痛ましくも彼は心より歓喜していた

※pixiv再掲
こどもの頃の捏造妄想。
小さな弟には大きな兄がいつでも輝いて見える。

 どん、と手のひらで胸を押されて、蹌踉めいたトーマは尻もちをつく。振るわれた暴力に抗議の意を込めて顔を起こすが、強く睨む様に見下ろされて、反射的に竦んだ目の奥が熱くなって胸の奥がつんと痛んだ。
 泥や土で汚れた子供の躯は溢れそうな感情を抑え込むには小さすぎた。苦しさや悔しさは喉奥でぐるぐると回ってはいるが、明確に言語化が出来ない。憤慨、悲哀、痛苦、様々な感情は形にならない代わりに、トーマのちいさな手のひらに足元の雑草をただ強く掴ませた。
 言い返さなければ。やり返さなければ。浮かんだ本能的な応報の意志に、然し幼いトーマは従って良いものかを躊躇った。己には正当にそれをする権利ぐらいある筈だと思考するのと同時に、それは子供の癇癪ほどにみっともない行為なのではないかと思う感情もある。
 どちらが正しい事なのか、正しい事を選ばなければならないのか。まだ子供のトーマにそれは酷く持て余すばかりの分別の良さだったと言えよう。
 「何をしているんだ?」
 だから、そこに割って入った声はトーマには救いの神か何かの様に思えた。
 「にいさん!」
 「!」
 片や草むらに尻もちをついて、片やその前にふんぞり返る様にして向かい合っている二人の子供たちは、丁度その中間辺りで足を止めた年上の子供を見上げた。それは、学校帰りなのか教科書を束ねたブックベルトを片手で担ぐ様にして持った、トーマの兄のカールであった。
 思わぬ援軍を得たトーマは慌てて草むらから立ち上がった。手のひらに固く握りしめられ千切れた葉っぱがはらりと落ちる。もう一方の子供は己の不利な状況を感じでもしたのか、トーマを突き飛ばした時の強気な顔はどこへやら、おろおろと視線を不安げに彷徨わせている。
 カールは己の半分の年齢にも満たない子供二人をゆっくりと見比べると、得心のいった様な溜息を吐いた。弟である筈のトーマの身を案じたり、そちらに寄る様な真似はせずに口を開く。
 「見たところ、喧嘩の様だが。経緯の説明は出来るかな」
 カールの問いに二人の子供はほぼ同時に声を上げた。
 「ぼくが!そこの川でめずらしい石をみつけたんです!そしたら、」
 「ちょっとみせてくれって言っただけだろ!」
 「図鑑とくらべてからって言ったんだ!なのに、」
 ……つまりはこう言う事だ。友達と二人で小川の近くで遊んでいたら、トーマが綺麗な珍しい石を見つけた。友達はそれを見せてくれとせがみ、トーマも意地悪をする気はなかったからそれを突っぱねるつもりなどなく、ただまずは家にある図鑑でその鉱物の正体が何であるのかを知りたいと思ったのだ。
 友達はトーマよりはやんちゃで活発な性質で、実に子供らしい価値観の持ち主だった。だから、彼に今その石を渡して仕舞うと、もう図鑑で調べることは叶わなくなって仕舞うと、そう思った。
 だから、少し強い調子で、図鑑と照らし合わせるのが先だと主張した。すると友達は、トーマに(彼にとっては意地悪に)断られるとは思わずに憤慨した。
 すると、子供たちの他愛もない言い合いに心でも痛めたのか、神様は争いの元を取り上げたと言う訳だ。
 奪い合う二人の手の間から抜けた石は小川の流れにちゃぽんと落ちて、もう見つかる事は無かったのである。
 細かな経緯はともかく、二人の子供の主張を交互に聞いたカールは「どっちもどっちだな」とあっさりと結論付けた。
 トーマは兄が弟の全面的な味方をしてくれる訳ではないのだと悟って理不尽に悲しくなり、友達は年上の闖入者がトーマと一緒になって己を責める訳ではないと悟って再び勢いづいた。
 「で?どちらが先に手を出したんだ」
 兄の次の問いは、己が現場を見咎めた原因である、二人が泥だらけである事とトーマが座り込んでいた事とに向けられた。
 「トーマが先にぼくを叩いたんだ!」
 たかが石ころ如きで。そう声を張り上げる友達を信じられない様な心地で見て、トーマは必死でかぶりを振った。
 「ちがう!嘘つき!ぼくが先に掴まれて突き飛ばされたんです!」
 襟元を掴まれ、抵抗したから突き飛ばされたのだと仕草も添えて説明するトーマに、友達は顔を真っ赤にしながら「トーマが先に叩いて来たからしかたなく突き飛ばしたんだ」と抗弁する。
 勢いと、嘘を暴かれる恥ずかしさ。それでも一度出した言葉を引っ込める事も出来ず、後に引けない様に嘘を重ねる友達を、トーマは悔しさとも悲しさとも怒りともつかぬ感情で見て、そして。
 「にいさん、」
 兄を呼んだトーマは子供らの丁度中間辺りの足元を指さした。そこにはトーマが襟元を捕まれた時に飛んだ釦が落ちている。
 「あの釦はぼくの服のものです。釦が泥だらけなのは上から靴で踏まれたからです。もしも釦が取れたのが後だったら、踏まれる筈がありません」
 トーマが胸ぐらを捕まれ、釦が飛んだ。落ちた釦はその直後に友達がトーマを突き飛ばす時に踏まれたものだ。
 友達の証言通りに、トーマが先に彼を叩いていたら。彼がその反撃にトーマを突き飛ばしたのだとしたら。釦が飛んで踏まれると言う不自然な状況は起こり難い。
 無論それは単なる状況証拠に過ぎない。友達ももっと冷静であったらきっと幾らでも反論の叶う様な事だ。
 淡々と突きつけられた指摘に、友達は、「うそつき」と効力のない様な言葉を投げて、冷静に道理を並べたトーマを、歯を食いしばって見ていた。それは湧き起こる憤りの感情で泣きそうになるのを必死で堪えている様だった。
 それを見ているトーマの方がなんだか悲しくなって来た。「ちがうもん」と反論しながら袖口で目許を乱暴に拭って、その場凌ぎの嘘を重ねようとする──子供としては恐らくごく自然とも言える──友達を、己の今裁いて仕舞ったかも知れないものをじっと見つめる。
 「解った。喧嘩の内容はともかく、どちらにも非がある。君はトーマの言い分を聞かなかったし、トーマは説明が足りなかった。そしてその原因になった石は生憎もう無くなって仕舞った。これ以上喧嘩を続けても無意味だと言うのは解るな?」
 腰に手を当てたカールが二人の子供を交互に見ながらそう言い、それから、まだ収まりがつかない様に拳を握りしめる友達の方へと向いた。
 「二人共に非があって二人共に悪気が無いのなら、二人共に謝るのが良い。ただ、先に手を出した方が先に謝るべきだ。その意味は解るかな?」
 「………
 カールはトーマの説明を理由としては採用したが、それを重ねずただ促す事で、己はどちらの側にも立っていないと示した。その上で、身内である弟にも謝らせると先に宣言する事で、トーマの言い分も友達の体裁も保ったのだ。
 子供の反論を封じつつ、嘘は通じないと暗に釘を刺された事で、友達は気まずそうに視線を彷徨わせたものの、年上に諭されていると言う状況もあってか、存外に素直に諦めた。
 「ごめん」
 「ううん。ぼくこそ。言葉がたりなかった」
 消え入りそうな声で言って俯く友達に罪悪感の様なものを憶えて、トーマはかぶりを振った。「ごめんなさい」と口にすれば、彼に対して感じていた、落胆の様な種々の感情がほどけて行くのを感じる。
 友達のことを嫌いになりたくないのに、嫌いだと思えて仕舞うのが苦しかったのだろうとそこで曖昧な理解を得た気がした。
 また明日、と友達が走り去って行く。友達を嫌いにならなくて、友達に嫌いになられなくて良かったと思って、トーマは『明日』のある事に安堵する。
 だが、この結果は己だけでは到底得られなかったものだとも思う。きっと普通は、あんな風に証拠を突きつけて逃げ場を奪って責めるのは良くないのだ。大人ならばそれで良いのかも知れないが、道理や決まり事よりも感情を優先する子供には、ある程度の妥協や譲歩はきっと必要だ。理解を促す為にも必要な事である筈だ。
 兄はトーマと友達と、どちらにも明確にはつかない第三者の視点で判じて呉れた。その上で、トーマが正しいとも断じない事で、友達にも謝ると言う行為を、それをしない事への罪悪感を促したのだ。
 理解と同時に不意に力が抜ける。じわ、と目の奥が熱くなるのに任せて、トーマは涙をこぼしながらしゃくり上げた。兄はトーマの事を解ってくれた上で、良い結果になるように振る舞って呉れたのだ。
 「にいさぁん、」
 安堵と感謝とでいっぱいになった胸が泣きたいと訴えるのに任せて洟をすすった所で。
 「トーマ」
 優しく名を呼ばれたかと思えば、ごちん、と音を立てて頭上から降って来た拳骨に因ってトーマはその場に蹲らされた。
 「っっっ、、、、?!???」
 先頃までとは明らかに趣の違う──強いて言えば物理的な痛みと衝撃とに涙ぐんだトーマがカールの顔を振り仰げば、拳を固めた侭の兄の溜息に出会う。
 「なんで、」
 弟とその友達との仲を取り持って呉れたと思えば、突然の理不尽な暴力。思考がついていかずおろおろと兄を見上げるばかりのトーマに、カールは眉を寄せてぴしゃりと言い放った。
 「シュバルツ家の男子ともあろう者が人前で泣くんじゃない」
 「そこなんですか?!」
 拳骨は文字通りに骨での痛打だ。痛む頭を擦るトーマにカールはあっさりと「他に何があるんだ」ときっぱりと言い放った。
 「うぅ
 痛くはあったが驚いて涙も引っ込んだ。カールがそっと差し出して来るハンカチを受け取って目許を拭っていると、トーマの前に兄がしゃがみ込んだ。目線を合わせる高さだ。
 「もし、釦が取れていなかったらお前はどうしていた?」
 「……次の証拠をさがしていたと思います。足跡とか、服の汚れ方とか」
 「……………だろうな」
 肯定でも否定でもないニュアンスを寄越すカールに、「だめだったでしょうか」と悄然とこぼす。トーマとてそれが余り子供らしくないやり方なのだとは何となくだが解っているのだ。
 「我を通しすぎると言うのも考えものだし、何より作戦とは相手に合わせて変えるものなんだ。お前は賢い子だから、それを通すばかりではなく、汲んでやる事も憶えないとな」
 褒められてはいない、と正直に兄の言葉を受け取って、トーマはこくりと頷いた。きっと余りよく解ってはいないからもやもやとするのだとは思ったのだが、それを形にする術は見つかりそうもない。
 (でも、)
 一つだけ解る、子供のトーマでもきっとこれは正しい意見だと思った事があって、それだけは口にしておく事にした。
 「それは、にいさんにだけは言われたくないです
 ぽつりと吐かれた言葉が己の耳に入ったところで、トーマは失言を悟った。それこそこれは、思っていても言ってはいけない類の──相手に合わせて出す事を選ばなければならないものだったに違いないと気付くが、時すでに遅し。
 「トーマ」
 目線を合わせて頬杖をついた兄が、一見して優しげなその笑みを深めるのを見て、トーマは今度こそ本当に泣きたくなった。