botanin5
2024-11-14 00:55:22
35649文字
Public トレ監♀(小説)
 

贈り物をどうぞ

男装している自分と付き合ってるはずの先輩に、彼女が出来たと噂がたってあたふたする話
※監は特に設定なし
※モブ女出てくる

トレイ先輩に彼女ができた。
らしい。


事が話題に上がったのは、昼休み。体力育成の後で疲れ切っていてあまり食欲がなく、軽いスープとパンをなんとかお腹に押し込んでいる時だった。


……彼女?」
「やっぱ監督生も初耳?まぁ、同じ寮のオレらが昨日の夜に聞いたばっかりだし、そりゃそうか」
「隣のクラスの奴が、街に降りた時にクローバー先輩を見かけたらしい」
「え、でも、一緒にいただけじゃ彼女かどうか分からなくない?」
「腕組んでたんだって。ほら、目撃した奴から盗撮写真もらった。後ろ姿だから、相手の顔は分からなかったらしいけど」
「写真撮るとか、悪趣味」
「でも気になるだろ?」


そりゃ、気になるに決まっている。
エースとデュースの言葉が上手く飲み込めない。パンが口の中の水分と一緒に思考力まで吸い取ってしまったみたいだ。
恐る恐る差し出されたスマホの画面を覗き込むと、人混みの中にいるエバーグリーンの髪をした後ろ姿が目に入った。同世代に見える長髪の女の子がトレイ先輩の腕にしがみついて引っ張っている。確かに顔は見えない角度だが、「次はあのカフェに行きたい!」そんな声が聞こえてきそうな雰囲気だった。
これは確かに、彼女に見える。顔は見えないが、以前見せてもらった妹さんとは別人らしい。飲み込んだはずのスープとパンがせり上がってきて、急いで胃に水を流し込んだ。


トレイ先輩に彼女ができた?
そりゃ、あれだけ優しくて、気が利いて、美味しいお菓子まで作る事ができる先輩を放っておく人はいないだろう。
自分もこれまでテスト勉強でお世話になったし、先輩が副寮長として動いているところもたくさん見ている。頼りになる人だ。

でも。


「トレイ先輩が、彼女ができたって言ってたの?」
「んー……直接聞いた奴の話だと、『恋人はいる』って言われたらしいけど。詳しく聞こうとしたら適当にあしらわれたって」
「ふーん」
「どうしたんだ?監督生。変な顔して」
「あーわかった。トレイ先輩に先越されて悔しいとか?男子校じゃなかなか出会いないもんなー。街にいる女って、ロイヤルソードアカデミー生のファンの方が多いじゃん。王子様みた〜いってさ。そんな中で彼女作るとか、トレイ先輩すごすぎ」
「悔しいとかじゃないけど……まぁ、ウチの学校ではあんまり聞かないよね」


ナイトレイブンカレッジだって名門校なのだから、賢者の島に住む島民たちからは一目置かれている。しかし、こと女性相手となると、とことんダメダメになるのが常であった。己を強く見せようとして横柄な態度に出てしまったり、媚びすぎて引かれたり、気遣いが足りなかったり、小賢しさが裏目に出たり……。初めはよくても、ボロが出てしまうことがほとんどだ。もちろん上手く振る舞って恋人を持つ人もいるのだが、それはかなり珍しいことである。こうして学校中で噂されてしまうほどに。

とはいえ、このもやもやは「憧れている先輩に彼女ができてしまった」と感傷に浸る後輩……といった類のものではない。
まして「トレイ先輩さすが!」と感心している訳でもない。

トレイ先輩に“彼女”ができるなんて、おかしい。


だって、トレイ先輩は私と交際しているのだ。

“男の子”のふりをしている、私と。


“男同士”で、付き合っている。





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「どういうことだと思いますか?ラギー先輩」
「いやいや、なんでそんなことオレに聞くんスか。トレイさん本人に確認すればいいでしょ」
……それは、そうなんですけど……


授業のない休日の、朝から昼までモストロ•ラウンジでのアルバイトを終えた帰り道。オクタヴィネル寮から鏡舎までの短い距離を、ラギー先輩と一緒に帰る事が習慣となっていた。シフトを多く入れている者同士、時間がよく被るのだ。普段はグリムもいるのだが、今日の朝は一向に目を覚まさなかったので放置してきていた。気になるドラマがあるからと、夜更かしをするから悪い。いつもだったら3人でだらだらと話しながら帰るのだが、今日はグリムはがいないことで少し込み入った相談ができる。
先生方以外に、ラギー先輩だけが私の性別が女であることを知っているから。先にその訳をお話ししておこう。


以前、接客中に客として訪れていたサバナクロー寮の生徒同士が喧嘩を始め、ぶちまけられたコーヒーを頭から被ってしまった。ベストで胸を潰しているし、黒いTシャツを中に着ていたから、人前で濡れたところで透けても問題ないはずだった。その時も特に騒ぐことなく、オクタヴィネル寮のシャワールームを借りて身体にかかったコーヒーを洗い流していた。
その途中で入ってきてしまったのだ。ラギー先輩が。

私がコーヒーを流しに行くためにホールから消えた後も、喧嘩はなかなか終わらなかったらしい。「あー最悪」と悪態をついてドアを開けたラギー先輩は、頭にパフェを乗せていた。お店の方では、最終的に怒ったフロイド先輩が困った客たちを追い出したとのことだった。べとべとのクリームを早く流したかったラギー先輩は、駆け足でシャワールームに来たのだ。これは不可抗力だろう。ベストを脱いだ胸元を見られてしまった。いつかはバレると思っていたので、こちらは案外冷静だった。むしろ、パニックを起こしていたのはラギー先輩の方だったと思う。

「バレた時に使え」とクルーウェル先生に魔法薬を渡されていた。一時的に直前の記憶を消す事ができる液体だ。痴漢撃退スプレーのような見た目のその魔法薬をラギー先輩に吹きかけたことで、先輩は少しの間だけ「私が女である」事を忘れた。しかし、効果は短時間しか維持できず、すぐに記憶は戻ってしまう。ラギー先輩がパフェを流してから、なんとか言いくるめて先生のところへ引っ張っていった。もし誰かにバレたら、事情を説明するから連れてこいという指示が出ていたのだ。私一人で説明するより、先生から話をしてもらった方がよっぽど信じてもらえる。
魔法が溶けて一連の出来事を思い出したラギー先輩は、私の顔を見て一瞬頬を染めたが、先生の説明を大人しく聞いてくれた。異世界から来たことは全校生徒が把握していたため、ラギー先輩は私が性別を隠していたことに理解を示してくれた。


「まぁ、行く場所がないなら、今いる場所で生きていけるように上手くやるしかないッスから」


バレる事は覚悟していても、引かれたり避けられたりしたら辛い。そうなったらどうしようかな、という不安はあった。だから、ラギー先輩の言葉には救われた。
それに、秘密を作ることなく話ができる相手ができたことも、私の気持ちを楽にした。ラギー先輩にとってはいい迷惑だったかもしれないけれど、先輩の前では気を張って男の子のフリをしなくてもいい。それが本当に嬉しかった。
だからついなんでも相談してしまう。トレイ先輩との交際も、エースやデュースには言えなかったが、ラギー先輩には相談できた。今回の、『トレイ先輩に彼女が出来たらしい』ということも、真っ先に報告したのだ。


「でも、トレイ先輩は私のことを男の子だと思っているじゃないですか。なのに告白してくれたから……恋愛対象が男の子なのかなぁって思ってるんですけど」
「そもそも、どうして『自分のことを男だと思っている相手』と付き合うことになった時にオッケー出すかなぁ……。かなりリスキーでしょ」
……だって……私も好きだったし……
「すぐに性別のことを言えばよかったのに」
……トレイ先輩が男の子を好きなら、私の性別を知ったら『やっぱり無かったことにしてくれ』って言われるんじゃないかと思って……
「どうせヤったらバレるでしょ」
「なっ!……それは……そうなんですけど。いや、でもトレイ先輩そういうことに興味なさそうじゃないですか?」
「男子高校生の性欲舐めてんスか?いくらトレイさんが人の良さそうな顔してたって健全な男の子でしょ。まぁ、あの人そんなに『イイヒト』って感じじゃないけど……。とりあえず、いざヤるぞってなった時にバレた方が萎えると思うけどなぁ」
「う……


グサグサと正論が突き刺さる。今の私はトレイ先輩を騙し続けている状況だ。もし、トレイ先輩が浮気していたとしても、強く責め立てることができない。隠し事の後ろめたさが邪魔をするのだ。

自分の性別のことをはっきり言うべきか、否か。
浮気しているのかと問い詰めるべきか、否か。


……フラれたくないよ〜〜」
「そんな深刻にならなくても大丈夫だと思うけどねぇ……
「ラギー先輩、私がトレイ先輩に『女です』って伝える時一緒にいてくださいよ」
「は?絶対嫌なんスけど。巻き込まないでくれない?」
「冷たい……


オクタヴィネル寮から出るための鏡の前に着いてしまった。このまま通り抜ければ鏡舎に入ってしまう。まだまだこの不安を吐き出したい。ラギー先輩は鬱陶しがる割にちゃんと話を聞いていて、それなりに役立つアドバイスをしてくれるのだ。
もういっそ、サバナクロー寮までついていってしまおうか。ラギー先輩の腕にしがみついて、「もう少し話聞いてください〜〜」と泣きつく。


「うわ重。オレこの後レオナさんの軽食作らなきゃいけないんで無理ッスよ」
「作ってる横で一方的に話しますから!作業の邪魔はしませんから!」
「いやもういるだけで邪魔なんスけど……。飯に呪詛吹き込むのやめて欲しいッス」
「お願い〜〜」
「ああもう……


ずるずると引きずられながら鏡を抜ける。「ねぇラギー先輩ぃぃ」と腕にぶら下がる勢いで体重をかけていると、先輩がピタっと足を止めた。不思議に思って前を見ると、壁にもたれて腕を組みこちらを見ているトレイ先輩がいる。目が合うと、少し手を上げて「お疲れ様」と笑った。
しがみついていたラギー先輩の腕をぱっと放して、急いで駆け寄る。


「とっ、トレイ先輩!どうしたんですか?」
「そろそろバイトが終わる時間だろうと思って待ってたんだ。今からクッキーを作るから、一緒にどうかと思って」
「行きます!」
「ラギーも食べていかないか?クッキー」
「ありがたい申し出なんスけど、レオナさんが待ってるんで遠慮しときます。早く行かねーと機嫌悪くなるし」
「それは残念だ」
「じゃあそういうことで」
「あ!ラギー先輩お疲れ様でした!」
「はいはい、おつかれ……ふぁ〜あ」


欠伸を噛み殺しながらラギー先輩は鏡を通り抜けていった。話を聞いてもらいたかったが、仕方がない。トレイ先輩のクッキーの方が優先だ。手招きされたので、着いていってハーツラビュル寮の鏡を抜ける。手を繋ぎたかったけれど、周りの人に見つかるわけにはいかない。歩幅の大きいトレイ先輩の横をちょこちょことついて歩く。ラギー先輩はフロイド先輩に「コバンザメちゃん」と呼ばれているけれど、トレイ先輩の横にいる時の私も似たようなものだろう。


「今日は、グリムはどうしたんだ?」
「昨日夜更かししたから朝起きらてなくて、『僕』だけです。仕方がないので、体調不良ってことにしてあげました。バレてると思いますけど」
「なるほど。相変わらず優しいな」
……いや、そんな。甘やかしてるだけで……


トレイ先輩に褒められると、にやけてしまう。緩む頬を支えているうちに、ハーツラビュル寮のキッチンに着いた。他には誰もいない。キッチンはほぼトレイ先輩のテリトリーになっていて、ご飯の準備か「何でもない日」のパーティーがなければ料理をしにやってくる生徒はいない。トレイ先輩が甘い匂いを漂わせ始めると、どんどん人が増えていくけれど。慣れた手つきでクッキーの材料を用意し始めた先輩を見て、必要そうな調理器具を取りに行く。いつもこうしてお菓子作りに誘ってくれるので、どこに何が置いてあるのか大体覚えてしまった。

ボウルや型抜きを渡せば、トレイ先輩は「ありがとう」と笑ってくれる。その度に胸が締め付けられて苦しい。付き合う前までは、喜びやときめきが顔に出ないように苦労した。「王子様とお姫様」の物語が圧倒的に多いこの世界だが、男同士の恋愛にも寛容だった。いや、私は女なんだけれども。とはいえ、学校内でのカップルはそんなに多いわけでも無かった。外部のお客様が来た時、可愛い女の子をナンパする生徒も多数存在する。
男だと認識されている自分から憧れを超えた視線を向けられたとき、先輩がどう思うだろうか……と、想像したら怖かった。しかし、付き合い始めた今となっては、気負うことなく気持ちを顔に出せる。だって、先輩も私のことを……いや、『僕』のことを好きだと言ってくれたから。


さてクッキー作りのお手伝いだと袖を捲る。しかし、道具を渡したのにトレイ先輩は作業をなかなか始めない。いつもはすぐに脱ぐジャケットも着たままだ。不思議に思って隣を見ると、目が合った。こちらを見ているとは思わなくて「えっ?」と小さな声が漏れた。ふっ、と笑った先輩の視線に、自分の耳がじわじわと赤くなっていくのが分かる。先輩の手が伸びて、耳に触れる。
キスの合図だ。
周りに人がいないか気配を探る。いや、ひと気がないから先輩が仕掛けてきたことは分かっているのだが、どうしても不安になっていつも視線を巡らせてしまう。すると毎回、それを咎めるように、『こっちを見ろ』と言うかのように、耳をくすぐられてしまうのだ。指が耳を這うと、背中がぞくりと泡立つから少し苦手だ。変な気分になる。

トレイ先輩の顔が近づいてきた。
いつもなら、鼻先が当たる頃には目を閉じるのだが、今日は頭にちらつくものがあった。


『トレイ先輩、彼女できたらしいぜ』


唇が触れそうになったとき、無意識に身を引いてしまった。
あ、まずい。避けちゃった。

そう思うが早いか、先輩の手が耳から後頭部へ伸びて私の頭を固定すると、追いかけてきた唇が触れた。ふに、と触れたそれは3秒ほどで去っていく。続いて、トレイ先輩の探るような視線が降りてくる。


「どうかしたのか?」


キスを避けたことなんてなかった。慣れない間は緊張して体が強張ったものだ。トレイ先輩のキスはいつも触れるだけの軽いもので、こうして3秒程度唇を合わせるか、あるいはバードキスのように手短に2、3回触れて離れていく。ふわっと優しく触れる感覚が大好きなのに。今日は頭にちらつく疑念のせいで、うっかり不自然な動きをしてしまった。でも、避けたのに追いかけてキスを続けるなんて、案外強引な先輩に少し動揺した。


「いえ、その……
「何か悩みでもあるのか?」
「えっ……と。トレイ先輩は……『僕』のどこが好きなんですか?」


きょとんとした先輩に、妙なタイミングで脈略のない質問をしてしまったと冷や汗をかく。
後頭部に置かれていた手がするりと首まで降りてから、輪郭を辿って顔に添えられて親指が私の唇に触れる。弱い力ですっと横に撫でられて、ふに、と自分の下唇が押される。トレイ先輩の目を見ると、いつも通りの優しい顔をしていた。


「何か、不安にさせたか?」
……いえ、なんとなく……気になって。どうして『僕』だったのかなって」
「うーん……タルトの食べっぷりが一番良かったからかな」
「えっ!?そんな理由ですか!?それだったら、トレイ先輩が一番好きなのはグリムじゃないですか!」
「ふはっ、いや、冗談だよ。はは、まさかそう来るとは思わなかった。……でも、タルトを食べている時がきっかけなのは本当なんだ。一番幸せそうな顔してたから、可愛くてな」
……それは……ちょっと恥ずかしいです……


付き合い始めた日のことを思い出す。
みんなで課題をするために図書館にいて、参考文献を手分けして探していた。グリムが他の棚へ行って1人になって、少ししてからトレイ先輩と偶然会った。


「今、新作のタルトを考えているんだが、完成するまで他のみんなには秘密にしておきたいんだ。お前にだけ試食して欲しいんだが、今度ハーツラビュルへ来てくれないか?一人で」


そう言われた時は驚いた。
まるで図ったように現れて、一人で来て欲しいとの珍しいお願いに、舞い上がらないわけがなかった。私とトレイ先輩だけの秘密ができたこともあるが、なにより、試食係に私を選んでくれたことが本当に嬉しかったのだ。

次の日の夜、グリムが寝てからこっそりオンボロ寮を抜け出した。ゴーストに見つかってしまったが、「学生は青春を謳歌するのが一番さ!」と快く送り出された。誰もいない鏡舎を通り抜けると、薔薇の木の横でトレイ先輩が待っていてくれた。案内されて静かな廊下を通り抜け、キッチンに入る。誰かに見つかってしまうのではないかとヒヤヒヤした。せっかくの時間を誰にも邪魔されたくない。

すでにタルトは出来上がっていて、私を椅子に座らせた先輩は温かい紅茶をいれてくれた。「今更だが、苦手なものはあるか?」と聞かれて「大丈夫です」と答える。切り分けられた綺麗な桃のタルトは本当に美味しくて、ほっぺがとろけ落ちそうになって急いで抑えたほどだ。隣に腰掛けたトレイ先輩に、急いでこの興奮を伝えたかった。


「トレイ先輩、このタルト、本当に美味しいです……!」
「はは、それは良かった。お前はいつも、すごく美味しそうに食べてくれるよな」
「だって本当に美味しいから……


美味しくて幸せで、上がっていく口角を抑えることができなかった。にこにこと笑顔のままタルトを頬張っていると、トレイ先輩がこちらをじっと見つめていることに気がついた。ちら、と横を見ると目が合って、思わず逸らしてタルトを見つめる。でも、隣の気配をずっと意識してしまって、タルトにフォークを挿す手が震える。観察、されている。不意に手が伸びてきた。驚いて、びくっと肩を揺らしてトレイ先輩を見ると、ふっと笑った先輩の指がふに、と耳を撫でた。ぶわ、とそこから自分に熱が広がってゆく。
耳に触れたままゆっくりとトレイ先輩の顔が近づいてきて、心臓がこれ以上ないくらい暴れて動けずにいると、ふに、と唇が触れ合った。先輩の眼鏡が当たらない程度の軽い、瞬間的なキス。


……なんで、」
「ごめんな。……好きだなぁと思ったら、つい」
「わた、……『僕』も、トレイ先輩が好きです」


反射的に一人称を直した自分を褒め称えたかった。突然すぎて、逆に頭がフル回転している。耳を覆うように添えられていた先輩の手に触れながら、大切なことを確認する。もしかして先輩は、忘れているのかもしれない。「あの、『僕』……この世界の人間じゃないんですけど」と震える声で言えば「……そうなんだよな……」と先輩は困ったように笑った。


「伝えない方がいいだろうって、思ってはいたんだが……。悪い」
「いえ、その……嬉しかったです」
「帰る方法はまだ見つからないんだろ?」
「そうですね……
「先の事はこれから考えることにしないか?今は……俺の恋人になってほしい」


いつも用意周到で、常に先のリスクを踏まえて行動している先輩にしては珍しいなと思った。それくらい、自分のことを思ってくれているのかと嬉しくもなった。元の世界に帰ることになったらどうしよう。その不安をひとまず先送りにして、自分の感情に任せてトレイ先輩の手を取ったのだった。


……また考え事してるな」


ハッと目の前のトレイ先輩を見る。危ない、思い出す事に集中してぼーっとしてしまった。
先輩に、街中で一緒にいたという女の子の事を聞きたい。でも、もしトレイ先輩が女の子と付き合いたいと考えているならば、フラれてしまうかもしれない。私だって女ではあるけれど、今更伝えたところで、今まで『男です』と嘘をついていたことはマイナスに働くのではないだろうか。まして、自分はいつか元の世界に帰るかもしれない存在だ。元からこの世界の住人である人の方が、安定している。
もしトレイ先輩が引き止めてくれるなら、ずっと一緒に居てくれると言うのならば、ここに残る選択肢があるのかもしれない。でも、先輩に他に好きな人ができてしまったなら、身寄りのないこの場所で1人で生きていく勇気はない。いくらエースやデュースが仲良くしてくれるからといって、友達は“家族”としてずっと一緒に生活することはできない。こういう時、実家や家族の存在の大きさを実感する。いつでも安心して帰れる場所があるというのは、本当に心強い。


「作らないんですか?クッキー」
……そうだな、そろそろ作業を始めるか」


片眉を下げて、いつものように笑ったトレイ先輩にホッとする。
結局、女の子について尋ねる勇気は出なかった。ジャケットと脱ぐ先輩をそっと盗み見る。どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
無い。
トレイ先輩の、制服のジャケットの胸ポケット。いつもはそこに、マジカルペンと一緒に挿してあるものがあった。
私が、先輩の誕生日に贈った万年筆。
カートリッジ式でそんなに高いものでは無いし、先輩たちにはマジカルペンがあるから使う機会が無いだろうという事は分かっていた。でも、どうしても残るものを渡したかった。時計は高いし、眼鏡はこだわりがあるみたいだし、自分が買えるものは限られていた。そんな中で選んだ万年筆。深い緑色に、落ち着いたゴールドの装飾が施されていた。小さく入っていた四つ葉のクローバーを見て、これしかないと一目惚れして買ったものだった。先輩には言っていないが、実は自分でも同じものを買っていて、カバンの中に入れていつも持ち歩いている。
贈ったとき、トレイ先輩は本当に喜んでくれて、「ちゃんと使うよ」といつも胸ポケットに挿していた。毎日目に入るそれが、嬉しくて、くすぐったくて、先輩がまだ私のことを見てくれている証である気がしていたのに。
その万年筆が、胸ポケットになかった。
いつから無かったのだろう。もう、ずっと挿してあるから最近はわざわざ注視することもなかった。もしかして、しばらく無かったのだろうか。もう、新しい女の子に気持ちが移っているから?ざわざわと、嫌な予感だけが頭の中をグルグルと回る。いや、たまたま挿し忘れただけかもしれない。でも、女の子と居た先輩の写真を見たばかりで悪い想像ばかりが浮かぶ。怖くて聞けない。


「本当にどうした?ずっとぼーっとしてる。……体調が悪いなら、部屋で休むか?」


トレイ先輩の手が背中にそっと触れて、意識を取り戻す。心配そうな顔を見て、は、と息を吐く。落ち着け。


「すみません、バイトで疲れたのかも。今日はもう、寮へ帰ります」
……そうか、こんなタイミングで誘って悪かったな。寮まで送るよ」
「えっ大丈夫ですよ。帰れます」
「体調が悪いのに一人で帰すわけないだろ。歩けるか?」
……はい。ありがとうございます」


先輩の優しい手の温かさに泣きそうになる。へら、っとした笑顔を返して、そっと引かれた手に従ってキッチンを出た。





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「もうダメです……きっともうすぐフラれます……
「なぁーんでそう、すぐ思い詰めるかなぁ」


サバナクロー寮の、ラギー先輩の自室。
無遠慮にベッドへと飛び込んで、キリン柄のクッションを抱きこんで顔を埋める。
勉強机の椅子に座ったラギー先輩が、面倒くさそうに頬杖をついてこちらを見た。同室の人は部活でいないらしい。グリムは今ジャックのところだ。こうして先輩の部屋に潜り込んで、愚痴や話を聞いてもらうことにも慣れたものだ。先輩にとってはいい迷惑かもしれないが。
昨日のことがあってから、次の日の放課後にすぐラギー先輩を捕まえて寮までついて行った。もちろん、無償で先輩のお手伝いをするという条件付きである。トレイ先輩が万年筆を身につけていなかった。もう別れを切り出されたらどうしよう。いやだ悲しいと喚く私に、ラギー先輩はため息をつく。


「だからずっと、本人に聞くのが一番って言ってるでしょ」
「聞けませんよ……怖い……『他に好きな人ができた』なんて言われたら、その場でみっともなく泣き喚く未来しかないです」
「いいじゃないスか、別に」
「嫌ですけど!?」


目の前で泣いたりしたら、トレイ先輩が困ってしまう。もし別れを切り出されるなら、どうにか笑ってさっぱりと話を終えたい。クッションにもう一度顔を落とす。トレイ先輩の甘い香りとは違う、洗剤の香り。そうだ。


「ラギー先輩、トレイ先輩に聞いてきてくださいよ。彼女できたのかって。あと、いつも持ってる万年筆はどうしたんスか〜?って」
「嫌っス」
「即答しなくてもいいじゃないですか!」
「はぁ。アンタ、俺に懐きすぎてる自覚ある?」
「え?」


椅子からゆっくりと立ち上がったラギー先輩が、ぎし、とベッドに片膝を沈ませて近づいてくる。寝るのだろうか。クッションを抱いたまま転がって、仰向けになりながら場所を空けると、ラギー先輩はさらに大きなため息をついた。気がついたら、目の前にあるのはラギー先輩と天井で、私たちの間を阻むのはキリン柄のクッションひとつ。まるで押し倒されたような構図に、ようやく焦る。


「ら、ラギー先輩どうしたんですか?」
「普通、自分のこと女って知ってる相手の部屋に一人でのこのこ入って来ないでしょ」
「でも、ラギー先輩だし」
「もしオレにその気があったらどうするんスか?今から逃げられる?」


そう言われて、目の前の先輩にクッションを押しつけて抜け出そうとする。しかし、すぐに腕を掴まれてベッドに深く縫いとめられた。ラギー先輩の足で挟まれた腰も、びくともしない。下手したら私より細いんじゃないか、なんて思っていた先輩の腕は男の子で、手も私の手首を簡単に一周している。焦るよりもいっそ驚いた私が、呆然として「……動きません」と呟くと、先輩は「ほらね」と呆れた顔をして手を放した。そのまま体勢を起こして、壁に背を預けてベッドに座り直す。私も身体を起こし、膝を抱えて座った。


「こーんなことが簡単に出来ちゃう環境に、君はいるわけ」
「はい……
「んで、トレイさんは気づいてる。最近、……最近だけでもねーけど、あの人の牽制すごいんスよ。廊下で会えば『いつも世話になってるな』なんていい笑顔で言われるし。そんな状況なのに『彼女できたんスか?』なんて聞いたら、オレがアンタのこと狙ってるって思われて、何が起こるか分かったもんじゃない」
「え、でもトレイ先輩、私には何も言ってきたことないですよ」
「アンタの前じゃ余裕ぶってんでしょ」


そう……なのだろうか。トレイ先輩は、私がラギー先輩の話を出しても他の話と同じように普通に聞いてくれる。ラギー先輩は懐きすぎてると言うが、エースやデュースといる時はもっと距離が近い。ケイト先輩だってよく肩を組んでくるし、あまり意識したことがなかった。
いつものトレイ先輩の様子を思い出していると、ラギー先輩に腕を掴まれて立たされる。そして、そのままドアまで追いやられてしまった。


「という訳で、ほら、さっさと出ていく!それと、もうこの部屋には来ないこと」
「厄介払いしてません?」
「おっよく分かったッスね」
「ひ、ひどいー!」


はいはい、じゃあねとドアが閉められた。
とぼとぼとジャックの部屋へ行き、勉強を教わっていたグリムを引き取る。「ジャックってなんだかんだ面倒見良いよね」と言えば、少し照れた様子で「別に好きでやってる訳じゃねぇ。こいつがあまりに『分かんねぇんだゾ!』ってうるせぇから……。さっさと帰れ」と返された。「ありがとう」とお礼を伝えると、「……何かあったのか?」と心配されてしまった。顔に出てしまっていたらしい。話してしまいたい。トレイ先輩のことも、今ラギー先輩に呆れられてしまったことも。でも、ジャックは私の性別も、トレイ先輩と付き合っていることも知らない。突然こんな話をしても、困らせてしまうだけだろう。適当に誤魔化して、訝しげなジャックに別れを告げてサバナクロー寮を出た。




鏡舎を出たところで、トレイ先輩とルーク先輩がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
どき、と心臓が鳴る。
オンボロ寮へ戻るには、すれ違うしかない。前を歩くグリムの後について、出来るだけ気配を消してそろそろと歩く。部活帰りらしい二人は何やら実験の話をしていたが、私たちに気がつくと「やぁ」とにこやかに手を軽く上げた。出来るだけ明るく笑って「こんにちは、お疲れ様です」と返す。グリムがルーク先輩に捕まってしまい、そのまま帰るわけにはいかなくなって、立ち止まる。トレイ先輩に「あれ、今日ってアルバイトの日だったか?」と聞かれて返事に詰まった。


「えーっと、今日は……
「ふむ。この香りは、サバナクロー寮から出てきたんだね?」
「えっ」


実は急にシフトが入って、と返事をして誤魔化そうかと思ったが、ルーク先輩の発言によって逃げ道が絶たれた。ラギー先輩の言葉を思い出して「ジャックに勉強を教えてもらってたんです」と答える。「そうか、えらいな」と笑ったトレイ先輩の笑顔を見て、嘘をついたことに罪悪感が募る。すでに一つ大きな嘘をついているのに、小さな嘘まで重ねていくのは心苦しかった。ルーク先輩には、ラギー先輩の部屋へ遊びに行っていた事がバレているかもしれない。

「なぁ、腹減ったんだゾ」とグリムがお腹を鳴らしたのをいいことに、手早く挨拶をしてその場を離れた。オンボロ寮への道を歩きながら、ぼんやりと考える。今までトレイ先輩とどう接していたのか、よく分からなくなってしまった。どうしよう。ずっと、毎日会えるだけで嬉しかったから……話したいことも溢れるほど出てきたのに。今は、会うたびに『どうやって凌ごう』と考えてばかりの自分がいる。顔を見るたびに、噂の女の子の存在と、自分が偽っている性別のことがぐるぐると頭を駆け巡る。


「どうしたらいいんだろう」


小さな呟きは、風に流され溶けて消えていった。





✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「なんでこうなるかなぁ……


魔法薬学の授業で、グリムが盛大に失敗した。身体を大きくする薬が完成するはずだったのに、薬草を入れる順番を間違えたらしい。魔法薬が完成した者から外に出て試飲していたのだが……私が薬を飲んだ途端、伸びたのは背ではなく髪の毛だった。


「ぶははははっ!監督生、完全に女子にしか見えねー!笑えるわ」
……ヘェ、ソウデスカ……


エースが笑いながらセミロングまで伸びた髪をわしゃわしゃと撫でる。いや、元々女子なんですけど……。とは言えないので、ははは、と乾いた笑いを返すしかない。バレる心配は全く無いようで、安心したような、なんだか虚しいような……。しかし、デュースは「なんだか慣れないな」と気まずそうにしていて、少し可愛いと思った。

昼休み、ご飯の後にエースが「ちょっと触らせて」と髪をいじってきた。クラスの髪が長い生徒から髪ゴムを借りたらしい。真剣なエースを放置して、デュースやグリムと雑談していると、通りがかったケイト先輩が「あれ?監督生ちゃん!?」と声をかけてきてくれた。事情を話すと楽しそうにスマホを取り出してきたので、なんとか写真はお断りする。


「え〜そっか残念。あ、オレにも髪触らせてよ♪」
「え……はぁ、良いですけど」


もうすぐ予鈴が鳴るというギリギリになって、「できたー!」と両側から声が上がる。「マジカメにはアップしないから、撮っていい?」と聞かれ、投稿しないなら……と了承する。まぁ、どんな風になったのか気になるし。ケイト先輩が撮った写真を見ると、曖昧に笑う自分が写っている。伸びた後ろの髪はそのままに、耳の後ろ辺りから下に向かって細い三つ編みが垂れていた。これは、どう見ても……


……レオナ先輩みたい」
「全部三つ編みにするのは流石に嫌かと思ってさ〜。これくらいが丁度いいって」
「うんうん、似合ってるよ監督生ちゃん」
「この後って3年生と合同で植物園だよね。レオナ先輩、絶対イヤな顔するじゃん!怒られるの『僕』なんだけど」


「大丈夫だって。見たい見たい」と、エースは楽しそうだ。遊ばれている。……まぁいいか。どんな顔をするか見てみたい気もする。イヤそうな顔であることは確実だろうが。「早くしないと遅刻するぞ!」とデュースに急かされて、食堂を出る。
早歩きで植物園に着いたと同時に、チャイムが鳴った。よかった、間に合った。「じゃあ、後でね♪」と三年生の集団へと向かっていったケイト先輩を見送り、自分たちは一年生が集まっているところへ近寄っておく。人混みを避けて立っていると、後方の小道からジャックがひょっこりと顔を出した。エースが「なんでそんなとこから出てくるんだよ」と笑うと、ジャックの後ろからレオナ先輩がのっそりと姿を見せる。ラギー先輩から、レオナ先輩の確保を頼まれていたらしい。面倒くさそうに欠伸をしたレオナ先輩が、私を見て眉間に皺を寄せた。そうだ、忘れてた。
……その髪、どうした?」とジャックに驚いた顔をされたため、グリムの失敗からエースとケイト先輩に髪を遊ばれたところまでを説明する。話を聞いた二人は呆れた表情を隠しもしない。ジャックから「集中してねぇからだ」と短く言われたグリムは、「オレ様のオリジナルなんだゾ!」と偉そうにした。


……チッ。めんどくせぇ」


不機嫌そうなレオナ先輩の手がふい、と伸びてくる。指先が片方の髪ゴムに触れた瞬間、プツンと切れた。綺麗に結ばれていた三つ編みがゆるく解けていく。エースをちらっと見ると、怒らせたかな〜と苦笑いをしていた。先輩がもう片方の髪ゴムへと手を伸ばしたと同時に、クルーウェル先生の「Be quiet!」という声が響く。


「今から3年生と1年生でペアを組め。材料の収集は1年生が担当しろ。3年生は、必要な植物について上手くヒントを出してやれ。指導力が評価に入るからな。心してかかれ仔犬ども」


1年生へと配られた紙には植物の名前だけが書かれている。授業で見た事があるものばかりだ。ただ、写真で見ただけではなく、教科書では文章で説明されていたものも混ざっている。上手く見つけられるだろうか。3年生には、ヒントの正誤を判定するバングルが配られた。間違ったヒントを減点するだけでなく、過剰なヒントを与えた場合にもマイナスチェックが入る機能付きだ。あくまで、1年生の知識を引き出し自ら答えを出せるよう導かなくてはならないらしい。


「ーーそれから、キングスカラー。お前はハウルとペアだ」
……チッ」
「ッス!よろしくお願いします、レオナ先輩!」
「クローバーは、グリムと監督生を見てやれ」
「はい」


数名だけ、クルーウェル先生からの指示が飛ぶ。指導力と理解力のバランスが考えられているらしい。レオナ先輩の場合は、サボり阻止だろう。グリムは確かに、トレイ先輩くらい面倒見がよくないと、根気よく付き合ってもらえない可能性がある。私も頑張るつもりだが、最終的に魔法を使うのはグリムだし、あまり口出ししない方が良いのかもしれない。


「よろしくな、二人とも」
「よろしくお願いします、トレイ先輩」
「早く行くんだゾ!オレ様が1番に全部見つけてやるー!」


いつも通り、にこやかにトレイ先輩が近づいてきてくれた。周りに秘密で交際していると、こういう時に少し緊張する。
髪が伸びている事について何か聞かれるかと思ったのに、先輩はまるで普段と何も変わらないといった様子だ。分かりやすく、効率の良いルートを指示される。張り切るグリムを少しずつ誘導しながら、二人で後ろを歩いていった。何か話題を作った方がいいかと少しハラハラしていたが、トレイ先輩が目に入る植物について次々と説明してくれたため、気まずい時間を過ごさずに済んだ。先輩のヒントは的確だ。グリムは次々と紙に書かれた植物を見つけ出し、籠の中はあっという間にいっぱいになった。ペアによっては苦戦しているようで、たまにすれ違う人たちの中には口喧嘩になっているところもあった。トレイ先輩がペアで良かった。
授業の終了まで20分を残し、グリムは全ての植物を見つけ出した。授業終了間際までかかるペアもあるだろうし、この後は実質、自由時間だ。


「じゃあ、これと一緒にクルーウェル先生のところへ持っていくんだ。落とすなよ?」
「任せろ!」


トレイ先輩が腕から外したバングルを籠の中に入れると、元気いっぱいのグリムが植物園の入り口へと向かう。一緒に行かなくては、とついていこうとしたら、後ろから手を掴まれた。振り返ると、ゴーグルを外して眼鏡に戻った先輩と目が合う。


「あの、『僕』もグリムについていかないと……
「届けるくらい一人で出来るさ」
「でも、途中で何か落としちゃうかもしれないですし」
「籠の蓋に軽く魔法をかけておいたから大丈夫だ」


次々と逃げ道を塞がれる。
南国のような植物が生い茂っている通路は、視界が悪く他のペアは見当たらない。声も遠くて、なんだかこの場所だけ孤立しているような気分になる。サイエンス部の活動で植物園によく出入りしている先輩は、人が来づらいルートも把握済みなのだろう。
実験着の手袋を外してポケットへと突っ込んだ先輩の手が、私の髪へと伸びる。


「これ、どうしたんだ?」
「えっと、グリムが実験で失敗して……


さら、と髪を梳く先輩の手がなんだかくすぐったい。なるほど、授業の内容を終えるまで雑談を控えていたらしい。エースとケイト先輩に三つ編みをされたところまで事情を説明し終えると、先輩は「大変だったな」と笑った。今の私は、女の子みたいだとエースが言っていた。トレイ先輩の目にはどう映っているのだろう。先輩は、いつものように穏やかに笑っている。


「こっち側はどうしてほどけてるんだ?」
「あ、授業が始まる時に、レオナ先輩が触ったらゴムが切れて……
……はは。どうやら気を使われたみたいだな」


え?と聞き返そうとしたら、残っていた三つ編みの髪ゴムが外された。ゆるりと髪が崩れる。
ゴムをポケットへと仕舞いながら、先輩は空いた手で私の髪を掬う。そのままキスを落とした。動揺して、少し後退りする。それに合わせてこちらへと足を進めたトレイ先輩に驚いてさらに退がる。しかし、逃げる事は叶わず背中はすぐにとん、と木にもたれかかった。驚いて、背後に気を取られた一瞬の隙に、手が伸びて耳に触れる。キスの合図。耳に沿って顔の横を捉えた手によって、正面を向かされると同時に唇へ柔らかいものが触れる。「んっ!?」と小さく声が漏れた。先輩は通路から私の姿を覆い隠すように立つ。今は授業中なんですけど!?
誰かに見られたらどうしよう。ハラハラしてキスに集中できない。唇がちゅっと小さく音を立てながら触れては離れる。動けないでいると、いつもより熱いものが触れた。つつ、とゆるく撫でた舌に気がついて、目を見開く。トレイ先輩はじっとこちらを見据えていた。思わずぎゅっと強く口を閉じる。少し離れて、もう一度触れた先輩の唇の隙間から、舌先でとんとんと下唇をつつかれる。開けろ。そう言われている。

今までずっと、触れるだけのキスだったのに。急な変化に驚いた。トレイ先輩の右手が私を包むように腰へと回る。空いていた左手は後頭部へと伸びた。唇を触れ合わせたまま、先輩はじっとこちらを見下ろしている。目を逸らす事ができない。じわじわと背中を汗が伝っていく。腰にあった手が、脇腹に触れてゆっくりと上へとのぼり始めた。さっと血の気が引く。このまま先輩の手が進めば、胸を潰しているベストの存在に気づかれてしまう。いや、いっそ今バレた方がいいのか?答えが出ないまま固まっていると、先輩の手は途中でぴたっと止まった。そして、それより上に進む事はなかった。


「おい!どこに行ったんだ子分ー!トレイ!」


はっと息を止める。グリムの声だ。
私があからさまに顔を青くしたのだろう。先輩はすっと目を閉じて……少しだけ眉を寄せてから、そっと唇を離した。


「あの、」
「悪かった」


小さく呟いた先輩が、通路の方を振り返って歩きながら「無事に届けられたか?」とグリムへ声をかける。目が合わなかった。ずき、と胸が痛む。どうしよう、先輩に飽きられてしまったかも。でも今は授業中だし、あれ以上のことなんて出来なかっただろう。どうして突然キスしてきたんだろう。いつもと何か違うことがあっただろうか。もしかして、髪が長かったから……
トレイ先輩とデートしていたという、女の子の写真を思い出す。あの子も、これくらいの髪の長さだった。
ぼんやりとしながら通路へ出ると、グリムが「遅いんだゾ!ふふん、もう課題はバッチリだからな。オレ様たちは自由時間だ!」と嬉しそうに笑った。トレイ先輩が「あと10分くらいで終わりだけどな」と苦笑いする。なんとなく、くしゃ、と自分の髪を掴んでいると、トレイ先輩が「これ、返すよ」と髪ゴムを渡してきた。「ありがとうございます、」と顔を上げた。しかし先輩はすぐに視線を逸らして、グリムに「時間が来るまで、食べられる植物の説明でもしようか」と言い、近くにある葉っぱを取って渡す。グリムは喜んで頬張った。
はぁ、と小さく息を吐いて、髪を結ぶ。トレイ先輩に飽きられるのが怖い。でも、今の中途半端な気持ちのままキス以上のことを受け入れる事は難しい。ぼんやりと手を動かして髪を結び終えると、今度はしっかりトレイ先輩と目が合った。


……その結び方でいいのか?」
「え?」


戸惑った様子でトレイ先輩に言われて、何かおかしかっただろうかと結び目に触れ直す。それから一拍おいて、自分が無意識にポニーテールにしている事に気がついた。
しまった。やってしまった。
急いで髪を解く。髪が長い男性はいるが、ポニーテールにしている人はあまり見ない。生徒の中でも、今のところ見た事がなかった。漫画では長髪の王子様が結び目を高くしているのを見た事があるが、一般的ではないのだろう。自分のような、いつもは髪が短いごく普通の“男の子”が、一番初めに、無意識にする髪型としてはきっとおかしい。不自然なことをしてしまったと冷や汗をかく。


「あ、いや、お前がいいなら……悪い。変に口を挟んで」
「いえ、その……えーと、変でしたよね。すみません」
「そんなことないさ、似合ってたよ」
……あ、ありがとうございます」


気まずい空気が流れる。
グリムは、トレイ先輩に教えてもらった葉っぱを次々と千切って口へと運んでいる。後でクルーウェル先生に怒られたりしないのだろうか。
髪を結び直すのも変な気がして、どうしようかと視線を彷徨わせる。すると、トレイ先輩が「……よかったら、結ばせてくれないか?」と言い出した。


「えっ」
「妹の髪を結んだりしていたから、簡単になら出来るぞ」


片眉を下げて、少し困ったような顔で笑っている。先輩が、髪を結んでくれる。嬉しい。とくとくと心臓の動きが早くなった。自分の頬が熱くなっていくのを感じる。すぐに返事ができないでいると、先輩は頬をかいて呟いた。


……さっきの今じゃ、嫌だよな。悪い、聞き流してくれ」
「嫌じゃないです!お……お願いします」


視線を逸らした先輩に、焦った。思わずぱっと腕を掴んで見上げる。先輩は少し驚いた顔をしていた。さっきのキスだって、授業中という不安がなければ嬉しかった。だって私はトレイ先輩のことが好きなのだから。今ここで断ったら、先輩にもう二度と触れてもらえない気がした。それは嫌だ。手に持っていた髪ゴムを渡して、トレイ先輩の前で後ろを向く。少しして、遠慮がちに髪に触れられている感覚が伝わってきた。そっと、優しく通ってゆく指が気持ちいい。大事に大事に扱われているようで、心がくすぐったくなって目を閉じた。


……よし、こんな感じでどうだ?」


トレイ先輩の手が離れる。目を開けて後頭部を手で触れると、どうやらハーフアップに結ばれているらしかった。ケイト先輩やヴィル先輩を思い出す。この結び方なら、そんなに目立つこともないだろう。振り返って先輩の顔を見ながら「ありがとうございます!」と伝える。「どういたしまして」とトレイ先輩が笑ったところで、クルーウェル先生から集合の合図がかかった。




「あれ、結び直した?」
「うん。邪魔だったから」


植物園の入り口へ着いたところでエースに尋ねられ、適当に返事をする。トレイ先輩に結んでもらったと言うのは変だろう。先輩はすでに3年生が集まる辺りに移動してしまっていた。少し寂しい。

今日も、先輩は万年筆を挿していなかった。もしかして、無くしてしまったのかもしれないと思った。それで私に言えずにいるのかも。
もしそうなら、また別の何かを贈りたい。ペンはなんの拍子に無くなってしまうか分からない。もっとちゃんと、残るものがいい。……もし今後トレイ先輩にフラれたとしても、捨てられずに残るもの。


週末に買いに行こう。
こっそりとそう決めると、その後はずっと何を贈ったらいいか考え込んでしまって、午後の授業の内容はなにも覚えていなかった。




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休日の午後。
グリムと一緒に賢者の島の街中へ降りてきた。

せっかくだからお給料で好きなものを買わない?と提案すると、グリムは二つ返事で付き合ってくれた。私服は持っていないので、制服だ。魔法薬はまだ解けておらず、髪は相変わらず伸びたままだ。クルーウェル先生によれば、魔法が解ければ元の髪の長さに自然と戻るとのことだったので、しばらくは長い髪を楽しむことにした。トレイ先輩のハーフアップが嬉しくて、あれから結び直すたびに同じ髪型にしている。

さて、トレイ先輩に贈る物を考えなくては。何にしよう。万年筆みたいにすぐ何処かへ転がっていったりしないで、ずっと先輩のそばに置かれ続けるものがいい。捨てられない物がいい。先輩の隣にいるのが私じゃなくなっても、ずっとずっとずっと、部屋の隅っこでいいから残るもの。
グリムは、学園の外での買い物という珍しい状況にずっと浮かれている。彼は何か特別な物を買いたい訳ではなく、とにかく美味しい食べ物が欲しいようだった。グリムの後を追いかけながら、ガラス越しに見える店内を流し見て行く。これといってピンとくる物がない。困ってしまった。
万年筆なら、シャーペンやボールペンよりは長く保つと思った。無理してでも長持ちしそうな腕時計を買うべきだろうか。でも、壊れてしまったら?眼鏡はどうだろう。先輩は、スペアをたくさん持っている。使わない眼鏡は処分されてしまうかもしれない。個人的なアクセサリーを付けているところは見た事がない。置き物がいいだろうか。でも、捨てられる可能性は十分にある。


……何なら、残るの……


焦りだけが募る。
お財布は私が管理しているので、グリムにあれが良いこれが良いと引っ張り回される。お給料は別だから、自分用とグリム用の2つを作っていた。今日は自分も大きな買い物をするつもりだったし、グリムの出費を強く諌めることができない。
ふと、店頭に出された手書きの看板に描いてあるスイーツに目が止まった。グリムも「コレを食うんだゾ!」と手をわたわたさせている。エクレアだろうか。よくあるチョコが表面に塗られているものではなく、クリームの色はピンクや黄色、水色だった。上にはチョコレートやナッツ、細かく砕かれたドライフルーツが乗っている。「美味しそう」と呟くと、それを了承と捉えたらしいグリムが意気揚々とお店へ入っていった。

「オレ様は猫じゃねー!」
後に続いて店内に入った瞬間、グリムの不機嫌そうな大声が聞こえる。入り口のガラスには“ペットはテラスのみ可”と書かれていた。グリムはモンスターだけど、毛むくじゃらな生き物であるところは同じだ。店員さんに謝って、お店の横道を通ってテラス席に場所を取る。グリムを待たせてテラスから続くドアから店内へ戻り、頼まれた通りの注文をする。グリムは全種類食べたい!と喚いていたが、1つ500マドルもする。節約させていたためお金はある程度手持ちがあるが、おそらくこの他にもお店に行くはずだ。食べたい物が他にもあるでしょ?と言って、なんとか2個に留めさせた。私も自分が食べる分を1つ注文する。
店員さんはアルバイトだろうか?歳が近いように見える。にこっと笑った顔が可愛い女の子だ。指先にはネイルが綺麗に乗っていて、メイクは派手ではないが目を惹く。少しドギマギしながらお財布からお金を取り出すと、店員さんが笑顔で1枚の紙を見せてきた。


「今、1000マドル以上のご購入で申し込みできる抽選企画がございまして。応募用紙をお持ちになりますか?」
「へぇ……上位の賞が当たらなくても、全員に500マドル分の金券が届くんだ……。はい、やります」
「ではこちらに……あ、ごめんなさい、ボールペンのインクが切れてる。すぐに替えのものをお持ちしますので」
「ああ。ペンなら持ってるので、コレで書きますよ」
「ありがとうございます!お手数をおかけしてしまい、申し訳ありません。店長に応募はアプリを使おうって言ってるんですけど、どうもスマホやパソコンが苦手らしくって」


結構おしゃべりな子だ。でも、話しやすいし苦ではない。応募用紙は出入り口の隣に置いてあるボックスへ入れるらしい。テラス席で書いて、店を出る時に突っ込んでいこう。紙を受け取って、話を聞きながら万年筆を取り出す。


「大変ですね」
「そうなんで……


突然、女の子が黙った。不思議に思って顔を上げると、目を見開いて固まっている。視線の先は、私の手元だ。トレイ先輩とお揃いの、万年筆。


「あの……どうかしましたか?」
「あ、いえ。あの……ナイトレイブンカレッジの生徒さんですか?」
「はい。あ、応募用紙に書く住所って学校でも大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」


制服を着ているし、学園の生徒であることは誰が見ても分かるはずだ。万年筆を見てから、改めて尋ねられたことに違和感を覚えた。もしかして……このペンに、見覚えがあるのか?
まさか。いや、この程度で決めつけるのは良くない。
商品を渡される。さっきまで明るく元気に対応してくれていた女の子の表情が、少し固い気がした。口は笑っているけれど、目は笑ってないような。お礼を言って、テラス席へと戻る。グリムの分を渡してから、そういえば飲み物を頼むことを忘れていたことに気づく。注文し直そうかと店内へ視線を向けると、レジに立つ先ほどの女の子と目が合って、すぐに逸らされた。思わず、こちらも目を逸らす。
見られていた……
もしかして、あの子が“そう“なのだろうか。トレイ先輩と一緒に写真に写っていた女の子。確かに、髪の長さはあれくらいだった気がする。私が先輩と同じ万年筆を持っていることを、察したのだろうか。ならば、まだ先輩の手元に万年筆がある頃から会っていることになる。いつから知り合いなんだろう。いや、そもそも知り合い程度の関係なのか?思考がまとまらない。ぐるぐると考え込んでいるうちに、グリムが私の分のエクレアにまで手をつけたので、結局食べ損なってしまった。しかし、どのみち気分が悪くて食べられなかった気がする。


「なぁー、本当に何も買わなくていいのか?」
「うん。そろそろ時間だし、帰ろっか」


結局、グリムのグルメ散歩に付き合って休日を終えた。
あの可愛い女の子のことが頭をぐるぐると回って、トレイ先輩への新しい贈り物は何も浮かばなかった。





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「速報!じゃーん。トレイ先輩の彼女第二弾!」


楽しそうなエースがスマホ画面を見せてきたのは、あの買い物から2週間近く経ってからだった。トレイ先輩との雰囲気は相変わらずギクシャクしたままで、贈り物も特に浮かばず、何も出来ていない。そして、トレイ先輩の胸ポケットには相変わらず万年筆が無かった。
エースから受け取ったスマホを眺める。先輩は横顔だが、今度は女の子の顔がしっかりと写っていた。あの子だ。やっぱり。カッと頭が一瞬熱くなって、気持ち悪さが胃に巡る。飲み込めない何かが喉に居座っているようだ。
エースがニヤニヤとしながら私の手からスマホを奪い、画面をスクロールする。


「な、めっちゃ可愛いくね?トレイ先輩どこでこんな子捕まえたんだろーな」
……その人。下の街にある、エクレアのお店の店員さんだよ」
「は!?まじ?お前行ったの」
「うん、この間グリムと一緒に街に降りたとき入った。レジで対応してくれたの、この人だと思う」
「はぁ〜?まじかよ。こんな小さい島にも出会いあるんだ。どうだった?」
「何が?」
「生で見ても可愛い?」
……うん、めっちゃ可愛い」


「まじか」と笑うエースは楽しそうだ。毎回どうやってこんな写真を撮っているのかと聞けば、ハーツラビュルの3年生に自分の姿を変えるユニーク魔法の持ち主がいるらしい。便利だな。私にもそんな魔法が使えれば、男装で苦労せずに済むのに、なんて思った。

さて、どうしよう。これでトレイ先輩が女の子と2回も出かけていることが確定した。浮気だと責められても文句は言えないのではないだろうか。エースに頼んで、写真をスマホに送ってもらう。やっぱり、可愛い。それに、男装でメイクすらしない私に比べて、髪を巻き、ふわふわのスカートとヒールの高い靴を履いたこの子の方がトレイ先輩に合っている気がした。今は同じ髪の長さであることが、余計惨めに思えた。胸が苦しい。

ラギー先輩に、愚痴を聞いてほしい。でも、迷惑だと思われている。悶々としていると、デュースがなにやら膨らんだ可愛らしい袋を持って現れた。それを見たエースが「なにそれ、似合わねぇー!」と爆笑する。デュースは少し怒って顔を赤くしながら「これは僕のじゃない!監督生に届けるよう、先生から頼まれたんだ!」と言う。


「え?『僕』に?」
「ああ。お前、この前街へ行った時に何か応募したんだろう?当たったらしいぞ」
「えっ……応募はたしかにしたけど。この大きさ、金券じゃないな……


デュースから袋を受け取る。両手で持たなければならないほどには大きい。エースが「開けてよ。気になるし」と言うので、その場で袋から中身を取り出す。出てきたのは、エクレアに変な顔がついたぬいぐるみだった。手足も生えている。その瞬間、薬草のような香りがふっと鼻を掠めた。「え〜なんだよコレ。きも」とエースが横からわしっとぬいぐるみを掴む。たしかに、お世辞でも可愛いとは言えないビジュアルだ。グリムは「食いもんじゃねーのか」と落ち込んでいる。
飽きたエースとデュースが部活に行くと言うので別れを告げて、アルバイトへ向かうためにオクタヴィネル寮へと足を向ける。

エクレアの人形を眺めていると、再びあの可愛い女の子のことを思い出してしまった。とぼけた顔が、憎らしく思えてくる。これ、トレイ先輩に渡したらどんな顔をするだろうか、なんて意地悪な考えが浮かんでしまって頭を振る。人形を袋へ無造作に入れて、廊下を進む。トレイ先輩とは話したりもするが、あの植物園以来キスどころか接触すらしていなかった。いつも、一人分の距離が空いている。このまま自然消滅みたいになるのだろうか。先輩の人生に爪痕を残してやるために贈り物をしようと思っていたけど、何もしないでさっさと消えた方がいい気がしてきた。ただの先輩と後輩に戻った方が、いいのかな。マイナス方向へとばかり考えが進む。
……なんだか、お腹が痛い。
手で胃のあたりを押さえる。だんだんまっすぐ立っていられなくなって、前屈みになりながら歩く。前を歩くグリムは気づいていない。元の世界にいた時も、腹痛で動けなくなったことが一度あった。何かおかしな物でも食べたのかと家族に病院へ連れて行かれたが、原因はストレスだと言われた。その時は、お腹だけじゃなくてーー。


「ちょっ、大丈夫ッスか!?」


ついに蹲ってしまった瞬間、後ろからそっと背中に手を添えられた。振り向いて、「……ラギーせんぱい」となんとか声を出したが掠れていた。ラギー先輩が心配そうな顔をして何か言っているが、よく聞こえない。ようやく事態に気がついたグリムがこちらへと駆け寄ってくる。なんだか幕がかかったような、ぼんやりとした声しか聞こえない。
ラギー先輩に抱えられながら、保健室へと連れていかれた。リモートで病院に繋いでもらい、ホログラムみたいな透けた先生から診察を受ける。これも魔法の一つらしい。すぐにしっかり見てもらえてすごいな、なんて思っていると、隣についてくれていた保健室の先生が紙に『突発性難聴』と書いて見せてくれた。「前にもなったことあります」と言えば驚いた顔をされた。紙に続きが書かれる。
『今回、君の耳が聞こえなくなったのは、妖精のイタズラだよ』
今度はこちらが驚く番だった。元の世界で患った時は片耳が聞きづらくなる程度だったのだが、確かに、今回は両耳とも上手く聞こえず程度が異なる。周りの声が、何重にも閉じた幕の向こうから聞こえるようにぼわぼわとしている。声だけでは何を言っているのかは分からなかった。

『妖精のイタズラ魔法を解く方法は、クルーウェル先生に後で聞いておいで。お腹が痛いのはストレスが原因だと思うから、少し休んでいきなさい』

保健室の先生のメモを見て頷く。ラギー先輩が何やら先生と話し、グリムを連れて出て行く。不思議に思ってその背中を目で追っていると、先生が『クルーウェル先生に聞いてきてくれるって』と書いたメモを見せてくれた。ラギー先輩が、なんの利益もないのに助けてくれたことに驚いた。促されてベッドへ横になる。そういえば、ここ最近ちゃんと眠れていなかった気がする。何も音が聞こえない。静かだ。
そっと目を閉じて、微睡の中へと落ちていった。




ぱっと目が覚める。足元に重みを感じて身体をゆっくりと起こすと、グリムが丸くなって寝ていた。保健室の先生はいるだろうかと、衝立に手を伸ばした瞬間、トレイ先輩が顔を覗かせた。驚いてむせる。ごほっと咳が止まらない私に驚いた先輩が、急いで駆け寄ってくれて背中をとんとんと優しく撫でた。少し落ち着いて、「どうしたんですか?」と聞く。先輩はぱくぱくと口を動かしているが、ぼわ、とこもっていてよく聞こえない。私が首を傾げていると、先輩はベッドサイドに置かれていた小ぶりなホワイトボードに手を伸ばした。保健室の先生が置いていったのだろう。

『ラギーから聞いた。大丈夫か?』

書かれた文字を目で追って、トレイ先輩の顔を見て頷く。お腹はもう痛くない。問題があるのはこの耳だけだ。「ラギー先輩が、クルーウェル先生に魔法を解く方法を聞きにいってくれたんですけど……」と言うと、先輩は少し難しそうな顔をする。もう一度ペンを手に取ったので、大人しく待つ。読唇術が使えたら楽なのかもしれない。

『もう少しだけ時間がかかる』

なんだか変な返事だなと思った。「『僕』は何もしなくていいんですか?」と聞くと、先輩が頷く。「魔法薬とかがいるんですか?完成までに時間がかかるとか?」と続けて尋ねると、先輩は再び難しそうな顔をした。一体どうしたというのだろう。「説明が難しいんですか?」と聞けば、先輩は曖昧に頷いた。もしかしたら、情報量が多くてホワイトボードに書くのが大変なのかもしれない。まぁ、もう少し時間がかかるのならば仕方がない。もう体調自体は平気だし、寮へ戻ったほうがいいだろう。
グリムを起こそうと手を伸ばすと、横からトレイ先輩の手が顔の方へ伸びてきた。思わず先輩の方を見る。そっと耳に手が触れた。ぶわ、と顔に熱が集まる。
キスの合図?
固まっていると、先輩は私の表情を見て慌てて手を離した。『ごめん』とゆっくり口を動かす。ホワイトボードに『聞こえないっていうから、気になってつい』と書かれた。思わず触れただけだったらしい。ここは保健室なのに、期待してしまった浅はかな自分が恥ずかしくなった。

お互い何も言えないでいると、ぼわぼわとした音が聴こえて、保健室へ人が入って来たのが分かる。衝立の間からひょっこりと顔を見せたのはエースだった。トレイ先輩を見て少し意外そうな顔をしたあと、ぱくぱくと口を動かしながら私の方へ何かを放る。
ぽすっと手元に落ちて来たのは、エクレアの人形だった。
どうやら、ラギー先輩にここまで連れてこられる間に落としていたらしい。ぬいぐるみの間抜けな顔と目が合う。息が止まった。
恐る恐る、トレイ先輩を見る。
先輩は、いつもより少し目を見開いて固まっていた。ああ。やはりあのエクレアのお店に行ったことがあるのだろう。ぬいぐるみには、お洒落な書体で店名が記されている。先輩は私の目を見て、何か言おうと口を開いて、聞こえない事を思い出したのか、再び閉じた。もどかしい。追求してしまいたいが、ここにはエースがいる。修羅場に巻き込むわけにもいかないだろう。面白がられても困る。

とりあえず何も気づいてないふりをして、「この人形の顔、間抜けですよね」とトレイ先輩に言うと、先輩は片眉を下げて笑った。今度こそグリムを起こす。
寮まではエースが送ってくれた。お礼を言って、戻っていくエースを見送り談話室へ戻る。ソファに深く腰掛けながらスマホを取り出すと、ラギー先輩から連絡が来ていた。今からオンボロ寮へ来ると書かれている。お礼をしなければいけないし、ちょうど良かった。エクレアのぬいぐるみが入っていた袋をもう一度確認したら、金券も何枚か入っていたのだ。これをラギー先輩にお礼として渡そう。

少し経ってから、グリムがドアの方を指さした。ドアノッカーの音がしたようだ。
出迎えに行き、中へ案内しようとすると『すぐに済むんで、ここでいいッス』と書かれた画面を見せられた。


「先にお礼を言ってもいいですか?保健室まで運んでくれて、ありがとうございました」
『いやまぁ、別にそれくらいどーってことないッスよ』
「珍しい……
『ちゃんと話を聞いてやってれば良かったかなーって、ちょっと思って』
「えっ」


確かに、ラギー先輩に愚痴を聞いてもらっていた間はこんなことは無かった。でも、別にそれは先輩の義務じゃない。そう伝えると、『まーそうなんだけど』とラギー先輩は頬を掻く。


『オレ、面倒見は良い方なんスよ』
「そうですね」
『で、アンタのことは、近所の悪ガキと同じくらいには可愛がってたわけ』
「悪ガキって」
『巻き込まれるのは勘弁って思ってたけど、倒れるくらい溜め込むなら、ちゃんと聞くから』


画面の文字を読み終えてラギー先輩を見ると、くしゃ、と頭を撫でられる。
『次は腹痛くなる前に言うこと!』という文字を見ている間、わしゃわしゃされた。「あ、ありがとうございます」と驚きながら伝えると、ラギー先輩はにかっと笑った。
それじゃと先輩が帰ろうとしてしまったので、急いでエクレアの金券を渡す。ドーナツが好きなら、きっと嫌いではないだろうと想像したとおり、ラギー先輩は喜んでくれた。「シシシ、ラッキー!」と言ったのが、口の動きでわかる。


「期限があるので気をつけてくださいね」
『本当だ。どーせなら一緒に行かない?アンタもリフレッシュしたいでしょ』


楽しそうなお誘いに思わず乗りたくなるが、行き先が問題だ。ラギー先輩に、「実はそのお店の店員が……」と、事情を伝える。うげ、という顔をした先輩は、『じゃあ一人で行ってくるかなー』と金券をひらひらと揺らした。




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耳が聞こえづらいというのは、何とも困ったことだった。ぼわぼわと振動がするので、誰かが話し始めたことは分かるし、大きな音にも反応できる。しかし、授業の内容は全く分からなかった。トレイ先輩が言っていた『もう少し』はどれくらいかかるのだろう。そもそも、具体的な解決方法を未だに聞かされていない。

数日経って、週末にラギー先輩と出かけることになった。『エクレアの店には行かないんで、レオナさんに頼まれた買い物を手伝ってほしいッス』と頼まれたのだ。私の気分転換を兼ねているんだろうなと思った。グリムはジャックに預けると聞き、二人きりになるのならばとトレイ先輩に連絡を入れておいた。


『分かった。楽しんできてくれ』


簡潔な返事に落ち込む。引き止められたりしたかった。
ラギー先輩は前に、トレイ先輩が牽制をしてくると言っていたけれど、私には到底そうとは思えなかった。しばらくキスどころか手も繋いでいないし、万年筆も先輩のポケットに戻らない。もう、終わりなのかなぁと考える。

ラギー先輩と一緒に街へ降りると、どこへ行くでもなくぷらぷらと街中を歩く。何を頼まれたのか聞きたいが、こちらへの返事はスマホに打ち込んでもらうことになる。それがなんとなく申し訳なくて、黙ってついていった。

レトロな雑貨屋さんに入った。ラギー先輩を見ると『適当に見てて』という画面を見せられる。そのままたぷたぷと何か連絡し始めたので、店内を回ることにした。ゆっくり見て回っていると、万年筆が目に入る。以前買ったのはこのお店ではなかったが、同じシリーズのものが置いてあった。四葉のクローバーがついていたのはひとつ前のデザインらしく、まったく同じものは無かった。星が装飾された万年筆を手に取る。トレイ先輩がスターゲイザーに選ばれた時のことを思い出した。“フードプロセッサーが欲しい”という望みを、先輩は自力で叶えていた。神頼みはしないタイプなんだろうな。そっと棚に戻し、その隣に置かれていた苺の装飾がされた方を取る。そう言えば、植物園で育ててるって言ってたな。

万年筆を持ったまま店内を再び歩く。今度は腕時計が目についた。かつて買おうか悩んだものよりはかなり安いが、装飾がスチームパンク風でかっこいい。隣には似たようなデザインの置き時計もあった。目覚まし時計くらいの大きさだ。どちらも手に持つ。次に目に入ったのはアーミーナイフだった。こんなものも置いてあるのか、と少し驚く。植物園で使えるかもしれないな、先輩が。そうして次々と手に持った物をレジに持っていき、全て買った。フラれる前に、トレイ先輩に渡してやろうと思った。長持ちする一つのものが見つからないなら、たくさん買えば良い。うっかり、残るかもしれない。

大きめの紙袋を少し重そうに提げた私を見たラギー先輩は『随分奮発したんスね』という画面を見せてきた。私がストレス発散に買い物しまくったと思ったのだろう。「レオナ先輩の用事はここじゃないんですか?」と聞くと首を振る。では、どうしてここに来たのかと尋ねると『時間潰し』と言われた。いったい、何を待っているのだろう。

店を出て、広場の方へ連れて行かれる。もしかして本当に、私の気分転換のためだけに連れ出してくれたのだろうか?優しいなぁと思っていると、噴水が目に入る。木陰に置かれたベンチに座らされて、買って来てくれた飲み物を渡される。今日のラギー先輩、なんだか彼氏みたいだなと不思議な気分になった。私の耳が聞こえづらいせいで、特に会話はない。ぼーっと噴水を眺めていると、くい、とラギー先輩が袖を引いて、ある方向へと指をさした。

トレイ先輩と、あの子がいる。

目眩がした。二人は広場の中でもひと気がない、死角になる場所で立ったまま話をしていた。デートだろうか。でも、トレイ先輩は今日、私とラギー先輩がここへ出かけていることを知っているはずだ。もしかして、このまま遭遇したら別れ話をされるのか?「新しい彼女なんだ。悪い、別れてくれないか」って?
吐き気がする。二人が何を話しているのかは、耳のせいで聞こえない。ラギー先輩は耳が良いから、きっと聞こえているだろう。
思わずベンチから立ち上がって逃げようとしたら、ラギー先輩に腕を掴まれ引き止められた。先輩を見ると、私ではなくトレイ先輩とあの子を見ている。その目は真剣だ。いったい何なんだ。今すぐここから立ち去りたいのに。
腕をぐいっと引くと、ラギー先輩がこっちを向いた。泣きそうな顔をしている私を見て焦った先輩は『もう少し待って』と口を動かした。何を待つと言うんだ。もう一度奥に立つ二人を見る。トレイ先輩が、あの子の腕を掴むのが見えた。何をしているんだろう。女の子の腕には、木の実でできたようなブレスレットがつけられていた。高校生が付けるには、少し子どもっぽい。違和感に眉を顰める。
じっと眺めていると、トレイ先輩がブレスレットの隙間に指を引っかける。
そしてそのまま、勢いよく引きちぎった。


一気に、音が返ってくる。


「監督生くん、聞こえる?」


隣からラギー先輩の声が聞こえて、ベンチを見下ろす。何が起こったのか分からなくて呆然と返事をした。


……聞こえます……
「よっしゃ。トレイさーん!やっぱ“それ”で当たりッス。監督生くん、耳聞こえるってー!」


にかっと笑ったラギー先輩が、少し離れたところにいた二人に向かって声を張り上げた。広場にいた無関係な人たちが、ちら、とこちらを見て通り過ぎていく。混乱していると、ほっとした顔のトレイ先輩と目が合った。背筋がぴっと伸びる。
駆け寄ろうかと思った次の瞬間、トレイ先輩の前に立っていたあの子が、先輩の顔を両手で包む。

振り向かせて背伸びして、そのまま唇にキスをした。

隣から、ラギー先輩の「げっ」という苦々しい声が聞こえた。あの子の長い髪が、トレイ先輩に向かってなびく。時間が止まって見えた。呼吸の仕方を、一瞬で忘れてしまった。風が吹く。自分の未だ長い髪が、ばさ、と視界を遮ろうとする。

無意識のうちに取り出していたのは、さっきの雑貨屋さんで買ったアーミーナイフだった。
ハーフアップにしていた髪ゴムを解く。手櫛で整える事もせず、掴んだ自分の髪にナイフの刃を滑らせた。ざく、という小気味良い音が耳に入る。ぴっと小さく痛みが走った。どうやら、刃が耳を少し掠ったらしい。

女の子の肩に手を置いて押しやった先輩が、こちらに振り向いて目を見開いた。


「何してるんだ!」


リドル、と叫んだ時のような、大きな声にビクッと肩を揺らす。ラギー先輩も気がついて、私の手からナイフを奪って素早く折りたたむ。切った毛束が手から滑り落ちて、風に溶けて消えていく。魔法で伸びた部分だからだろうか。
トレイ先輩がこちらへ向かって走ってくる。
どうしたらいいか分からなくて、怒っている様子の先輩が怖くて、制止を振り切って逃げ出した。

細い路地を抜け、海岸沿いへ出る。そのまま砂浜に出て、足を取られて転んだ。
切れた耳がぴりぴりと痛む。涙が出てきた。さっきの、トレイ先輩とあの子がキスをしたシーンがぐるぐると頭を回っている。私のトレイ先輩なのに!砂の上で蹲っていると、がしっと腕を掴まれた。力任せに引っ張られて、勢いで立つ。視界が回ってよく見えないまま、強く、強く抱きしめられた。

はぁ、と耳元で強く息が吐き出される。
声を出せなくて、鼻を啜るしかできない。少し経ってから、ようやく身体が離れた。私の顔を覗き込む先輩は、眉間に皺を寄せている。手が頬に添えられて、髪がそっと横へと避けられる。


「どうして髪を切ったりしたんだ。耳も怪我してるじゃないか」
「ひっく、わ、わかんな……
……ごめん。ごめんな。俺のせいだ」


衝動的に動いてしまっただけで、髪を切ったことに意味なんてなかった。自分でも、なぜこんな事をしてしまったのか分からない。ただ、邪魔だった。とにかく嫌だったのだ。トレイ先輩が顔を寄せて、頬擦りをする。かちゃ、と小さく眼鏡が音を立てた。切れた耳の端がぴりつく。
顔を離した先輩が、今度は唇へと近づいて、止まる。
迷っているようだった。手の甲で自分の唇を拭おうとしていたので、そっと腕に手を添えて止める。


「上書きします」


屈んでくれていたトレイ先輩の肩に手を乗せて、キスをした。早く、あの子のキスを忘れて欲しくて。今度は自分から、舌で先輩の下唇をつつく。一瞬目を見開いた先輩は、すぐにその目を細めて口を開けた。こちらから仕掛けようと思ったのに、ちろ、と向けた舌はすぐに押し込まれて、こちらに先輩の熱い舌が入り込んでくる。「んっ……は」どちらのものか分からない息が溢れていく。だんだん舌が疲れてきて、先輩の動きについていけなくなる。ぎゅ、と服を掴むが、なかなか止まってくれない。目が回りそうだ。「んー!」と抗議すれば、最後のひとあがきと言わんばかりにじゅうっと舌を吸われて、ようやく解放された。先輩が支えてくれないと立てない。

呼吸を整えていると、トレイ先輩のスマホが音を鳴らした。「ラギーだ」と呟いて、短く返信をしている。そういえば、ラギー先輩と一緒に来ていたのにこんな所で呑気にキスしていた。カッと顔に熱が集まる。


「広場で待ってるって。行くか」
「えっ、あの、でも」
「あぁ……さっきの子はもういないから安心していい」


いないのか。帰ったのだろうか。ほっとして肩の力が抜ける。「行きましょう、待たせるのは悪いですし」とトレイ先輩に笑いかけると、先輩は困った顔をした。どうしたのかと首を傾げると、大きな手が髪へと伸びる。「この髪で街中を歩くと目立つかもな」そう言われて、ハッと思い出して自分の髪を触る。無造作にナイフで切ったため、ザンバラだ。どうしようと頭を押さえていると、先輩が海沿いにあるお店へと視線を巡らせる。「買うか」と言って私の手を引いてお店へ入ると、店員さんから死角になる位置に私を待たせて帽子を買ってくれた。
ぽす、っと頭に乗せられる。先輩が「誤魔化せそうだな」と笑ったので、安心して広場へと戻った。


「あー!何してたんスか!もう!」
「悪かった、宥めるのに時間がかかって」


ベンチに座るラギー先輩に、トレイ先輩が困ったように笑いかける。結局何が起こっていたのかと尋ねると、「とりあえず帰りません?話はトレイさんから聞いて」と言われてしまった。


学園に戻ると、すぐ保健室へと連れて行かれた。ラギー先輩は「もう疲れたんで帰って寝るッス」と言って寮へと戻っていった。耳は少し切れただけだったので、先生の魔法によって一瞬で治ってしまった。ザンバラになった髪も、先生が切ってくれてそのまま魔法薬の効果は無くなった。
保健室を出ると、トレイ先輩に「疲れてるだろうし、話すのは明日にするか?」と言われたが、ふるふると首を横に振る。このままでは夜眠れそうにない。ジャックにグリムを泊めて欲しいと連絡して、ハーツラビュル寮へと向かった。

トレイ先輩の部屋に入るのは久しぶりだ。気まずくなってからここへは全く来ていなかった。促されてベッドに座る。ふと、トレイ先輩が私の買った紙袋を提げている事に気がついて、「持たせてすみません!」と受け取った。先輩は「随分と買ったな」と苦笑いする。
その後、紅茶を入れて渡してくれた先輩が、ベッドへと横並びに座った。ゆっくりと飲んでから、ふぅと息をついて話し始める。


「あの子とはエクレアの店で出会ったんだ。お前も行ったんだろ?あそこ」
「はい。たまたまですけど」
「あそこのエクレアは工夫がすごいから、今後のスイーツの参考にしたかったんだ。自分で新作を作って、みんなに食べさせたかった。それで、何度か買いに行って店長さんに質問してたら……あの子に話しかけられる事が増えていったんだ」


レジをしてくれたときの、あの子の人懐っこい笑顔を思い出す。もし私が恋人のいない男の子だったら、すぐに惚れてしまっていたかも。


「連絡先を教えて欲しいって言われたんだが、恋人を困らせたくないって断った。そうしたら……実は、これを人質に取られて」
「これ、『僕』が渡した万年筆……!」


トレイ先輩がスラックスのズボンから取り出したのは、四葉のクローバーの装飾がほどこされた万年筆だった。先輩は、挿さなくなったわけでも無くしたわけでもなかった。だからずっと身につけてなかったんだと腑に落ちた。


「胸ポケットに入れていたのを取られて『返して欲しかったら一緒に出かけて』と条件を出されたんだ。相手は女の子だし、無理矢理に取り返そうとして叫ばれたりしたら、学園の評判にも関わるだろ?副寮長としても、リドルに迷惑がかかったらまずいしな」
……言ってくれたらよかったのに。どうして黙ってたんですか?」
「お前に相談したら、取り返しに行くって言うんじゃないかと思って。あの子は少し過激そうだったし、会わせたくなかったんだよ」


ぽん、と頭を撫でられる。大切にされていた。心がぽかぽかと温かくなる。この万年筆を取り返すために先輩はあの子と会っていたのだ。「……別に高いものじゃないですし、諦めてもよかったのに」と言えば「諦めるわけないだろ、お前に貰ったものだし」と返されてさらにくすぐったくなった。


「それに、せっかくのお揃いだしな」
「えっ……えっ!?知ってたんですか!?」
「あぁ、お前がこっそり使ってるの見てた」
……言ってくださいよ……


恥ずかしい。いつ見られていたんだろう。周りに人がいない時を狙って使っていたつもりだったのに。先輩は万年筆が手元にない罪悪感があって、あまり私と話せなかったらしい。
「それから、お前の耳だけど……」トレイ先輩が眉を寄せて、私の耳に触れる。これは、キスの合図じゃないと分かっているのに、心拍数が上がる。


「あの子が妖精への“おねがい”を使ったんだ。一種の“まじない”みたいなもので、魔法が使えなくても、特定の材料と手順を踏めば契約ができる。保健室でお前が持ってたぬいぐるみに魔力が残ってて……
「当選したやつ……
「もしかしたらと思って、あの子にカマをかけてみたんだ。……当たりだったよ。俺が千切ったブレスレットがあっただろ?最終的にはあれを、お前の『目の前で』壊さないと耳への魔法が解けなかったんだ」
「そうだったんですか……
「まじないをかけられた本人が『壊れた』って認識を持つ必要があった。……お前には辛い思いをさせてしまったよな、本当にごめんな」
「いえ、先輩は悪くないです!」


そうだ、先輩は悪くない。相手の女の子に、ちょっと行動力があっただけだ。
「一応、話しておくことはこれくらいか……何か質問はあるか?」と聞かれて、なんだか勉強を教わってるみたいだとおかしくなってしまった。「大丈夫です、ほっとしました」と笑顔を向けると、先輩はもう一度頭を撫でてくれた。


「今度食べるのは、先輩のエクレアがいいです」
「もちろん作るよ。……それにしても、今日はこんなに何を買ったんだ?」
……ええと」


紙袋を膝の上に持ってくる。そっと中身を先輩に見せた。「時計に、万年筆?他にも雑貨がこんなに……必要だったのか?」と不思議そうな顔をされる。空回りした自分が恥ずかしくて、「これは……トレイ先輩に渡そうと思って……」と目を逸らす。


「俺に?」
「その、『僕』はトレイ先輩に新しく好きな人ができたのかと思ったので……フラれる前に、何か……残るものを、渡そう……かと」


ぎゅっと自分の手を膝の上で握り込む。
先輩が息を呑むのが分かった。


「フラれないにしても、もしかしたら元の世界に帰ることになるかもしれないですし!その時に……その時に、先輩に爪痕を残してやろうかと、っ!?」


突然、横から大きな身体が飛びついてきて驚いた。一瞬息が止まる。強く抱きしめられて、どぎまぎする。


「ははは!お前は、本当に……可愛いな」
「ひぇ」


耳元で息を吹き込むように言われて、背筋がぴりぴりする。逞しい腕に包まれて、思ったよりずっとがっしりした胸板に身体がぶつかって溶けてしまいそうだ。先輩は嬉しそうに頬を擦り寄せる。そんなに喜んでもらえるポイントがあっただろうか。よく分からないが、先輩に刺さったのならよしとしよう。


「でも良かったです。トレイ先輩はあんな感じのふわふわした女の子がいいのかと思って悩みました」
「はは、自分だって女の子なのに、そんな事気にしてたのか」
……えっ?」


驚いて、トレイ先輩の顔をまじまじと見る。かっこいい。いや、そうじゃなくて。


「えっ……先輩……もしかして」
「ああ、知ってたよ。あれだけ毎日一緒にいたのに気が付かないわけないだろ、流石に」
……騙してると思って、悩んでたんですけど……
「まぁ俺も、お前が自分で話してくれるまで待とうかと思ってたんだが……
「嫌じゃないですか?」
「そんなわけないだろ。俺は、お前であれば性別なんてなんでもいいんだ」


ちゅ、と額にキスが落ちてくる。じわ、と涙が浮かんだ。のそのそとトレイ先輩の胸元へ顔を埋めると、頭をぽんぽんと撫でられる。しばらくそうして抱きしめてくれた。
ふと、カサ、と紙袋の音が聞こえてきた。私を抱きしめたまま、トレイ先輩が買ってきた物たちを床へと移動させていく。ベッドが空くと、先輩はゆっくりと私を押しながら倒れてくる。


「どんなに“残る”たくさんの物よりも、お前自身が一番欲しいんだ。俺は」
「あげます。……『私』をもらってください!」


改めて、唇へのキスが降ってきた。
目の前の制服をぎゅう、と掴む。ちゅっと音をたてて離れたトレイ先輩が、コツンとおでこを当てて「今日は疲れてるだろうから、続きは今度な」と口角を上げて笑った。ぶわ、と自分の顔が赤くなるのが分かる。熱い。先輩がごろんと横に転がったので、パッと上半身を起こす。あついあつい。手で顔をパタパタと扇ぐ。


「そういえば、ラギー先輩は……
「ああ。お前の耳が聞こえなくなった時に色々と相談したんだ。原因はなんとなく予想がついていたし、クルーウェル先生にも話を聞いて、俺たちで解決しようって決めた」
「よく手伝ってくれましたね」
「向こう1ヶ月はドーナツを届ける約束だけどな」
「なるほど」


「だから寮まで来て話を聞くって言ってくれたのか……」と呟くと、「……なんだ?それ」と先輩の声がワントーン低くなった。ラギー先輩が寮まできてくれた話をすると、トレイ先輩は起き上がって私を胡座へと座らせる。ぎゅっと後ろから抱きしめられてなんだか恥ずかしい。先輩が話すたびに、振動が届く。喉仏が大きくてドキドキする。


「お前はちょっと……ラギーに懐きすぎじゃないか?」
「ふふ、それラギー先輩も言ってました」
「性別のことバレたらどうするんだ」
「へっ?ラギー先輩は前から知ってますよ」
……は?」


それは知らなかったのか……?トレイ先輩の顔を見上げると、少し眉を寄せている。協力を要請したのだから、全て把握しているのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。牽制していたらしいし、先輩からしたら交際の事実も匂わせていたつもりなのだろう。私がはなから相談していたので、ラギー先輩は全てを把握していたが。


「ちょっと待て。ラギーは全部知ってたのか?」
「先輩と付き合う前から私の性別のことは知ってました。バイトでちょっと失敗して、ばれて。だから、先輩に告白されたこととか、付き合ってることとか、全部相談してました」
「ラギー以外には?」
「先生たちだけです。あ、あとはトレイ先輩ですね。ふふ」
……お前、ラギーに女の子ってバレてたのに部屋へ遊びに行ってたのか?」


先輩の声がワントーン低くなって、私を抱きしめる腕の力が強まる。あれ、先輩怒ってる?
背中を冷や汗が伝っていく。


「バイトが同じだし、お前が懐いているから口出しする事じゃないと思っていたが……いくらなんでも不用心すぎないか?」
「ひっ!あの、もう同じ内容でラギー先輩に怒られたので!」
「ラギーに?」
「はい、押し倒されて『もしこうなったら逃げられないんだから、もう来るな』っていうようなことを言われて」
……はぁ。ラギーじゃなかったら食われてるぞ……


困ったようにこめかみを押さえる先輩を見て、私は本当に能天気だったんだと再認識する。ラギー先輩が、私をさっさと“悪ガキ”に分類してくれて助かった。トレイ先輩は、「ドーナツにケーキも付けてサービスしておくか……」と呟いている。冷や汗をながしながら「ラギー先輩でよかったですね!」と苦笑いすると、先輩は呆れた顔をする。
「たぶん、ルークやレオナは気付いてるぞ。俺と付き合ってることもな。あとは……ヴィルとケイトも分かってると思うぞ、あの感じは」次々と名前を挙げられて愕然とする。たしかに、ルーク先輩は観察眼がすごいし、ヴィル先輩もスタイルに詳しいから骨格でバレていると言われたらわかる。しかし、レオナ先輩やケイト先輩にまでバレているとは思わなかった。
冷や汗がずっと止まらない。トレイ先輩の予想では、他の人にはバレてないんじゃないかとのことだ。それでも安心は出来なかった。これでは、いつボロが出るか分からない。


……気をつけます」
「そうしてくれ」


紅茶をもう一杯ご馳走になり、紙袋の中身を全てトレイ先輩へのプレゼントとして渡す。「今度、俺からも何か贈るよ」と言われてくすぐったい気持ちになった。
晩御飯をすっかり食べ損ねてしまい、トレイ先輩が「そろそろ寮へ戻るか?送るよ」と私を立たせる。私が「明日の朝までグリムをジャックに預けたので、急がなくて大丈夫です」と言うと、先輩の動きが止まった。少し間があって、嬉しそうな顔になる。


「じゃあ、今夜は俺の部屋に泊まらないか?」
「えっ!いいんですか?」
「ああ。いつもすぐ帰していたし、今日くらいはな。どうだ?」
「嬉しいです!実は泊まってみたいなって思ってたんです」
……へぇ、そうか」


「とりあえず腹ごしらえをしておこう」と言った先輩に背中を押されてキッチンへと向かう。昨日のうちに作っておいたキッシュがあるらしい。「あまり食べすぎるなよ、後で動いたとき、吐いたりしたら大変だしな」と笑う先輩に首をかしげる。ゲームでもするのだろうか。

うきうきと軽い足取りで廊下を進む。悩みがすべて、スッキリと晴れて良かった。
周りに誰もいないことを確認して、隣を歩く先輩の手をきゅっと掴む。先輩の指先が動いて、私の指と交差する。恋人つなぎだ。

「今度、薔薇の王国へ遊びに行こうか。実家のケーキもご馳走したいし」という言葉に胸を躍らせながら、「はい!」と明るく返事をしてキッチンの扉を開いたのだった。