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さもゆ
2024-11-15 00:29:47
10287文字
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BF
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【A英】KUSYAMI
59丁目ではっくしょーん。
2019.3.16 たまごのお粥pixiv投稿作品
呻き声で目が覚めた。
飛び起き、また悪夢を見たのかと隣のベッドを見るが、膨らんだ毛布は規則正しく上下している。英二はあれれ、と首を傾げる。耳の奥でどくどく血潮が巡る音が響き、それだけでなく心臓の鼓動は速く、背筋はじっとり嫌な汗をかいていた。もしかして、と自分のベッドを見返してみる。
飛び起きた時に、しっかり被っていたはずの毛布を撥ね飛ばしていた。手足が震えている。確信する。呻き声を上げていたのは自分だった。
うるさい胸を押さえ、震える冷たい手足を抱え込み、果たしてなんの夢を見ていたんだろうと暗闇の中ぼんやり考える。悪夢だったのは間違いない。ほぼ夢を見ない、見たとしても覚えていない夢見のいい英二が、呻き目覚めるほどの夢とは、なんだったろう。
きっと思い出さない方がいいのだろうが、それにしたって体が怯え切っている。なんだかじっとしているのも恐ろしくて、またちらりと隣のベッドに視線をやった。気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。どうやら今夜は安眠できているらしい。良かった。彼は最近魘され過ぎていたから。
――
たとえば。
英二は抱えた膝に額をつけ、少しの想像を巡らしてみる。
――
自分のベッドを下り、隣まで歩み寄って、アッシュの寝床に頭だけでも乗せてみたならば。案外ホッとしたりするかもしれない。彼の安心して眠っている姿というのは、どうにも心に安らぎをもたらしてくれる。かも。かもしれない。想像するに。いやしかし恐らくそうなるだろう。安心して、自分のベッドに戻って、朝までぐっすり眠ることになるか、彼のベッドに頭を乗せたまま微睡んでしまうか。覚えていない悪夢に怯えるのをやめ、彼の寝息と共に眠ってしまうだろう。
英二はそろりと足を下ろし、自分とアッシュのベッドの真ん中、どっちの寝床に入ってもおかしくない距離に佇んだ。
寒いな、と思った。嫌な汗が、ぞわぞわと背筋を冷たく侵し、悪夢の片鱗が胸の内を凍らせている。
……
なんの夢を見たんだろう。
まだまだ親に甘えたい歳に妹が生まれて構って貰えなくなった時の寂しさとか、家族の女の割合が多いことへの不満とか、棒高跳びができなくなってしまった時の恐怖とか、目の前で友人が死んだ時の虚無とか、大切な人が平和に生きられないことへの憤りとか、自分の身に起こった絶望を煮詰めてどろどろのジャムにしたような、現実的な夢だったような気がする。
アッシュは、今、すやすや眠っている。
もし英二が縋りついても、起きなさそうではある。けれど、もしも起こしてしまったら、彼の久々の安眠を妨げることになってしまう。それは嫌だ。Good nightして貰わなきゃ困る。
でもじっとしていられない。こうして突っ立っているだけで悪夢を感知していた脳が身体を震わせる。
走りたいな、と思った。ひたすら走って四肢を動かなくさせたい。
一旦そう考えると、中々に妙案な気がしてきて、英二は自分史上最高にひっそりと、こっそりと、自分の使っているクローゼットを開けた。
ジャージにウィンドブレーカーを合わせ、ランニングシューズで走ったりしていると、高校時代を思い出したりするのではと思ったが、そんなことはなかった。
それもそうだ。月明かりしかない田舎とは違って、ニューヨーク市内は真夜中でも明かりが灯り車も人も通っている。英二はそんな寒い中を白い息吐きながら走っていた。ずび、と鼻を啜る。
ランニングに繰り出してどれほど経ったろう。時計も何も持ってきていなかった。リビングに「ちょっと走ってくる」と書き置きを残したのは自分なのに、ちょっととはどこからどこまでがちょっとだろうかと探っている始末である。
は、と息を吐く。白い靄が広がり後ろに流れて消えてゆく。身体の表面は暑いのか寒いのかもう分からなくなっていた。何者かから逃げるわけでも、追うわけでもないただ走る行為は本当に久しぶりで、体力の衰えを感じるが、英二はとても気が楽になっていた。悪夢の余韻が汗となって流れ出ていくようだった。
何も考えずただひたすらに走って、走り、眼球にぶち当たる冷気によって瞬きするたび涙を落とし、鼻の奥がつきつき痛くて、それでもこのまま走り続けて四肢が動かなくなればいいと僅かにスピードを上げる。ずっ、鼻水を啜る。鼻の奥がむずむず痛痒かった。
「は
――
」
正しく呼吸していた喉が引きつる。あっ、と予感がした。
くしゃみだ。くしゃみしそう。
英二は走りを止めようとしたが、それより速く反射的に首を横
――
腕で防ぐよりも、周囲には誰もいなかったのだがマナー的に前より横がいいと脳が思って横に
――
首を捻った。
「ぶわっくしょい!」
真夜中のニューヨークに盛大にくしゃみが響き渡り、反動で走りが止まり、そしてその直後だった。
ビルが爆発した。
熱風が身体を吹き上げ、立て続けに轟音が辺りを支配し、どんな明かりより眩しく禍々しい炎が道を挟んで向かいのビルを嬲っていた。
「え、」
へたりとその場に尻もちをつく。あのビルは英二がくしゃみをした方向のビルだった。くしゃみした時に飛び散った飛沫が飛距離を伸ばしたなら、確実にあのビルに届いていただろうと調査結果が出そうな位置関係のビルだった。タイミングも良すぎた。
英二は鼻水が垂れていた鼻を押さえる。目の前では、ちょうど、再度の大きな爆発で上階の窓硝子が粉々に砕け散っている瞬間だった。きらきらと破片が降り注いでいく。あまり人の気配のなかった通りをあっという間に野次馬が満たし、そこで英二はよろよろと立ち上がった。
悪夢は完全に消えていた。
まるで鼻と口から飛び出し、腹いせにビルを爆破させたみたいだった。
アッシュはふと穏やかに目覚め、寝返りを打ち、横のベッドで寝ているべき人物が見当たらなかったことで冗談でもなんでもなく心臓が一時停止した。
一見死人のように見えて本当に死人になるという器用な数秒の後、怒涛のように再起動し始めた心臓と思考回路によって拳銃を手繰り寄せる。
ベッドを飛び降り扉をぶち開け、そうして明かりのついていないリビングのソファに人影を確認し、ほうと溜め息か安堵かよく分からないものを吐いた。急激に拍動した心臓は徐々に正常な動きになっていく。
「英二」
薄暗がりの中でも分かる、アッシュの後ろから忍び寄ったって構わない英二が、ソファに膝を抱えて座っている。
照明をつけ、眩しさに目を細めながらソファに近づいた。
「脅かすなよ、お前が寝るべき時間に寝てないと不安に──」
ぴたっと立ち止まった。ソファの隅でこじんまりと座っている英二の目は赤く、唇は引き結ばれ、今から泣くか散々泣き腫らしたあとかどっちつかずの様子だったからだ。心臓がまた嫌な動き方をする。
「何があった」
低い声が出た。
出かけていたのは一目瞭然だった。彼はアパートのジムに行く格好と同じだったが、こんな時間にはやっていない。アッシュは拳銃を持ったまま英二の隣に腰かける。「何が、あった?」肩を震わし、真っ赤な瞳がゆるりとこちらを向いた。
「アッシュ
……
」
「なんだ」
「僕
……
どうしよう」
「何?」
「どうしよう、おれ
……
」
「英二?」
紡いでいる言語が英語じゃないと気づいていない様で、英二が何かを言い募った。唇は震えていた。「英二、待て、聞くから。頼むから英語で話してくれ」赤くなっている鼻がずずっと啜り上げる。「
……
ごめん」お得意のアイムソーリーを言うと傍らの箱ティッシュから一枚抜き取り鼻を押さえた。
アッシュは自分がひどく戸惑っているのを感じていた。こんなこと、今まで一度だってなかったのだ。暗闇の中一人何かに怯えているのはいつも自分で、そんな自分にいつも英二が寄り添ってくれていて、だから、こういう時、どうすれば。彼にそんな顔をさせるものはあとでどうとでもしてやるけれど、今この時は何をすればいいのか。迷った挙句、そっと英二の鼻を押さえる手に触れた。
ぞっとするほど冷たく、一体いつからこの暖房もついていない部屋にいたのか憤りさえ沸き起こり、理不尽に怒鳴る前に寝室に引き返した。
銃を置き、代わりに毛布を持って戻る。
「風邪ひくぞ」
毛布をかけてやり、改めて隣に座り直す。英二は律儀に礼を言うと、端を持ち上げてアッシュに示した。首を横に振る。するとちょっと躊躇ったのち、身を寄せ毛布をアッシュにも半分かけてきたので、好きにさせた。肩がくっつく。ウィンドブレーカーはひやりと冷気を纏っていた。
「あのさ、」
「ああ」
英二は視線をうろつかせ、それからアッシュの目を見、最後に伏せた。
「あの、凄く
……
とんでもないこと言うんだけど」
「なんでも言ってみな」
「僕
……
」
何を言われても冷静に対処しようと思った。どこで、誰に、何をされたか、それさえ教えてくれれば冷静に対処してみせると。
英二が苦し気に言う。
「僕、くしゃみで、ビルを爆破してしまったかもしれないんだ」
「What?」
「
…………
」
「
…………
」
「
……
くしゃみで爆破してしまったかもしれなくて、あの、ビルを」
反応を返せずにいるアッシュを、英二は不安そうに見上げた。
「僕もしかして日本語で喋ってる?」
「いや、英語だ。いつもの」へたくそな、と言おうとして口を閉じた。
英二の英語は確かにアメリカ人からしたら訛りが強く聞き取りにくかったりするが、さっきのは聞き間違いのレベルじゃないような気がした。
「希望的な観測からもう一回訊くけど。お前、今、くしゃみでビルを爆破したとか言ったか?」
「きみの希望がどっちに向いてるかは分からないけど、言った。いや、違う。かもしれないって話で」
「じゃあ間違いだ」
「よく聞いてくれ」
「くしゃみでビルを爆破したかもしれない話を?」
「そうだ」
「くしゃみで
……
」アッシュは頭を抱える。「くしゃみでビル爆破?」そんな文言は生まれて初めて耳にした。英二はどれだけ自分の初めてを奪えば(無償の愛的な意味で与えてくれれば)気が済むのだろう。ハッ、鼻で笑ったような息が出た。ぐいと隣の冷たい肩を抱き寄せる。
「何があったか、分かりやすく、言ってみな。オニイチャン」
「
…………
」
英二はじとりとこちらを睨んでから、ぼそぼそ口を動かした。
「外走ってたら、くしゃみが出て。くしゃみ出そうな時って分かるだろ? でも腕で防ぐとかの余裕がなくて、」
「待った。待て。なんで外を走る?」
「え? だから、それは、
……
怖い夢、見て」
「怖い夢?」
「うん。内容は覚えてないんだけど、凄く嫌な感じで
……
じっとしていられなくて。走りたいって思ったんだよ」
「なんで俺を起こさなかった」
「きみ、寝てたし」
「そ、」それでも起こせ、起きるから。と言いそうなのをなんとか飲み込んだ。悪夢から目覚め隣ですやすや眠っている英二を確認し安堵したことが何度もあったからだった。そんなの起こせるわけがないことは自分が重々承知している。「
……
それで?」アッシュは続きを促した。
「それで、がむしゃらに走ってたんだけど、」
「うん」
「鼻が痛痒くなっちゃって、くしゃみしたんだよ。道を挟んで隣に建ってた、ビルに向かって」
「ああ」
「そしたら、」
「ビルが爆発した?」
こっくり。英二が頷いた。
ぽんぽん。抱き寄せていた肩を叩く。アッシュは笑おうとして失敗した。不格好な笑みに呆れが全面に表れていた。
「偶然だ」
こう返さなくても彼はこの答えに行き着かなかったのだろうか。そんなはずはない。英二は多少抜けていることがあるし世情に疎いが、くしゃみで何かを爆発させるなんてことが現実的じゃないことくらいは、考えなくても分かっているはずだ。他にもっと、何かひどいことがあって、それを隠すための嘘なんじゃないかとも思ったが、嘘を吐くならもっとマシな嘘にするだろうし、何より英二は至って真面目だった。
真面目に、くしゃみでビルが爆発したと言い、怯えている。
「偶然だよ、英二」
「でも、あんまり、タイミングが良すぎたんだ。僕がくしゃみしたすぐ後だった。ビルが大きな音を立てて、赤く燃えて、
……
爆発してた」
「たまたまだ。よくあることだろう。タイミングってのは」
くしゃみした先でたまたまビルが爆発するタイミングというのは確率的に言えばだいぶ少ないと思う。しかし、今まで尽く『偶然』や『タイミング』に裏切られてきたアッシュとしては、別に起こり得ないことではないと納得できる。
英二は浮かない顔のまま「でも
……
」更にくしゃりと顔を歪めた。アッシュは途端にどうしたらいいか分からなくなる。ここまで自分の前で弱っているのは初めてだった。言葉の続きをいくらでも待つと、肩をぎこちなく撫でてやる。彼は鼻を啜ると、濡れた瞳を向けてきた。
「僕
……
本当にきみの、お荷物なんじゃないかって」
涙声だった。
「これを言うと、喧嘩になるから、言いたかないけど
……
僕は本当の本当に、疫病神じゃないか? いつも間が悪くて、きみの邪魔して、良くないことばっか引き連れて、それなのにきみの傍にいたいって思ってるからどうしようもないくそ野郎だ
……
エゴだ
……
」
アッシュは目を瞬かせた。
えーっと。
理解が追いついていない賢いはずの脳みそを必死で働かせる。ええっと。英二が悪夢に魘され、気分転換に真夜中に走りに行った。ああ、これに対してはちゃんと後で説教するとして。
そこでくしゃみをしたら、ちょうどくしゃみした方向にあったビルが爆発した。これについても後でちゃんと調べておこう。そういえば外からサイレンの音がしていた。
英二は自分のくしゃみのせいで爆発が起こったかもしれないと危惧している。そしてそこから、二人の間で何度も出てきては喧嘩になったりどっちかが身を切られるような思いをしたりはたまた結局はお互い傍にいたいという終着を迎える、「英二はアッシュのお荷物」論点を抱え直しているらしい。それでそんなに、どうしようもない不安に駆られて泣きそうになっていると。
なんでだ。
意味が分からない。どういう思考回路を辿ったんだ。
いや、分かる。たぶん。
今、ようやく、気づいたことだが、英二は案外心許ない思いをしていたのではないか? 彼は普段、夜にはよく眠り朝には清々しく目覚めている。そんな人間が今夜に限って外に飛び出したいほど怖い夢を見たと言う。
夢とは体の不調や精神状態が如実に表れると実感している。英二が悪夢を見た。それはよく考えずとも当たり前なことのように思える。アッシュの前では明るく呑気に振る舞っているし、恐らく本人にとってもそれが自然体なのだが、疲れというのは知らずのうちに溜まっていくものだ。このアパートに来てから、もっと言えばアッシュと出会ってからの抱えていた精神的負担が、今夜とうとう決壊したのではないか。
くしゃみ爆破というタイミングの悪さも重なって、こんなに馬鹿馬鹿しいことでひどく真剣に思い悩んでいるのではないか。
「あー、英二」
ここで、お前は疫病神じゃない何度も言ったが俺を助けてくれただろ、と言い聞かせても解決にはならないような気がした。アッシュは身を乗り出して箱ティッシュを手繰り寄せた。
「くしゃみしてみたらどうだ?」
「は?」
「くしゃみ」
英二は信じられない顔してティッシュを見下ろし、そのままアッシュに視線をやる。「なんで、嫌だよ」その手に無理やりティッシュを押しつけた。
「もう一回くしゃみしてみたらいい。それで爆発したら、まあ、お前のくしゃみでビルが爆発したって信じるし、そうなったら、
……
お前を連れて逃げるよ」
「ばか。馬鹿言うな。ビルを爆破させるくしゃみだぞ。こんなとこでしたら、」
「馬鹿はお前だぜ。大丈夫だ」
「僕はきみを粉々にしたくない」
噴き出しかけたのを喉の奥で潰し咳払いで誤魔化して、動かない英二の代わりにティッシュを一枚抜き取る。「
……
それじゃ防げない
……
ティッシュなんて木端微塵どころの騒ぎじゃないよ
……
」何か勘違いしている英二の目の前で、ティッシュの端を指で捏ねた。
「アッシュ、まさか、」
英二の顔が引きつった。
「ま、試してみようぜ」
ティッシュを細長くしたこよりを掲げる。
刹那、英二が毛布を放り投げソファから飛び降りようと動いた。が、アッシュが間髪入れず腕を掴みソファに引き倒す。「やだやだ待ってほんと駄目!」ばたつく足を抑え込むため馬乗りになり、手加減なくぶん殴って来ようとする腕を片手で拘束する。たとえ二歳上でも全く簡単に動きを封じ込めてしまえるのを身を以て知り、やはり自分が守ってやらねばとこの状況で倒錯的に決意しながら、「英二」威嚇で歯を食いしばっている情けない顔を見下ろした。
「安心しろよ、痛いことはないさ」
「分かんないだろ! どいてよ! 万が一爆発したらどうすんだよ、そんなの耐えられない!」
「爆発しないかもしれないだろ」
「あーっ! そういうのなんて言うか知ってんだからな! シュレーディンガーの猫!!」
「爆発しないに百%だ」
「半々だよ!」
「英二、頼むよ。大人しくしてくれ」
アッシュはわざと眉尻を下げた。
「俺だってやなんだよ。いつ爆発するか分かんねえくしゃみなんて」
「だったら一人で確かめ、」
「それで本当に爆発したらどうする? お前一人で正常な判断下せんのか?」
「きみさっき百%しないって。言ってることめちゃくちゃだぞ!」
お前に言われたくないよ。
こんなくだらないことで真剣に悩み言い合っているのがあんまりおかしくて、馬鹿らしくて、気を抜くと笑い転げてしまいそうで、アッシュはぐっと眉間に力を入れた。
「お願い、オニイチャン。俺はお前のくしゃみが爆発してもしなくても、お荷物とは思わないよ」
もっと言葉にしていれば良かったかな、と少し思う。
英二は自分にできることなど何もなくて、アッシュの傍にただいることしかできないと度々思っているようだけど、それだけでいいのに。ただ、傍にいるだけで。それでどれだけアッシュの救いになっているか、きっとまだ分かってやしないのだ、この日本人は。
水分量の多い大きな黒目を見つめ、こよりを顔に近づける。「や、やだ」思い切り顔を背けられた。
「絶対に爆発しねえから。ほんとさ。俺を信じてよ」
「も、もし、したら
……
?」
「さっき言ったろ。お前を連れて逃げる」
「変だよ」
ああ変だ。くしゃみでビルを爆破させたかもと心配するお前も、それに付き合う俺も、そんなことは絶対にないがもし英二がくしゃみで何かを爆発させる体質なら、自分はあらゆる機関から英二を守り逃亡するだろうとわりと本気で思っていることも。変じゃないことは一つもないよ。
力でも口でも対抗できないと悟り、かつ何をどう言ってもアッシュが引かないと察した英二は、顔を最大限横に向けた。首筋が強張っている。よっぽどだった。よっぽど泣きそうな声で、「あ、あんまり、奥に入れないで。怖いから」とか細く言った。
「分かった」
頷き、頭の片隅で英二お前もうちょっと言い方考えろよと複雑怪奇な思考が渦を巻いたが、気づかなかった振りをし、こちらを決して向こうとしない顔の小さな鼻にこよりを忍び込ませた。
びく、と下敷きにしている薄い腹が引きつった。
「む、むり」
「無理じゃない」
「やだっ」
「やだじゃねえ」
「動かさないで」
「まだ入れただけだろ」
怖がっている英二が落ち着くまで待てばまた埒の明かない言い合いが再開しそうだったので、なるべく優しい声で「さ、くしゃみ出そうな」語りかけ、こよりを鼻の中でちょいちょいと動かす。「う、」英二は唇を噛み締め、それでも顔を横向いたまま反対に背けたりしない様はいっそ健気だった。くしゃみが爆発しないというのを必死に信じようとしているのだろう。しないよ。もとから疑うなよ。疑わせるほど精神を不定にさせたのはアッシュのせいかもしれないけれども。それでもだ。
「ひ、」
「出そう?」
「ん」
「歯ァ食い縛んのやめろ。我慢すんなって」
「だってっ」
「大丈夫。出たってこの部屋のもんは何も爆発しないし、俺も粉々になんかならない。な?」
今にも雫が零れ落ちそうな横目で睨んでくる。強情だ。アッシュは意地悪のつもりはないが結果的に意地悪行為になってしまうことを、せめて口にはしてやるかと宣言した。
「今から奥入れるけど、逃げようとすんなよ。拍子でお前が俺に向かってくしゃみしたら、俺は爆発四散するかもしれないからな」
これ以上ないほど下の身体が強張った。矛盾に塗れたことを言っている自覚はあったが、言われている自覚は恐らくなかったのだろう。アッシュを爆破させてはならないという強固たる意志と恐怖がありありと見て取れた。こいつ大丈夫かな、もう明日(厳密に言えば今日の朝)からは暫くこいつの傍にいて、話をして、二度とおかしな発想に至らないよう安心させてやろう。できるかどうかはさておき、しなければならない。アッシュは心に固く誓う。
返事がないのを了承と捉えて、こよりを奥に入れる。ぴく、と瞼と頬が痙攣した。人の鼻の中にティッシュを入れたことなどないが、まあ怪我するもんではないしいいだろうと、適当に動かす。ぐ、と喉が上下するのを見て、あと少しかなと当たりをつけた。「っ、」英二の唇が戦慄き、歪んだ目尻の涙が表面張力から解き放たれ一滴流れた。
「あ、っしゅ」
「ん?」
「でそう、」
「OK」
「何もOKじゃな、あ、ふぇ、は
――
」
こよりを奥から手前に引いた直後、英二の身体に力がこもり、そして。
「
――
っぐしゅん!」
それはなんとか押さえ込もうとしたのが分かる控えめな、けれど正真正銘のくしゃみだった。
アッシュはこよりをポイと手放し、英二がくしゃみした方向
――
ソファと壁
――
に目をやった。突如燃え上がるとか、音立てて爆発するとか、そんなことは起こっていなかった。
しん、と静まり返る。
自分の下で動こうとしない気配の英二を見下ろし、その横顔はくしゃみした向きのままそちらを凝視していて、「
……
英二」名前を呼ぶと呆然と見返された。
「
……
アッシュ」
「なんだ」
「爆発、してない?」
「してない」
「僕、」
「偶然だった。お前がくしゃみしたら、たまたまビルが爆発した。それだけのことだ。お前は何も悪くないよ。いつだってそうさ」
「そ
……
」
そうかな、と呟かれ、そうだよ、と首肯してやると、英二はそれまでガチガチに固まっていた身体の力を抜き、安堵の深い溜め息を漏らした。凝り固まりわけも分からず定着していた不安が、徐々に剥がれていく瞬間だった。
掴んでいた手首を放し、アッシュも小さく息を吐く。
英二のくしゃみは爆発しない。
分かりきっていることに何故疑いを持ち、ここまで人の心情を動かせるのだろう。本当に。こんな。おかしいだろう。まさか自分がこんなことでこんなに怒ったり申し訳なくなったり楽しくなったり真剣になったり、安心したりさせられるなんて。
「はー
……
」
アッシュは一枚ティッシュを取り、英二の鼻に押しつけると、彼の上に倒れ込んだ。
「わっ、なに」
「鼻水出てるぜ、オニイチャン」
「うわごめん」
「俺は寝る」
「えっ」
「お前も寝ろ」
「このままでっ?」
返事の代わりに肩口に頭を押しつけ目を閉じた。
この距離なら、お前が悪夢を見てても気づけるし、お前が目覚めた時に俺も目覚めるよ。たぶん。あんまり保証はできないけど。それに、くしゃみで一緒に爆発できそうだろ。
未だ困惑しているらしい英二に、Bless youと声をかけようとしたが、なんだか非常に疲れていたせいで口から出たものは全然違う言葉だった。
「英二、お前のさ、」
「うん?」
「お前が俺を呼ぶ時、たまにくしゃみに聞こえる」
「は?」
「アチューって」
「ああ
……
」
「でもさっきのお前のくしゃみは、違ったな」
「
……
くしゃみにもお国柄が出るんだね」
「英二」
「なんだい」
「お前のくしゃみで爆発するなら、俺の名前呼ぶたびに爆発してたと思うぜ」
「え? そういう、そういう話になるのかな?」
「なる」
「そ、そうなんだ
……
」
そうだよ。
そんな気がする。
何が爆発してたかは分からないけど、たぶん、心象的なことを考えたら。
はーあ。アッシュは最後にまた溜め息を吐いておいた。とりあえず眠ろう。今眠ればお互いくだらない夢を見て起きたら大爆笑できる予感がするんだ。
英二が圧し掛かられた腕を駆使して鼻をかんでいる。
ずびずび言わせている音はまぬけが過ぎて、そして嘘みたいに安眠できそうだった。
爆発したというビルは決して英二のくしゃみのせいではないが、くしゃみなんかせずとも、いつだって英二はアッシュの何かを爆発させている。優しくて、穏やかで、明るくて、平和に満ちた、爆発。
「おやすみ、英二」
「
……
えと、おやすみ、アッシュ」躊躇いがちに背中にもう冷たくはない手が置かれた。
……
ほら。
くしゃみ爆破だ。
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