【カブミス25のお題】10.落下/瞬く間に消える

暗闇に落ちてゆく夢を見て思い悩むカブルーと、それを優しくからかうミスルンの話。

 深く深く、底の見えない暗闇に堕ちてゆく夢をみる。その中で俺は誰かを抱きしめているけれど、それが誰なのかは分からない。ただ、大切な人ってことだけは分かっていて、俺はその人を抱きしめる腕を強くする。一緒に落ちてゆきたいって、そう思いながら。
 
 
 ぱちり、と目が覚めた。
 あたりにはまだ光がなく、エルフ調の天蓋から伸びるカーテンの隙間から見えるのは、朝日よりずっと暗い闇だった。俺はそれを見て、さっきまで見ていた夢を思い出す。あれは多分迷宮に落ちてゆく夢で、抱きしめていたのはミスルンさんだったのだろう。そう、会ったばかりのミスルンさんを逃すまいと後ろから羽交い締めにした、あの時の夢を俺はみたのだった。どうして今さら、あんな夢が出てきたのかは分からない。夢占いでは、落ちてゆくそれは仕事がうまくいかないかもしれない、恋人に愛されていないかもしれないという自信のなさ、不安が現れているとあった。でも俺には仕事も、恋愛にもさしたる不安はなかったし、あの夢の息苦しさの理由は思い浮かばない。いや、違うな、目を背けているだけで不安はある。ミスルンさんを残して、一人で老いてゆく不安が。
(でも、どうしてあんな夢を?)
 俺は考える。でも、やっぱり答えは分からない。俺たちは確かに幸せの中にいて、今は幸福の中にいて、それを脅かすものは寿命差以外になかった。だったら、やはりあれは死への恐怖なんだろうか? この愛しい人を残して死なねばならない、そんな死出の旅への恐怖なんだろうか?
 俺は身をよじり、ぼんやりとカーテンの隙間を眺める。窓はぴったりと閉め、カーテンで覆っているから、寒気はほとんどしない。暖炉にはもう火はないけれど、昨日の残りかすが部屋を温めてくれている。もしかしたら自分の寝室よりずっと懐かしいここは、ミスルンさんのそこだった。そして二人で寝ても窮屈でないベッドには、俺の隣にはあの人がいる。
 俺はまた身をよじって、眠るミスルンさんの顔を観察する。瞳を閉じた彼は、まるでつくりもののようで美しかった。灰色がかった銀の髪も、途中で切れてしまっている耳も、かさついた薄い唇や、ほっそりとしているが筋肉のついた腕も、みな美しかった。
 そんな人が俺の恋人ということに、俺は感動する。ミスルンさんは俺の手を取ってくれた。差し出したあの手を取ってくれた。それだけでいいじゃないかって思う。恋に落ちていったのは俺の責任だ。この人は俺と距離を取ろうとしていた。俺が告白した時でさえ、あの人はわざと知らんふりをして自分の恋心を殺そうとしているように見えた。そんなのは全部、俺の妄想かもしれないけれど。
 ミスルンさんが俺の告白に答えてくれたのは、一体何がきっかけだったのだろう。俺は何度も何度も彼に愛していると伝え、ミスルンさんは幾度もそれには答えられないと言った。でもある日を境に、彼は俺の愛に応えてくれた。彼を変えたのは一体何だったのだろう? 長命種であり、不義の子とはいえ名家の次男である彼が短命種で何も持たない俺を選んだのは、一体どういう理由からだったのだろう? 俺はそれをいまだに聞けないでいる。
 多分、俺は魔法がとけるのが怖いのだ。この人に愛されているという錯覚が、すっかり消えてしまうのが怖いのだ。ミスルンさんが俺を愛してくれているのは嘘じゃない。何度も確かめた。しらふでも、酒が入っていても、ベッドの中ですら、彼は俺を愛していると言った。でも俺は、時折あの夢をみてしまう。深い深い、底の見えない暗闇に落ちてゆく夢をみてしまう。原因は分からない。ただ俺は不安で、この人を残してゆくのが不安で、彼にとっての最後の恋としてミスルンさんを縛るのが不安で、やっぱり、老いてゆきたくはないと思うのだった。
……カブルー? 起きたのか?」
 眠そうに目をこすり、ミスルンさんが身体をひねる。そして俺に向き直って、たった一つ残された目を覆う灰色がかった銀髪を耳にかける。俺はそんな彼に、まだ早いですよと答えて、寝るように促す。だがミスルンさんはじっと俺を見つめて、こう言うのだ。
「悪い夢でもみたのか?」って。
 俺はそれに答えられない。あれは悪い夢だったのだろうか? 深い暗闇に堕ちてゆくのは、夢占いでは仕事がうまくいきそうにないとか、あなたが俺の思いに応えてくれるかどうかの不安なんですって。そう言いかけて、俺は口を噤んだ。ミスルンさんは不思議そうに俺を見つめる。そしてこう続ける。
「やっぱり、怖い夢をみたんだな」
「違いますよ、昨日飲んだ寝酒のせいで眠りが浅かったんですよ」
「それなら、口移しでもらった私も起きなきゃおかしいな」
 ミスルンさんがほのかに笑う。俺はそれに、そういえば昨日はそんな遊びをして交わったなって思い出して、この人をそんなふうに求めたなって思い出して、じんわりと身体が熱くなるのを感じた。昨日の夜、俺たちは酒を飲み、そのままベッドになだれ込んだ。俺は彼の髪を指でかき回し、そして唇の中を探って、酒を注ぎ込んだ。ミスルンさんはそれを素直に飲み、俺の舌を噛んだ。俺たちはそれだけで興奮して、いつもよりも深く交わったのだった。
「私には言えない夢か?」
……暗闇に落ちてゆく夢です」
 俺は素直に言う。早く話を切り上げたくて、素直に彼に伝える。するとミスルンさんは今度は楽しそうに笑って、俺の頬を撫でた。
「なんだ、出会った時の夢を見たのか? 私の恋した時の?」
「え……?」
「お前が言ったんじゃないか、出会った時から私に恋をしていたって、繰り返し」
 そうだ、俺はそんなふうに彼に告白をして、彼から愛をもらったのだった。すっかり忘れていた。目の前の恐怖が先に来て忘れていた。あれは、強く誰かを抱きしめる感触は、初めてあの人に触れた時のことを思い出させていたのだ。
 俺はそれにちょっと笑いそうになり、でも声に出すことはなく、頬に乗せられた小さな手のひらに自分のそれを重ねた。普段は体温の低い彼だが、昨日の熱が残っているのか、それとも毛布にくるまって熱がこもっているのか、それはとても温かかった。そんな体温がもらえたことに俺は腹の奥を震わせ、あぁ、幸せだって思う。
「なぁ、カブルー。お前は本当に私のことが好きだな」
「えぇ、自分でもおかしくなっちゃうくらいにはね」
 ふざけるミスルンさんの手のひらにキスをして、俺はそう答える。確かに老いへの恐怖はある。この人を残してゆく恐怖はある。でも今は幸せの中にいる。不安と隣り合わせでも、俺はこの人を愛している。
 俺は少しずつ冷えてゆく空気の中、ミスルンさんに繰り返しキスをする。不安は瞬く間に消えてゆく。この人が消してくれる。どれだけ怖くても、俺はこの人を愛している。世界中の人が愛を向けてくれても、この人しか選ばないように。