素面であれ、そして信ぜざることを記憶せよ。それが正気の褒賞である。

※pixiv再掲
45話以降47話前。

 *頭上に拡がるものは天(heaven)と呼ばれるものではないけれど、少なくとも空(empty)では無い事はみんな知っているのだ*
 

 
 指先に力を込めれば、獰猛な前肢は眼前に聳える岸壁へと何の躊躇いも無く向かった。後肢が乾いた大地を蹴ってその巨躯を軽々と跳び上がらせる。
 ほぼ垂直に切り立った崖を駆け上がり、そして最後には一瞬の浮遊感と振動。忽ちに視界を遮る岸壁は眼前の風景から消え失せて、代わりに目の前に拡がったのは平らかに拡がる青空だった。
 人の足では超えるのに幾日もかかるだろう岩山の荒々しい地形は、然しゾイドの足にとっては何の苦にもならない。己の思った通りに事を成して呉れた愛機が勝鬨にも似た咆哮を上げるのに小さく頷きかけて、シュバルツは眩しい程の蒼い空に目をそっと細めた。
 選んだのはこの辺りで最も高い頂だった。平坦に連なる岩山に囲まれ、複雑に流れる川の削って作った地形はちょっとした迷路程に複雑で、地面をのんびりと歩いていたらいつまで経っても目的地に到着など出来ない。何しろ時間にそれ程に余裕がある訳でもない身だ。山越えのショートカットを幾度も繰り返してほぼ直進したのには横着以上の理由はちゃんとある。
 促せば、黒いセイバータイガーは直ぐにシュバルツの要望に応えて頭を巡らせた。崖の淵に程近い位置で動きを止めた愛機のキャノピーを開くと、シートベルトを外して立ち上がる。
 シートの下に仕舞っておいたワインの瓶を掴むと、シュバルツはコックピットから飛び降りた。危なげない着地に乾いた大地が軽い音を立てる。
 想像した通りに見晴らしは大層に良さそうだ。ここならば問題あるまいと、物言わず佇むセイバータイガーを振り向いたシュバルツは「悪いが少し待っていてくれ」と言い置いて、崖の際で足を止めた。
 爪先の更に半歩ほど先には切り立った崖からほぼ垂直に落ちた淵。乾いた風が何百年何千年とかけて侵食していったのだろうそこの先には空しかない。まるで世界の涯ての様だ。
 雄大な風景であると言えるのだろう。眼下に連なる赤茶けた岸壁に縁取られた狭隘な谷とそこを流れる川。レッドリバーの名前の正しくその通りを表した有り様がそこには拡がっている。
 地上よりは少なくとも空に近いそこから睥睨する風景に感じるのは、人智の及ばぬ大自然の力強さや人類史では到底語り得ないのだろう時間の堆積だった。そこにそれ以外の物思いを挟むのは莫迦げているのかも知れない。陳腐な言葉では辿れない類のものに、感傷の名前に似た感慨を幾ら挟んでみた所で、得られるのは自己満足ぐらいのものだ。
 撃墜地点は座標でも知り得ている。眼下の岩山の群れのどこかがそれに該当する。
 だが、それは余り意味の無い情報だとシュバルツはそう思った。思ったからこそここを選んだ。この辺りで最も空に近い頂の上を。
 「……思えば、お前とは士官学校時代に幾度となく仕合ったものだが、こと飛行ゾイド同士の仕合いでは勝ちを呉れてやってばかりだった様に思うよ」
 具体的にその戦績など憶えていないが、模擬戦で度々惜しい思いを抱かされた憶えはある。成績にも影響しない様な些事まで含めれば、自分にしては競っていた方では無いだろうか。
 シュバルツが志願していたのは陸軍の陸戦部隊だ。だから元々飛行ゾイドに乗る事に拘る気は無かった。だからその戦績はむきになる程のものではなかったのだろうと思うが、こうしてあやふやながらも記憶に残留しているのは、──まぁそう言う事なのだろう。
 思い出と言えばその程度のものが大半を占めているのだと気付けば、旧友の名をした分類と言えどそこまで対象に深い知識が無い事を思い知る。
 寮の同室ではあったが、知っている事はと言えば、ヘアスタイルに拘りがあるとか、枕の固さの好みだの衣類の畳み方だのと言った、何の実にもならない様なものばかりだ。家族の事、子供の頃何をしていたとか趣味嗜好や人格形成エトセトラ。そう言った肝心な情報は何一つ思い出の中には無かった。
 「薄情か?まぁ、そうだな。俺は自分から好んで他人のプライベートを知りたがるタイプじゃないんだ」
 お前も知っているだろうが、と語りかける様に口にしていた事に気付いてシュバルツは苦笑した。何年越しもの言い訳とは、何と言う間の抜けた独り言か。
 陽光の角度は未だ水平には遠い。高所である事を踏まえれば青空の続く時間には未だ猶予があるとは言え、シュバルツ自身の時間にそう余裕がある訳でもない。忘れていた訳ではないが。
 予め栓を開けておいたワインの瓶の、軽く詰めたコルクを親指で弾いて落とす。透き通った瓶の中いっぱいに揺れる上品な金色の酒からふわりと漂う、貴腐の芳香。
 「生憎、好きな色も産地も銘柄も知らん。だから手元にあった俺の好みで選ばせて貰った」
 言いながら傾けられた瓶から、中を満たすワインが惜しみなく零れ落ちて崖下へと、強い風に吹かれて散って消えて行く。その残りが少なくなった所で、シュバルツは制帽を取ると軍服が汚れる事も気にせずその場にあぐらをかいた。
 「……お前の事は俺には解らないし、もう二度と解りようもない。お前も俺に解って貰おうなどとは恐らく思っていないだろう。
 ──だがな、」
 傾けていた瓶をくるりと戻すと、シュバルツは行儀悪くも瓶の口から直接中身を煽った。残る量は少ないから、喉を反らせて蒼いばかりの天を真上に見上げながら、小さなワイングラス一杯分程度残った中身を一気に干して仕舞う。
 飲んだ呼吸の代償に、ぷは、と大凡上品とは言えない息を吐き、シュバルツは酒の匂いのする甘い呼気と寂寞にも満たない不快とを青空の下に散らした。
 「何も知らなかった分、何ひとつ悼む事すら出来ん。よくある、学生時代の青い思い出、程度の名付けで分類されて後は事務処理で終了だ。ざまを見ろ」
 ぐいと口許を拭って、シュバルツは空き瓶を乱暴に置いた。アルコールの臭気と舌の上を通った甘さとが、喉奥で揺れる何かしらの感情に触れて、思い切り叫んで仕舞いたい様な錯覚にひととき陥る。
 瞬きをすれば目蓋の裏に空の蒼さが焼き付いて痛い。たなびく雲が長く伸びる、その狭間で散乱する偏光の見せる澄み切った晴天の色だ。
 空は切り裂かれ、幾つものあおい欠片になった。我が物の様にそこを見上げて笑っていた友の、その姿は憧憬だったかそれともただの幻想であったか。
 歓びのない生と情熱のない罪とを腑の奥底に飲み込ませた侭、嗤う欺瞞の横顔は確かなものであっただろうか。
 「……ざまを見ろ。何の感情の喚起もされない、薄情な友しかいやしないぞ」
 『友』が何を思ってああしたのか。何を見上げていたのか。知れたとして解る気はしない。解ったとしてどうにかなるものでもないのだが。
 瓶を置いた侭シュバルツは立ち上がった。グラスの一杯程度で酔う程にやわではないから、その足元に揺らぎは一切無い。
 「お前がプロイツェンについた段階では未だ、戦後のごたごたもあったしな、戦死と記してやる事も出来ただろうが、共和国から提供されたSSSを盗み出した以上はもう無理だ。お陰で真っ当に墓の前にも立てやしなくなった。現在の帝国では犯罪者として荼毘に付された者らの扱いはなかなかにデリケートでな」
 だからこれで我慢しろ、と言葉には乗せずに空っぽのワインの瓶に視線を投げる。
 ぱん、と乾いた音をさせ軍服に付着した土埃をはたくと、制帽をくるりと指先で回してシュバルツは、主の気まぐれで起こした奇行を前に大人しく佇む愛機を振り向き見上げた。
 「さて。用も済んだ。帰ろうか。散歩にしては遠すぎた」
 向けた背の先には墓標の様にぽつりと置き去りにされたカラの硝子瓶が一つきり。それを振り向く事もせずにシュバルツはセイバータイガーのコックピットへと戻った。駐留中の基地へと戻るまでにはアルコールも抜けてくれるだろうと考えながら、制帽を被る。
 さて、とキャノピーを閉じた所で通信音が鳴り響いた。鍔の角度を少し直して受信をオンにすると、映像の中で部下が敬礼をするのに返す。
 《シュバルツ大佐、待機時間中に申し訳ありません。目標の──レイヴンの姿が目撃されたと報告が入りました》
 部下の、僅かに緊張を孕んだ声音を受けて、シュバルツは制帽の作る庇の陰で眉をほんの僅かだけ寄せた。それは今最も捨て置けない名であり、今最も聞きたくなかったが聞かなければならなかった名でもある。
 「──解った。直ぐに戻る。監視係はその侭任務を続行しつつ待機。明朝までには捕縛の為の人員の準備を整えておくよう」
 《了解しました!》
 映像が切れて部下の姿が消えるのと同時に、シュバルツは愛機を走らせた。高い、高い、空に程近い崖を蹴って地上へと吸い込まれる様におちて行くその足が、爪が、固く地面を掴む振動を待ち望んで少し長く目を閉じた。
 空の上でも地の涯てでも、理性は常に合理的だ。これが、理性を攻撃せざる些事であると判断したからこそ『墓参り』の真似事が出来たのだ。
 それでも、そっと目蓋を開けば、遥か頭上には変わらぬ青色をした空が拡がっている。人間の五感では決して感じ得ない、抽象化された天蓋のその向こうに人は何かを見出すからこそ、不安と焦燥とに満ちた足元から垂直に伸びる風景を見上げるのだ。
 救いか気休めか祈りか、何かを求めて。
 「……理解の無かった事が悔いな訳じゃない。ただ──、」
 警告する様に言葉を紡いだ友を、己は笑って飛ばした。いつもの様に皮肉を込めて、否定も肯定も呉れてはやらなかった。
 「あの時のお前は、俺に問答無用で敵対をしようと思ってはいなかった様に見えた。
 それは旧友に対するらしくもない温情か、それとも、」
 (手を、のべたつもりだったのだろうか……?)
 喉奥で染みる、泥の海の様な息苦しさの中で喘ぐ様に発した呟きはどこにも融けずに、アルコールの甘い香りと混じり合って消えた。
 味方になれと、仮にそう囁かれた所で己がそれを受けた筈は無い。だからこれは無意味な想像。思い上がった想像。
 そう。今となってはただの感傷に過ぎない。或いは妄想や幻想だ。だからこそこれは『些事』足り得てシュバルツの裡に無造作に置かれている。
 どん、と静かな振動。セイバータイガーの爪が大地をしっかりと踏みしめ背をしなやかに撓ませる。
 シュバルツがコントロールレバーを握る手に力を込めると、セイバータイガーは応じる様に喉奥で唸って大地を蹴った。
 地上から見上げれば空はひどく遠く、高く、眩しかった。だがそのあおい美しさとそこに在るだろう感傷に似た何かもあと数時間で、一日の終わりの作り出す変相に飲まれ消えていく。
 あの墓標代わりの瓶など、強い風でもひとつ吹けば直ぐに崖からおちていくことだろう。そして割れて砕けて消える。何も残さず、何も語らせもせずに。


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 45話アフターのろぶかではないバージョン。
 うちのシュバルツはラルフが絡むと情緒不安定になるご様子。
 29話でラルフが寄越した警告はシュバルツが聞き入れる気ないだろう前提と思えるのですが、それでも言わずにいられなかった事に何か希望を見出したかったらしいです。
 「もっと話を聞いてやればよかった」そんな莫迦な。