげないと、僕が、名前を呼んであげないと、「アスラン」瞬間、拘束が解かれて胸倉を掴み上げられた。
「お前のアスランは俺だろうが!」
 絶叫だった。
「違ったのかッ? お前が『ずっとだ』と言ったのは、そばにいたいと思ってくれた相手は、俺じゃないのか?」
 違わない。
 即答したかったのに漏れ出るのは嗚咽ばかりで、涙も止まらなくて、彼が益々顔を歪めたので余計に胸が苦しくなる。僕はどっちつかずに首を振るしかなかった。「──ふざけんなよ」火が燃えている。ごうごうと音を立て、僕を焦がし、胸倉にあった手が熱を宿して抱き留めた。耳が胸にくっつく。どくどくと喚いている。
 アッシュは業火の勢いで氷の暗がりを睨みつけた。
「こいつは、俺のだ! お前みたいな奴にやれるか。俺が先に言ったんだ、言わせたんだ、そばにいるって、それを今更他の奴に奪われて堪るか! 英二は俺のもんなんだよ!」
 びりびりと空間が剣幕に揺れた。
 腕が、微かに、震えている。強いはずなのに。僕を囲う大きな身体は、まるで子供のようだった。
 子供だった。僕より二歳下の、十七歳の、与えられてきたものを尽く奪われ、要らないものばかり押しつけられてきた、寂しい大きな子供だった。
 それが僕のアスランだった。
「アッシュ」 
 僕は、ようやく、その身体を抱き締め返した。
「アッシュ、アッシュ。聞いてくれ、お願いだから」 
「聞かない」
「ほかに、言いたいことがあるんだ。頼むよ」
「言ってみろよ、お前、俺から離れるとか抜かしてみろ。ぶっとばしてやる」
 たぶん、万が一僕がそう言っても、アッシュは僕をぶっ飛ばさないだろう。離れ難くても、僕が幸せならと、身を引くんだろ。分かってるんだ。ひどいやつ。そして僕は、今からもっと、ひどいことを言う。
「アッシュ。僕は、本当は、寂しい」
 言ったって、どうしようもないことなら、言ってしまえばいいんだ。
「ずっと、きみのそばにいたい。僕が生きていることできみが幸せになるなら、僕は何があっても生きてやる。でも、それは、きみがそばにいなけりゃ、意味がない」
 全部、ぶちまけてしまおう。
「きみが、幸せなら、なんでもいい。自由になれるなら、なんでも。本当だよ。けど、知っていてほしいんだ。これも本当のことなんだ。僕はきみの幸福になりたい。生きるよ。ねえ、アッシュ、だから――
 だから。
……きみを一人にはしない。寂しいままにはさせない。だから、僕を、一人にしないで。僕がきみのものだと言うなら、絶対に離すな。お願いだ。生きててくれ。……ああ、くそ、ぐちゃぐちゃだな。やっぱり、何度も言うけど、きみがしたいようにするべきで、僕がどうこう言える資格はないんだ。別に離してくれてもいい。でも、その場合、僕がとてつもない悲しみに覆われることを、知っていてほしい。めんどくさくてごめん。ほんとめんどくさいな、ごめん」
 解れることのない毛糸の塊。それが全てだった。解す糸口はない。解決策などない。海の底の砂を掻き混ぜすぎて、砂しかなくなる。僕たちに確かなものは最初からなかった。何かを区分している境界線はぼやけたまま、だからこそ、そばにいられるのだった。
 涙声の英語は、もしかしたら聞き取れない部分もあったかもしれない。ほとんど聞き苦しいものだったかも。しかし僕は妙にスッキリしていた。普段どれだけ言いたいことを言えていなかったのだろう。自分でも曖昧すぎて分からなかったのだ。
「寂しい」
 僕は温かくて力強くて弱いアッシュにぎゅうぎゅう抱きついた。
「寂しかった」 
「英二」
「声変わりするとこんなハスキーボイスになるなんてさ」
「英二」
「僕はきみのもんだよ。そうだよ。きみが声を大にしてそんなこと叫んじゃったら、僕はなんも言えないよ。凄い進歩だ。僕はきみのもんだ」
「おい、」
「わけ分かんないよな」
……かなりな」
「僕も、分からない」
 宥めるように背中を叩かれる。顔を押しつけていた左胸は涙と鼻水でぐしょぐしょだった。汚いのに温かいってどういうことだろうな。きみがいると、分からないことばっかりだ。幸せなことに。
 僕は身体を離すと、顔面をごしごし拭い、アッシュと顔を見合わせた。
 ぱちっと瞬きした。
「泣いてたの」
 金の睫毛に水滴が光っている。
「お前ほどじゃない」
……きみも、泣き虫だった。そういや」
「うるせえ」
「僕は死なないよ。大丈夫だから」
「信じらんねえ。血が出て、冷たかった」
「ごめん」
「悪かった」
 アッシュは頭を下げるふりして、僕の額に額を突き合わすと、目を閉じ、深く息を吐いた。彼の震えが治まっていく。僕はその様をじっと見ていた。
 そうして水滴を払い落とすと、アッシュは暗がりを射止めた。
 おばけが、ぴゃっと飛び跳ね、丸まる。瞼を閉じていると真っ暗闇の凍える生命体だった。
 僕は彼の手が構える鈍い銀色の愛銃を認めて、元気に巡っていた血の気を一気に引かせた。
「待ッ」ベッドから転げ落ちて立ちはだかろうとしたが、腕を強く引っ張られ叶わない。
「ま、待って、アッシュ」
「なんで」剣呑な目付き。
「なんでって、待って。まさか、待って、さっきの、当てたのか?」
「いいや。さっきのは、わざと外した。あれが何か分からなかったからな」
 不可侵の寝室が、一瞬で、血と涙と鼻水と唾と弾痕と、弾丸の戦場に、変わってしまう!
「待ってくれ!」喉を限界まで酷使した。
「何をだ?」ゾッとするほど低い声だ。「あれが何か分からないまま撃つことをか? お人好しが過ぎるぜ。殺されかけたくせに。絶対に許さない」 
「違う、殺すつもりなんかなかった。ご、合意の上で」
「ああ?」
「ええと、違う、あいつ、寂しがりやで。僕も寂しくて、」
「俺がいるだろ。そばにいる」
「う、嬉しい」
「じゃあOKだな?」銃を構える。
「No!」右手に飛びつく。「ばっ、危ねえだろ!」「危ないのはきみだ! 何も殺すこたぁないだろ、あいつは僕を傷つけようとして近づいたんじゃない! 結果的に、そうなっただけで、」「未必の故意だろ。有罪だ」「難しい英単語使わないでくれよ、無罪だ、無罪!」アッシュは苛立たしげに柳眉を寄せ眉間に皺を作った。アッシュが一番、殺意なき殺意に辛酸をなめてきた。殺す側も、殺される側としても。僕がその餌食になりかけたことを到底腹に据えかねているはずだ。分かっている。
 分かっているけど、僕は思い切り喚き散らす。
「頼む、銃を下ろしてくれ! そもそも撃ったところで死ぬかどうか怪しいし、何かそういう機関が嘆き悲しむかもしれないし、ええと、」難しいことを言おうとして失敗する。「と、とにかく、嫌だ! あいつを撃つってんなら僕も撃たないといけなくなるぞ、共犯だからなッ。いいのか? それでいいんだったらどうぞ撃つといいさ」
 めちゃくちゃな脅し文句だった。
 賢い彼には通用しなかっただろうが、同時に彼は僕に甘い人間だった。言い返す言葉などたくさんあるだろうに、ぐっと唇を引き結んでいる。僕はその隙にアッシュの腕から抜け出し、「おいっ」制止した彼とおばけの丁度真ん中あたりに佇み、膝を折る。
 震えている一つ目が、ちらりと僕を見、ぱちぱち瞬いた。
「ごめん、怖がらせて」
 もうちっとも寒くない。
「ごめん、一緒にいられなくて」
 でもきみは。
「寂しい?」
……さびしい」
 その言を受け、僕は決意した。
 膝を打ち(おばけはびくりと跳ねた)、横にやって来て僕の肩を守るように抱くアッシュの、何か物申したそうな瞳を見据え、それから黒い一つ目に戻す。

「あと八十年くらい待っていてほしい」

「は?」 
 隣から素っ頓狂な声が上がる。
 僕は大真面目だった。
「今すぐは、無理だけど。きっと、あと八十年くらい経ったら、きみと一緒にいれる」
「お前何言って、」
「僕は老衰してみせる。アッシュ、とりあえず、最低限、僕が生きていたらきみは幸せなんだね?」
「当たり前だろ。お前が死んだら俺は死ぬよ」
 サラリと強烈なことを言ってのける。オーケー、オーケー。それを基盤に考えるとしてだ。
「僕は、生きている間、きみが許してくれる間、ずっとそばにいる。アッシュのそばに。なんたって僕はきみのもんだからな!」
……お、おう」
「すると、僕は、老衰する必要がある。その時きみは生きている保証はある? 暗く考えないで、普通に」
……ないな」
「だろ」
 指をパチンと鳴らした。
「僕はアッシュより一日でも長く生きなきゃいけない。それがアッシュの幸せなら。でも、そしたら、僕が死ぬ時は? きみが先におっ死んだ残りの時間を、思い出を頼りに、一人でいなきゃならない。そんなの寂しすぎるよ」
……だから?」 
「八十年後、いや、八十年後て百歳近いのか。ちょっと無謀だな。六十・七十年後に、僕はこいつと一緒にいる。老衰で死ぬ時に、何よりそばにいて貰う。一緒に眠るんだ」
 それじゃ駄目かな? 
 僕は自分が愚かで酷なことを提案していると知りながら、でも今はそれ以上の考えが浮かばず、明るく問いかけた。
 おばけはもぞもぞ縮んだり伸びたり、うろうろ視線をうろつかせ、僕を見上げる。「……ほんと?」ほんとさ。僕は大きく首肯した。「きみが待っていてくれるなら」約七十年。ずっとを思うより難しいことかもしれない。
「まつよ」
 小さく、ハッキリした答えだった。 
 暗がりが蠢き、ほんの少し僕に向かって影が伸びてくる。僕は近づいて腰を屈めた。
「ありがとう」
 手を差し伸べる。
「握手しよう。友好の握手。人差し指からどうかな」
 人差し指に、ちょんと闇が触れ、数秒絡み、ぱっと離れた。
 指先がじんと冷たくなっている。やっぱり触れ合うのは良くないらしい。気をつけよう。
「と、いうわけだアッシュ」
 僕はくるりと振り返った。
「同居人が増えた。人じゃないけど」
 アッシュは自他共に認める整った顔立ちをしている。
 その綺麗な顔が、盛大にしかめっ面になっている。
 むしろ、怒っている。迫力があった。大変怖い。僕の後ろでおばけが怯えている。来るなら来い、と両腕を広げた。叱責でも拳骨でも足技でも銃弾でも、受け入れる気概だった。絆されている自覚もあった。不確かな約束ばかりしている残酷野郎だという自覚もあった。いっそのこと罵ってくれた方がいい。
「追い出す選択肢はないのか」 
 押し出された声音は、腹の底で煮える感情を、喉を過ぎるまでに無理やり冷まされている。
「な、ない。自分から出て行くってなら別だけど。追い出して、他の人のところにいっても、困るし」 
「他人のことなんて気にしなきゃいい」 
「それこそ、あれだ。未必の故意」 
……」ぐぐぐ、と奥歯を噛み締めている。火山噴火待ったなしに見えた。後ろの窓からの早朝の気配を全身に纏って、アッシュはつかつか僕との距離を縮め、腕を上げた。僕は開けた瞼はそのままに、歯を食い縛った。
 ところが僕を襲ったのは、愛ある鞭ではなく、愛そのもののハグだった。
 僕に触れるのを時折躊躇う彼にしては非常に珍しい、骨がぶち当たるような抱擁。髪の先から足の爪先まで温かくなる。
「分かった」
 表情は見えないが、確実に台詞通りの顔はしていない。
 アッシュは言った。
「けど、忘れんなよ。こいつは、英二は俺のだ。今度同じようなことがあれば、俺はお前を殺してやるぞ」 
 おばけが、床を転がって、ベッドの下に隠れる気配がした。
「あ、アッシュ」 
「お前も、」 
「え?」 
「お前も、それを、肝に銘じてくれ……
 僕は、内臓の、肝があるあたりを潰す勢いで抱き締め返した。
「分かった。僕はきみのだ、そばに、ずっと、いる」

……寂しくないか?」

 訊かれて、完全な朝焼けに包まれ、穏やかで温かい涙を、一粒だけ、ぽつりと零した。「寂しくないさ」笑顔と一緒だった。

「だって、きみがいる!」
 
  

英二と寂しんぼおばけ

 


 なんだかよく分からないアメーバ的一つ目おばけが寂しがっていた場合、取る行動は次のうちどれか。

 1、話しかける
 2、抱き締める
 3、キスをする

 正解は、……どれも正解で不正解です。危ないからね。

 本当にこれで良かったかどうかは、七十年経たないと分からない。
 でも、きっと。
 寂しさは、ずっとは続かないだろう。
 僕はそう信じている。信じて、時には落ち込み、這い上がって、生きて、老衰で死ぬ。
 何せ、それが、孤独も愛もひっくるめた、幸せというやつらしいので。