自我愛と自虐

※pixiv再掲
シュバルツ家の勝手な想像妄想設定前提のこどもの頃の話。

 埃の漂う空気に小さくくしゃみが出る。鼻をすすれば何だか目許が熱くなって来て、堪えようと、振り切ろうと、トーマはぶんぶんと頭を振った。
 冷たい土床に直に座り込んでいるから、きっと洋服も埃や土で汚れて仕舞っている。何年もの間湿気と乾燥とに晒されて来た、土床の上の堆積層は果たして如何ばかりのものだろうか。少なくとも、軽く叩いたぐらいでは落ちない汚れを残している事だろう。
 情けない心地、或いは自己への途方もない嫌悪に、ぐず、ともう一度鼻を鳴らして、トーマは抱えた膝に額を埋めた。手のひらで両の足を、頑なな心ごとほどけてしまう事が無い様にぎゅっと強く力を込めて、小さく、小さく身を縮める。
 「坊っちゃん、どこですかー?」
 遠くの方から、自分を探す大人の声が耳に届いて、トーマは益々膝を抱える手指の力を強めた。呼び声、己を案ずる響きを無視する事に憶える罪悪感に、塞ぐ事の出来ない耳が音を上げそうになる。
 見つけてくれればいいのに。
 見つけないでいて欲しい。
 どちらも今のトーマに何らかの『終わり』を呉れる結末だ。それだからこそか、相反するその二つのどちらかを選ぶ事も出来ず、罪悪感と居た堪れない感情とを、ちいさな体の中で必死に飼い慣らそうとする。
 屋敷の裏手の、世話などされていない野放図なだけの庭だ。その片隅にぽつんと、取り壊す事も忘れられて壊れかけた侭に佇んでいる園芸倉庫の存在など、大人たちの頭には無い。
 だから、見つけられる事は無い。自分から出ていかない限りは。きっと。
 だから。この侭見つからなければ──
 「トーマ」
 不意に感じた、抽象画めいた曖昧な想像に対する怖れと心細さとにぶるりとトーマが背筋を震わせたその時、はっきりと己の名を呼ぶ声が、埃っぽく淀んだ空気を割いて震わすのを聞いた。
 近い。いや、それとも遠いのだろうか。
 「こんな所に居たのか」
 ざり、と靴音と共に続いた声に、それが紛れもなく至近から己だけに向けられたものと気付いて、膝に埋めた頭を起こす事も出来ずトーマはただ足を抱える手に力を込めて縮こまった。
 「雪の頃以来か。連絡した予定より二日遅くなったが、ただいま、トーマ」
 靴音が近づいて来る。よりによって、一番見つかってはいけない『鬼』に見つかって仕舞ったのではないかと思って、トーマは顔は上げない侭の不明瞭な声で、こんな場面では些かに間の抜けて聞こえる言葉を寄越した兄に向けて辛うじて言葉を紡いだ。
 「おかしいです。それは、お家でする挨拶です」
 「ん?家とは家族の居る場所だろう?だから、お前と言う弟の居る此処が『ただいま』を言う場所だと思うが」
 「……
 おおよそ可愛くない事を投げて寄越す年齢の離れた弟に、然し兄はいつもの様に平然とそんな言葉を返して来る。だからトーマはそんな兄に対して己がどれだけ狭量でちっぽけな、子供以上に子供じみた生き物なのだろうかと益々強く痛感させられて仕舞う。
 家のならいに従って行く行くは軍人になると言う兄は二年ほど前から、帝都にある軍属の学校の寮生になっており、長期休暇や祭事のある時ぐらいしか家に帰って来なくなった。
 先日、春の休みで戻るといつもの様に手紙が届いて、トーマも久々に兄に会える事を楽しみにしてその手紙を何度も読み返したぐらいだった。
 だが。事情が出来て一日か二日帰りが遅れる、と電話が掛かって来たのは一昨日の朝の事。それを取ったのは使用人だったが、兄の帰りにタイミングを合わせようとして訪れていた親戚の叔母が、受話器を奪い取るなり、愚痴めいた文句を棘々と、長々とこぼしていた。
 電話の向こうで兄がそれをどういなしたのかはトーマには判らなかったが、きっといつも幼い弟に言い聞かせる時の様に上手い事弁を振るったに違いない。激しい剣幕であれだけ文句を並べ立てていた叔母が、不満そうではあったがすんなりと町へ帰って行くのを遠くに見て、トーマはそう思った。
 そして予定から少し遅れて兄は戻って来て、家の玄関でもリビングでもない場所で『ただいま』と、トーマに告げている。
 「……で。お前は、お前曰くの『お家』ではないこんな所で、一体何をやっているんだ?」
 膝を抱え蹲るトーマの正面で立ち止まった兄が、いよいよ本題に切り込んで来た。遊んでいたのだとか、かくれんぼをしていたのだとか、そんな言い訳を──揚げ足を取る形だが──封じた問いかけは、然し真摯だとトーマは思った。
 それは、誤魔化させないと言う意味でもあっただろうが、それは同時にこの小さな弟の言い分をきちんと聞いてくれると言う事でもあった。
 「…………家出、をしています」
 口を噤んで仕舞いたくなる本心を除け、己を叱咤しながらトーマがそう紡ぐのを聞いて、兄はあっさりと、
 「家出か。そうか、もうお前もそんな歳になったんだなぁ」
 などと言って寄越した。馬鹿にされるとか呆れられるとか──予想と違ったそんな反応に、トーマは膝に埋めていた顔をおずおずと起こした。
 「怒らないのですか?」
 久々に見上げた気のする兄の姿は、冬の頃に見た時に比べて少し丈が伸びただろうか。座って見上げているからそう感じるだけだろうか。学生服の上から私物の春用のコートを羽織った兄は、じっと己を見つめるトーマの視線を受けてか、その場に片膝をついてしゃがみこんだ。上等な制服の生地が、トーマの衣服と同じ様に埃や泥の堆積に擦られ歪な模様を残す。
 「怒られたくて家出をした訳じゃないんだろ?」
 「それはそうですけど」
 頬杖をついたその顔に笑みに似た柔らかさが過ぎる。それがまるで、身長が伸びたとか靴のサイズが大きくなったとか、そう言った幼子の成長を喜ぶ類のものの様に思えて、トーマは困惑した。
 トーマの常識的な知識としては、家出と言うのは子供が大人を困らせる『悪いこと』の一種であって、到底そんな感情を向けられる様なものではないからだ。
 「俺の知る限り、お前は賢い子だ。そんなお前が家出なんて言う手段を選んだんだ。何かしらの理由があったんだろう?」
 「……
 「人は時に、言葉以外に己を訴える手段としてそう言った行動を取る事もある。それを他人がどれだけ汲んでくれるかは判らないが、それが正しく己の信念から湧いて出たものであるならば、お前の行動は正しい。世界に感じる悩みを一個体に収めておくよりも、ずっと正しい事だよ」
 兄の真剣な言葉に、買いかぶりすぎだ、と思ってトーマは恥ずかしくなった。どうやっても褒められる様な事ではない筈の行為を、然し真っ当に褒められるなんて、しかもそれが嬉しいと感じられるだなんて。
 「では、正しいのですか?皆を困らせてる僕のこの、」
 「しっ」
 ふと兄が口の前に人差し指を立てた。声を潜めろと言うその仕草に、トーマは慌てて己の両手で口を塞いだ。人間の音声が失せて、風が木々や草花を揺する音しか聞こえない程に辺りが静かになると、遠くの方から使用人の声がトーマを探しながら近づいて来る音が聞こえて来た。どきりと心臓を跳ねさせたトーマは、咄嗟に救いでも求める様に兄を見上げる。
 「家出、まだ続けるか?」
 すると兄は声を潜めてそう訊いて来た。使用人が疲れた様子の声を上げているのに、きっとトーマがここに一人きりで座り込んでいた何時間もの間とほぼ同じ時間だけ、彼はそうしていたのだろうと思って胸がつきりと痛む。
 だが、兄は言って呉れた。お前のそれは正しいと、認めて呉れたのだ。
 「…………はい」
 時間をかけて悩みながら頷いた弟を満足そうな笑みと共に見つめると、兄は「よし」と言って立ち上がった。その動きを追って見上げるトーマに、片目を閉じて悪戯っ子の様に笑いかけて見せて、壊れかけた園芸小屋の入口から外を伺ってからそっと足音を忍ばせ出ていく。
 兄の足音が遠ざかって行き、また一人になったトーマが怯える小動物の様に耳を澄ませていると、件の使用人に兄が偶然を装って声を掛けているのが聞こえて来た。
 ひょっとしたら嘘をつかれていて、兄は自分の事を使用人に教えて仕舞うのではないだろうか。もう逃げられない様に人を呼んで来るつもりなのかもしれない。
 長い不安と不信感でいっぱいになった感情と、そんな筈はないと兄を信じたい感情とが、ぐるぐると胸の底で渦巻く。鼓動が煩い程に跳ねているその音が漏れ聞こえて行く様な気がして、胸を押さえる様に抱えた両膝を更に引き寄せた。
 「こっちには居なかった。苦労をかけてすまないな。だが、トーマは歳の割に利発な子だ。そんなに必死で探し回らずとも危険な場所には行かないだろうし、ちゃんと戻って来るさ」
 然し聞こえて来たのは、使用人を労う兄の声だった。本当はトーマが言わなければいけなかった言葉を代わりに伝えながら、兄と使用人の足音と声とが遠ざかっていく。
 「………
 兄さんにも迷惑をかけているんじゃないか。そう不安な感情が訴えて来るのに任せて、トーマはこぼれそうになる涙を袖口で乱暴に拭った。
 再び辺りは静寂に包まれた。小さなトーマの体が時折身じろぐ、呼吸をする、それだけの音しかしない。ぼろぼろの園芸小屋は扉も外れているし、漆喰の壁はあちこち剥がれて、壁の穴からは野放図に伸び放題になった山査子の葉っぱが覗いている。
 庭として整えるのを已めて仕舞ってからは、園芸道具を仕舞っていたこの小屋も放ったらかしにされていて、トーマが物心ついた時から既に半壊していた。
 家で本ばかり読んでいると注意されたから、外で本をよく読んでいた。だが、同じ様な年頃の子供らには、一緒になって遊ぶよりも活字ばかりを追っているトーマはよくからかわれたりいじめられたりした。
 そんな時にこのぼろぼろの小屋を見つけた。誰の邪魔も入らない事以外には快適さとは程遠い空間であったが、トーマにとっては本さえ静かに読めればそれで十分だった。
 兄にこの場所の事を話した憶えはない。兄が家に帰ってきているのにわざわざ一人きりで本を読んでいる理由など、それを説明する必要など、トーマには無かったからだ。
 それでも兄は、帰って来るなり、トーマを探す使用人に話を訊くなりした後、ほぼ直ぐにここを見つけ出した。崩れかけた建物にいるなんて危ないと諭すでもなく、理由を聞き出しもせずに、ただトーマの行動を尊重すると言って呉れた。
 (兄さんは、本当にすごい)
 兄弟だから──と言うよりは、年齢が離れていたからなのだろうか。兄は殊更に『良い兄』と言う振る舞いこそしなかったが、いつでもトーマの事を一人の人間として見て呉れた。間違いを犯せば、非のある時は徹底的に怒られ諭されたが、同時にどうしてそうしたのかと言い分をきちんと聞いて呉れた。
 子供だから、と言う言葉で片付けずに辛抱強く相対して呉れたのだと思う。
 それが大人と言う生き物のする行動なのだとしたら、兄以外の全ての人間は大人ではないのかも知れないとトーマは思った。だからこそ、兄は周囲の人間全てが褒めそやす程に凄い人なのだと否応なく思い知った。
 二日前の事だ。親戚の叔母が、兄の帰郷の日取りを聞いて訪れた。だが、彼女が町での商売の忙しい合間を割いて来たと言うのに兄の帰りは遅れた。
 正直その叔母の事をトーマは苦手にしていた。子供と言う生き物をただの未熟な生き物だと見做して、兄さえも見下してかかるその態度が好きではなかった。
 それでも、自分に用が無くとも、苦手な親類であっても、家に来た以上はシュバルツ家の客人だ。せめて挨拶だけはしっかりしなければとトーマが精一杯に気負って行っても、叔母は、彼女にはただの弁の達者なだけの子供にしか映らないのだろうトーマに興味の一欠片も示す事は無かった。
 挙げ句に、「カールぐらい優秀だったら貴方にも望みがあったのだけれど」と冷たく言い放った。
 使用人が、まだ幼いので、とフォローの様な言葉を入れてくれたが、目当ての兄が戻らないと言う不満に上乗せされた叔母の感情はただの憂さ晴らしの刃となって、暴言に等しい言葉の数々を吐くのみだった。
 何とか挨拶を済ませて部屋を出て。その後、叔母が程なく帰って行くのを伺い見て。苦手な人間が居なくなった事に本来憶える筈の安堵は然し訪れず、トーマはそれから二日の間を、苦しい様なもどかしい様な心地を抱えて過ごした。
 久々に兄が帰ってくる日を迎えたと言うのに、手紙を読み返し楽しみにしていた筈の気持ちは失せて戻らず、トーマの足はその侭家を飛び出してこの園芸小屋へと逃げ込む様に向かった。
 兄に劣る。まだ幼い。仕様がない。何れもトーマにとっては飲み込む事に苦心する棘でしかなかった。
 兄は確かに優秀で、トーマの自慢で憧れでもあった。八つも年齢が離れている『大人』の兄に嫉妬した事はないが、届かない光の様な存在に気後れさせられた事は何度も数え切れない程にある。
 抱えた膝の上に片頬を預けて、トーマは目を瞑った。あれだけ見つかりたくないと思っていたくせ、静かになると途端に心細くなるなんて現金なものだと思いながら、じっと身を潜め続けた。
 然しこうして此処に留まる事がきっと兄の言う『言葉以外に己を訴える手段』なのだと自信を持ってそう思えたから、心細さが怖れになる事は無かった。
 やがて、さくさくと足音が近づいて来て、顔を起こしてみれば、態とらしくきょろきょろと辺りを見回す仕草をしながら兄が戻って来た所に出会う。
 「トーマ。お腹は空いてないか?」
 また悪戯っ子の様な表情でそう言った兄は、甘い香りを漂わせる小さな包みをトーマの手に持たせた。伺う様に顔を見上げれば頷かれたので、包みを開いて行く。
 丁寧に布と紙とで包まれたそれは、木の実やレーズンを小さく刻んで練り込んだクッキーだった。使用人のよく作ってくれるお菓子で、そう記憶が至った途端に感覚が刺激されてお腹がぐうと鳴る。
 「お食べ」
 思わず赤面するトーマにそう優しい声で勧めながら、兄はその隣に腰を下ろした。
 「でも
 「お前の抗議の手段は家出であって、断食ではないだろ?」
 「……ありがとうございます。いただきます」
 冗談めかした兄の口調は、トーマの罪悪感や抵抗感の軽減を無言で促して呉れていた。
 礼を言ったトーマはクッキーを小さく一口齧る。最初は何だか負けた様な気がして悔しい気持ちがしたが、空腹に染みる懐かしく心地よい甘さに、気付いたら夢中になって食べていた。
 トーマがそうしている間に、兄は水筒を傾けて小さなアルミカップに紅茶を注いで行く。手渡された温かなそれを飲むと人心地のついた気に満たされるが、同時に虚しくもなる。
 「……やっぱり、僕は無力です。訴えたい言葉が出せなかったから、かわりに家出なんて子供じみた事をしたのに、結局こうして兄さんたちに助けられて、それに甘えてるんです」
 クッキーにせよ紅茶にせよ、家に戻ったばかりの兄が首尾良く用意出来たものとは思えない。きっと使用人にそれとなく事情を説明して、協力して貰ったのだろう。
 「落ち込んでどうする。助けられた分、何がなんでも『家出』を成功させるぐらいの気概は見せないか」
 俯くトーマにそんな、的外れにも聞こえる事を言って、兄も紅茶の入ったカップを傾けた。これではまるで、家出ではなくただのピクニックの様だ。
 「家出の成功ってなんでしょうか?」
 「それを決めるのはお前だろう?何かを言われた事に腹が立ったのなら、話し合いの場を設けて謝らせるとか。何かをされた事に腹が立ったのなら、やり返す場を設けて謝らせるとか」
 言いながら兄の立てた指を見て、トーマは俯いた。どちらの例も謝らせる事が前提と言う事は、兄はトーマ自身が何か悪い事をしたのだとは全く思ってすらいないらしい。
 「……………実はもう、それをするべき当人はいません」
 相手の居ない抗議にも喧嘩にも果たして意味はあるのだろうか。それともこれはやはり、子供じみた癇癪の起こさせた一過性の感情の発現なのだろうか。
 「成程?と、言う事は叔母様か」
 件の叔母が来ていたと言う事は知っていたからか、兄はすんなりと納得すると、園芸倉庫の天井を見上げた侭でトーマの頭をぽんと撫でた。
 「叔母様(あのひと)にも、子に恵まれなかったと言う事情はあるが、それを汲んでただ沈黙を返す事を強要されなければならない程、それはお前のまだ気負うべきものじゃない。当面は俺が全部請け負ってやるから、お前には子供らしく健やかに過ごして貰いたいんだが、」
 トーマの癖っ毛を撫でる兄の手に優しい力が籠もった。
 「何せ、いっときの感情を泣き喚いてぶつけずに、飲み込む子だからなぁ、お前は」
 苦笑いの気配に、トーマは己の頭を優しく撫でている兄の横顔を見上げながら唇を尖らせた。
 「……やっていることは、ただの子供の癇癪です。このまま誰にも見つからず消えて仕舞えたら、と言う下らない想像もしました」
 「消えたいのか?」
 「………いいえ」
 ふっと笑って紡がれる兄の問いにかぶりを振る。
 「トーマ。お前は正当に憤って、抗議をした。俺はお前のその意志を尊重する。お前がどう思おうが、それはお前自身の本心が思って、行動させた事だ」
 「……でも、こうして『家出』をする以外には、何も出来ませんでした」
 叔母がまだ居たとして、トーマでは彼女を説き伏せる事はきっと出来ない。万一言い返すことが出来たとしても、子供にやり込められたとなるとそれは叔母の自尊心を傷つけるだけだ。
 「俺がちゃんと予定通りに戻って来る事が出来ていたら、お前がそんな思いをする事もなかった。叔母様も、お前に当たる事もなかった。だから、悪者探しをするならそれは俺だ」
 「っちがいます!兄さんは悪くなんてないです!」
 兄の優しさは卑怯だった。全部自分のものにして仕舞おうとする様なその優しさこそが、今までにはない程に己を侮辱した気がして、トーマは思わず声を張り上げた。そこに静かに返す刃。振るう当人の翠の瞳は言葉と裏腹に優しさのない気配を湛えてそこに在る。
 「じゃあ、誰が悪い?お前に酷い言葉を吐いた叔母様か?庇ってくれなかった使用人か?」
 「……それは、違います」
 鋭いそれを受ける事も躱す事も出来ず言い淀む。叔母が悪い、と子供の目線で断じる事が出来る程、生憎とトーマの精神性は幼くはなかった。尤も、そうであったらこんな事にはそもそもなってはいなかっただろうが。
 原因となった要素は幾つかあれど、総じて誰が悪い、とも思っていない。それでも悔しさや苦しさの様なものは胸にある。一体それはどこから生じて『誰』を責めたいのだろうか。何を問おうとしているのだろうか。
 困惑し視線を俯かせ地面に逃がすトーマに兄は、その頭を撫でる手と同じ優しげな調子で続けた。
 「悪者は居ない。誰にでも心があってその行動には理由がある。だからお前は叔母様の言葉を黙って受けたんだろう?」
 家にも、叔母にも、兄にも、言いたい事やその理由がある。社会と人との噛み合いは複雑に過ぎる歯車の様なものであって、そのくせに部品を交換し油を差せば治る機械とは全く異なっているものだ。
 その道理を理解していても、それに立ち向かう力は、経験は、トーマには未だ無い。
 「だから、この『家出』はお前自身に対する抗議だ。お前は優しくて、賢い子だから、言葉が如何なる時も絶対的な手段とはならない事を知っている。だから、それの出来なかった『子供』の自分に抗議したかったんだよ」
 「…………
 兄の言葉が正しく己の、己でも理解の至らなかった部分を正しく切開していくのを感じて、トーマは理解され受容される安堵に、無言でこくりと頷いた。胸の奥にほんのりと明るく温かな光が灯るのを感じて、熱くなった目許からぽろぽろと涙がこぼれていく。
 自己への嫌悪や情けなさを由来とはしないその涙を、トーマは無理に堪えず流れる侭にした。
 大凡子供らしくはない弟の涙を、兄は黙って止まるまで待っていて呉れた。慰めも気休めも、これ以上の言葉はもう必要無いのだと、正しく理解して呉れたそれこそが何よりもトーマには嬉しかった。


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 年齢が離れているからこそ、弟が頭の回転の早い子だったからこそ、兄さんは弟を『子供』じゃなく(面倒な事なく)扱ってたらいいなって言うMousou。
 あのトーマがあれだけ兄さん兄さん言うんだから、年齢の差の割に距離は近かったんだろうなと思うんですよねやはり
 それで放任兄さんに因ってフリーダムに育った結果あの、曲がってなくて根はちゃんとした人格なのに尊大で態度がでかく社会的な協調性に欠けた19歳が出来上がって仕舞ったんじゃなかろうかと。