無可有郷

※pixiv再掲
49話途中とか強引に隙間を。
互いにブラコン兄弟。

 朝起きたらまず薬缶を火にかけて、身形を整える。
 やがて薬缶がけたたましく鳴いて湯が沸いたことを知らせて来たら火を止めて、お湯をカラのティーカップに注いでおく。
 食器棚の中に居並ぶ硝子瓶にはサイズも色も香りも異なった茶葉が詰められている。シュバルツの紅茶好きは有名らしく、これらは以前から贈答品などとして受け取っていたものたちだ。今までは余りゆっくりと吟味したり味わったりする暇など無かったから殆どが未開栓の儘だ。
 今日はこれにしようと選んだ瓶を取り出して茶葉の香りを確かめる。少々癖のある花の香りが強いがまあ良い。
 選んだ茶葉を磁気のポットに放り込んで、お湯を注いでからティーストレーナーを用意。紅茶が出るまでの間にパンを中心とした朝食を用意して仕舞う。
 昨日買って来たばかりでまだ柔らかい丸パンに切れ目を入れ、少しトースターで焦がしてバターを挟んだら、その頃には程よく紅茶が出ている。カップを温めていたお湯を捨て、水分を軽く取ったらいよいよストレーナーをカップの縁に乗せて紅茶を注ぐ。
 箇条書きの様に順序立てて行われるそれを、まるで絵に描いたような朝の風景だなと他人事の様に考えながら、いただきますと呟いてシュバルツは紅茶のカップを傾けた。
 穏やかな日差しがカーテンの向こうで揺れ始めるのを見て目を細める。今日もよく晴れそうだ。
 本当に絵に描いたような穏やかで平和な風景だ。少し前までの己であれば想像すらしていなかったし、実家に居た頃でもこんなにのんびりと朝を過ごした事などなかなか無かったのではないか。
 気楽な筈だが居心地は宜しくない。こんな朝の行動を既に一週間ばかり繰り返しているが、どうにもそれ『らしく』演じている様な空々しさが付いて回るのだ。元来己の在る場所は此処ではないのだと突きつけられでもしている様に。
 ……と言う訳で、カール・リヒテン・シュバルツと言う人間にとって、『穏やかで平和』な生活を送るこの現状は何とも言い難い苦痛の伴う日々であった。
 単純に慣れないのもあって、殊更に『普通の生活』をしようとするものだから余計に。普段ない習慣やその為の行動と言うのは目新しさこそあれど、それが己に有効化出来る程に馴染むかと言えばそうでもないものだ。
 結局の所己の分に合った形に取捨されると言う事なのだろう。少なからず、穏やかな日々と言うのは現役の軍人、殊に己にとっては無縁なものなのだと言えた。
 そうなるとこの時間も無意味極まりないのだろうが、生憎とそれを無意味と思える程には他の無意味に囲まれて仕舞っているのである。慣れなかろうが、無聊の慰み程度になるのであれば、絵に描いたような朝の過ごし方も悪くはないと思うしかない。
 食器を片付けていると電話が鳴った。手の水気を軽く切って受話器を取ると、もしもしも抜きに、≪兄さん≫と開口一番に呼ばれた。長くなるなと思って水を止める。
 「トーマか。おはよう」
 ≪お早うございます、兄さん≫
 そこからトーマのつらつらと述べる、挨拶のような近況のようなそれとも世間話のようなはたまた独り言のような或いはただの愚痴のような、長めの回り道を経て行く言葉をシュバルツは最低限の相槌だけを打って黙って聞いていた。普段であれば用向きをとっとと聞き出す所だが、時間の有り余っている今なら、弟の回りくどく横道に逸れ易い言葉の数々も実にのんびりと聞いていられる。
 《それでですね、今日はお時間空いておりますでしょうか?》
 実用的な問いに、漸く本題に辿り着いたかと、シュバルツは壁の時計を斜めに見上げた。針の示すのは、昼食にはまだ早いが、朝と言うには図々しい様な時刻だ。
 「幾らでも空いている。お前の話をこうしてゆっくりと聞いていられる程度には暇だからな」
 《う、ひょっとしてお邪魔でしたか》
 「いいや?邪魔だったらとっくに、本題に入れと尻を蹴り飛ばしている所だと思わないか?」
 《まあ、確かに兄さんならそうするでしょうけど》
 若干口籠るトーマも、兄が暇を持て余して己にからかい調子で絡んでいる事は解ったのか、尻窄まりに言ってから、《実は今帝都の近くまで来ていまして》と切り替えて続けた。弟の言葉に、シュバルツは眉を寄せる。
 「確か今はジェノブレイカー対策のチームとして共和国に赴いていると記憶しているが」
 《そうなのですが、あ、ちゃんと特訓には励んでいますよ!俺より、問題は足並みを揃えようとしないアーバインの方で、》
 「トーマ」
 また逸れそうになった話を遮る様に名を呼べば、トーマは言い足りなかったのかもごもごと言葉にならない声でなおも呻いたものの、咳払いをして大人しく話を戻した。
 《その特訓の調整待ちで、時間が少し空きまして。それで、兄さんにお会いしたくなり
 決して任務を蔑ろにしている訳では、と付け足して強調するトーマに苦笑し、シュバルツは「解った」と返した。どの途帝都の近くまで来ていると言うのだから、断るのは酷だろう。これから向かう、と言うのなら厳しく怒鳴りつけてでも断っていた所だが。
 「と言う事は大した時間も取れていないのだろう?昼食を摂る間ぐらいはあるのか?」
 《その程度なら何とか、ああいえ、兄さんと食事をする事がその程度の些事と言う意味ではありませんので!》
 「わかっているよ。余り時間が取れないのならのんびりランチに出かけると言う訳にも行かないだろう。簡単なもので良ければ作って待っていてやる」
 《……えっ、、、兄さんが、料理、を?》
 トーマの絶句する気配。受話器を持ち替えてシュバルツは椅子を蹴った。立ち上がる。
 「………解らないでもないがなかなか失礼な反応だぞ?」
 《いっ、いえ!解りました、すぐにお伺いします!》
 それでは、と乱暴に受話器の置かれる音がした。その後に続くだろう慌ただしい足音まで聞こえた気がして、シュバルツは目元を緩めながら受話器を置く。
 さて、簡単なものと言ったが、シュバルツには自炊経験などほぼない。野戦訓練の時も糧食を温めたり煮た事ぐらいしかなかった。
 少し昔の話にはなるが、陸軍の寮は通常では食堂を利用するが、自炊可能な設備もあったので幾度か真似事として挑んでみたりした事はあった。同期に料理人の息子が居たので、仲間内では彼の作る夜食に何かと世話になったものだった。
 そんな経緯を経て、現状の暇な時間である。折角だからとシュバルツがほぼ真っ先に取り組んでみたのが料理であった。時間を潰せて、それなり見て解る成果が得られ、ほぼ無駄にならないと言うのが丁度良かったのだ。
 とは言え数日程度で素人が一流シェフになれる筈もない。今のところは失敗する事も珍しくないのだが、トーマに余り時間がない以上は変な冒険はするべきではないだろう。失敗の少なく経験済のレシピを選ぶ方が良い。
 「パスタと、肉っ気が欲しいな。訓練続きならば高カロリーな方が良いか」
 冷蔵庫の前に膝をついてイメージを固めると、よしと膝を打ってシュバルツは立ち上がった。
 まずは近くの市場まで軽く買い物に出かけるとしよう。
 そのぐらいしか出来る事は無い。理解が苦痛である事の忘れ難さに、無理矢理にそう思った。
 
 *

 トーマが到着したのはそれから小一時間ほどが経過した頃だった。時間帯で言えば丁度ランチタイムに差し掛かる頃合いだ。
 チーズとホワイトソースを乗せてオーブンで焼き上げたミートパスタの横に唐揚げを盛った皿を置く。こちらは流石に時間がないので近くのデリで買って来たものだ。そこに更に野菜を切っただけのサラダのボウルを添える。
 テーブルにどんと置かれたそれらのメニューに、トーマは驚きとも喜びとも不安ともつかない何とも言えない表情を浮かべている。きっと、問題は味だとか考えているに違いない。
 「ええと、全部兄さんが?」
 「唐揚げ以外は。冷めない内にどうぞ?」
 水をグラスに注ぎながら言って、自分もトーマの向かいに腰を下ろす。微妙な表情のトーマは行儀の良い仕草で「いただきます」と言うと、まだ熱いパスタグラタンをフォークとスプーンとを使って取って、火傷に気をつけながら口へと運んだ。
 「……………美味しいです』
 もくもくと咀嚼していた目が瞠られ、喉が動くのとほぼ同時にどこか呆然と言われて、失礼なやつだなと返そうとしたシュバルツだったがそれは飲み込んで、「なら良かった」と切り替えて微笑んだ。
 共和国を発ってこの時間に帝都まで辿り着いていると言う事は、足がディバイソンか他のゾイドかは判らないが、早朝に出ないと間に合わない筈だ。道中や移動中に少しは胃に物を入れられたのか、それとも殆ど入れて無かったのか、トーマは結構な勢いで食事を進めて行き、食の太い方ではない彼にしては珍しくもあっと言う間に皿を片付けて仕舞った。
 「美味しかったです。ご馳走様でした。それにしても、兄さんが作ったご飯を食べる日が来るなんて、想像もしていませんでしたよと言うか、失礼ながら料理が出来ると言う事も知りませんでした」
 「それはそれは。何しろ時間だけは余る程にあるからな。口に合ってくれたなら何よりだ」
 さらりと出た言葉に、穏やかな笑みに、然しトーマは露骨に顔を顰めた。成程やはりそれが本題と言うか目的かと確信したシュバルツは、食器を片付ける手を一旦止めると、食器棚から茶葉の瓶を取り出した。心が落ち着くと言う触れ込みのフレーバーを選んで蓋を開ける。
 「……ジェノブレイカーは、レイヴンは、一種の災害の様なものです。ただでさえ規格外のゾイドがオーガノイドまで得ているんです、一朝一夕でどうにか出来るものではないでしょう。共和国軍だって、帝国軍だって、それは同じです」
 「………
 「そんなものを徒手空拳で相手にしなければならなかったんです。レイヴンと言うパイロットを得る前に全力で対処をすべきと、総力を投入する方針を下した兄さんが悪い訳では無いです、絶対に!」
 強い語調で吐き出す様に、それでもまだ何かを堪える様に、握り締めたトーマの拳が震えていた。シュバルツは憤慨そのものと言った表情を形作る弟に真逆の笑みで相対した。
 弟は己と同じ軍人だ。だが、同じ存在ではない。共通したものを抱いていたとして、経験の共有は出来ない。理解を近付けるべく歳月を埋めるに足りるものがここにはないから、尽くすべきは言葉しかない。それがどんなに空々しくとも、それしか出来ない。
 「お前の気遣いは有り難く思う。だが、多くの死傷者を出し、第一装甲師団の部下も多く喪わせて仕舞った。それは紛れもなく俺の過失であり責任を負うべき事だ。憶えておくと良い、トーマ。軍人は責任から逃げてはいけない。絶対に」
 瓶の中に満たされた茶葉を匙で掬ってポットに放り込む。薬缶を火にかけてティーストレーナーを用意する。
 幾らシュバルツが紅茶好きとは言え、普段からこんな手間のかかる事をしている訳ではない。職務に就いている時にはティーバッグを使って簡単に淹れたり、売り物を買って飲むことが殆どだ。
 そんな風に振る舞いでもしないと潰せない程に、ここにぽかりと生じた空隙は余りに大きく長かった。
 戦争犯罪人──或いは犠牲者──として指名手配の掛けられていたレイヴンの捕縛と同時に、エヴォリューション・コクーンと呼ばれる未知なる物体の対策は始まった。嘗て同様の現象に自らが遭遇したと言うバン・フライハイトの証言、ドクター・ディの寄越した数少ない記録などから、それの核となっているのだろうオーガノイド・シャドーとジェノザウラーが、世界に脅威をもたらす様な怪物を生み出す事は明白だった。
 そしてそれがレイヴンの為のゾイドとなる事も。
 バンは猶予は余り無いだろうと進言した。その意に疑うべき余地などないと見出したシュバルツは直ぐ様に帝国軍上層部を飛ばしてルドルフ皇帝に上申し、ルドルフもバンやシュバルツの意見を信頼し尊重してくれた。
 正しく鶴の一声であった。ルドルフは直ぐ様に共和国大統領ルイーズに連絡を取り、終戦直後から締結していた協約に基き、両国が互いの危機を回避すべく軍事協力をする事で合意。
 そうしてコクーン付近の要塞には両国から速やかに戦力が投入され、共に一つの脅威対象に向け銃爪を引くに至ったのだ。
 まず第一段階。コクーンに総攻撃。破壊が不可能と判断されれば、速やかに第二段階へと移行。
 第二段階。『羽化』したコクーンの『中身』へと総攻撃。初撃で仕留めきれずとも、要塞付近に展開しておいた予備部隊を投入し、ゾイド部隊の総力戦で『中身』を撃破せしめる。
 バンはコクーンの中身をジェノザウラーであると確信していた。ジェノザウラーの脅威については、戦時中に主に共和国側の方が散々に思い知っている。それもあってだろう、共和国軍の兵士たちの中には、レイヴンに対して明らかな私怨を抱いている者も少なくはない様だった。
 故に、誰もが壮観な程に揃えられたゾイドの群れを見ても気など抜かなかった。これだけの戦力で相対しても繭に傷ひとつすら付ける事が叶わず、勝算など全く見えなかったのだから、誰もが決死の覚悟を以てそこに立っていた筈だった。
 ──赤い、颶風だった。
 再誕したジェノブレイカーは、親を求める子の様に、或いは子を求める親の様にか、自らを攻撃した者たちを無視してレイヴンの元へと飛んだ。その有り様だけをすれば余りに無垢な行動であったと言えたやも知れない。
 だが、その産声は全てを余りに容易く薙ぎ払った。
 予備部隊の半数以上が全滅。壊滅した部隊に生存者は無かった。
 現場に居合わせた者たちは誰もが国家の無力を痛感した。既存のゾイド戦力では、自分たちの力では、あれを止める事など出来やしないとまざまざと目撃し理解して仕舞ったのだ。
 然し現場が如何にそうであったとして、論理的な死などと言うものは生憎と存在していないものだ。現場に居合わせなかった者ら、主に御大層な面子を潰された形となった帝国軍の上層部はこぞって作戦の発案者であり、責任者も兼任したシュバルツに責を求めた。
 幸いか、皇帝勅命の国家間協約の遂行と言う事もあって軍法会議にかけられる事にも、処分を受ける事にもならなかったが、その代わり言い渡されたのが、控えめな謹慎の要請であった。シュバルツにそれを伝えたのは知人でもある同僚だったのだが、どうやらその要請は他ならぬ皇帝陛下からの勧めだったらしい。上層部の中には未だシュバルツに何らかの処分を──合法であれ違法であれ──下したい連中が居るから、と。
 そんな連中に何かをする度に足を引っ張られたり、ありもしない『不祥事』をでっち上げられるのも面白くはない話だ。
 そうしてシュバルツは自主的に『謹慎処分』を自らに課す事となり、長い空白の時間を持て余す事にしたのだった。
 実際あの様子では軍本部の執務室に座っていた所で、何もさせて貰えないだろう。とは言えシュバルツが『謹慎』している間に幾らか政治的な介入や動きも生じるやも知れない。復帰したら一度洗い直す必要があるだろうが。
 「……それは、解っていますが、それでも納得がいきません。兄さんの手は紅茶を淹れたり美味しい料理を作る為にあるのではないでしょう?!」
 トーマは、法に則ればシュバルツは責任を負うべき状況には無かった事を知っているし、仮に責任が明確に絡む事態であったとして、災害の様な相手ではどうしようもなかったと、そう言う。
 それは正しい道理だ。実際に通じるものかどうかは別として。
 「称賛は受け取ろう。気遣いも、お前の気持ちも。こんな状況だからこそ身を尽くすべきだと言う事も」
 「ならば!」
 憤りに声を荒らげ顔を起こしたトーマの鼻先を指でべちりと弾いてやると、不意打ちで良い所に入ったのか、トーマは「だっ」と呻いて仰け反った。そこに丁度薬缶が音を鳴らしたので火を止めて、シュバルツは鼻を押さえて呻く弟の姿を溜息混じりに見下ろした。
 「良いか、トーマ。謹慎と言う事は好きな事が出来ると言う事だ」
 「……はぁ
 兄の突然の狼藉に何か言いたいことはありそうだったが、トーマは大人しく鼻を押さえた儘に頭を上下させた。シュバルツはお湯をポットに注ぐと、砂時計を引っくり返し、ダイニングテーブルに腰を寄り掛けて腕を組んだ。今度は笑みなくトーマに向かい立つ。
 「雑事も多い通常業務ではなく、己のやりたい事に集中出来ると言う事だ。
 ところで、ハルフォード中佐の提唱した作戦だが。アーバインが足並みを乱すとお前は口にしていたが、お前がディバイソンを上手く扱えていないとも言えるぞ?」
 「っそ、そんな事はありませんよ!そもそもライトニングサイクスの速度が……って、あれ?そこまで詳しく話しましたっけ?」
 「まあそう言う事だ」
 ふ、と口端を持ち上げて笑いかけてやると、トーマは少しの間フリーズして、それから「あっ」と声を上げた。
 「……ハーマン少佐ですか」
 「正解。共和国軍の対ジェノブレイカー作戦の情報などをな。言っておくが、少しばかり『世間話』をしているだけであって、機密情報を他国に漏らしている訳ではないからな?」
 まあ元よりジェノブレイカー対策については両国間協定の範疇だから、国家間での機密情報と言う扱いにはならないが。と続けるシュバルツをトーマは唖然と見上げて、言葉を発しない侭に口を何度か上下させた。
 「~の、覗きじゃないですかまるで!」
 「人聞きの悪い。──単に、次にジェノブレイカーに相対する事があったら、次は絶対に勝たなければならないと言うだけの事だ」
 現在は対ジェノブレイカーについての全権は共和国軍にある。だがそれは両国が協定を破棄したと言う意味ではない。だが、帝国軍上層部から、先の作戦失敗に因って出た犠牲者の数を理由に慎重論が出ており、結果的に帝国軍は「共和国の要請があれば駆けつける」と言う状況に収まって仕舞ったのだ。
 その本来の意図が、共和国の消耗を狙う熱心な帝国の愛国者に因る政治的なものであろうが、仮にそれを解っていようが、ジェノブレイカー対策責任者であるハルフォード中佐は帝国軍を嫌う人物であり、易々協力など要請しないだろう事は明らかであった。本来ならばバン以外のガーディアンフォースの人間の力も借りたくないと言った所だろう。
 つまりは、帝国軍が来ない要請を待って無期限待機に入れども意味はないと言う事でもある。
 (余り良い現状とは言えないが、そこに関わりたければこうでもする他ない。全く──、)
 軍上層部の、互いの派閥の足を引っ張る事しか考えていない様なお歴々をちらと思い出して溜息をつき、シュバルツはポットを傾ける。ストレーナーに濾されて琥珀色の茶が白磁のカップへと満たされ、如何にも心安らぎそうな香りを立ち上らせた。
 「……つまり兄さんは、諦めてはいないと」
 「当然だろう。それも責の取り方だ。何も出来なければ犠牲者をそれこそ無駄にするだけだ。実際ハーマン少佐とのこの遣り取りの中で、今後国の枠組みに囚われず情報共有と対策を練る為の非公式の会議の開催も取り決める事も出来た。ガーディアンフォースの活動への一助、と言う体裁でな」
 シュバルツや帝国軍の置かれた現状から出たハーマンからの提案である。ガーディアンフォースの活動、と銘打たれれば帝国軍の上層部も易々口出しは出来ない上に、それ以外の余計なイデオロギーも入りこまない。
 強いて問題を上げるとすれば、シュバルツ『個人』の行動となる為に有給を使う必要があると言う事ぐらいだが、こちらはさしたる問題にもならない。暇を持て余すのは懲り懲りだ。
 その程度の悪足掻きでもしなければいられない程に。この狂気とも感傷ともつかない『平和』で『穏やか』な時間の鑢が削ぎ落とした溝は深い。
 「……それに、わざわざ引きこもった兄を心配して来て呉れる様な心優しい弟も現場に居る、のだし。気に掛けたくもなるのは当然だろう」
 心地よい香りを漂わせるティーカップをトーマの前に差し出してやっても、トーマは目の前の兄の態とらしい笑みを、その真意を伺う様にじっと見上げている。大層複雑そうな表情は、そこから想像出来る感情を差し引いてもなかなか見ものであった。そんな事を兄が思っているとトーマが知ったら憤慨することは請け合いだが。
 「~ああもう。大人しく謹慎なんてしたから、てっきり気に病んで落ち込んでいるものだとばかり思ってました。それも兄さんらしくないと言えばそうなんですが、上から言い渡されたのでは仕方がないのかなと
 果たして兄の感情など知る由も無いだろうが、どこか恨みがましい調子でそう呻くとトーマは自らの頭部を抱えて項垂れた。その肩をとんと叩いてシュバルツは片目を閉じる。
 「悪いな、トーマ。お前の兄は諦めが良くないんだ」
 「…………心配して損した、と、言いたくなります。勝手に気を揉んだのは僕の方ですけど」
 まるで悪戯っ子の様な兄の表情を見上げたトーマは、ぶつくさとぼやきながら紅茶の満たされたカップを手に取った。心が安らぐらしいその香りがきちんとその通り作用するのかは眉唾であったが、何やら勝手に振り回されてくれたらしい弟の心が少しでも休まってくれれば良いのだが。
 「損とは言ってくれるな。忙しい中に傷心の兄を慰めてくれようと必死に時間を捻出して駆けつけて来て呉れた、可愛い弟とこうして話が出来て居るんだから、少なくとも俺は得をしていると言えるんじゃないか?」
 「そうやって大袈裟な言い方をすれば喜ぶ僕だと思わないで下さいよ」
 余り見せない満面の笑みを添えて言ってやるが、流石に疑っているのか、対するトーマは瞼を重たげに半分ほど下ろして鋭い溜息をついた。実に解り易い弟の『怒っていますよ』と言いたげな仕草や表情に、シュバルツは逆にこみ上げそうになる笑い声を堪えながら紅茶をゆっくりと含んだ。
 「うん……、お前が来るまでは本気で落ち込んでいたんだ。実は」
 「えっ…………いや、騙されませんからね。冗談だって言って笑うつもりでしょう」
 じっとりとした疑いの視線に晒されながら、シュバルツは態とらしいぐらいに穏やかに微笑んで目を閉じた。
 「さて?お前の見た通り、想像する通りで良いさ。どちらであっても些事でしかない」
 気鬱があったのも事実だし、気晴らしになったのも事実だ。だが、それについての明確な答えは呉れてやるまいと思って、シュバルツはトーマの誰何や懐疑の表情から遁れる事にした。
 己の手の届かない所で、死の覚悟にも気付かず飲み下して仕舞った弟の、怖れの無い青さと勁さとをこそ得難いものだと思う。
 「……トーマ」
 祈るのも願うのも思考を拒絶するのも、無意味である故しない。が。
 「なんですか」
 まだ少しの不信感を抱えてか、慎重に向けられた弟の幼ささえある視線に、シュバルツはあの敗走の不吉な光景を重ね見ない様にして、息を吐く様に紡いだ。
 「負けるなよ。だが何より──、死ぬな」
 静かな叫喚と情熱のない勝利とは、夥しい死滅の経験の流れに添って在る。
 だからきっと伝わるまい。理解はあっても、届きはすまい。
 「当然です。大丈夫です、必ず俺たちは勝ちます」
 自信と確信とに満ちた表情でトーマは頷き、僅かに翳りを見せた兄の懸念を払おうと笑ってみせた。殊勝なその様に憶える憧憬を眦を細めて見つめるシュバルツに出来る事は、定かでない未来に抱く想像を善きものと信じる事ぐらいしかない。
 彼らが己の手から離される事を責と断じるつもりはないが、それに近い感覚を得ている事は事実であった。
 己が指揮官でさえあれば彼らを死なせずに済むとまで言い切る程の傲慢さは無いと言うのに、得体の知れぬ者の愚かな命令で彼らの命が摘まれる可能性に、どう堪えれば良いのかが解らない。
 僅かに顫えてシュバルツは繰り返した。
 「死ぬな」
 目蓋の裏の光景を通り越して仕舞えばもう、瞬時の躊躇いも気の利いた冗談も無かった。