時を遮る

※pixiv再掲
時系列特になし。
兄弟にしては距離が近い兄弟。

 「シュバルツ中尉」
 集中しきっていた意識の外から突然かけられた声に、キーボードを叩いていた手が驚いて跳ねた。打ち込んでいたプログラムのコードが乱れて、リアルタイム処理の失敗を示すエラー表示を吐き出すが、構わずにトーマは膝の上に置いていたノートPCの蓋を勢いよく閉じた。
 これが誰か他の者であったら、邪魔をするなと憤って怒鳴っていた所だっただろう。だが、聞こえたそのひとの声はトーマの意識に他の何よりも明瞭に届く様に出来ている。筋反射の如くに、理解より先に肉体の方が勝手に反応する様になっている。
 「兄さん?!」
 振り仰いだ視線の先に居た、違えず反応した通りのひとの姿に、トーマは閉じたノートPCを傍らに置きながら立ち上がった。見慣れたいつもと同じ様に軍服を一分の隙無く纏った兄は背筋を伸ばして立った弟に、畏まらないでいい、と言う様な仕草を寄越すが、それが遅かった事に直ぐに気付いたらしい。
 「邪魔をしたのならすまない」
 「いえ!邪魔などと言う事は
 制帽の鍔の作る翳りの下、色の薄い翠の瞳が珍しくも申し訳なさそうに僅かに游いだ事には気付いて、トーマはぶんぶんとかぶりを振った。
 確かに、ビークのシステム改良と言う真剣な作業の途中ではあったが、そんなものならば幾らでも取り戻しが効く。兄が表情を曇らせる程のものではない。
 その説明をちゃんとした方が良いだろうか、と考え始めたトーマを、兄が首を僅か擡げて見上げる。
 「シュバルツ中尉」
 おや、と。トーマがそこに兄の常ならざる微細な変化を明確に見て取るより先に、もう一度呼ばれる。いつもの、咎める様な窘める様な質とは違うが、僅かに重たい吐息の乗った声。
 そう言えば、兄さん、と呼んで仕舞ったにも関わらずお咎めの言葉が返って来なかった、と不意にそんな事に気付いたトーマに兄は、いっそ事務的なのを通り越した固く重たい声音で続けて寄越した。
 「手が空いているのならば、少々頼まれて欲しい事がある。私の部屋へ来てくれないか」
 「は、」
 はい、とも、はい?ともつかぬ声を思わず上げるトーマからついと頭ごと視線を逸らして、兄は背を向けるとその侭歩き出して仕舞う。トーマが絶対について来ると確信しているのか、それともついて来なければそれはそれで良いと思っているのか。
 こつこつと硬い軍靴の音を引き連れた兄の背と、ケーブル類をぶら下げていて持ち運べないノートPCとを瞬時に見比べたトーマであったが、いつでも出来る作業と兄の滅多に聞かぬ様な『頼み』など元より比べる迄も無かった。足を止める気配もない兄を、小走りで追いかける。
 
 *
 
 直ぐ後ろをついて歩いていたトーマに、兄は鍵を開けた扉を示して室内へ入る事を促して寄越した。
 「お邪魔します」
 何か罠でもあるのか、と思った訳ではないが、なんとなく慎重にトーマは室内へと足を踏み入れた。きょろ、と不躾ではない程度に視線を巡らせる。
 私の部屋、と兄は言ったが、要するに駐留中の基地内の一室だ。寝具や机椅子などは一応は将官用の設えになってはいるが、間取りや設備はトーマの様な、特に籍を置く基地を持たずに各地を飛び回る特務兵が借り受け滞在する部屋と何ら変わりは無さそうだった。
 机の上には積み上がったファイルや書類の山。余り使われた形跡の無さそうな寝具。座り心地の余り宜しく無さそうなソファ──と言うには余りに簡素な長椅子。
 それらをぐるりと見回していると、背中にぼすりと何かが当たった。慌てて肩越しに顔を巡らせてみれば、丁度トーマの肩に当たった兄の制帽が床に落ちるのが目に入る。
 「にいさ、」
 どうやら扉を閉めるなりトーマの背に倒れる様に寄りかかって来たらしい兄の体を、振り向いて慌てて支えれば、無言で長椅子を指さされる。
 「……
 連れて行ってくれ、と言う事か。余りにらしくない兄の行動と態度とに少々困惑しつつも、トーマは己に寄りかかって今にも倒れ込んで来そうなその身を何とか支え直すと、少しずつ後ずさって引き擦る様にしながら、長椅子の前へと移動した。
 膝から崩れる様にして座面に腰を下ろす兄に引っ張られる様にして自らも椅子の端に腰を下ろせば、トーマの膝上にばたりと兄の頭が今度こそ糸の切れた人形の様にして倒れ込んで来る。
 「………あの。お疲れなのは察しましたが、それなら寝台で休まれた方が宜しいのでは」
 「……本格的に、寝入りそうだから駄目だ。一時間いや、三十分で良いんだ
 不明瞭な声音で辿々しくそう紡ぐなり、すう、と息遣いが寝息へと変わった。正直、膝上にノートPCどころではない重量が乗っているのは苦しかったが、トーマは早々に諦めて現状を受け入れる事にした。最低三十分は宣言した通りに動かないのだろうと、長期戦に備えて力を抜く。
 制帽の翳りの取り払われた兄の目許には隈が濃く、頬のラインも少しシャープになっている気がする。成程、声や動作に隠しきれない倦怠が滲んでいたのも、いつものお咎めが無かった事も頷ける。どうやら兄は現在疲労困憊の真っ最中らしい。
 (成程つまり、兄さんの『頼み』と言うのは安眠の理由と、維持と言う事か)
 休める状態であれば気兼ねなく休憩時間を取る筈だ。だが、机の上の惨状やこの様子を見るだに、第一装甲師団は易々そうは行かない様な状況に置かれているのだろう。
 一人で部屋に居れば仕事をしているのだと見做されるだろうし、部下が訪ねて来るかも知れないから気も抜けない。だが、『弟』と私的に会っていると言う事になっていればそんな心配もない。万一誰かが扉をノックしても、トーマがなんだかんだと理由をつけてそれを追い返せば良い。
 ぽん、と頭の中で両手を打って、トーマは得心と同時に肩をそっと落とした。体よく言い訳に使われた様な形で頼られると言うのは素直に喜び難い。
 のだが。見下ろした兄の、弟しか居なくなって漸く気を抜く事の出来たのだろう、いつになく疲れた顔を見て仕舞えば、抗議の言葉など出て来よう筈もなかった。
 
 帝都の防衛ではなく帝国各地の治安維持と言う役割を主に担う第一装甲師団のスケジュールは、その行動の全てが特命を帯びる事も多い軍務である為に部外秘である。
 その師団長を兄に持つトーマとて、己の滞在していた基地に突然その兄の率いる部隊が訪れると言う事は予測不可能であり、また如何なる任務を負っているのかと言う情報も、特段の理由でもない限りは一兵士である身には開示される筈もない。
 つまりは兄弟が同じ基地に、目的は異なれど滞在している事は全くの偶然であった。
 ガーディアンフォースの任務の合間の待機中だったトーマは、第一装甲師団の訪れる幾日か前からこの基地に留まっていた。そして兄の到着と滞在とを知るなり勢い込んで挨拶にこそ向かったのだが、忙しく立ち働く兄とは簡単な再会の言葉程度しか交わす事も叶わず、その後は特に顔を合わせる事も無い侭今日に至る。
 解ってはいる事だが、現場に赴きながら事務も部隊指揮も行わねばならない兄の身はいつだって非常に忙しい。それだけ兄が国に、皇帝陛下に信を置かれていると言う事でもあるのだが、家族として、弟としては少々の寂しさも憶える。戦争は終わったと言うのに、戦時下のそれより兄の働きぶりは間違いなく多忙を極めていた。
 一方でトーマはと言えば、待機中にディバイソンのメンテナンスを大掛かりに行って貰い、久々にビークのシステム周りを少し見直そうか、と思いつくぐらいには暇であった。
 ガーディアンフォースは、ひとたび任務さえ与えられればその性質や期間や距離を問わずに帝国、共和国と走らねばならない程に忙しく立ち働く羽目になるのだが、任務が無い時はぽかりと空いた空白期間の如くに時間を持て余す事も珍しくない。
 無論その間もゾイドの整備や自己鍛錬は行う様にしているが、基本的には自由行動だから、思いつく侭思いついた時に好きな事が出来るだけのゆとりがある。
 指折り数える迄もなく、兄より気楽で気軽な身であり立ち位置である。そして疲れ切った兄が弟を、どんな形であれ『頼ろう』として呉れたと思えば、嬉しい様な申し訳がない様な心地にもなろうものだ。
 すぅーと、深い眠りに落ちている兄の寝息が耳に届いて、トーマは少しでも兄の眠りが穏やかであれば良いと、ともすれば痺れを訴えて来そうになる足に力を込めて気合を入れ直した。
 
 *
 
 控えめな電子音が耳元で鳴り、トーマはじっと見下ろしていた兄の顔から慌てて視線を持ち上げた。壁に掛けられた時計は正確に、兄が眠ってから長針が一周した事を示している。
 ビークに念の為にと、一時間後に小音量でアラームを、と頼んだのは、何か区切りがなければ「あと五分、いや十分」とずるずると兄の休息時間を引き伸ばして仕舞いそうな気がしたからである。
 己の想像に違えのなかった事を認めつつ、トーマは膝上に後頭部を乗せて眠っている兄の肩を遠慮がちに揺すった。
 「兄さん、丁度一時間です」
 「……ああ」
 果たして兄は寝惚けた風でもなく、ぱちりと目蓋を開くと二度、三度と瞬きをした。髪と同じ色の扇形の睫毛が眠気の残滓を振り切る様にゆっくりと上下し、それからトーマの顔を見上げた時には常の鋭い色をそこに取り戻している。
 「すまなかったな」
 そう言って来る目許にまだ疲労の色は濃い。それでも一時間前に比べれば大分ましであると、本人はそう言うのだろうが。
 「何のことです?」
 トーマが態とそう空惚けてみれば、兄は鼻を小さく鳴らして笑った。片方の手が伸び上がって来たかと思えば、髪を少し乱暴に掴まれる。
 「生意気だな。俺が休むのにお前をだしにしてすまなかった、と、正しく謝罪を要求するとは」
 細められる眼差しを前に、トーマは「いたた」と、己の頭髪を鷲掴みにする兄の手を掴んで制止した。途端にむっと顰められる顔に向けて、余裕の体を作る様に笑いかけながら言う。
 「違いますよ。こんな事苦でも無いと言うだけです」
 「成程?今度はそう殊勝に振る舞う事で俺の罪悪感を刺激するか」
 に、と兄の口端が持ち上がるのを見て、トーマは困り顔を形作って唸った。起き抜けの頭を、弟をからかいながら覚醒させようとするとは、全く自分勝手な兄である。
 「冗談だ」
 「知ってますよ」
 ふふ、と笑った兄の、掴まれてはいない逆の手がトーマの頭を子供にでもする様に撫でてくる。心地は良いが、決して優しいばかりではない手つきに抗議めいた溜息だけを返して、捉えていた手を離せば、兄はあっさりとトーマの頭から手を引いてゆったりとした仕草で上体を起き上がらせた。
 伸びをひとつして、軍服に乱れの一つもない事を確認しながら、兄は床に落ちた侭になっていた制帽を拾い上げた。それを慣れた手つきで被るより先に、トーマは思わず声を上げている。
 「あの、兄さん」
 「何だ?」
 いっときの休息で疲労は幾分晴れた。それでも、兄と呼んでも咎める言葉は未だ返らない。だからトーマはまだ、シュバルツ大佐ではなくトーマの兄のカールで居て呉れているのだと確信した。
 「もう少し休んでいかれたらどうですか?仕事ならば俺も手伝いますので」
 その確信が気を緩ませた。追いすがる様に出た弟の言葉に、然し兄はそっと忍び笑うと制帽を深々と被った。それは何よりも明白な否定の仕草だ。
 ああ、これでもう兄弟の時間は終わりか、と少し落ち込みながら腰を浮かせるトーマの頭を、兄は優しい拳骨でこつりと叩いてくる。
 「本当に今日は生意気だな、シュバルツ中尉」
 緩く弧を描いた唇でそんな事を言い放たれ、とどめとばかりに拳の背がとんとこめかみの辺りに触れて離れていくのでさえ、名残惜しく目で追って仕舞う。
 「……どうしてそう言う解釈になるのですか」
 「お前が私を案じてそう言って呉れているのは解るが、十年は早いからだ。私の助けになれる様にと思うのならば、早く一人前になってまずはこの兄を安心させてくれ。
 何の疑いもなく、休息のだしにほいほいと使われる様ではまだまだと言う事だ」
 頬を膨らませかけていたトーマは、続いた兄の言葉に唖然と口を開いていた。相当間の抜けた表情を晒しているのだろう弟の姿を見上げて可笑しそうに笑うと、兄は「それじゃあな」と、疲れの残る横顔に笑みを僅かに引き連れた侭退室していって仕舞う。
 「~…………っ、、、本当に、自分勝手だな!」
 思わずこぼれたのは悪態でしかない言葉だったが、その場に頭を抱えて蹲ったトーマは、いつもの調子にすっかり戻った兄への安堵にともすれば笑んで仕舞いそうになる口許を必死になって引き締めた。今は未だ、理不尽にも感じる悔しさに抗う術も無い侭に、くそ、と呻く。
 十年などかけてやるものか。絶対に追いついて、頼られる様になってやる。
 騙し討ちの罪悪感など抱かせないぐらいに、頼るのが当たり前になって仕舞えば良いのだ。



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兄さんも、弟をだしにしただけなのに、憤慨もせず「解ってます」な態度を取った弟にちょっと驚いてですね、思わず皮肉や意地悪い言葉を飛ばすと言う傍迷惑な防衛本能が発動して仕舞っただけなんです。
多分廊下に出てから、あいついつの間に大人みたいな口利くようになりやがったんだ生意気な、って動揺してる。