雨は日の出の時刻には程なく上がっていた。まだ街路の端々には深い水溜りが残り、空気中の湿度は高い。それでも不快感を然程に感じないのは、強すぎない日差しと爽やかに吹き渡る風のお陰だろう。
夜通し降った雨で家の中の温度は、日が出始めてそう経っていなかったからか少しひやりと感じられた。だから念の為にと薄手の上着を一枚羽織って来たのだが、この分では何時間か後には袖を通さず小脇に抱えて歩く事になりそうだ。
トーマの借りているアパルトメントを訪れたのは一度や二度の事ではない。道は覚えきっている筈なのだが、毎度辺りを注意深く見回しながら歩く必要がある程に、帝都の中でもやや下町寄りの住宅街に位置するそこは、カールの私宅や軍本部からは少しばかり距離があった。
上級将校になってからカールが必要に迫られ購入した私宅は帝都の中心部にあり、軍本部から近いのは良いが一人暮らしの物件としては少々持て余す広さだ。当然だが部屋も遊ばせているので、そこに住めば良いのにと何度かトーマには勧めているのだが、「身内贔屓と思われると、兄さんにご迷惑がかかりますので…」と、心底にそう思っているのだろう、しょんぼりとした様子の当人にそう言われ続けたので、今ではカールも無理に勧めたりはしない。ただ、いつでも立ち寄ると良いと言って合鍵は渡してある。
それでも律儀な弟が合鍵を使って家に勝手に上がる事はない。訪れた時にカールが留守ならば帰りを待っているか、入っても構わないかと伺いの電話を寄越す。
真面目で融通の効かない弟の、大人びて来た気遣いを頼もしく思うのと同時に、そんな事をいちいち気にしなくとも構わないのにと思う気持ちもある。
トーマ曰く、「兄さんの、シュバルツ大佐の足を引っ張りたい輩はたくさん居るのですから」…だそうだが、カールは今更そんな連中にしてやられる訳もないしつもりもない。
まあ、気さえ逸らなければだが、少しばかり深読みし慎重に事を進めようとするのはトーマの癖──と言うよりは性格である。一度出した難解な計算式を何度も何度も見直して逆算して確認しているのなどしょっちゅうだが、それは別段悪い事と断じるものでもないからカールには咎めるつもりもないし、ある意味での長所と思えば、こうして遠い弟の家まで足を運ぶのも吝かでない。
辿り着いたアパルトメントの外階段を上り、表札に”T Schwarz”と手書きのネームプレートの入った扉の前に漸く辿り着いたカールは、拳を作って扉をノックした。
「………」
返事も反応もない。少し待ってからもう一度叩く。今度は少し重たい音をテンポを早めて。
「…………留守、と言う訳でもなさそうだな」
ちら、と見下ろした郵便受けに今日の日付の新聞が入っている事を確認すると、もう一度ノックをして、カールは耳を澄ませた。だが、扉の向こうからは足音は疎か物音ひとつ聞こえて来ない。
昨晩の時点で、トーマ・リヒャルト・シュバルツ中尉がガーディアンフォースとして現在請け負っている任務は無く、帝国軍からも何の指示も出ておらず、所謂休日の身にある事は確認済だ。
遊んでいて帰りが朝になっている、と言う可能性も浮かぶが、確率としては恐らくだが相当に低い筈だ。酒を飲んで賭け事遊びをする時間があるのならば、趣味の研究に没頭する事をトーマなら選ぶだろう。
(…と、なると)
やれやれ、と肩を竦めたカールは、一旦一階まで階段を降り、建物の裏手にあるアパルトメントの住民用の駐輪所へと向かった。トーマの自転車を見つけて近づくと、サドルを取り外して中に隠してある合鍵を抜き取る。
以前トーマ本人から教えられた合鍵の隠し場所だ。トーマはカールに鍵を直接持たせたかった様だったが、自分の身に何かがあった時にお前に直接的に累が及ぶのは容認出来ないからときっぱりと断った。そうしたらこの、工夫しているのだかいないのだかよく解らない隠し場所を教えて寄越したのだ。
自転車が盗難に遭ったらどうするのだろうと疑問は浮かんだが、カールがその疑問を口に出す事は無かった。それ故に未だに合鍵は無造作にこんな所に隠されている。
きっと盗難防止のあらゆる手段が施されているのだろう、と、何やら複雑な錠前で留められた自転車の前輪を見てそう思う事にして、カールは真新しい合鍵を手の中でくるくると弄びながら階段を再び上った。今度はノックもせずに鍵を開いて室内へと勝手に入り込む。
狭い玄関で苦労して靴を脱いで、朝だと言うのに薄暗い室内へと視線を投げたカールは、そこに予想通りの光景が拡がっていた事に、やっぱりな、と言う諦めに似たものと、叱ってやりたい、と言う苛立ちに似たものとを一緒くたに歎息にして吐き出した。
カーテンも閉ざされ、電気も点いてはいない部屋だが、窓の向こうの爽やかな陽光に薄ら照らされて出来た陰影を辿れば、室内が足の踏み場もない程に散らかっている事は直ぐに判る。
トーマ曰く、研究畑の人間なんてみんなこんなものです、との事だが、カールは生憎とトーマ以外の研究者の私室など見た事がないので、それが正しい言い分なのかさえ判断する基準にはない。
ただ、研究者云々と言う当人の論はともかく、トーマは昔から一つの事に集中を始めると生活能力が著しく低下し、身の回りの環境が非常に疎かになるきらいがあった。
例えば、食事だと呼ばれても部屋からなかなか出て来なかったり、図書館で調べ物に夢中になると本を戻すのを忘れて机に山積みにして行き司書に苦言を呈されたり。
前回訪ねて来た時はこんなに散らかっていなかった。と言うか寧ろ綺麗に片付いていた。その時は予め訪ねる事を予告してあったから、ひょっとしたら慌てて片付けたのかも知れない。
ともあれそれから未だ一ヶ月も経過していない筈だが、部屋の中は見事な迄に散らかっていた。寧ろこれが本来のトーマの部屋の風景に近いのだろう。
然しよく見ると、水場や玄関と言った生活に必要不可欠な移動の為の動線だけは退けられている様に隙間が空いている。散らかし方もただ漫然と物を散らしている訳ではないと言う事なのだろうが、変なルールを適用するぐらいならば初めからきちんと片付けてくれた方が余程良い。
薄暗い中、床上の物を踏んだり蹴ったりしない様気をつけつつカールが室内へと入って行くと、程なくして寝室の入口付近に巨大な芋虫めいた物体が転がっているのが目に留まった。室内には些か派手な山吹色のそれはアウトドア用のシュラフで、そこに全身を潜り込ませて寝息を立てているのは部屋の主であった。
家の中でシュラフ。と言う事は寝台は物置にでもなっているのだろうと思いつつ見遣れば、これもまた予想通りに、寝台の上には本やファイルがごちゃごちゃと積んであった。これでは寝台の本来の役割は到底果たせまい。
物品を大量に乗せて皺になったシーツや丸まった毛布を見て、洗濯したいと心底に思う。今日の陽気ならばきっと午後にはよく乾くだろうに。
シュラフにくるまって横向きに転がり、少し腰を曲げ眠っている弟の枕元に、眉間に皺を作った侭カールはしゃがみこんだ。大口を開いて健やかな寝息を立てているその姿を、頬杖をついて暫し見下ろす。
こう見ると子供の頃の印象と余り変わらない様な気がしてくるから不思議だ。もう立派に軍属の人間となって大人びた事も口にする様になった弟だが、その顔つきや精神性は概ねがまだ、カールのよく知るトーマの侭だった。
八つも年齢が離れているからか、カールの目にはどうしても未だ弟と言う生き物は未熟で危なっかしい生き物と映る。それが年長者の悪癖である事は自覚していたし、殊更に子供として軽んじているつもりもないのだが、トーマの時折見せる物言いたげな不満顔から察するに、まだまだ認識の相違は拭いきれてはいなさそうだったが。
それでもこうしていれば矢張りまだ子供の様な生き物なのである。カールは人差し指を伸ばすと、呑気な寝顔を晒している弟の頬をつんと突いてみた。頬肉がへこんで骨に当たるが、トーマが目を醒ます気配はない。指が離れるとむにゃむにゃと口を上下させるが、その侭再び寝息を立て始めて仕舞う。
「……」
起こそうか、と自らの手のひらに頬を預けながらカールは少し考えるが、疲れているのならばそっとしておいた方が良いかと諦める事にした。
それに、殊に兄の前では『大人』である事を見せようと気張るきらいがあるトーマの事だ、こんな有り様で起こされたらさぞや恐縮して仕舞う事だろう。
そっと立ち上がると上着を脱いで、ハンガーを探す。然し空いているものが見当たらないので、仕方なく椅子の背に引っ掛け、カールは取り敢えず床に散らばっている洗濯物を拾い集めて洗面所の脱衣籠に放り込んだ。それから、片付けても問題のなさそうな新聞やチラシや埃の積もりかけた書籍などを種類ごとに隅にまとめる。
手を止めて振り返ると、全部綺麗に片付けて仕舞いたい衝動に駆られるが、下手に触ったり動かしたりしてトーマにとって大事なものを解らない所にやって仕舞う訳にもいかないので堪える。幾ら兄弟の間柄でも領分と言うものはあるのだ。
せめてカーテンぐらいは開きたかったが、窓辺にも書籍やファイルが積まれており、下手に開けると落として仕舞いそうだと思って、これもまた妥協する。
結構に部屋の中を行ったり来たり歩き回ったが、トーマは未だシュラフに芋虫の様に潜り込んですやすやと良く眠っている。呆れよりも諦めが強かったが、それに増して微笑ましい様な感情がカールの口元に自然と柔く笑みを作らせた。
湧いた穏やかな心情に押される様にしてひとつ息を吐くと、冷蔵庫を開く。中身は非常に残念な事に殆どが使いさしの調味料ばかりだった。野菜や肉など新鮮な食材らしいものは入っていない。恐らく食事は惣菜を買って来て済ませているか外食だろう。研究に没頭している最中なら家から出る時間も惜しんで、デリバリーを利用しているのかも知れない。
果たして食事に用いているのかも疑問になる、物の雑多に積まれたテーブルの上を見回せば、保存容器の中には食パンが入っていた。開けてみて、少し乾燥してはいたがまあ賞味期限の範囲だろうと判断したカールは、冷蔵庫から卵と牛乳とバターを取り出した。
水洗いしたボウルに割った卵と牛乳と砂糖を入れてよく撹拌すると、そこに半分に切った食パンを投入。薬罐に水を入れてコンロにかけてから、続けて、一度も使われた事が無いかも知れないフライパンをよく洗い、これもコンロにかける。
換気扇を回し、フライパンに熱が通って来た所でバターを一欠片落とすと、脂の香ばしい匂いが拡がった。
「…うーんん…、」
その香りに釣られてか、シュラフの中のトーマがもぞもぞと動く。触覚や聴覚への刺激よりも食欲の方が効果があったらしい。カールは口端をそっと持ち上げると、溶き卵に浸かった食パンたちを、バターを引いたフライパンの上へと落とした。
じゅう、と音を立てるフライパン。卵の焼ける匂いに遂にシュラフの中のトーマが上体を起こした。内側からチャックを開くと両腕を外に出して、背伸びをしながら大欠伸をひとつ。
「おはよう」
「おはようございます…」
声を投げれば、相当に眠そうな重たい調子が返ってくる。まだ寝足りない様だが、空腹感があったからこそ起きたのだろう。
「直に出来るから顔を洗っておいで」
「はい…」
意識して出した優しい声でそう促せば、トーマはふらふらと立ち上がって洗面所へと消えていく。それを横目で見送ったカールはフライパンの上のトーストたちを引っくり返し、それから湯が湧いた事を知らせる薬罐を火から下ろし、インスタントコーヒーの封を切った。マグカップにセットしてお湯を注ぐ。
と、洗面所に引っ込んでいたトーマが横滑りしながら飛び出して来た。裸足の足が床に擦られて耳障りな音を立てる。
「に、、、っっ、兄さん?!?!」
「顔は洗ったか?」
「え、ええはい…、いやそうじゃなくて!」
意味なく両腕を上下左右に彷徨わせて、実に解り易いリアクションで困惑の態度を見せる弟に、カールは台所のタオル掛けに下がっていた布巾を水に浸し、絞ってから放った。
「テーブルぐらいは自分で片付けろ」
「は、はい…」
飛んで来た濡れ布巾を何とかキャッチしたトーマは困惑顔の侭であったが、言われた事はやらなければと思ったのか、すっかりと物置の様に色々な物の乗ったテーブルの上の僅かに空いたスペースに濡れ布巾を滑らせる。
拭き終えたタイミングでインスタントコーヒーをテーブルに置くと、トーマはそれをちらりと見たものの、濡れ布巾を片手に握りしめた侭でおずおずと口を開く。
「ええと…、いつからこちらに?」
「それは余り重要じゃない質問だな」
カールが素っ気なく返すと、トーマは「また意地悪な言い種を」と言いたげに口を上下させたが、その類の言葉が発せられる事は無かった。漂う香ばしくほの甘い香りに対してぐうと正直に鳴る腹に手のひらで触れて、堪える事にしたらしい。
「着替えて、それから出来たらカーテンも開けると良い。陽光を浴びないのは体にも良くない」
「はい…」
焦げ目の薄くついたフレンチトーストを皿に移しながら言うカールの手つきを横目に、トーマは頷くと大人しく従って、衣装掛けに乱雑に下がっていたハンガーからベージュのシャツを取る。洗濯してその侭室内に干して仕舞ったのか、皺の寄ったそれを着て、それからカーテンを開いた。
「雨、上がったんですね」
そんな事を言って窓から空を見上げる直ぐ横で、ばさばさ、と窓際に積んであったファイルがカーテンに巻き込まれて幾つか落下したが、余り重要なものではなかったのか、トーマがそれに頓着する様子は無い。窓硝子に大分寄せて置いてある、小さな鉢植えだけが無事に残っていた。
その光景に眉を寄せたものの、まあまずは小言より空腹を満たす事か、と歎息を隠したカールは、フレンチトーストの乗った皿をテーブルの上へと運んだ。シナモンシュガーの小瓶を横に添えてやる。
「冷めない内に食べると良い」
腹が減っているだろう?と言って促せば、正直にも頷いたトーマは椅子に腰を下ろした。椅子はもう一脚向かいにあったが、こちらは人を座らせる筈の座面に鞄の類が先に座っていたので、カールは自分の分のインスタントコーヒーを片手に、明るくなった窓辺へと向かった。軽く腰を預けてコーヒーカップを傾ける。
窓辺に置かれた小さな鉢植えは丈夫な観葉植物であったが、放ったらかしにされているのかどこか生彩なく見える。カーテンの向こうで、浴びる陽には困らないかも知れないが、と思ってカールが窓の外を見上げると、雲のひとつもない青空が目に飛び込んで来た。
ああ、矢張り今日はよく晴れそうだ。
「あの、兄さんは」
「今何時だと思っているんだ?朝食は摂って来ているから気にしないで構わない」
まだ湯気を立てているフレンチトーストと兄の顔とを見比べて言うトーマに、これだけ貰う、とコーヒーカップを軽く持ち上げて言うと、トーマは頭を巡らせて時計を見てから、大層微妙な表情をした。果たして、眠り過ぎと思ったのか、それとも寝足りないと思ったのか。
「じゃあ…いただきます」
行儀よくナイフで切り分けたトーストがフォークで運ばれてトーマの口の中へと消える。空腹も手伝ってか嬉しそうな仕草と表情であった。
「──、」
だがそこでトーマの表情が口角を上げた侭に固まったので、カールは堪えきれずくすくすと笑った。
「不味いだろ」
「~っっいえ、いえ!そんなことは」
慌てた様にトーマは大袈裟な程に頭を左右に振ってみせるが、必死に気を遣って本音を隠そうとする弟の生真面目な姿にカールは、悪い事をしたかな、と身勝手な罪悪感を感じながらコーヒーカップを傾ける。
「ヴィオーラが、陛下の軽食にと作っていたのに興を引かれて、見様見真似で何度か作ってみているんだが、上手く行った試しが無いんだ」
「た、卵の比率が些か多いかな…、と感じるぐらいで、ちゃんと食べられます!」
苦笑交じりのカールの説明に、トーマは強い口調で被せる様にして自らの感想を述べる。実際今の侭では美味しくないと言っている様なものだと思って、カールは笑って言い添えた。
「無理はしないでいい」
「いえ!折角兄さんが作って下さったものですし、ちゃんと頂きます」
シナモンシュガーも殆ど掛けず、トーマはむきになった様にフォークを動かす。こうなったら頑固な弟はどう言おうが平らげるまで手を止めてくれはしないだろう。
卵っぽいと言う事は、もう少し牛乳を増やせば良いのだろうか、と、フレンチトースト(仮)と格闘するトーマの横顔を見ながらカールは考えを巡らせる。言われてみれば毎回パンに卵焼きをまぶした様な出来上がりになっている気がする。今回のもきっとそうなっているのだろう。
ルドルフの好物なの、と嬉しそうに言って、楽しそうに台所に立っていたヴィオーラの姿を思い出す。恐らくルドルフはフレンチトーストそのものが好きと言うより、ヴィオーラの作ったものだから好きだと言ったのだろうし、彼女もそれを解っているのだろうと、そう思った。
その場に偶々居合わせなかったロッソは食いはぐれた形になるのかと呟いたら、いつでも作って上げられるもの、とヴィオーラはそんな事を口にした。心の底からその『いつでも』を得難く大事にしていると知れる、悲しみの速やかに去らない事を理解した者の、哀切と望郷との入り混じった言葉だった。
そんな様子に偶々に遭遇して。家に帰ってからつい気になって、記憶を頼りに真似をしてみた。その時はもっと酷い出来で、食材への冒涜だと自分ながら思ったものだった。
それから何度か同じ事を試してみては成功とは言えないものばかり出来上がっていたが、別にカール自身がフレンチトーストを食べたかったから、と言う理由でやっていた事ではないので、どう工夫すれば良いのか、と改良案は余り考えていなかった。
己の記憶にはない、思いを尽くされた味、と言うものに興を惹かれたのだとは思うが、それが真似事で叶えられるとは思ってもいなかったので、実のところは出来などどうでも良かったのだと思う。
それでいて思いつきでトーマに出したのだから、何にせよトーマには悪い事をして仕舞った。
浮かんだ結論の侭に皮肉めいた笑みを浮かべて、カールは中身を減らしたコーヒーカップを窓辺に置いた。
「ご馳走様でした」
声に視線を戻せば、皿の上のフレンチトースト(仮)は綺麗に平らげられていた。笑って終わりだと思いきや真っ向から向かわれるとはまさか思わず、恥ずかしさとも罪悪感ともつかない情動に揺らされ、失敗を噛み締めて苦笑する。
「無理をしなくとも良かったのに」
「無理なんて事は。栄養価は非常に高いと感じました」
それも暗に不味いと言っている様なものだが、とひねくれた己の感情が思うのを他所に、カールは肯定も否定もせずにただ「そうか」とだけ頷いた。
自分で片付けた食器を洗いながら、ふと思い出した様にトーマが口を開く。
「それで…、あの、何かご用事があったのでは」
「…ああ、」
極秘に任務についての話でもあったのか、と、手を止めて構える気配を見せるトーマに「もう済んだ」とカールは笑みを添えてそう返す。
「え…、掃除をしに来て下さった…、なんて事じゃないですよね…?」
「当たり前だろう。部屋ぐらい言われなくても自分で片付けろ。幾ら研究が忙しいからと言って、部屋を散らかしっぱなしにするのは良くない。心のゆとりは環境にも影響されるんだ」
一応部屋が少し片付いている事には気付いていたのか、辺りを見回す様な仕草と共に訊くトーマをぴしゃりと強い調子で払うと、彼はまだ散らかった侭の部屋をちらりと見て肩を落とした。矢張り当人的には余り散らかしてはいない認識なのかも知れない。
「…じゃあ、兄さんの用事って…、」
「さて。私はもう帰るが、どうせ休日ならまず部屋を片付けてからにしろ。あと、鉢植えにも水をやれ」
言い掛けたトーマを遮る様にして声を上げると、カールは立ち上がって椅子に掛けてあった上着を手に取り、羽織らず小脇に抱えた。ちゃり、と鳴る重みに、先頃ついポケットに仕舞った合鍵の存在を思い出し、取り出して靴箱の上へ置く。
「じゃあ、またな。トーマ」
「あ…、」
待ってください、と言う言葉こそ出なかったが、伸ばされた腕はカールの肩を掴んでいた。然しそれも一瞬の事で、トーマは自らの手の動きにこそ驚いた様な顔をして慌てた様に手を引っ込める。
無視をしてもよかった。気付かぬ素振りでもきっと良かった。だが、カールは足を止めると、窓からの逆光の中で僅かに顔を俯かせた弟を振り向いた。
「……いえ…、いえ、その…」
すみません、と両肩を目一杯に縮めてそんな事を辛うじて紡いだトーマを見上げて、カールは首を傾げてみせた。「どうした?」と出来るだけ穏やかな調子で問いかける。
「お……、」
「?」
「美味しかったです、とても」
意を決した様に顔を起こすなり、神妙な顔つきでそんな事を言われて、カールはきょとんと目を見開いた。
不味いと言う趣旨の発言を二度程聞いた気がするのだが。何を唐突に言い出すかと思えば。
冗談か嘘か下手な世辞を繰り返したのかと思ったが、突然の賛辞を言い述べたトーマの表情はと言えば、相も変わらぬ真顔であった。まるで、愛でも告げる時の様な真剣な表情であった。
「ええと…、~ですから、その、また作って下されば、嬉しいです、と」
「……………………ふはっ、」
トーマの両手は体の左右で、全身の筋肉を強張らせる程に固く握りしめられていて。それに気付いたカールは思わず吹き出した。手の甲を口元に当ててそれ以上の笑い声を噛み殺そうと思うが上手く行かない。
くく、と俯いて肩を震わすカールを前に、トーマは暫し唖然とした様に口を噤んで、然し我に返ったのか顔を真っ赤にして声を上げる。
「に、兄さん!笑うことないじゃないですか!」
「や…、すまない、そんな、…ふふ、、大真面目に言う事か、と」
たったのその一言を口にするのにどれだけ構えているのか、この弟は。休日には会って話をしたり、ただ家族の時間を過ごしたりしたいのだと、普通にそう言えば良いものを。
(大体その言い方だと、毎回不味いフレンチトーストの苦行に堪えなければならないだろうに)
笑い声を手の中に吸い込ませてそんな事を思ったカールは、己も大概だと気付いて、朗らかな笑みを苦味を帯びたそれに変える。
「………解った。そうだな、『次』に来た時はお前の意見を参考に、もう少し牛乳を増やしてみるか」
カールの口にした『次』と言う言葉に、笑いを返された事で少し仏頂面になりつつあったトーマの表情がぱっと明るくなった。が、次の瞬間にはまた落ち込んだ様に項垂れて慨嘆する。
「……すみません。兄さんがお忙しい事は承知しているのですが、我儘を言って…」
「構わない。うちの弟も一丁前に我儘を口に出来る様になったのだと思えば感慨深い」
緩みそうになった口元を人差し指で一撫でして誤魔化すと、カールは未だ紅い顔をしている弟の肩をとんと叩いた。
「それに、偶に甘えるぐらいの事ならば咎める理由も無い」
軍務中であれば別だが、プライベートでまでカールはトーマにあれこれと煩く言うつもりはないし、そうした事もない。だから、トーマがしているのはただの遠慮だ。それも過分な。
「…そんな、子供じゃないんですから」
「そうだな。お前はもう子供じゃない。だが、俺にとっては弟だ」
強くそう言うと、何かを言い淀む様に唇を開閉させたトーマの肩から手を離す。
「なぁ、トーマ」
離れた手の代わりに兄と弟とを繋いだ呼びかけに不敵な笑みを纏わせて、カールは次の瞬間にはトーマの胸ぐらを掴んでぐいと引き寄せた。兄より僅かに丈のある弟の、驚いた様な顔が引っ張られて目の前に下りて来る。
「兄さ、」
「お前なりに俺に色々と気遣って呉れているのも、遠慮をしているのも知っている。だがな、お前の兄を余り見くびるなよ。そして何より、お前はお前で、俺は俺だ。シュバルツ家の人間として、或いはそうでなかったとしても、自分を信じて、もっと胸を張って堂々としていろ」
ごち、と額同士がぶつかってトーマが顔を顰める。それを契機にカールは指を開いた。驚いた様につんのめる、普段は白い頬をすっかりと薔薇色に染めた弟は、それこそ天に手を伸ばし続ける花茎の様に真っ直ぐな性質なのだろうと思って、カールは瞳の光点に憧憬の映っているだろう目を淡い苦笑に細めた。
「…で、なければ、またこうして様子を見に来たくなるだろ」
殆ど音声としては出ないぐらいの声でこぼれた呟きに、トーマが「え?」と聞き返すが、カールは今度こそ背を向けた。
「こ、今度はちゃんと予告してから来て下さい!」
慌てた様に追いかけて来るトーマの声に、カールは返答を濁して笑い声を上げた。
さて。まずは帰りがけに、卵と牛乳を買いに行かなければなるまい。
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この度の想定としては、トーマの成長期を多忙で余り見ていなかった兄さんなので、突然軍人からのGFに入った幼い印象の侭の弟と、子供>大人の成長を何となく聞き知っているバンとを何となく比較していて、トーマはしっかりやれているのだろうかと心配が頭の片隅にあると言うかそんな感じ。
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