とまかる風。 ※pixiv再掲
GF篇ちょっと前ぐらいのシュバルツ兄弟Mousou。

 「兄さん!?」
 突然の大声に目蓋が反射的にぱっと開く。深い水中に沈んでいた体を引き上げられた時の様に、開ける視界と同時に息苦しさからの解放感に意識が眩んだ。
 ずきりと頭部を内側から叩く様な酷い頭痛に、よもや怪我でもしただろうかと手をやろうとするのだが、どうした事か動かそうとした腕が酷く重たい。血の代わりに鉛でも巡っているのではないかと思える程に。
 どさ、と何かを落とす重たい音の後、ばたばたと足音が駆けてくる。
 「兄さん!どうしたんですか、一体何が──」
 「……トーマ?」
 音のした方へ頭を転がそうとした時、見慣れた弟の顔がカールの視界に入り込んだ。酷く狼狽えているのか、血の気の引きそうな顔色に眉をハの字にして、おろおろとこちらを見下ろしている。
 声のした直前を思い出そうとしたら再び頭痛に邪魔をされた。カールは直近の記憶を探る事を一旦諦め、順を追って記憶を手繰って行く事にした。
 
 *
 
 戦後の処理が大分落ち着いて来て、帝国内の復興事業も共和国との友好関係も順調に進む様になってきた昨今。遠方の訓練施設へ出ていたトーマが久しぶりに帝都に戻ると言う報せが本人からカールの元へ届いた。
 ……と言った所で、学生時代からトーマはアカデミー所属の帝都宿舎で暮らしており、研究室もある関係から帝都に居る時はそちらで過ごしている。カールに出来る事は精々が、食事にでも誘って近況を訊く程度の事ぐらいだ。
 だが、一体どこから話を聞きつけたのか、
 「弟がいるんですって?」
 そんな一言から始まった世間話の延長線でカールのそんな話を訊くなり、『翼の男爵』の片割れであるヴィオーラは、普段の如何にもクールな姐御と言った表情をさっと消し、カールの軍帽のつばをぴんと人差し指で弾いてみせてから一言。
 「シュバルツ大佐。貴方、最低でも二日は休みなさい。ルドルフ陛下には私から説明しておくわ」
 そう、妙に凄味のある表情と声色とで言われ、何か抗議に準じた言葉を探すよりも先に、有無を言わさぬ侭にカールのスケジュールは皇帝の邪気の無い笑顔と共に勝手に調整されて、あれよと言う間にまだ日も高いのに私宅まで車で送り届けられていた。
 大佐となってから帝都への在住を求められたカールも軍本部に比較的近い立地に私宅を所有する事となったのだが、休み以外では滅多に帰る事がない。そも、その休みがまず滅多に無い。
 一応は軍関係のハウスキーパーが不定期に入る事になっているので、埃だらけの家で困惑する目には取り敢えず遭ってはおらず、常にそれなりに落ち着ける環境が提供されている。
 それでも居慣れのしない『家』である事は間違いない。カールは門扉の前で溜息をつきつつ、送迎してくれた部下の車を帰らせてから玄関へと入っていく。
 「──」
 ただいま、と言いかけてからやめた。片付いてはいるがどこか余所余所しい空気を漂わせる家にふらりと入ると軍帽を脱ぎ、リビングのソファに深々と腰を下ろす。
 ヴィオーラも故郷に妹が居ると言っていた。一時は故郷に顔を出せない様な事情になった事もあって、長い事会えなかった妹の事を彼女は気に掛けとても大事にしているのだと言う。
 だからこそカールにも『きょうだい』を大事にした方が良いと言いたかったゆえの気遣いなのだろう。彼女の経験なりの。だがそれにしては些かに強引過ぎはしないだろうか。
 でも、こうでもしないとシュバルツ大佐は容易に公と私との優先順序を変えてはくれないでしょう?──まだ幼い身でありながら聡明で利発で思慮深い皇帝陛下が、ヴィオーラの提案に賛同する時に仰せになられたのはそんな言葉だった。
 皇帝陛下直々にそんな事を言われて仕舞ったら、最早カールに反論出来る理由こそあれど要素はない。ついでに言うと勝ち目もない。
 陛下には後で自分から、気遣いに対する礼と謝罪をしておかなければ、と考えを切り上げてから、カールはソファから腰を浮かせた。
 改めて休暇と言う言葉に向き合ってみれば、成程確かにそろそろ休みは必要だったのかも知れない。座って、立ち上がった体にはまとわりつく様な疲労感があった。
 ここまで運転手を務めた部下曰く、「シュバルツ大佐は働き過ぎで、一体いつ休んでいるのかがしょっちゅう話の種になるぐらいです」との事だ。休暇を取られると寧ろ皆逆に安心しますよ。とも付け足された。
 「何しろ、太陽光で発電して動いているとか、光合成で生きているとか、そんな冗談が交わされるのですから」
 部下のそんな言葉も、皇帝とは多少趣は違えどやはり邪気のないもので、カールは内心、自分は部下たちに一体どう思われていたのだろうかと、今更の様にそんな事を考えて仕舞った。
 どうあれ既にこの休暇は皇帝陛下の判押ししたも同然の決定事項だ。横車めいてはいないかと案ずる部分はあるが、部下たちの現場からの声を鵜呑みにするのであれば、カールが一日二日休む事ぐらい問題はないと判断して良いのだろう。
 それに余り煩く言うと、次にこんな事がまたもしも起きたとしたら、その時には逃げ道もなく理由まで完璧に設えた『休暇』を押し付けられかねない。負け戦ならば諦め早く悪足掻きは程々に。
 トーマにも、帝都に到着したらシュバルツ大佐邸へ行く様にとヴィオーラから連絡が入っていると言う。トーマが到着するまでの間に酒でも見繕っておこうかと、リビングを出たカールは書斎兼私室に向かいまずは軍服から楽な格好へと着替えた。それから地下室に仕舞ってあるワインを適当に選び出しておく。
 地下までは掃除が余り行き届いていなかったのか、埃っぽさが少々気になった。普段は使っていない倉庫の様な状態だから致し方のない話だが。
 そんな事もあって、カールはまだ夕刻前だが風呂に入って仕舞う事にした。
 (……それから……、)
 徐々に散漫に、重くなり始めた記憶を何とか手繰る。風呂を出たら窓の外にそろそろ傾き始めた日の光を受けた木々がきらきらと揺れるのが見えて、心地よい風でも浴びたくなって窓を開いた。
 そしてソファに腰掛け、風呂上がりの火照った体温に涼しい風が吹き付ける心地良さにまかせて目を閉じた。
 それから。
 「……
 箇条書きの様に断片的になっていった記憶がそこでふっつりと途絶えている。頭痛に因って何か大事な脳の回線でも寸断されて仕舞ったかの様だ。
 「本当にすみません。夕刻に到着する予定だったのですが、乗って来たレドラーが途中でトラブルを起こして仕舞ってこんな時間に」
 声にふと意識を戻せば、ソファの横には正座して背を丸めたトーマが居た。その発言で漸く、何となくだが、カールは途切れた記憶を継ぎ接ぎに出来た。
 つまり、風呂の後窓を開けた侭、髪も濡れた侭、うたた寝。蓄積されていた疲労の程度は中以上。
 トーマが予定通りの時刻に到着していれば起こされてその場はそれで終わりだっただろうが、トーマの到着は、話の調子からするに予定から四時間ぐらいは遅れたと言う事だろう。
 そしてこの頭痛と節々の痛みと全身の倦怠感。カールはそこで漸く、己が風邪を引いた可能性に脳内で判を押した。
 その確信に全会一致での賛成が決議された所で、トーマが「失礼します」と丁寧に言い置いてから、カールの前髪を除けて額に手のひらを当てた。
 成人男性の平均体温が36・8℃程度で、俺の掌の温度が、とかぶつぶつ呟いていたトーマだったが、色々計算していたらしい割には、至ったその結論は至極シンプルであった。
 「発熱してます。それもかなり」
 「………そうか
 頷く動作をしようとしただけで頭痛が騒音になって脳を揺らしたので、カールは顔を顰めて身を縮める。立ち上がったトーマは開きっぱなしになっていた窓を閉じながら、どうやらそれが原因の大半だと正しく分析したらしい所で、忽ちに泣きそうな表情になった。
 ソファの横に素早く戻って座るなり、がば、と音と共にその頭部が消えた。土下座でもしている様だが、横たわるカールからは生憎金髪の後頭部がちらちらと僅かに見えるぐらいだ。
 「僕の到着が遅れさえしなければこんな事には!」
 床にぶつかってくぐもっている声まで泣きそうだった。カールは思考を遮ろうと脳の奥から攻撃してくる頭痛の鈍さにぐっと堪えながら、「俺の自己管理が悪かった所為であって、お前は何一つ悪くない」と何とかそれだけを紡いだ。
 「然し、」と言い募る、恐縮しきりの声が、起こした顔の表情が、痛ましくいじらしく思えて、それが酷い頭痛よりも余程にカールを痛めつける。
 年齢の離れたこの弟は幼い時分、兄を尊敬し慕う余りに、その兄を前にすると自己評価を途端に低くして仕舞うきらいがあった。己の得意分野を見つけた今ではその気質もすっかりと薄れたと思っていたのだが、根っこの部分にはまだそう言った──言って仕舞えば兄に対する遠慮や気後れの様なものが残っていたらしい。
 「トーマ」
 「はい」
 「全く情けのない話だが、俺自身の責任の所在が、主に自業自得とか愚かとか、そう言った思い当たりと共に存在しているのは間違いない。俺は、自分のミスでお前が心を痛めるのなんて見たくはない」
 鈍い脳の唸り声の合間に何とか思考を紡ぎながら、カールは本音でしかない自己嫌悪の滲む言葉を、窘める時の様な調子で何とか口にした。
 それでも、自分が早く到着していれば何かが違っただろうと可能性を巡らせて仕舞うらしく俯いているトーマに、打って変わって明るい調子でカールは続けた。
 「俺の所為で心配をかけた。すまなかったな。残念だが、休暇は養生の時間になりそうだ。お前も早く帰って──」
 「看病します!」
 その言葉に被せる様に叫んだトーマは、がばりと顔を起こしてカールの顔をじっと見つめて来た。
 カールとしては正直、万一にでも伝染したら悪いから帰らせたい所だったのだが、身を乗り出して口をぐっとへの字にしながら真剣な目で訴えて来る弟の姿にあったのは、断らないで下さい、と言う解り易すぎる態度であった。
 見捨て難い。
 熱でぼやけつつあるカールの脳裏には何故か、雨の街角で段ボール箱から抱えあげた子犬と己とが見つめ合う映像が流れていた。
 看病『させて下さい』ではなく看病『します』と言う時点で既に張り切る気しかなかったらしいトーマは、カールのどことなく疲れた視線から、是、を勝手に読み取ったらしい。腕まくりをしながら立ち上がるその姿は、どことなく頼もしく見えた。……気がした。
 
 *
 
 そこはかとなく左右にふらふらと揺れている兄の体を支えて寝台に丁重に寝かしつけてから、トーマは水差しと、氷をたっぷり浮かべて水を張ったボウルとを持って寝室に入った。
 まだぼんやりと目を開いている兄の額によく絞った濡れタオルを乗せ、水差しからコップに水を注いで枕元にそっと置いておく。
 「栄養のつくものとか買って来ますから、遠慮なく眠っていて下さい。何か欲しいものとかありますか?」
 「………特には」
 余程怠いのか、暫く考える様に眉間に皺を寄せていたが、結局兄からのリクエストはなかった。熱で思考も余り回っていないのだろう。
 トーマに責任はないと兄は言ったが、やはりこちらが予定通りの行動を取れなかった以上は何かしらの責任が生じると思ったし、何よりそんな兄の役に立ちたいと言う思いは強いのだ。
 栄養の付きそうなものや喉の通りの良い水分などを見繕って手際よく買い物を済ませたトーマは、買って来た食材たちを仕舞ってから、替えのタオルや水を小脇に抱えて寝室の扉をそろりと開く。果たして病人はトーマが出ていった時と変わらない姿で、目だけを閉じていた。
 余りに見た目の変化がないので心配になって足音を忍ばせ近づいてみれば、苦しいのか少し険しい顔で寝息を立てている。具合は宜しく無さそうだが生存確認が出来た事に、トーマはほっと胸を撫で下ろした。
 水のコップは、手を付けられる前に眠って仕舞ったのか量を減らしてはいなかったが、額の濡れタオルは大分温くなっている。少し躊躇ってから、繊細な機械部品でもいじる時の様な慎重な動作で、トーマは温まった濡れタオルをそっと取り上げると水に浸してからよく絞って、また同じ様に極めて慎重に兄の額にそれを戻した。
 幾ら慎重に慎重を重ねての動作であっても、自分の体に何か己の体温と異なるものが触れれば、人は大概は目を覚ます。況して兄は軍人でもある。気を張り詰めている時などは、体術の憶えがあるからか、知らぬ者が背後から近づくと身構えるぐらいだ。警戒心は人一倍に強い。
 そんな兄が、トーマが傍に立っても、額に冷たく湿ったものを当てられても、ぴくりとも反応しない。いつもの様子ではない、そこから何だか心細さが滲みて来る様な不安感に駆られて、トーマはベッドサイドに膝をついて座り込んだ。普段の呼吸より速度の早い気のする、苦しげな息遣いの兄の寝姿を祈る様に見つめる。
 いよいよ本格的に熱が上がって来たのだろう、眠る兄の呼吸が明らかに浅く短くなり、口も苦しげに開かれている。魘されている様なその様子に胸がぎゅうと締め付けられる心地がして、トーマは今正に病と戦っているのだろう兄に少しでも寄り添ってやりたくて、然しそれが叶わない事が解る悔しさから、シーツの上に額を押し付けた。
 弱っている兄の姿などこれまでトーマは見た事が無かった。況してや多忙からの疲労が原因で、窓を全開でうたた寝をして仕舞うなどと言う、大凡人間くさい失敗など想像もつかない。
 だからこそ余計に心配になる。状況を考えても最初の診断を誤ると重症になりかねない様な病とは違って、疲労していた所に体が冷えた事を原因にした『ただの風邪』なのだと解っていても、憶えのない状況を前にすれば、ただでさえ兄を大事に思うトーマだ。確率の極めて低い様な可能性までぐるぐると考えて仕舞わずにはいられない。
 (風邪をひくと心細くなる、なんて良く言うが、看病している側がそうなってどうする!)
 弱気に感じた自己嫌悪を振り切る様に己の頬を軽く打つと、トーマは身を起こした。こんな時だからこそ自分がしっかりとするべきだ。いつまでも、情けない弟と呼ばれるのは御免だった。
 椅子を引っ張って来てベッドの直ぐ横に置いたそこに腰を下ろし、額の濡れタオルをまた取り替え、ついでに寝苦しさを物語る様な寝汗もそっと拭った。
 何度もそんな事を繰り返しながらじっと見守るだけの時間が続いた。
 どのぐらい時間が経過しただろうか、やがて呼吸は穏やかになり、眉間の深い皺も消えてきた。ふと見やると、閉じられたカーテンの隙間からはもう陽が差し込み始めている。長い夜は越えたらしい。
 もう一度眠る兄を見る。そっと触れてみた頬はまだ平常とは言い難い体温だったが、一番酷い発熱の苦しみは越えたのだろう事が見て取れて、トーマは脱力にも似た安堵を憶えつつ深々と息を吐いた。
 水を張ったボウルに浮かぶ氷の数は大分少なくなって仕舞ったし、角も取れてすっかりと丸い。水を替えて来ようとトーマが椅子をそっと引いた時、兄が僅かに身じろいだ。
 「ぅ……、ん
 眉間に皺を寄せて、何度か震えて苦戦しながらも目蓋が開かれる。ずっと目を閉じていたからか、水の膜で濡れた様な翠玉の色の目がぼやりと天井を見上げて、それから傍らに居るトーマの姿を視界に認めた。
 「……どうしたんだ、トーマ。何か、辛い事でもあったのか?」
 未だ熱で夢と現の間をふわふわとしている様な兄の声は、寝起きで掠れていても酷く優しい響きを以て、トーマの心の不安で満ちていた寂しい部分へと自然と入り込み、忽ちにそこを暖かく満たした。
 トーマのにとって兄は、触る事の出来ない光の様なものだった。兄が軍務に就いてからは、偶の休暇ぐらいしかまともに会える時間も少なくなっていたが、それでも兄はたった一人の弟をしっかりと愛して呉れていたと思う。
 だからこそ、突き放されたと感じた時にトーマの裡には他の何を以ても埋め難い空隙が生じて仕舞った。兄へと抱いた承認欲求がその侭寂しさになって、いつまでも物足りなくそこに茫漠の海をただただ見出し過ごした。
 そこに、ふわりと暖かなものが触れている。兄の手だ。トーマの頬に優しく触れて、あやす様に撫でている。暖かい、手。
 トーマは己が泣きそうな表情をしていた事に気付いて、ぐし、と鼻をすすってから「いいえ」とかぶりを振って、兄の手を大事に大事に両手で覆った。
 「嬉しい事が、あったんです」
 ほろりと安堵に砕けた声でそう言って笑うと、兄は小さな声で「そうか」と頷いた。
 「良かったな」
 「はい」
 両手で包んだ兄の、今は力の無い手のひらをそっと自らの額に押し当ててから、トーマは両手を開き、兄の手を、外気で冷えて仕舞わぬ様に布団の中へと戻した。
 そうでもしないと、離し難くて堪らなかった。
 
 *
 
 食事を取らせて解熱剤を飲ませて、また寝かしつける。三度きっかり、そんな事をしながらただ傍に付いているだけの一日がまた終わろうとしていた。
 流石に眠気と疲労があったので、カールの眠るタイミングを見計らってトーマも仮眠を取った。看病を言い出しておいて自分が体調を崩す様な事になれば、兄は己を責めつつも悲しむだろう。いや寧ろ激怒するだろうか。何れにせよそれでは本末転倒だ。
 すっかり夜も更けた頃、トーマは薬を飲んで再び横になろうとしていたカールの額に手のひらを当てて大凡の体温を確認してみた。解熱剤の効能もあってか、昨晩の同じ時間帯とは比べ物にならない程にその体調は落ち着いている。明日にはもう完全に熱も下がって動ける様になりそうだった。
 「この分なら仕事に穴を開ける事にはならなさそうだ。然し、折角帝都に戻ったのに煩わせてすまなかったな、トーマ。いつかちゃんと礼を兼ねて埋め合わせをしなくてはな」
 肩から掛けた厚手のブランケットを胸元に寄せて言う兄に、トーマは「好きでやってる事ですから」と笑って返した。実際恩を着せる様なつもりなど全く無いし、そう思われたくもない。
 「そう言うな。そうでもしないと、私が後でヴィオーラに何を言われるか解ったものではないんだ」
 いつになく優しい調子の兄のそんな言葉は、トーマのそんな心情を理解しつつ、且つ受け取り易い様にと気を遣ったものだった。その言い種からも、随分と調子を取り戻して来ているのが伺えた。
 カールが言うのは事の発端になった、ヴィオーラとの遣り取りの事だろう。トーマも、通信越しで初対面した彼女から僅かの雑談の後に「偶にはお兄さんに甘えて来なさい」と崖から突き落とす様な調子で言われただけで、兄との遣り取りの詳細までは聞いていないのだが、兄にしては珍しく反論の間も無く押し切られたらしい。
 そうしてトーマは訳も解らない侭に崖からのフリーフォールをさせられた挙げ句に、先に崖下に落とされていた兄の看病をするに至ったと言う訳だが。
 ひょっとしたら、舌回りの良い兄が珍しく言い負かされなどしたらしい経緯も、既に疲労で体調を崩しかけていたからだったのかも知れない。そう思うと、そんな兄の看病をトーマがする事が出来たのは、まるで何かの巡り合わせの様だと考えて仕舞う。
 薬の眠気が未だ来ないのか、兄は少し退屈そうに両腕を前に出して伸びをしている。「そうだ」とふと思い出したトーマは寝室を出てキッチンへと向かった。冷凍庫から、昨日買って来たアイスクリームを出し、小さなティースプーンを一緒に持って戻る。
 「アイス?」
 すっかり定位置となった椅子の上に戻ったトーマが差し出すそれを見て、カールは頬杖をついた侭に小首を傾げる。
 「はい!熱がある時は、アイスとか果物とか、そう言うものが美味しく感じられるでしょう?」
 幼い頃に熱を出した時の記憶がそんなものだった。買い物をしながら思いついたのだが、兄もそれに憶えでもあるのか、成程と頷いている。
 小さなカップの蓋をぱかりと開くと、トーマはアイスを掬った瀟洒なデザインの匙の持ち手を差し出した。
 「どうぞ、兄さん」
 冷たいアイスの乗った匙を三秒ほど見た兄は、少し考える様に目を游がせてから上体を傾げて口を開いた。
 「──え、」
 思わず硬直するトーマの前で、兄は伏せがちにした目でちらりとトーマを見上げて、開いた侭の口を匙に少し寄せる。
 その意図する所は明白であったが、信じ難いとか、まさか、とか、いやそんな、とか──トーマの思考はぐるぐると一箇所のゴールを前に巡り、やがておずおずと、開かれた兄の口に匙をそっと差し出す。
 果たしてこれで正解なのだろうか。考える間もなく、カールは口を閉じて匙の上のアイスを食んだ。
 「確かに、冷たくて美味しいな」
 ふ、と悪戯っ子の様に笑って促される侭、トーマがもう一度アイスを掬った匙を差し出せば、やはり一度目と同じ様にして、甘い氷菓子は兄の舌先に溶けた。
 髪を押さえ、僅かに首を傾がせ、伏せた目で口をそっと開く。たったそれだけの所作だが、あらゆる所で概ね満点の評価を出すカール・リヒテン・シュバルツがやると、いっそ呆れるぐらいに優美だった。やっている事はと言えば、匙を自分で動かす事を横着して、食べさせろ、と弟に甘えているだけなのだが。
 何度か匙が兄の口元とアイスのカップとを往復した頃に漸く、そんな兄の姿を見慣れなかった事だけが原因ではあるまいが、トーマは困惑顔を浮かべた。
 「……兄さんも、誰かに甘えたり出来、いや、するんですね
 「ふふ。お前に看病される事なんて滅多に無いだろうからな。堪能しようと思って」
 鼻を鳴らして忍び笑った兄が、嫌なら良いぞとばかりにトーマの持ったアイスのカップに手を伸ばすので、トーマは体ごと捩ってそれを拒否した。
 「そう言う事なら、僕も堪能させて貰います。折角ですから」
 手でカップを持っている為、溶けかけて仕舞っていた縁のアイスをぐるりとまとめて掬って差し出しながら言えば、兄の優しげに微笑んだ唇は大人しくそれを味わい、喉を鳴らした。
 
 *
 
 薬が効いて来たのか、開いていたカールの目蓋が段々と怠くなって来る。
 「そろそろ休んだ方が良さそうですね。まだ病み上がり、上がってもいないんですから」
 アイスのカップを片付けたトーマはそう言って、カールが身を起こす時に肩に掛けていたブランケットをそっと取った。丁寧に畳んで布団の上に置く。
 促される侭にカールが枕に頭を沈めると、よく冷えた濡れタオルが額にまた乗せられた。暖かな体温の呉れる、ひんやりと冷えたそれが心地よくて、もう目蓋など開いていられなくなって仕舞う。
 幾らヴィオーラがあれこれと兄弟の過ごし方に物申したとしても、トーマにはトーマの帝都での過ごし方があった筈だ。絶対に必要な事からそうでもないものまで。色々な事が。
 そんなトーマの時間を二日も使わせて仕舞った。記憶は熱の所為でか曖昧で定かではないが、夢現に目を開ける度に直ぐ傍で心配そうな表情を浮かべてそこに居た。カールが何度目蓋を開いても変わらずそこに居たのだから、きっとトーマはそれこそほぼ二日の間ずっと『看病』と称して、兄を見守っていて呉れたのだろう。
 これは、しっかりとした埋め合わせをしなければ己の気が休まらない。
 何をしようかと考えを巡らせながら眠りに落ちて行こうとしていた所で、ふとカールは思いついて目蓋を薄く持ち上げた。
 トーマ。
 囁く様にしか出ない声で辛うじてそう呼べば、「はい?」と直ぐに気配が近づいた。
 「滅多に戻れない家だが、帝都での俺の家は此処と言う事になっているんだ
 「……はい。知ってます、けど」
 トーマの困惑する声が返るが、それさえも遠くなって来た。意識が引き摺られながら沈もうとするのに辛うじて抗いつつ、眠気に負けた目蓋は早々に諦めてカールは今にもばらばらに解けそうな思考をなんとか繋いだ。
 「誰も居ない家だから、帰り甲斐が無いんだ。だからトーマ、帝都に来たらお前は、此処に帰って来ると良い」
 帝都に二人共居るのなら、此処が、兄弟の帰って来る家で良いだろう。
 辛うじてそう言えたか、言えなかったか。
 完全に眠りに落ちていくその寸前に、ぐしゃりとした声が聞こえた気がした。
 「ただいま、兄さん」


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ブラコン気味な距離感が常態だったらいいな的なシュバルツ弟→兄。
トーマが自分のアイデンティティを『兄にはないものを』と確立させたのならば、逆に兄さんの存在が無いとそれは成立しないので、我以外は全部兄さんへの尊敬やら思慕がベースで出来ていると思って過言ではない?(暴論