botanin5
2024-11-14 00:52:54
43102文字
Public トレ監♀(小説)
 

やっと君に追いついた

魔法道具に呪いに呪われた監
両思いになるため、二人で頑張る話です。
トレイ先輩もがんばります。
※監は特に設定なし


呪いにかかった。

オンボロ寮の奥に、ハロウィンやお正月の飾りを押し込んである物置代わりの部屋がある。物を出すたびに埃が舞い上がるので、放課後に私とグリム、それからゴーストさんたちと一緒に掃除をしようということになった。飾りつけばかりではなく、何に使うのか分からないガラクタもたくさん置いてあるその部屋は、入るだけで目が痛いくらい汚かった。

そこに落ちていた手のひらサイズの鏡。うっかり踏んでしまったのは、窓にかける幕が絨毯のように床を陣取っていたからに他ならない。布越しに、小さくパキッという音が聞こえて、あ、何か壊したなとすぐに分かった。その瞬間、ふっと目の前が暗くなって、私は意識を失った。





「このままでは、貴女は死んでしまいます」

「えっ」


保健室で目を覚まして簡単な魔法の検査を受けたあと、学園長から伝えられたのは、なんとも絶望的な現実だった。
私が壊してしまったのは魔法の鏡だそうだ。魔力をそそいで毎日決めた時間に呪文を唱えると、想い人が映し出される。その鏡面にキスをして、愛を告げる。これを100日。晴れて願いが届き、想いが通じ合うというメルヘンチックな物だった。

いやいや、相手の思いを無視して強制的に両思いにさせるなんて、とんだ呪いの品物だとゾッとしたが、壊した場合はもっと最悪だった。鏡を割ってしまった人間は、鏡の怒りに触れて死んでしまうという。元の世界に戻るまでもなく、あっさり異世界で死ぬことになろうとは。ショックで何も言えないでいると、「いえいえ、安心してください!」と学園長が演技がかった動きで両腕を広げる。


「貴女が気を失っていた間に、ちゃ〜んと図書館で調べてきたんですよ!この呪いを解く方法を!なんて言ったって私、優しいので」
「なんだ、良かった……ありがとうございます」


いくらなんでも、まだ16年ぽっちしか生きていない上に、家族に会えないまま異世界で、一人ぼっちで死ぬのは避けたかった。
学園長の説明によると、修復魔法で手鏡を元の状態に戻し、魔力が込められた状態の鏡に向かって呪いを解く呪文を唱えながら想い人の姿を念じる。そこに映し出された人物と、“愛のキス”を交わすことができれば、無事に呪いは解けるそうだ。魔力を使わない本当の愛を見せることで、鏡は呪い続ける気力をなくして諦めてくれるらしい。
いや、ちょっと待ってくれ。


「愛のキス……?」
「はい。いやぁ〜ロマンティックですねぇ!」


どこの誰なんだ、そんなとんでもない魔法をかけた手鏡を作ったやつは。愛のキス?愛する人がいない人間は、呪いを解くなんて無理ゲーじゃないか。ちらっと、いつも自然と目が追ってしまうアイビーグリーンが頭に浮かんだが、急いで思考の外に追いやる。「それは、両思いじゃないとダメですよね……?」と確認すれば、学園長はニッコリと笑う。


「もちろんです!物語の終わりは、“愛し合う”二人のキスに決まっていますから!呪いを解くのも、キスが定番です」


絶望だ。私はもうすぐ死ぬしかない。異世界からやってきた魔力のない無力な人間と、“愛のキス”を交わせる人なんて存在するはずがなかった。目の前が真っ暗になる。なんの恨みがあって、こんな設定にしたんだ。魔法をかけたやつ、絶対に許さん。絶望の中で意識が遠くにいってしまいそうになるなか、学園長は着々と呪いを解くための準備をしていた。


「では、早速始めましょう!いくら身寄りがない貴女といえど、このまま死なれては学園の歴史にかかわ……ん゛ん゛っ!私も生徒の皆さんも、それはそれは、それはもう、とぉーーっても悲しいですからね!」
「今、本音がチラッと聞こえたような……
「さぁさぁ!想い人を浮かべながら呪文を唱えてください!その人からキスしてもらうだけで生き残ることが出来るんですから、安いもんでしょう。さぁ!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」


「なんです?あぁ、貴女の想い人を知ったって、別に誰にも言いふらしたりしませんよ。私、口がとーっても硬いので」という学園長に、それも心配だけど、いやそうじゃないともう一度確認する。


「両思いじゃなきゃダメなんですよね?」
「そうですねぇ」
「じゃあ、仮にこの鏡に誰か出てきても、その人が私のこと好きじゃなかったら、私は死にますよね?」
「まぁそうなりますねぇ」
「だめじゃん!!」


それでもやってみるだけやりましょう!とぐいぐい手鏡を押し付けられる。どうしよう。好きな人なんて……いないのに。もう、諦めよう。短かったな、私の人生。あとどれくらいかは知らないが、残りの間に美味しいものいっぱい食べよう。グリムも思う存分吸って、エースとデュースには昼ごはんを全部奢ってもらおう。
しくしくと心で泣きながら目を瞑り、学園長に言われた呪文を唱える。心の中で(好きな人なんていません、好きな人なんていません……)と何度も繰り返した。


「あぁ、貴女。トレイ・クローバーくんのことが好きなんですね」
「えっ?」


驚いてぱちっと目を開けると、目の前の手鏡にはトレイ先輩の顔が映っていた。思わず顔が熱くなる。「ち、違います!」と学園長に向かって叫んだが、「今呼び出してきますね〜」とさっさと保健室を出て行ってしまった。違う、違うのに。好きな人なんていないって、念じたのに!
トレイ先輩は、絶対に私の事を好きじゃない。というか、私自身、トレイ先輩を目で追ってしまうのは……お兄ちゃんを慕う気持ちと同じだと思っていたのに。いや、そう思い込もうとしていたのに。まさか、まさか、本当に恋心だったなんて。ベッドで身体を起こしたままどうしようどうしようと回転する頭は、何もいい案を浮かべてくれない。


「はい!連れてきましたよ!」
「監督生、具合が悪いって聞いたんだが……大丈夫か?」
「と……れい、先輩」


来てしまった。どうしよう。もう恐怖で全身が冷え切っていた。どうして、こんなことに。「ごめんなさい……」と小さく呟けば、トレイ先輩は「どうした?寝てた方がいいんじゃないか?」と子どもをあやすように優しく頭を撫でてくれる。


「ではトレイ・クローバーくん、彼女に“愛のキス”をお願いします!」
「は?」
「が、学園長!何も説明してないんですか!?」
「おーっといけませんね、生徒たちの相引きを教師が邪魔するのは無粋です。では、後はお任せしました!」


「待ってください無責任なー!」と叫びながら手を伸ばした私の目の前で、無情にも保健室の扉は閉じられた。残されたのは、事情を知らないトレイ先輩と私だけ。他の生徒がいないところを見ると、私が運ばれた時点で人払いがされたのかもしれない。せめて先輩への説明は、学園長がしてくださいよ!もう、頭が痛い。


「ええと……詳しいことを教えてくれるか?」
……はい」


どうしてこうなってしまったんだろう。





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……なるほどな」
「本当に……申し訳ありません……


私の呪いを解くために、キスしなければならない。
そんな正気とは思えない事情を説明するのに、10分もかかった。理由は主に私の羞恥心である。だって、説明の中で『つまりは貴方のことが好きです』と伝えている状態なのだ。辛抱強く話を聞いてくれたトレイ先輩には、頭が上がらない。しかも、この後はキスしてもらわなければいけない流れだ。もう、土下座しても許されないほどの罪を背負った気分になる。どうして足元をしっかり確認してから掃除をしなかったんだろう。ちゃんと注意していれば、こんなことにはならなかったのに。


「あの、でも……両思いじゃないと魔法は解けないらしいんです。トレイ先輩、私のこと別に好きじゃないですよね。だから、結果は同じなので……キスとか、しなくていいです。学園長、話も聞かずに呼びに行っちゃうから、ほんと……こんな話聞かせて、ごめんなさい」
……


トレイ先輩は何やら考え事をしているようだった。無言の時間が居た堪れない。「とりあえず、保健室を出ましょうか」と声をかけると、「……そう、だな」と上の空の返事が返ってくる。一体何を考えてくれているのだろう。先輩の反応が掴めないまま、ベッドから降りるために布団から足を出す。


「えっ」
「これは……


検査をされた時に脱がされたのだろう。私は裸足だった。それはおかしな事ではないのだが、問題は、目に入った皮膚の色だった。私の両足が、くるぶしまで炭で塗ったように真っ黒になっている。人間の足じゃないみたいだった。まるで石炭だ。驚いて触れてみたが、触り心地はいつもと同じ足だった。それに、ちゃんと動く。


「これ、その呪いのせいか?」
「そう……かもしれません。学園長は何も言ってなかったんですけど……
……なぁ、キス……してみようか」
「えっ」


思わぬ提案に、弾かれたようにトレイ先輩の顔を見る。先輩は、とても神妙な顔をしていた。その表情を見て、『背負わせてしまった』と気がついて血の気が引いていく。
呪いが解けずに私が死んだら、トレイ先輩が『自分のせいだ』と思ってしまう。そんなつもりじゃなかったのに。私が、先輩のことを好きになってしまったせいで、とんでもない事を背負わせることになってしまった。


「ご……ごめんなさい。私、……あの、本当に、いいです」
「いや、出来ることはやってみよう。お前がどうしても嫌だと言うなら無理強いはできないが、このまま見殺しにするのは……俺も寝覚めが悪い」
「すみません……
「ははは、謝ってばかりだな。……じゃあ、するぞ」


ベッドに座ったまま、トレイ先輩を見上げる。先輩が眼鏡を外して、屈んでくれる。そんな小さな仕草に、心臓がとくんと音をたてる。顔が、そっと近づいてくる。トレイ先輩とキスすることなんて、この先もずっとないと思っていた。ゆっくりと、唇が触れ合う。こんな状況じゃなかったら、恋心を弾ませて喜んでいただろうに。

3秒ほど触れていた唇が離れた。これで私のファーストキスは、トレイ先輩になった。先輩はどうなのか知らないけれど、もし初めてだったら申し訳なさで死んでも死にきれないので聞かないでおこう。先輩の顔が離れていく。そのまま視線が落ちて、足を確認したのだと分かった。つられて私も下を見る。


黒いままだ。


分かっていた。トレイ先輩は私のことを可愛がってくれているけれど、それだけだって。先輩は、申し訳なさそうに「……ごめんな」と呟く。


「大丈夫です!私の方こそ、こんなことに巻き込んで本当にごめんなさい。先輩に、背負わせるべきじゃなかったのに……本当に、ごめっ……っ」


ここで私が泣くのはずるいのに。死ぬことが決まって悲しいのか、トレイ先輩が私を好きじゃなくて悲しいのか、どちらの涙なのか自分でも分からなかった。
下を向いてグズグズと泣いていたら、トレイ先輩がそっと抱き寄せてくれた。あやすように、とんとんと背中をたたいてくれる。今はもう、何も考えられなかった。トレイ先輩に縋るのはずるい気がして、でも、背中を摩ってくれる手が優しくて、しばらくそのまま子どもみたいに泣いた。ああ、私、もう死んじゃうんだ。先ほどまで実感していなかった死が、黒い足を見たことで現実になり、怖くて背中が震える。

元の世界にいた時、やりたいことなんて特になかった。夢は、きっとこれから見つかるんだろうな、なんて暢気に過ごしてきた。でも、この世界に来てからは、元に世界に戻ることや、魔法の勉強をすること。巻き込まれたトラブルを解決すること。グリムの夢を叶えること。……やりたいこと、やらなければならないことが、たくさんあった。ほんの小さなミスで、こんなことになってしまうなんて。しかも、好きな人に自分の死を背負わせることになるなんて、最悪だ。いっそ、今から身を投げて死んだ方がいいんじゃないかと思うくらいだった。

どれくらい泣いていただろう。もうとっくに喉が枯れて、すんすんと鼻をすすったまま動けずにいたら、背中を摩っていたトレイ先輩の手がピタっと止まった。どうしたんだろうかと、涙と鼻水でべしょべしょになった顔を上げる。「ひどい顔だな」と少し笑った先輩は、ベッドの横に置かれていたテッシュで顔を拭いてくれた。


「なぁ、提案があるんだが、聞いてくれるか?」
「な、なんですか?……慰謝料とか、たいして渡せないんですけど……あんまりお金なくて」
……お前、俺のことなんだと思ってるんだ?違うよ」


苦笑いした先輩が、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。


「付き合ってみないか?」
……え?」
「俺は、このままお前が死んでしまうのに、何もできず指を咥えて見ているだけなのは悔しい。でも、今のままじゃキスは効果がなかった。俺がお前の事を好きになれば、呪いが解けるだろ?」
「でも、そんなのどうにか出来ることじゃ……
「だから、ためしに付き合ってみたらどうかと思って。お前は俺のこと、好いてくれてるみたいだけど……そんなにお互いのことを知らないと思うんだ。もっと一緒に過ごす時間を増やせば、何か変わるかもしれないだろ?」


さっき枯れるほどこぼれた涙が再び溢れてきた。どうしてこの人は、こんなに優しいんだろう。


「トレイ先輩は、今ほかに、好きな人とかいないんですか?」
「いないよ。だからこれで俺がお前の事を好きになったら、万事解決だ」
……先輩に、好きになってもらえる自信がありませんし、そんな資格ないです。こんなことに巻き込んでなかったら、起こり得ない事じゃないですか」
「おいおい、自分の事を卑下しすぎじゃないか?こんな事がなくたって、いずれ俺がお前を好きになってたかもしれないだろ。その可能性を試すだけだ。気持ちのことだから、嘘なんてつけない。それはさっきのキスで確認できただろ?お前の事を好きになったとしたら、それは俺の意思だよ」


頬に手を添えて、親指で涙をぬぐってくれる先輩が、眩しくてどうしようもなかった。この人を、好きになって良かったと心の底から思った。それと同時に、どうしてこんな素敵な人を好きになってしまったんだろうかと胸が苦しい。私の死を、背負わせるにはあまりに人が良すぎる。


「あ、ありがとう、ございます」
「心配なのは……残り時間がどれくらいあるのかってこと。それから、一緒に過ごす事で……お前の方が俺に幻滅すること、だけかな。そもそも俺のどこが良かったんだ?いたって普通の男だぞ。お菓子作りはちょっと出来るけど」


おどけたように笑う先輩に「全部好きです」といえば、先輩は「……そうか」と少し顔を赤くした。
まるで改めて告白したかのような空気になって、今度は別の意味で居た堪れない。本当に、いいのだろうか。トレイ先輩が私のことを好きになってくれるところなんて、全然想像つかない。むしろ、一緒にいる事で親密度が上がると、私が死んだ時に余計苦しませてしまうんじゃないだろうか。そう先輩に告げると、「それくらい受け止めるさ」と返された。もう、どうしようも無いくらい、先輩が好きだ。

「とりあえず、学園長に報告しに行こう」と優しく手を取られる。歩けるかどうか不安だったが、皮膚が黒くなっているだけで足の機能には問題がないようだった。「歩けなかったら、抱えて行こうかと思った」と言われて顔が熱くなる。「重いから無理ですよ!」と返すと、「おいおい、ケーキ屋の息子を舐めるなよ?普段から小麦粉運びで体力がついてる。お前くらい余裕だ」なんてひょいっと抱えられた。突然のお姫様抱っこに目が回って、トレイ先輩の首にしがみつく。「お前軽いなぁ」なんて笑う先輩の声は、もう耳に入ってこなかった。





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「駄目でしたか……。タイムリミットは100日です。約3ヶ月。この鏡を正しく使う際、相手に恋の呪いをかけるのに必要な日数は100日。鏡はこの数字に縛られているので、自分を壊した相手を呪い殺すには100日の時間がかかります」
「恋の“呪い”って言っちゃってる……
「相手の感情を意のままに操るんですから、呪いじゃないですか」
「さっきロマンティックって言ってたのに……
「はて?」


わざとらしく首を傾げる学園長が、どこまでしっかり話を把握しているのか不安になる。「100日か……」と呟いたトレイ先輩を見て、学園長が一冊の本を開いて取り出した。この手鏡の情報が載っているらしい。本に書かれた詳細を目で追っていたトレイ先輩が、何かに気がついたように顔を上げる。


「この、正しい利用方法を試すことはできませんか?それで思いが通じ合うなら、ぎりぎりにはなるけど100日目にキスすれば呪いが解けるのでは?」
「そんなのダメですよ、トレイ先輩に呪いをかけるなんてできません!」
「それが出来れば良かったんですけどねぇ……呪いを解くには“魔法の力を借りない真実の愛”である必要がありますし……。そもそもこの魔法、一度始めたらその時間をきっちり守らなければならないんです。死の呪いのカウントは彼女が鏡を踏んだ時から始まっています。今日の夕方の5時ですね。今から正しく手鏡を使ったとしても、数時間だけ間に合いません」
「そうですか……


トレイ先輩の提案には驚かされてばかりである。まさか、自分に呪いをかけることを提案するとは思わなかった。学園長に却下されてホッとする。今、ただでさえとんでもない状況に巻き込んでいるというのに、無理矢理自分の事を好きにさせるなんてしたくなかった。


「ですから、あなた方が先程提案した『交際してみる』という方法を試すことが、一番可能性が高いかもしれませんねぇ。タイムリミットは100日目の夕方5時。それまでに“愛のキス”を交わさなければ、監督生さんは全身が黒く染まって死んでしまいます」
「あの……どうして黒くなるんですか?私の足、炭みたいに真っ黒になっててびっくりしました……
「鏡に“己の姿”を奪われるんです。全身が真っ黒になった時点で身体の所有権が鏡に移動し、魂はこの手鏡に取り込まれてしまいます。それに100日かかる、ということですね」
「なるほど……


ちら、とトレイ先輩を見上げる。私にかかった死の呪いを解くには、先輩が私のことを好きになることが必須条件という事か。本当に、こんな事を背負わせてしまって一生謝っても許されないだろう。しゅん、と落ち込んでいると、学園長が手鏡を取って不思議そうに首を捻る。


「しかし……どうしてこんな魔法道具がオンボロ寮の床に落ちていたんでしょう……。通常だったら、トレイン先生の魔法史資料室の、鍵付きの棚に片付けてあっていいレベルです」
「私もグリムもトレイン先生の資料室に入ったことはないです。……過去のオンボロ寮生が、盗んだとかですか?」
「まぁ……可能性はあるかもしれませんねぇ。あるいは……いえ、もう起こってしまったからには、我々は呪いを解くために動くことしかできません。頑張ってください、お二人とも!」
「やれるだけのことは、やってみますよ」
……がんばります……


全くと言っていいほど自信がない。トレイ先輩に本当に好きになってもらうことなんて、出来るのだろうか。
肩を落として学園長室を出る。もう夜の8時を過ぎていて、校内の廊下には他の生徒の姿は見えなかった。「……寮まで送るよ」と言われて、驚いて断る。今日から交際することになったとはいえ、先輩の負担になるようなことは避けたかった。しかし、「途中で何かあったら心配なんだ。このまま戻って無事に帰れたか不安でいるより、見届けた方が気楽なんだよ」と言われてしまうと、こちらも頑なでいるわけにはいかない。「トレイ先輩がいいのなら……よろしくお願いします」と頭を下げ、二人で暗い道の中、寮へ帰ることになった。歩きながら内心ほっとしていた。足が黒くなっていたことが頭をぐるぐる回っていて、途中で歩けなくなったらどうしようという不安はあったのだ。トレイ先輩の優しさにいつも助けられている。



……とりあえず、次の休みに一緒に過ごさないか?」
「えっ?」
「お互いを知る第一歩だよ。普段何をして過ごしているのかとか……あまり知らないだろ?」
「そうですね……でも私、休みの日は生活費を稼ぐために色々していて……ええと、それを見に来ますか?」
「お前そんなことしてたのか!?」
「まぁ……はい」


私は身寄りがないし、実家から生活費が送られてくるという事もない。学費や教材費がどうなっているのかは藪蛇なので今のところ聞いていない。もし尋ねて思い出したように請求されても、こちらは払う手立てがないのだ。寮での電気や水は妖精の力を借りているのか、こっちも料金を請求されたことはない。だから、最低限必要なのは日々のご飯代で、あとは友達と遊ぶ交際費。それから、いつここを出ることになってもいいように貯金をしたかった。
ラギー先輩に相談したら、色々なお金を稼ぐ方法を教えてもらえた。流石にレオナ先輩のようなお金持ちを簡単に見つけることはできないので、モストロ•ラウンジでのアルバイトが主な収入源だ。それから、学園長に頼んで学校の雑務をして報酬をもらっている。こちらは、マスターシェフと違って授業ではないため、生徒に直接お金の支給することは難しいとのことで、学園で育てている食材を分けてもらっている。そのため、結構充実した食事生活を送れていた。


「一人で……いや、グリムと二人で頑張ってたんだな。もちろん見に行くよ。俺に出来ることがあれば手伝うし」
「いえ、そういうわけにはいきません!私は自分の生活のためにやってるので。先輩にとってはなんの得にもなりませんし……
「ははは、俺なんかよりよっぽどしっかりしてるな。驚いたよ」


トレイ先輩は「寮生活で自立した気になっていたけど、まだまだだったな」なんて苦笑いしている。こんな状況に置かれたからできているだけで、元の世界では親に甘えまくった生活を送っていたのだから、そんなに褒められることではない。労働してお金をもらうと、ありがたみがよく分かる。これまで親に張り付いてお金を吸い取っていたことが、恥ずかしくなった。まぁ、中学生の頃はバイトなんてろくに出来ないし仕方ないのだが、せめて家の手伝いとかもっとしておけば良かったなぁと思った。こっちに来てから初めて最初から最後まで料理をしたのだ。学園長からスマホを支給される前までは、レシピの検索も出来なくて毎日が白米と炒め物だった。必死に家庭科の授業を思い出していたのが懐かしい。今ではすっかり料理のレパートリーが増えた。毎日作るのは面倒なので、作り置きも覚えた。グリムがあまり文句を言わないのも助かっている。


「トレイ先輩の方が大変ですよ。パーティーでたくさんお菓子や料理を作ったり、大勢の寮生をまとめたり……。3年生の勉強もあるのに、副寮長の仕事もしていて、さらに自分の生活もあるなんて。私は自分の生活だけで手一杯です」
「いやいや、俺は大した事はしてないよ。リドルがしっかりしてるから、やる事なんてほとんどないしな……。飾りみたいなもんだ」


そう言って苦笑いしているが、トレイ先輩が裏方として奔走している事は知っている。パーティーで起こったトラブルをバレないように処理したり、薔薇を塗るのが間に合わなくて誤魔化すためにリドル先輩を引き止めたり……。全てケイト先輩から雑談で聞いたことだが、私の中でどんどん『すごい人』として神格化されていった。なのに、接している間はそんな事を微塵も感じさせない。お菓子を私たちに分けてくれたり、エースたちと一緒に勉強を教えてくれたりもする。その寛容さとか、包容力とか、頼れる姿を知って、好きにならないわけがなかった。……そのせいで、今度は私が困らせてしまっているのだけれど。


「トレイ先輩が忙しい事は分かってます。……なのに……こんなことに巻き込んで……本当にごめんなさい」
「こら。……もう謝らないでくれ。俺も覚悟を決めたし……今の話を聞いて、お前が頑張って生活してることも分かった。このまま死んでほしくない。だからむしろ、協力させてくれ」


優しく笑いかけてくれる先輩に、また涙が出た。「ははは、干からびるんじゃないか?」なんて言いながら、頬に手を添えて親指で拭ってくれる。

とりあえず、周りには普通に交際を始めたと伝える事にした。もちろん、グリムにも内緒だ。私の寿命が残り100日である事を周りにわざわざ伝える必要はない。それに、トレイ先輩にとってもプレッシャーになってしまうだろう。身体が黒くなっている事がバレないよう気をつけなくてはならなかった。今のところ靴で隠れるが、今後これが全身に現れるなら油断はできない。
トレイ先輩に好きになってもらえるよう、頑張ろう。
自分の命を守るためでもあるが、もうここまで来たら『好きな人に振り向いてもうらう』と考えた方が気楽だった。死にたくないから好きになってもらうより、好きだから振り向いて欲しいと思っていた方が頑張れるし、これなら普通だ。それに、呪いが解けたあとトレイ先輩はまた自由に恋愛をしてもらえばいい。先輩の貴重な100日を無駄にしないよう自分磨きにも力を入れていこう。




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「先輩は今日、何もないんですか?」
「サイエンス部で集まりがあるから……お前がモストロ•ラウンジに行くとき一旦解散しよう。夕飯は一緒にハーツラビュルで食べないか?夜も少し話そう」
「分かりました。ありがとうございます」


約束していた最初の休日。今日の私とグリムの予定は、午前中に学園の畑で草むしりの手伝いをして、午後からモストロ•ラウンジでアルバイトだった。トレイ先輩と一緒に学園の端にある畑へと向かう。すっかり顔馴染みとなったゴーストが「今日は助っ人がいるのかい?」とのんびり笑った。「先輩は見学にきただけです!」と急いで否定したが、トレイ先輩が「見ているだけじゃ居心地が悪いから」と結局手伝ってくれることになってしまった。絶対こうなると思った。ゴーストさんに「先輩にもいつもの野菜のご褒美あげてくださいね、絶対ですよ!」とこそっと伝えれば「もちろんさ」と笑ってくれてほっとする。


「ここの仕事は毎週やってるのか?」
「いえ、ここは必要になった時に呼ばれたら来ます。普段は校内の掃除とか備品の整理とかしてますね」
「オレ様は学校よりここの方が好きなんだゾ。掃除は退屈だしめんどくせーんだよな……
「あれ、この学校って清掃担当のゴーストがいるよな?」
「その手伝いって感じですかね……。というか、私達のために雑用を増やしてもらってる感じはあります」
「へぇ、そうだったのか」


外での仕事は気晴らしになるから元々好きだったけれど、今日はトレイ先輩が一緒だからもっと楽しかった。頼まれた一画の草むしりが終わり、少しだけ水やりを手伝うと、いつのまにか10時のおやつの時間になっていた。こういう時、畑のゴーストさんがキュウリやトマトをおやつ代わりにくれるのだが、今日はトレイ先輩がゼリーを作って持ってきてくれていた。


「その袋、おやつだったんですか!?」
「まぁせっかくだしな。魔法で冷やしてある。ほら、紅茶もあるぞ」
「やったー!早くよこすんだゾ!」
「こらグリム、お礼が先でしょ!ありがとうございます、トレイ先輩」
「どういたしまして」


冷たいイチゴのゼリーがつるんと喉を通っていく。太陽に当てられていたから、水気のあるおやつで嬉しい。しかもトレイ先輩の手作りだ。すごくおいしい。すっかり食べ終わって30分ほどゆっくりと休憩したあと、ミニハウスを立てるというゴーストさんを手伝った。トレイ先輩がいたから、いつもより力仕事が多かった気がする。報酬の野菜をもらってオンボロ寮に一旦戻る。お昼ご飯はぜひ作らせて欲しいと申し出たら、トレイ先輩は喜んで受けてくれた。料理慣れしている先輩にご飯を振る舞うのは緊張したが、なんとか焦がさずにオムレツを作る事ができた。メインはパスタだ。いちから全部作る時間はなかったのでパスタソースはレトルトだったが、トレイ先輩は「俺もたまに使うよ」と笑っていた。

午後からは、私はモストロ•ラウンジでアルバイトだ。最初の頃は給仕をしていたが、料理に慣れてきてからキッチンに変えてもらっていた。普段のレパートリーを増やしたいし、キッチン担当は期限ギリギリの食材を分けてもらう事が出来る。グリムは主に食器を下げた後のテーブルを拭く仕事をしている。
「少しだけ見ていこうかな」と言ったトレイ先輩がオクタヴィネル寮まで来てくれて、なんだか不思議な気分になってしまった。一緒に来たのは初めてだ。キッチンが見える席に座ったトレイ先輩がドリンクだけ頼んでいるのを横目で見ながら、スタッフルームに入った。ドアを閉めて少し深呼吸する。トレイ先輩が、こんなに真剣に私を知ろうとしてくれている事が嬉しかった。うん、今日のバイトは頑張れそう。

キッチンへ入ると、フライパンをすごい勢いで振るフロイド先輩から、「小エビちゃん今日もよろしく〜」と声をかけられる。「よろしくお願いします!」と返事をすれば「なんか今日いつもより元気だね」と少し不思議そうな顔をされた。指示された食材を切り始めると、ホールから戻ってきたラギー先輩に「トレイさんと一緒に来るとか、珍しーっスね」と言われた。罪悪感からチクリと痛む胸を無視して「実は、交際し始めまして……」というと、聞き耳を立てていたらしいキッチンスタッフたちが「まじで!?」と声を揃えて驚いていた。「副寮長を射止めるなんて、やるじゃん監督生」とハーツラビュル寮生に肘でつつかれる。曖昧に笑って流し、仕事へ戻るよう促す。これから射止めなければならないところなのだ。自分の命までかかっていることはとても話せない。

少しして、トレイ先輩が小さく手を振ってから店を出て行った。サイエンス部で次に扱う研究発表について色々相談する事があるらしい。寂しいような、ちょっと肩の荷が降りたような……授業参観のような緊張感はなくなった。でもここでぼーっとするわけにはいかない。時間いっぱい稼がなければ。





ハーツラビュル寮で夕飯をご馳走になった後、グリムをエースとデュースに預けてトレイ先輩の部屋へ向かう。散々冷やかされたが、素直に喜べない状況に上手く笑えていたか分からない。トレイ先輩の部屋に着くと気が抜けて、どっと疲れが出た。先輩に促されてベッドに腰掛ける。


「大丈夫か?さっき、困った顔してたな」
「ああいう風に冷やかされると、どうしていいのか分からなくて……すみません」
「そのうちあいつらも慣れるさ。今だけだよ」


こうして部屋で話す状況を作りやすくするために、周りに交際していると伝えた意図は分かっている。私も早く慣れなくては。トレイ先輩は、みんなから揶揄われてもさらっと流していてすごい。もしかして、慣れているのかもしれない。聞いてみたいけれど、なんだか妬いてしまいそうで聞けなかった。


「それで、何を話しましょうか」
「そうだな、俺の休日の過ごし方の話でもしようか」
「えっ、次は私がお付き合いしますよ?」
「ははは、その気持ちは嬉しいけど、1日ついて回ってもらうほどじゃないんだ……。お菓子作りはたまに手伝ってもらうからイメージできるよな?」
「はい」
「部活がない時の話をするけど……午前中は植物園で育てているイチゴを見に行くか、大抵はお菓子作りをしている。午後は勉強か、ほとんどは読書だな。たまにケイトに誘われて外出することもあるけど……あとは、薔薇の世話……くらいか。つまんないだろ」
「えっそんなことないですよ。イチゴ、もし良ければ見に行きたいです。実はオンボロ寮の横に小さな畑があるので、何か育てられないかなって思ってて……。あと、私も読書好きです。そういえばこっちに来てから教科書以外読んでなかったです。先輩はどんな本を読むんですか?」


「ええと、そうだな……」私の返事に少し意外そうな顔をした後、部屋に置いてある本をいくつか見せてくれた。料理関係の本はもちろんだが、小説や実用書もあった。4年生になって始まる実習のために、ビジネス関係の本も少し読み始めたそうだ。そちらは私にはまだ早かったが、小説は心惹かれた。「もう読み終わってるし、よければ貸そうか」と言われて、喜んで受け取る。


「お前は忙しいだろうし、毎週同じように過ごすことは出来ないけど、時間が空いたらこうやって話をしようか」
「嬉しいです!ありがとうございます。あの、今度の休日はバイトが午前中だけで……午後、先輩が大丈夫なら一緒に勉強しませんか?もちろん、お邪魔はしません!」
「お、そうだな。定期考査も近づいて来てるし……そうだ、平日の放課後に決まって空いてる日はあるか?」
「ええと……木曜日は何もないです」
「じゃあ、その日は毎週一緒に勉強しようか。場所は図書館でも食堂でも、空いてなければ俺の部屋でもいいし」
「いいんですか!?」
「テストが終わったら雑談の時間に当ててもいいしな」


トレイ先輩の前向きな提案にすごく嬉しくなる。こんなに贅沢に過ごしてしまっていいのだろうか。「先輩、迷惑じゃないですか?」と聞けば、「いや、どうせふらふらしてた時間だから気にしなくていい」と笑ってくれた。一緒に過ごす時間が増えれば、トレイ先輩に振り向いてもらえるチャンスが増えるかもしれないと、ドキドキした。

時計を確認したトレイ先輩が、「そろそろ寮に帰さないとな……」と立ち上がる。そのとき、ふと思い出したように真剣な表情で私を見つめる。どうしたんだろうかと首を傾げると、先輩は「足……見てもいいか?」と言った。ハッとする。私は自分がトレイ先輩の足枷になっていることを自覚しているべきだ。ベッドに座ったままの私の前で、トレイ先輩が屈んでくれたので、靴と靴下を急いで脱ぐ。1日動いた後の足を見られるのが恥ずかしかった。


「あれから5日経って……くるぶしより上まで黒くなりました」
「痛みはないんだよな?」
「ないです。もしかしたら、足からこのまま上に向かってじわじわ黒くなるのかなって思ってて」
「多分そうだろうな。他の場所には変化がないんだろ?」
「はい。足だけです」


靴下と靴を履き直そうと手に取る。このまま、この墨汁を垂らしたような黒が全身を覆ったら私は死ぬ。しゃがんだまま少し固まっていたトレイ先輩が、私を見上げて「なぁ。……キスしようか」と言った。突然の申し出に驚く。たった5日で気持ちに変化があったとは思えないし、今しても効果はないのではないだろうか。


「いや、まだ絶対早いですよ」
「そうかもしれないけど……これから多分、何回もする機会があるだろ?慣れておいてもいいんじゃないかと思うし、それに、出来るだけ呪いが早く解けた方が安心出来る」
「せ、先輩が……いいのなら」
「うん。俺が、したい」


私は言い方を間違えたかもしれない。先輩の意思を尊重しているかのようで、先輩任せになってしまっている。ずるいことをしているな、私は。そっと目を閉じる。前のキスも私はベッドに座っていた。その時は先輩のキスが上から降って来たけれど、今日は下から掬い上げるようなキスだった。ちゅ、と小さなリップ音がして、3秒ほどで唇が離れていく。これがトレイ先輩のリズムなのかもしれない。意識するとなんだか恥ずかしくなって、パッと目を開けた。前は、すぐに足を確認していたトレイ先輩だったが、今日は視線が合ってビクッと肩を揺らしてしまった。こちらを見つめる目に、吸い込まれるかと思った。動揺して、目を泳がせてしまい、下を見る。

真っ黒なままの足を見て、ああ、やっぱりなと思った。





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あれからさらに2週間が経った。皮膚の黒は、膝あたりまで侵食していた。おそらく、鏡を踏んでから丸1ヶ月が経つ頃には両足が全て真っ黒に染まるだろうと思った。まだ、他の誰にもバレていない。グリムには「けっこう暖かくなってきたのに、なんで部屋でも長いズボン履いてんだ?」と不思議がられたが、なんとか誤魔化している。

ここにきて、少し不思議な……というか奇妙な事が起こり始めた。トレイ先輩と一緒に勉強しようと向かった場所がことごとく空いていなかったり、私やトレイ先輩の時計が遅れて待ち合わせに間に合わなかったり、急なトラブルが舞い込んで会えなくなったり。最初は、たまにはこんな事もあるよなと思っていたが、それがさらに1週間も続いてしまい、その間ろくにトレイ先輩と話せなくて流石に焦った。
先輩も違和感があったようで、夜時間がある時に電話で話してから寝ようという提案をしてくれた。流石に毎日は出来ないので、金曜日の夜限定だ。普段話しているよりもずっと近い耳元で聞こえるトレイ先輩の声に緊張してしまって、ビデオ通話に変更してもらった。理由を正直に話すと、トレイ先輩はくすぐったそうに笑っていた。


『それにしても……このところタイミングが悪い事が続くな』
「ちょっと考えたんですけど……もしかして、鏡の呪いのせいだったりしないでしょうか。邪魔されてるのかなと思って……
『可能性はあるな。何か他にも仕掛けられるかもしれないし、気をつけて過ごそう』
「はい。……あ、そろそろ時間ですね」
『もうそんな時間か。ちゃんと歯磨きしたか?暖かくはなってきたけど、布団は被って寝るんだぞ』
「ふふふ、歯磨きしました!布団も大丈夫です。おやすみなさいトレイ先輩」
『ああ、おやすみ』


通話は遅くても22時には必ず切ると決めている。これは私の主張だった。楽しくて、どれだけでも長く話していたい欲が出てしまうのだ。先輩だって日々疲れているのに、遅くまで付き合わせるわけにはいかない。でもこれで、なかなか会えない日も少し安心して過ごす事ができた。
とはいえ、あまり手応えは感じていない。トレイ先輩は優しいし、今まで以上に一緒にいる時間は増えていた。仲良くなれているという感覚はあるが、どうも恋人のそれとはズレているような気がする。どちらかと言えば、そう、妹。不味いな、と思った。妹のように思われてしまえば、そこから彼女にのし上がるのは難しい。

あれからさらに2回、キスをした。でも、やっぱり皮膚は黒いままだったし、私も今の関係性ではダメだと分かっていた。少しずつ、現実を受け入れ始めている自分がいた。このまま黒くなって死んじゃうのかもしれないな。トレイ先輩を信じる気持ちと、迷惑をかけて苦しい気持ちがずっと喧嘩するように頭を重くしている。

1ヶ月が過ぎて、やはり私の両足は真っ黒になった。自分の足じゃないみたいで、動くのが信じられない。つねると痛いし、本当に皮膚……というか、外見だけが鏡に奪われているのだと実感する。つまり、鏡に映っている部分にしか干渉できないから、皮膚の内側までは今のところ呪いが届いていないのだ。お風呂で全身を写すと、なんだが足の長いパンダみたいで滑稽さがある。等身って大事だな、なんて自嘲して……魔法が解けたらちゃんと皮膚は戻るのだろうかと不安になった。こんな身体、人に見せるのは抵抗がある。








「記憶操作……ですか」
「はい。魔法で出来たりしますか?」
「そうですねぇ……


2ヶ月目の第一週が過ぎた。経過したのは大体40日だ。学校行事が近く、トレイ先輩は寮長と副寮長の会議で出かけたり、色々駆け回って指示を出さなければならないことが増えて、なかなか会えなくなっていた。

今は、学園長のところへ相談に来ていた。トレイ先輩が、私の今の状態を忘れてくれないかなと思ったのだ。呪いがかかったことは、トレイ先輩しか知らない。鏡を踏んで倒れたことは、グリムにはただの貧血だと伝わっている。もうすっかり忘れてもらって、ひっそり死ぬのが一番迷惑がかからないと思った。


「出来ない……という事はないです。ただ、上手く行くかは微妙ですねぇ」
「えっどうしてですか?」
「記憶操作の魔法は完全ではないんです。関連するものを見たり似たような出来事が起きたりするたびに、違和感を抱き、思い出そうと脳は勝手に動きます。人間の脳は複雑ですから……魔法で簡単にどうにか出来るものではないんですよ。そして、不自然に空いた記憶を思い出せない事がストレスになる。完全に消すよりは、別の事に置き換えて上手く記憶を繋げたまま勘違いさせる方が、まだ上手くいきます」
「なら、その勘違いさせて誤魔化すことは出来るってことですか?」
「そうですねぇ。しかし、今は使いません」
「えっどうしてですか」
「今、貴女が試していることを最後まで成し遂げてみてください。上手く行かなかったときに……クローバーくんの記憶を少し操作してみましょう」


キッパリと断られてしまい、肩を落とす。残りの2ヶ月弱もの間、トレイ先輩を私に付き合わせるのが申し訳なかった。しかし、100日後の上手く行かなかった時に記憶操作をしてくれるという約束は、少しだけ私の心を軽くした。トレイ先輩に、私の死を背負って欲しくない。勘違い、ということだから、私の存在自体を忘れてもらうことは出来ないが、死んだ理由は違うもので処理してもらえるのだろう。


学園長室を出て階段を降りようとしたところで、下の階からだだっ、という音がした。誰かが落ちたような音だ。驚いて様子を見に行くと、数名の生徒が集まっていて、その真ん中でトレイ先輩が苦笑いして立っている。何か話してから周りの人たちはいなくなった。トレイ先輩がふぅ、と小さく息を吐いたのを見て、階段を降りながら声をかける。


「トレイ先輩」
「おっと、監督生か。少し久しぶりだな。なかなか会えなくて悪い」
「そんなこと気にしないでください!それより、どうしたんですか?もしかして先輩、階段から落ちました?」


階段の手すりから手を放さない先輩に違和感を抱いて、思わず眉を寄せる。トレイ先輩は「いや、大丈夫だよ」と答えるが、嘘だなと思って保健室へ連れて行く事にした。先輩は戸惑っているが、無理矢理にでも連れて行く!私が「背負いましょうか?」と尋ねると、「いや……分かった。行くよ」と諦めてくれた。

保健室に着いて先生に診てもらう。足を踏み外して落下したそうだが、浮遊魔法で着地はなんとかなったらしい。ただ、踏み外した時に足を軽く捻ったらしかった。マジフト大会のことを思い出していたが、トレイ先輩は「いや、魔法が使われたような感覚はなかったよ。俺が勝手に踏み外しただけだ」と苦笑いしている。いくら最近忙しいからと言って、トレイ先輩が階段を踏み外すということがあるだろうか。
保健室の先生が、「最近君は怪我が多いね」と苦笑いした。


「先輩、他にも怪我してるんですか?」
……いや、たいしたことないよ」
「先生、トレイ先輩なんの怪我したんですか?」
「この前は部室で上から物が降って来たとかで、頭を打撲してたでしょ。それからどこかで腕にいくつか切り傷を作ってたし……飛行術で着地ミスして、足にも擦り傷あるよ」
……先生」
「だってこの子すごく心配してるから」


「ど、どうして黙ってたんですか……?」と震える声で尋ねる。これは、鏡の呪いのせいだろう。邪魔する方法が攻撃的になって来たのだ。罪悪感で目じわじわと涙が集まってくる。溢れるのをどうにか抑えた。私の顔を見たトレイ先輩は、気まずそうな顔をして「お前のせいじゃないから気にするな」と言う。


「どう考えても私のせいじゃないですか!」
「不可抗力だよ。年季の入った鏡の呪いに対抗してるんだ、こういう事もあるだろう」
「でも、どうしてトレイ先輩ばっかり!……そうだ、そうですよ、どうしてトレイ先輩ばっかり怪我してるんですか?鏡を壊したのは私なのに、私に攻撃が来ないのは変じゃないですか?」
……そうだな」


何か考え始めたトレイ先輩を見ていると、保健室の先生が湿布を貼り付けた先輩の足を見て「あれ?」と呟いた。そのままスラックスの裾を上にガッと捲る。突然のことに、トレイ先輩は「えっ?」と素っ頓狂な声を出した。


「痣がある。手の形。ねぇ……もしかしてゴーストに引っ掛けられた?」
……確かに、一瞬なにかに掴まれたような感覚がして、足がつっかえた気が……
「ゴースト、ですか?」


どういう事だろう。「学園長に相談してみるか」と座っていたトレイ先輩が私を見上げたので、頷いて保健室を出る。先輩が歩いても大丈夫なのか不安だったが、保健室の先生が「2、3日で治るから」と言っていた。
先ほど話したばかりだからまだ居るだろうと学園長室のドアを叩くと、気の抜けた返事がする。


「ふむ。ゴーストですか」
「鏡の呪いってゴーストが関係してるんですか?でも……トレイ先輩だけが怪我をするっておかしいですよね」
……実は、どうして鏡がオンボロ寮にあったのか調べていたんですが……。やはりトレイン先生の資料室から盗まれていたんですよねぇ。犯人はゴーストでしたか。道理で痕跡を辿っても生徒に行きつかないわけです」
「監督生が鏡を踏んだのは、ゴーストに仕掛けられたから……って事ですか?」
「その可能性が高くなってきましたねぇ。クローバー君ばかりが攻撃されているということは、そのゴーストは呪いを成立させたいのかもしれません」
「つまり私に死んでほしいと」


そういう事だったのか。私が鏡を踏んで、こんな身体になってしまったのはゴーストのせいだったのか。トレイ先輩まで巻き込むことになって……。一瞬怒りが湧いて来たが、そもそもどうして自分がゴーストに狙われたのかわからなかった。何か、怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。もし、私が知らない間にゴーストを怒らせていて、そのせいで呪いにかかってしまったのなら、やはりトレイ先輩を巻き込んだのは自分のせいだ。
落ち込んで顔が上げられないでいると、ぽん、と頭を優しく撫でられた。先輩を見上げると、眉を下げていつものように笑っている。ふわっと自分の顔が赤くなるのが分かる。私はトレイ先輩の笑顔に弱い。






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その日からトレイ先輩は、学園長の提案でゴーストの干渉を弱めることが出来る小さな人形を持ち歩くことになった。私はというと、学校の雑務をしながら犯人探しをすることにした。ゴーストの知り合いは多い。色々情報を聞き出しながら、私に恨みを持つゴーストを探そうとしているのだが、なかなか見つからなかった。

トレイ先輩とはまた毎週木曜日に一緒に勉強する日々を送っている。3年生の成績に大きく関わるレポートが始まって、雑談ができるのはお菓子作りを手伝う時くらいになった。夜に部屋へお邪魔することは少し減った。私がいると、常に呪いのことを思い出してしまうだろうし、落ち着けないだろう。



鏡を踏んでから2ヶ月が経ったある日、ようやくゴーストの手がかりを掴んだと学園長から連絡が来た。普段は校舎の片隅にある小さな銅像に取り憑いているゴーストが、トレイン先生の資料室から出ていくところを見た、という絵画の証言を得たのだ。しかし、先生達が会いに行っても姿を見せないらしく、私本人を連れて行ってみようということになったらしい。生徒の命に関わる事態なのだから、なんだかんだ他の教員にも連絡が行っていることは覚悟していたが、普段授業を受けている先生たちに自分がトレイ先輩の事が好きなことがバレたのは、ちょっと……いや、かなり恥ずかしかった。


「クルーウェル先生も知ってたんですね……
「自分のクラスの生徒のことを知らないはずがないだろう。では、行くぞ仔犬。お前がいれば流石にゴーストも反応を見せるだろう」


私を目にしたゴーストが怒って攻撃してこないよう、常にクルーウェル先生の後ろにいるよう指示される。これまで私には直接的な攻撃がなかったのだから大丈夫な気がするが、大人しく従っておく。ゴーストがいるという銅像の近くに来て、そういえばここには掃除に来た事があるなと思い出した。グリムと2人で、この胸から上しかないお爺さんの銅像を磨いた。グレートセブン程有名ではないが、この学園を立てる際に協力してくれた人たちの中の一人だそうだ。

「あの〜、ゴーストさん、いますか?」と声をかける。少し緊張して声が震えてしまった。クルーウェル先生のフカフカの上着にぎゅっとしがみつく。事情を誤魔化したまま一緒に来てくれたグリムは、私のスラックスにしがみついている。

ひやっと周りの温度が少し下がった。


……来たぞ」とクルーウェル先生が呟いたので、銅像の周りを見渡す。すると、台座の後ろからゴーストがこちらを見ているのが分かった。見たことない顔だ。『来てくれたの……?』と私をじっと見つめてくる。クルーウェル先生が一歩前に出て、ポケットから例の鏡を取り出しゴーストへと話しかける。


「この鏡をオンボロ寮へ置いたのはお前か?」
『うん』
「なぜだ?」
『その子に……死んでほしいから』
「わ、私……貴方に何かしましたか?もしそうなら謝ります!」
『えっ!違うよ!……僕は君が好きなんだ。だから、ゴーストになってほしくて』
……え?」
「なるほどな……


クルーウェル先生が小さくため息を吐く。私は混乱して、思わずグリムと顔を合わせる。グリムも「何言ってんだコイツ」という顔で私を見上げている。


『この銅像をあんなに綺麗にしてくれたのは君が初めてなんだ。だから好き。一緒にいたいけど、君はまだ生者だから……死んでもらうしかないんだ。100日もかかるとは思わなくて焦ったけど……
「だからクローバーだけが攻撃されたのか」
『あいつ、あいつはダメ。僕の邪魔ばかりする』
……私の事が、好き?」
『うん』


一気に怒りが込み上げて来た。私は仕事で真面目に掃除をしただけなのに。


「呪いを解いて!」
『無理だよ。僕は仕掛けただけで、その鏡は僕の魔法じゃない。それに、君が死んでくれなきゃ一緒にいられないじゃないか』
「私は貴方のこと好きじゃない」
『そんなことないよ、だって銅像を綺麗にしてくれた』
「それは仕事でやったの!」
「落ち着け仔犬。こいつは話が通じないタイプだ。それに、魔法が解けないのも事実……。サムのところでもらった魔法薬があるだろう、あれを出せ」
……はい」


ちょっとだけ、犯人のゴーストを見つければ解決するかもしれないって期待していた。でもダメだった。ニコニコと笑いながらこちらを見るゴーストに、腹が立つ。クルーウェル先生に瓶を渡す。ゴーストの周りに振りかけると、しばらくその範囲から動けなくする事が出来るらしい。とりあえず、残りの日数が経過する間は効果があるだろうと言われた。その間は、このゴーストはトレイ先輩に何も仕掛けることができない。

ゴーストは魔法をかけられた事なんて気にもとめず『楽しみだなぁ、楽しみだなぁ』と同じ言葉を繰り返すだけになった。死んだら鏡に魂が取り込まれると聞いていたけど、このゴーストが迎えに来るのだろうか。こわい、嫌だ。『楽しみだなぁ』と機械のように呟くゴーストが、すごく気味が悪くて怖いものに見える。足がすくんで動けずにいると、クルーウェル先生が目の前に立ち、私の視界を遮ってぽんと肩に手を置いた。


「深呼吸しろ。呪いさえ解ければ問題ない」
……解けるんでしょうか」


返事はなかった。先生にも、どうにも出来ないのだ。トレイ先輩が、私を好きになってくれる以外に、もう手立てはなかった。いまだに『楽しみだなぁ』と繰り返すゴーストを置いて、オンボロ寮へと戻った。

談話室に入ると、いつものゴーストさん達が出迎えてくれる。それに一瞬びくっとしてしまって、申し訳ない気持ちになった。あのゴーストとは違う。ソファに腰掛けると、グリムが「呪いってなんのことだ?」と尋ねてきたので、もう事情を隠し続けるわけにはいかなくなった。スラックスの裾を上げて真っ黒な足を見せる。グリムとゴーストは息をのんでいた。耳をぺしょりと下げたグリムが「痛くねーのか?」と恐る恐る触れる。「痛くないよ」と返せば、少しだけほっとしたようだった。


トレイ先輩へは、クルーウェル先生が事情を話してくれるとの事だった。話を聞いて、トレイ先輩はどう思っただろう。私は少しだけ、この出来事が起こったきっかけを知れて肩の荷が下りた。本当に、少しだけれど。私が何か悪いことをした訳ではなかった。
でも、トレイ先輩を巻き込むことになったのは、私が先輩のことを好きだったからだ。私が巻き込んだ。これだけは揺るぎようのない事実だった。

スマホが音を鳴らし、トレイ先輩からメッセージが届いたことを知らせる。開いてみると『クルーウェル先生から話は聞いたよ。災難だったな』と送られてきていた。声が聞きたくなって、『少し、話したいです』と送信する。夜、眠る前に少し電話することになった。今日は金曜じゃないのに、時間を作ってもらえてありがたい。
一緒にお風呂に入ると聞かないグリムをどうにか説得して、もう長ズボンを履いて暑い思いをしなくていいんだなと短パンを取り出した。しかし、お風呂から出た後で着替えると、常に真っ黒な足が見える事に不安な気持ちになって、結局長ズボンを履いた。


夜9時。グリムやゴースト達とおやすみを交わしたあと、私は一人で談話室のソファに座ってぼーっとしていた。カチカチと鳴る時計の音が、いつもより大きく聞こえる。残りは40日程度だ。エースやデュースに「いつも一緒にいるよな」と言われるくらい、トレイ先輩とずっと一緒にいる。でも、何度キスしても魔法は解けない。もちろん嫌われてはいないけれど、まだ妹のような立ち位置から抜け出せていないのかもしれない。

キスの後に、トレイ先輩が落胆することにも慣れ始めていた。あまりはっきりとは見せないけれど、いつも瞳が揺れる。諦めて死んで、トレイ先輩には記憶操作の魔法で忘れて貰えばいいとも思っていた。でも、今日会ったゴーストの姿を思い出して身体が震える。最初はなんだかあどけない雰囲気だったのに、途中から壊れたラジオみたいになって、同じ言葉を延々と繰り返していた。私が死んだら、それからずっとあのゴーストと一緒にいなくてはならないのだろうか。そんなの、嫌だ。怖い。でも、トレイ先輩に「早く好きになって」なんて言えない。どうしたらいいのだろうか。ぽすっとソファの背に身体を預けたタイミングで、スマホが着信音を響かせた。


「もしもし!」
『今大丈夫か?』
「大丈夫です。ありがとうございます、電話……
『俺もお前から話を聞きたかったし、ちょうど良かったよ。……大変だったな』
……はい」
『お前は自分の仕事をしただけで、どうしようもない事だったんだ。あまり思い詰めるなよ』
「でも、……私が、先輩を巻き込んじゃいました」
『そんな風に考えなくていいんだ』


トレイ先輩を好きになったことを後悔したくないのに、思わず『好きにならなきゃ良かった』なんて思いそうになる。そうすれば、巻き込まずに済んだのに。
そこからしばらく雑談をして、30分くらいで電話を終えた。今度また、アルバイトが終わった夜に直接ゆっくり話そうということになった。もし、私が死んでしまったらアルバイトにも穴が空いてしまう。それに、手も黒くなり始めたら手袋を着用しなければならない。そうなったら、キッチンではなく給仕に変更させてもらう必要も出てくる。そろそろ、アズール先輩にも話をする必要がでてくるかもしれない。どんな反応をされるかと思うと、少しだけ気が重かった。





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一番気を使うのは、体力育成だ。
着替えはいつも職員トイレを借りていたから問題ないのだが、運動着は他の服より心許ない。授業だけでも不安なのに、放課後になった今、ハーツラビュル寮に来てデュースのクロッケーの練習を手伝っている。私も上手くはないのだが、ご褒美にトレイ先輩のクッキーが待っていると聞いて二つ返事で飛びついてしまった。グリムも楽しんでいる。ハーツラビュル寮に来る目的が、トレイ先輩じゃないのは久しぶりだった。デュースが上手く出来るまで何度も繰り返している間、エースはグリムに絡まれてヘトヘトになってしまっていた。


「よっしゃあ!」
「は〜〜〜やぁーーーっと決まった。オレもう疲れたんだけど」
「腹減ったんだゾ……
「そろそろ片付けよっか」


転がしてしまったハリネズミを迎えに行く。私にもようやく慣れてくれて、針を向けられなくなった事が嬉しい。そっと手に乗せて撫でていると、「後輩ちゃんたち〜トレイくんが呼んでるよ!クッキー出来たって」とケイト先輩が呼びに来てくれた。汗臭いかもしれないと気になっていたら、エースも同じだったようでシャワーを浴びるか……という話になりドキッとする。まさか一緒に入るわけはないが、たぶんそのあと貸し出される服はデュースのハーフパンツの可能性が高い。どうしようかと焦っていると、私をチラッと見たグリムが「そんなの待てねーんだゾ!」と騒ぎだした。


「う〜ん、じゃあ今日は特別!けーくんが魔法をかけちゃうよ」
「うわっ!?」
「ダイヤモンド先輩、すごい……これ、浄化魔法みたいな感じですか?」
「シャワーの代わり!運動着の汚れも落としておいたから、そのままキッチンに入っても怒られないよ。じゃあ行こっか。オレもお腹空いたし」


着替えずに済んでホッとする。小声でこっそり「ありがとグリム」と伝えると、「子分の面倒見るくらい、オレ様には楽勝なんゾ」とふふんと鼻を鳴らした。廊下からすでに甘い香りが漂ってくる。いつもはケーキかタルトだったから、クッキーは少し新鮮だ。キッチンへ向かうのかと思っていたら、「あ、談話室に変更だって〜」とスマホを見ながらケイト先輩が道を変える。談話室には、リドル先輩とトレイ先輩がいた。テーブルには、クッキーと紅茶が用意されている。

しばらくみんなで雑談をして、夕飯も一緒に食べていく事になった。運動着のままだったし帰ろうかと思ったのだが、リドル先輩に「気にする必要はないよ」と言われてお言葉に甘える。他の寮生も一緒に美味しいご飯を終えて、トレイ先輩の指導のもと歯磨きをし、みんなでカードゲームをする事になったのだが……私はトレイ先輩の部屋に向かっていた。「少し抜けないか?」と言われて、手を引かれながら廊下を進む。なんだかいつもと様子が違う。さっきまでは普通だと思っていたけれど、思い返すと今日のトレイ先輩は口数が少なかった。

ガチャっと見慣れたドアが開けられる。パチンと音が鳴って電気がつくと、もう何度お邪魔したか分からない先輩の部屋が目に入る。そのまま促されてベッドに腰掛けた。いつもは紅茶をいれてくれてゆっくり話をするのに、今日は上着を脱いだトレイ先輩が隣に座った。どうかしたのだろうか。


「トレイ先輩、どうかしたんですか?」
……今日、ケイトと話してたんだ」
「?、はい」
「今よりもっと好きになるには、どうしたらいいと思うかって」
「それは……


キスしてもキスしても呪いが解けないことを、トレイ先輩はやはり気にしていたらしい。気持ちの問題だから、どうにも出来ないのに。仲のいい子から好きな子に変わる理由なんて、人それぞれだろう。
トレイ先輩が、そっと私の手を握った。なんだか、いつもと空気が違って緊張する。先輩は少し言いにくそうに口籠もったが、意を決したように私の目をじっと見た。


「もう一つ先に進んでみたらどうかと思うんだ。……いいか?」
「それは、その……えっち、的な」


トレイ先輩が静かに頷く。
ああ、これが、普通の交際だったらどれだけ嬉しかったことだろう。先輩、私相手で勃つんですか?と思わず聞きたくなった。しかし、この展開はまずい。断らなくては。本当は、今すぐ抱きしめてほしい。でもダメだ。そもそも、身体を見られるわけにはいかないのだ。


「先輩、気持ちは嬉しいんですが、やめておきませんか。先輩まだ、私のこと好きなわけじゃないし……
「これで気持ちが変わるなら、試してみたいんだよ。もしかして初めてか?」
……そうですね」
「そうか、ごめんな」
「えっ待って、先輩!」


トレイ先輩はふわっと私を抱き上げてベッドに寝かせる。急いで起きあがろうとしたが、すぐに覆い被さってきた先輩が運動着のファスナーに手をかけてきたため、そちらに気を取られて枕にぽすんと頭を落としてしまった。襟いっぱいまで上がっているファスナーをつまむトレイ先輩の手をキュッと掴む。先輩の目を見て「ね、先輩、やめましょう?」と言ってみたが、「ごめん」と小さく呟いてジジッと少し下へおろされる。もう一度手に力を込めて止める。先輩は、空いた手で腰のベルトをパチンと外した。


「先輩、絶対後悔しますって、やめましょう?」
……


どうしよう、先輩が言うことを聞き入れてくれない。今まで嫌がることを無理矢理されたことなんてない。私だって本当は先輩に抱かれたい。でも、今は絶対にダメだ。と言うより、無理なのだ。私のお願いは無視されて、ファスナーは下までおろされた。何の準備もしていない、変哲のない履き慣れたパンツが見えてしまうのが虚しい。トレイ先輩の手が、ティーシャツに入り込み始めて、本格的に焦る。ダメだ、早く止めないといけないのに。


「トレイ先輩、ダメです。やめましょう、“やめといたほうがいい”んですっ!」


ぴたっと先輩の手が止まった。「これ……」と、先輩が小さく呟く。しばらく先輩には肌を見せていなかったから、知らないのは当然だ。私の皮膚は、もう胃の辺りまで真っ黒に染まっていた。先輩の手が、お腹をそっと撫でる。くすぐったい。「こんな、」と先輩が声を詰まらせる。ああ、だから止めたのに。ちゃんと言ったほうが良かったのだろうか。でも、言わずに止められていれば、それが一番良かったのだ。

今の私には、おへそも何もない。
全て呪いで奪われてしまった。見える部分は取られる。足が黒くなり始めた時、色が衝撃的で気がついていなかったのだが、後で見てみたら爪が無くなっており、足の指先はつるんとしていた。だから今の私はそういった行為をするための穴も無かった。排泄もできない。初めは自分でもどうなっているのか分からなくて、トイレに行ってもおしっこが出来なくて困った。それでも尿意は強くなるし、だんだんお腹も痛くなってきて、ふらふらしながら学園長室へと向かった。事情を話すと「それはいけません!」と血相を変えた学園長に保健室へ連れて行かれ、転移魔法の応用で体内にあるものを取り出してもらった。呪いが解けるまでこの状態では先に死んでしまうということで、排泄物が溜まると自動的にトイレへお腹に溜まったものを移転してくれる魔法道具を専用に作ってもらった。私は常にそのベルトを太ももに装着している。今まで同じ呪いにかかった者の中には、もしかしたらこの時点で死んだ人もいたのかもしれない。魔法が使えなければ終わりだ。


「先輩、私、出来ないんです。」
……
「ごめんなさい、本当はずっと隠しておこうと思ったんですけど……
……ドゥードゥル•スート」
「えっ、先輩?」


マジカルペンを取り出した先輩が、私のお腹に触れながらユニーク魔法をかけようと呟く。でも、何も変化は起こらない。


「ドゥードゥル•スート」
「先輩、やめてください」
「ドゥードゥル•スート!」
「無理ですって、先輩落ち着いて」
「ドゥー、ドゥル……くそ……どうしてこんな」


先輩がよろよろと力なく私の上でうずくまる。ぎゅっと運動着が引っ張られる感覚がして、拳を握っているんだと分かった。取り乱す先輩を見て、私も動揺していた。トレイ先輩が焦るところなんて、あまり見た事がなかった。先輩の手を上からそっと包んで、ゆっくりと撫でる。


「トレイン先生に聞いた事があります。条件を厳しくした魔法は、その分強くて干渉を受けにくいって。あの鏡の呪いは100日かかったり、キスが必要だったり、かなり条件を絞った魔法になっていました。きっと、誰だって上書きできません」
……お前のことは大切なんだ。それは、嘘じゃない」
「分かってますよ。先輩、いつも私のこと考えてくれてるじゃないですか。先輩が私のこと人間的にはちゃんと好いてくれてるって、分かってます。……恋に変わるかどうかなんて、誰にも分かりませんし、どうにも出来ないですよ」


ゆっくりと顔を上げた先輩の頬に、そっと手を添える。目があって、にこっと笑って見せたら、先輩は眉を寄せて苦しそうな顔をした。先輩が、焦っているんだなと実感した。呪いはどんどん進行していって、それを止める事ができるのは自分だけで、でも、考えてどうにか出来ることではなくて……。私だってこんな状況になったら同じくらい苦しんだだろう。先輩を、解放したい。でも、きっと私が「もういいです」と言っても、一度この関係が始まってしまったからには、トレイ先輩は投げ出さないだろう。


「先輩、別れませんか?」
……は?」
「私たち、近すぎたんだと思うんです。別れて、時間をおいて、深呼吸して……少し落ち着きましょう?先輩、疲れてるんですよ」
「何言ってるんだ。そんな時間は……
「まだあと1ヶ月くらいあるから大丈夫ですって!先輩が落ち着いたらまたお話ししましょう。だから、これからは木曜日の勉強会も、金曜日の電話も無しです」
……本気で言ってるのか?間に合わなかったら、死ぬんだぞ」
「分かってます!」


「分かってます……
でも、どうしようもないじゃないか。涙が出てきてしまって、焦って手で拭う。泣きたいのは先輩だろう。


「私だって、死ぬのは怖いです。死んだらあのゴーストが迎えにくるのかってずっと考えちゃって、震えが止まらなくなることだってあります」
「なら、」
「でも!先輩が苦しんでるのも嫌です」
……
「私が、先輩のこと好きになっちゃったから、巻き込んで、困らせてるのにっ!」
「俺を好きになったこと……後悔したか?」
「っ、しません!」


噛み付くように返事をすると、先輩は目を見開いた。先輩を押して起き上がり、ベッドの上で座って向かい合う。そのまま先輩の胸元をぎゅっと掴んだ。


「トレイ先輩が好きです。大好きです!……後悔、しそうになったことは何度もあります。好きじゃなければ先輩を巻き込まずに済んだって。でも、どれだけ考えても私は先輩のことが好きで、こんな状況なのに私のために一生懸命考えて、動いてくれて……やっぱり大好きだなって思いました。後悔なんてしません。先輩が、私のこと好きになれなくても絶対に恨んだりしません。こんなに頑張ってくれた先輩のことですもん、ずっと大好きなままで死にます」


涙が落ちていくのも無視してみっともなく言い終わると、先輩は手で顔を覆って「はは、」と力なく笑った。そのまま「はぁーーー」と大きく息を吐いた。失礼なことをしてしまったと焦って、急いで先輩から手を放す。袖でごしごしと涙を拭うと、「擦るな」と先輩が頬に手を添えた。


「分かった。……少し、いや……かなり焦ってた。間違いなく好感を持っているのに、何が違うのか分からなくて。……お前の言う通りにしようか」
「あ、ありがとうございます」
「でも、あまり時間をおけない気がするな。呪いの進行が心配で」
「それでも我慢してください。先輩は私のことを考えすぎなんです」
「はは、そうかな」
「そうですよ」


優しく頭を撫でられてホッとする。先輩は少し気が抜けたようで、さっきよりかなりリラックスしていた。「紅茶、飲んで行くか?」と聞かれてこくりと頷く。たくさん話して喉が疲れてしまった。ふと、もし顔まで黒くなったら、飲食はどうなるのだろうかと思った。何も食べられないし、そもそも呼吸もできないだろう。学園長ならどうにかしてくれるのだろうか。でも、そうなってしまったらもうトレイ先輩に好きになってもらうことは諦めた方が良いだろうな。タイムリミットは、思ったより早く来るのかもしれない。


トレイ先輩の部屋を出て談話室へ行くと、エースがケイト先輩にマジックを披露しているところだった。リドル先輩の姿はなかった。もう寝てしまったのだろう。グリムとデュースはソファで身を寄せ合って眠っていた。「二人を寮まで送ってくるよ」とトレイ先輩がグリムを抱き上げる。エースとケイト先輩から「いってらっしゃ〜い」と見送られてから、オンボロ寮へと戻った。門の前でグリムを受け取り先輩を見上げる。これで、先輩とはしばらく距離を置く。あと1ヶ月……どうなるか分からないけど、トレイ先輩が少しでも楽になるのならば、正しい選択だったと思いたい。


「送ってくれてありがとうございました、先輩。……あの、私もう少し呪いを解く方法を探ってみます」
「そうか……無理はするなよ?」
「大丈夫です!……じゃあ、おやすみなさい」
……ああ、おやすみ」


先輩は何か言おうとしたが、私の頭を撫でて寮へと戻っていった。いつもだったら、キスをしていた。だから先輩も少し考えたのだろう。
他の方法なんて無いだろうな……とは思っている。トレイ先輩だって、気休めの言葉として受け取っただろう。でも、言葉にするだけで少し楽になる気がする。残り1ヶ月。そろそろ間に合わなかった時のことも考え始めなければならない。





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手が黒くなり始めた。胴体の方は胃の辺りでいったん進行が緩くなり、指先から真っ黒になった。ついに手袋をはめて生活する必要が出てきてしまった。今まで着用してこなかったため、他の人たちに不思議に思われてしまうのは仕方がないだろう。とにかく、真っ先に伝えなければならないのはアルバイト先で、クルーウェル先生に同席してもらいながらアズール先輩にだけ事情を説明した。
アズール先輩は、私にかける言葉が見つからないようだった。「ということで、来月の予定が分からなくて……。シフトが出せなくてすみません」と謝ると、「もっと他に心配すべき事があるのでは……?」と引いた顔をされた。しかし、他の色んなことはこの2ヶ月ちょっとの間に充分すぎるほど考えた。グリムのために貯金をどこに隠してあるか書いたメモを作ったし、気持ちに余裕がある今のうちにエースやデュース、色んな人に宛てて手紙も書いた。一応、元の世界の人たちにも。この手紙が登場しないで済むことを祈るばかりだ。

キッチンから給仕へ異動した最初は周りに不思議がられたが、手を怪我したと言ってごまかした。アズール先輩には、アルバイト自体を休んだらどうかとも言われたが、何もしない時間があると余計なことを考えてしまうからと働かせてもらっている。




指先から始まった侵食が肘まで来て、タイムリミットまで残り20日ほどになった日、ついに親友たちにも呪いの事がバレてしまった。


「なぁ、お前の手の怪我いつ治るの」
「え、もうちょっとかな……?」


教室で、エースとデュース、グリムも一緒に勉強をしていた時だった。ずっと「手を怪我した」と言って誤魔化し続けていたが、私がどんな時も全く手袋を外さない事に違和感を抱いていたのだろう。「ちょっと見せて」と言うエースに冷や汗をかく。「グロいからやめた方がいい」と言ったすぐは「ふーん」と流してくれたのだが、少し経って手品をすると言ったエースに手を差し出した際、するりと手袋を抜かれてしまった。


「やっぱり変だと思った。……これ、怪我じゃねーだろ」


エースなりに、真剣に心配してくれていたのかもしれない。手袋を取られても怒れなかった。そこからは正直に話すしかなくて、トレイ先輩を付き合わせていることまで白状した。突然私が死んだら驚かせてしまうから、いつかは言わなければならないと思っていた。でも、普通に接してもらえていた今までの空気を壊したくなかった。袖を捲って肘まで黒い皮膚を見せると、2人は息を呑んだ。


「もっと早く言えよ。オレたちそんなに頼りないわけ?」
「クローバー先輩にしか呪いが解けないのは分かったけど……僕たちにも心配くらいさせて欲しかった。……マブだろ」
……ごめん」


エースにコツンと頭を小突かれて、「次は何かあったら真っ先に言えよな」と言われてこくりと頷いた。二人に話したことは、トレイ先輩には内緒にして欲しいとお願いした。プレッシャーになってしまうのが怖い。

それからは、皮膚が見えそうになるたびに二人が助けてくれるようになった。手に侵食が始まってから、うっかり腕まくりをしそうになったり、手を洗わなければいけないことがあったりする度にヒヤヒヤしていたのだ。すごく助かったし、二人の気遣いに感謝してもしきれなかった。


「あ、こんにちはトレイ先輩」
「こんにちは。ちゃんとご飯食べてるか?」
「食べてますよ!」


トレイ先輩とは以前の先輩、後輩くらいの距離感を保っていたが、私は意識的に二人きりにならないよう気をつけていた。トレイ先輩も普通に振る舞ってくれていた。距離を置くことを提案したことは間違っていなかったと思っているけれど、どのタイミングでまたキスをしたらいいのか分からなくなっていた。私から声をかけてみても良いのだろうか。それとも、トレイ先輩から声がかかるのを待っていた方がいいのだろうか。悶々として今日のお昼ご飯であるキノコカレーにスプーンを突っ込むと、トレイ先輩は「座っていいか?」と向かい側に腰を落ち着けた。ケイト先輩も一緒だ。こちらもいつものメンバーでお昼を食べていたため、エースが「どーぞー」と返事をする。


「なー監督生、ひとくち」
「えっ、だからカレーじゃなくていいの?ってさっき聞いたのに」
「いいじゃん、あー」
「仕方ないな……


エースにカレーを要求されて、スプーンですくってカレーを口へと突っ込む。いつもは欲しかったら自分で勝手に横から取っていくクセに、今日は食べさせようとするなんてどうしたんだろう。「うま。もう一口ちょうだい?」なんて甘えてくる。「自分で食べなよ。スプーンあるじゃん」と言うと「お前に食わせてほしいんじゃん」と拗ねる。本当に、どうしたんだろう。


……はは、お前たち本当に仲がいいな」


そうだ、今日はトレイ先輩たちも一緒なんだった。ぱっと正面に座った先輩を見ると、少し気まずそうに苦笑いしている。すると私の肩にエースの頭がとん、と落ちてきて「あ、トレイ先輩に文句は言わせねーから。別れたんでしょ?」なんて言い出す。トレイ先輩は目を見開いた。驚いて「ちょっと、エース」と耳打ちすると、「いいから合わせろ」と小声で返され、テーブルの下でぎゅっと手を握られた。
横目でデュースを見たが、いたって普通の顔をしている。流石にエースに怒ったり、嗜めたりしてもおかしくないのにどうしたんだろう。トレイ先輩は「まぁ……そうだな」と困ったように笑って、ケイト先輩は「えー!エースちゃん、だいたーん!」なんて楽しそうに笑って、居た堪れない微妙な空気のまま昼休みは過ぎていった。


「ちょっと、さっきのどういうつもり!?」
「荒療治だよ。オレ、お前のこと好きなフリするから」
「はぁ!?」
「僕も協力する」
「え、な……なんのために……?」


エースが私のことを好きなフリをする事に、どんな意味があるのだろうか。グリムもポカンとしている。するとエースはピンと指を立てて「つまり、ライバル登場作戦」と言ってニヤリと笑った。


「ライバル?」
「お前ら、距離近すぎたから上手くいかなかったって考えてるんだろ?ってことは、当然トレイ先輩はお前のこと誰かに取られる可能性なんて微塵も考えて無かったわけ。まぁ当然だけど」
「だから、エースがお前の事を好きなフリをして、クローバー先輩を焦らせてみようってわけだ!」
「えぇ……そんなに上手くいくかな……
「まぁ〜やれるだけやってみねぇ?時間もあんまりないし」


それは、確かにそうだ。でも、そんなに上手くいくものなのだろうか。いや、どうせ何もしなくても時間は経っていくのだ。エースの案に乗ってみるのもいいかもしれない。どう転ぶかは分からないが、残りの時間をみんなと過ごすのも楽しいだろう。


「分かった。やる」
「つっても、別にお前は何もしなくていいから」
「え?」
「オレが勝手にベタベタするから、嫌がらずにいてくれればオッケー」
「もともとエースは距離感バグってるじゃん。今更嫌がらないよ」
「あ、そう?」


にやーっと笑ったエースに、ちょっとだけ嫌な予感がしたのだが……それが的中してしまった。
その日から、びっくりするくらいエースがベタベタしてくる。常に私にぴったり張り付いているし、なにかと肩を組んでくるし、何をしていても顔が近い。いくら友達だと思っていても、エースの綺麗な顔が近くにずっとあると流石に緊張してしまう。
「なぁなぁ次の授業なに?」なんて肩に顎を乗せられると、不用意に振り向けない。「何照れてんの?」とニヤニヤされるとほっぺをつねってやりたくなる。


……こんなにずっと近い必要ある?トレイ先輩見てないよ」
「いいんだって、たまたまオレらを見かけた時に距離近かった方が本当っぽいじゃん?あとは、噂が広まればケイト先輩からトレイ先輩の耳にも入るだろうし」
「噂って?」
「オレがお前にお熱ってうわさ♡」
「はぁ……そんなのトレイ先輩信じるかなぁ……


作戦を始めてから5日ほどが経った。あの食堂以来、トレイ先輩とは廊下ですれ違うくらいしか遭遇しなかった。その度にエースはベッタリと私に張り付いて、トレイ先輩は気まずそうに苦笑いする。手応えが全くなかった。困らせているだけなのではないだろうか、もうタイムリミットまで2週間となっていた。おそらく、あと1週間もすれば口に侵食する。そうなったらもう飲食が出来なくなる。一応学園長に相談はしているが、唇が無くなるのにキスが成立するのか怪しかった。


……と、届かない……


放課後、今は図書館へ来ていた。トレイン先生から出された課題をみんなで一緒にやるためだ。手分けして資料を探すことになり、私は目的の本を見つけたのだが……あと少し届かない。ステップスツールを探しに行った方がいいのは分かっているのだが、同じ課題をしている同級生に、本を取られてしまうのは困る。あと少しなのがもどかしい。

「くっ……」と再び腕を伸ばして指を引っ掛けると、後ろからにゅっと大きな手が出てきて、私の手の上から本を取っていった。取られた!
急いで振り向いて「それ、私が先にーー」取ったんです。そう言おうとして息を呑んだ。


「トレイ、先輩」
「ほら、これ」
「ありがとうございます……


すぐ後ろにトレイ先輩が立っていた。目の前にすっと本を差し出される。頭を下げて受け取り、きゅっと胸の前で抱きしめた。先輩が動かないので、私もなんとなくそのまま立つ。


「エースはどうしたんだ?」
「あ、手分けしてて……デュースもグリムもみんなバラバラで……
「そうか」


今までみたいに気軽には話せない空気感に、じわじわと嫌な汗が背中を伝っていった。トレイ先輩、今どんな事を考えているんだろう。ちらっと先輩を見上げると、通路の方を見ていた先輩が私に視線を戻して「肌、どんな感じだ?」と呟いた。


「えっと、鎖骨の下……くらいまで、黒くなってます」
……そうか。かなり進んだな」
「はい」


なんとなく空気が重い。もしかして、キスを試しに来てくれたのかと少し思ったのだが、どうやらそんな雰囲気ではなかった。気まずくて、キョロキョロと視線を彷徨わせてしまう。誰か近くにいないか目だけで探す。
トレイ先輩が、再び口を開いた。


「エースの方が良かったんじゃないか」
……え?」
「俺より」
「あーいた、監督生……と、トレイ先輩?よっと、何してるんすか?」


後ろの通路からひょこっと出てきたエースが、そのまま私の頭に頬を寄せて、するりと腕をお腹に回した。抱きつかれている。でも、そんなこと気にかける余裕がない。私の頭は真っ白だった。トレイ先輩の言葉が耳の中でぐるぐると回る。

『エースの方が……

トレイ先輩に、呆れられてしまったた。


「トレイ先輩〜暇なら課題教えてくださいよ」
……悪いな。今から寮でリドルの手伝いをするんだ」
「ちぇー」


「じゃあまた」と言った先輩が、目の前から去っていた。エースが離れて「どーした?」と私を覗き込む。ぽたっとひとつ涙が落ちた。


「は?なに、なんで泣いてんの。抱きついたの怒った?」
「トレイ先輩……
「え?」
「トレイ先輩に、呆れられちゃった……


足の力が抜けて、ぺたっと床に座り込む。ひとつ溢れたらもう、後はハラハラと涙が落ちていった。トレイ先輩、もう私のこと嫌いになっちゃった。先輩にばっかり考え事させて、私はエースと遊んでたから。どうしよう。どうしようどうしよう。私のことを好きじゃない人に、嫉妬させて焦らせるなんて無理だったのだ。

呆然としていると、エースが目の前にしゃがんだ。両手で頬をむにゅっと包まれる。「落ち着けって」と言われて、エースを見つめる。落ち着けるわけがない。トレイ先輩が、私のこと嫌いになっちゃったのに。


「絶対大丈夫だから」
……だいじょうぶじゃないよ……
「大丈夫だって!トレイ先輩、オレにかなりイラついてた」
……え?」


エースはにっと自信ありげに笑う。


「前に、寮生みんなでトレイ先輩のケーキに文句言って、トレイ先輩拗ねちゃったことがあるんだよね」
「トレイ先輩が……?」
「ケイト先輩は『トレイくんがへそ曲げた』って言ってたっけ?さっきのトレイ先輩、あの時にちょっと近い。つーか、あの時よりイラついてたかも。オレの目、一瞬見たけどすぐ逸らしたし。あの人あんまりそういうことないっしょ?」
……うん」
「お前じゃなくて、オレにイライラしてただけ。だから心配すんなよ」
「でも……
「いいから!絶対大丈夫だから」


「じゃ、そろそろ戻ろーぜ」とエースに立たされる。エースはそう言ってくれたけど、さっきの『エースの方が良かったんじゃないか』という言葉が引っかかっていた。もしかして、『俺じゃなくてエースを好きになれば、呪いが解けたんじゃないか』そんな風に言いたかったのかもしれない。私はどうしてトレイ先輩を困らせることしか出来ないのだろう。もう、このまま諦めて呪いを受けて、トレイ先輩の前から消えた方がいいのかもしれない。
じわじわと再び涙が集まってきて、手を引いてくれるエースにバレないようにそっと袖で拭った。





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ついに首にも呪いが侵食した。襟まできっちりボタンを留めてネクタイをしていればギリギリ見えない。でも、服の下はもう真っ黒なマネキンのような身体になっている。動くのが嘘みたいだ。あと1週間で期限が来る。私はもう諦めの境地に入っていて、以前書いた貯金のメモやみんなへの手紙をクルーウェル先生に預けた。先生は眉間に皺を寄せたが、一応預かってくれて、すぐに鍵のついた棚に片付けられた。先生に向けた手紙も中に紛れている。

顔まで黒くなり始めたら流石に授業には出られなくなる。学園長が保健室の先生に頼んで、専用の個室を用意してくれたそうだ。生命維持の魔法を施してくれるという。目まで覆われたらもう何も見ることが出来なくなるのか、と思ったら寂しくなった。生命維持魔法も、呪いには対抗できない。100日目までの気休めだった。

アルバイトは、アズール先輩にお願いして休ませてもらうことになった。来月、存在するかどうかも分からない人間なのに、辞めろと言わない先輩は優しいなと思った。先輩は「来月からはキッチンに戻ってもらいます」と言った。もう少し足掻け、と言われているみたいで、扉を閉めたあと涙が出た。




「あー、いた監督生。ちょっと来て。大事な話あるから」
「え、なにエース」


手を掴まれてハーツラビュル寮の鏡を潜る。モストロ•ラウンジの閉店後にアズール先輩と話していたから、もう時間は21時を過ぎている。どうしたんだろう。グリムをオンボロ寮で待たせているから、早めに帰りたいのだけれど。
もう何度通ったか分からない通路を、エースの頭をぼんやりと見ながら歩く。ここへ来るのも最後になるかもしれない。明日は、他の寮へも遊びに行こう。ただ普通に遊びに来たと言って。最後に関わった人たちみんなと話したい。

エースの部屋に連れてこられるのかと思ったら、談話室へと入った。時間が遅いせいか、他の寮生はいない。奥の、サンルームのようにガラス張りになっている場所に置かれたソファへと座らされる。エースがとなりにぽすんと座った。


「オレさぁ、夕方過ぎくらいにここから外眺めるの好きなんだよね。夕日が落ちかけて夜に変わる間のあの曖昧な色、良くない?」


エースにつられて空を見上げる。今はもう星空になっている。キラキラと小さな光を瞬かせる空をみて、こうしてゆっくり眺めるのは久しぶりかもしれないと思った。私、まだ見てないものがたくさんあるな。この世界なら、ゴーストになっても旅行とか出来そうだし、みんなとも話したり出来るのかもしれない。

ぼーっと空を見続けていると、エースが「なぁ」と小さく呼びかけてきた。横を見ると、視線は前に向けたまま話し始める。


「試してみたいことがあるんだけど」
「なにを?」
……オレとキス、してみる……っていう……
「えっ!?」


驚いて少し大きな声が出てしまった。エースは少しだけ頬を赤らめて、言いにくそうにしている。


「いや、エース私のこと好きじゃないでしょ?私もエースのこと、友達以上には思ったことないよ?」
「そうだけどさ、その呪いの条件?って、愛し合う二人のキス、なんだろ?……あー自分で言ってて恥ずいなコレ」
「うん」
「気持ちが“揃って”いれば、どーかなと思って」
「どういうこと?」
「だから、お互いが同じ気持ちだったら、条件を満たさないかなって思ったんだよ!ほら、友愛とか言うじゃん。友人同士の愛、的な?お前とトレイ先輩は……お前は恋愛感情持ってたけど、トレイ先輩はそこまでいってなくてズレてただろ?でも、オレとお前は多分、友だち、として、同じくらいの気持ちでいるんじゃねーかなって、思ったわけ」
「友愛……って、キスが証になるのかな」


エースの言いたいことは分かった。しかし、あの手鏡はそもそも愛する人と想いを通わせるために使われるものだ。友人同士や家族同士の愛情では、条件を外れていると思った。エースも心の底から上手くいくとは思っていないのだろう、「……試しに、だよ」と小さく呟いた。


「エース、私とキスできるの?」
「んー考えたことなかったけど、別にまぁ出来なくはない」
「そうなんだ……
「お前は?」
「わ、私も考えたことなかったよ」
「じゃーそのまま考えないで」
「えっ、待って、今!?」


横並びに座っていたソファの上で、エースが身を乗り出してくる。驚いて後ろに下がると、ソファの肘掛けが背中に触れた。ぎしっ、と生地を軋ませながら、赤いハートが近づいてくる。え、本当にエースとキスするの?ずりずりとできる限り後ろへ下がろうとすると、エースが「逃げんなって」と囁く。最近ずっとベッタリくっついてきてたから慣れたと思ってたけど、心臓がばくばくと暴れ始めた。エースが少し顔を傾ける。ふっと息がかかる瞬間に、ビクッと肩が揺れる。

あ、唇が当たる。


ぎゅっと目を閉じた瞬間、首元が後ろにぐいっと引っ張られて、口を手で覆われた。


「うえっ、んむ……ん??」
……どーしたんすか、トレイ先輩」
「悪いなエース。お前にはやれない」
「えっ、トレ……んっ」


口を覆っていた手が離れてこてんと上を向かされると、そのまま視界が暗くなった。反対側からキスされている。鼻先に顎が触れて、喉仏がゆっくり動くのが見えた。3秒ほど経って、ゆっくりと離れていく。

ゆらゆらと視界が揺れる。こぼれ落ちないギリギリで涙が目に集まっていた。瞬きをひとつした瞬間、一粒ぽたっと落ちていった。


「トレイ先輩……
「待たせてごめんな」

「あ!おい監督生、身体光ってる!」
「えっ」


自分の身体を見ると、服の隙間から光が溢れているのが見える。数秒して光は消えた。エースが「もしかして」と私のネクタイを緩めて襟のボタンに手をかけた。緊張しながら、祈るような気持ちで眺めていると、後ろから伸びてきたトレイ先輩の手がエースの手を止める。


「エース」
……確かめるだけじゃないすか」
「手袋でいいだろ?」
「あ」


トレイ先輩がするりと私の手から手袋を取った。
手が、元に戻っている。爪もある!
スラックスをずり上げて脛を晒すと、同じく肌の色は元に戻っていた。


「も、戻った……戻った!!」
「やった!」
「監督生、呪いが解けたのか!?」
「えっ、あれ、デュース!?」
「子分〜〜〜!」
「グリムも!?」


エースとトレイ先輩の顔を見て喜んでいると、談話室のドアからデュースとグリムが飛び込んできた。突然の登場に目を白黒させていると、トレイ先輩が「この二人にここまで連れて来られたんだよ。『エースに取られてもいいのか』って発破をかけられた」と眉を寄せて笑う。
エースは「もうヘトヘト」と言いながらソファに沈み込んだ」


「あー上手くいってよかった」
「びっくりしたよ……全部演技だったの?」
「んートレイ先輩が来なかったら、本当にしてみようとは思ってた」


「ありがとう……」と心の底からお礼の気持ちを込めて言えば、エースは「まぁ、死なれるのも気分悪いし?」なんて照れ隠しを言う。「本当にありがと!」とエースとデュース、グリムに飛びついた。ぐりぐりと頭を押しつけて感謝のハグをめいっぱいする。
少し間があってから、「……そろそろいいか?」と後ろへひょいっと引っ張られた。それを目で追ったエースがにやっと笑う。


「えートレイ先輩、妬いてんの?」
「ちょっとエース、なに言って……
「そうだよ」
「えっ!?」


驚いて振り向くと、トレイ先輩は「ん?」と優しく笑って「そろそろ保健室へ連れていくよ」と私の手を引いて歩き出した。三人が顔を見合わせて笑ったあと、「一緒に行く」とついてきてくれた。


こんな時間なのに残業していた保健室の先生に会いに行くと、「よかった……!」と大喜びしてくれて、急いで検査を始めてくれた。時間をかけて慎重に経過を診たいとのことで、その夜は保健室に泊まることになった。学園長への報告をしてくると言って、みんなは保健室を出て行った。グリムは一緒に泊まる!と隣のベッドでゴロゴロしている。

着替えさせられた検査着の襟から自分の身体を覗き込む。見えるところは全部、元の肌の色に戻っていた。嘘みたいだ。呪いが解けた!尿検査もしてみるねと言われてトイレへ行ったが、無事に自力で排泄もできた。おそらくすっかり元通りになっているだろう。
取り急ぎ、アズール先輩に『呪いが解けました!検査中なので、詳しくは後日お話しします。シフトはその時に提出します!』とメッセージを送った。なかなか返事が来なかったから、お店の締め作業で忙しいのだろう。

キスで呪いが解けたということは、トレイ先輩が、私を好きになったということだ。
喜びより先に、罪悪感が自分の心に広がった。こんな状況にならなかったら、私のことを好きになるほど仲良くなんてなれなかった。それに、トレイ先輩には私のことを好きにならなくてはというプレッシャーも大きかった。こんなの、本当の恋愛と言えるだろうか。

少しして、学園長が会いに来てくれた。トレイ先輩とエーデュースは寮へ帰されたらしい。呪いが解けてよかったですねぇ!と勢いよく握手をされて腕がぶんぶんと振られて引っこ抜けるかと思った。死ななくて済んだことは本当に嬉しい。この後、残りの1週間は毎日保健室で検査を受けるようにと言われた。念のためだ。100日が過ぎてようやく安心できる。


「あの、学園長……お願いがあるんですけど……


トレイ先輩には、自由に人を好きになってほしい。この3ヶ月、私と付き合っていたこと。今、私のことを好きになってしまったこと。全部忘れてもらって、解放してあげたい。


「しかし……クローバーくんの意思を確認した方がいいのでは?」
「トレイ先輩は……私に気を使っちゃうと思うので」


はぁ、とため息をついた保健室の先生が「わかった。とりあえず自分が魔法薬を管理しておきます」と言って、記憶に魔法をかける錠剤を用意してくれた。
保健室のシャワーを借りてベッドに潜り込む。オンボロ寮の寝室とは違ってなんだか変な気分だ。手首にはバイタルチェックができる腕時計のようなものが装着されて、1週間後まで着けておくようにと言われた。スマホを確認すると、トレイ先輩から『明日の朝迎えに行くから、一緒に朝ごはんを食べよう』とメッセージが来ていた。






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放課後、再びトレイ先輩と一緒に保健室へ来ていた。グリムはエースたちに預けている。「先輩も検査が必要みたいで」と嘘をついて引っ張ってきた。保健室の先生に「お願いします」と目で訴えて衝立の裏へ移動した。先生は呆れたような表情をしていたけれど、トレイ先輩を自由にするにはこうするしかないのだ。
衝立越しに先生と先輩の会話が聞こえてくる。本当に検査はしておきたかったようで、私よりは簡易なものだったがトレイ先輩も色々と体調を確認されていた。


「はい、じゃあ最後にこの錠剤を飲んでおいて」
「なんの薬ですか?これ」
「魔力の乱れを調節してくれるものだよ」
……
「飲んだらぼーっとするけど、すぐ戻るから大丈夫」


「それじゃあ、少しゆっくりしてていいよ。学園長に色々報告してくるから、調子が戻ったら寮にも帰ってよし」と言って保健室の先生は出て行った。しばらく間があって、トレイ先輩がことんをコップを置く音がする。衝立から顔を覗かせてちらっと確認したら、用意された錠剤が無くなっていた。よし、飲んだみたいだ。
「トレイ先輩、大丈夫そうですか?」と隠れていた場所から出てきて、ベッドの横に置かれていた椅子に座る。

さて、どんな記憶に書き換えられているのだろうか。錠剤を飲んだ後でどんな記憶が構成されるのか私は知らなかった。とりあえず、無難なことを言ってこの場をしのごう。きょとんとした顔でこちらを見るトレイ先輩に、ちくっと胸が痛んだ。


「えっと、ケイト先輩とか呼んできましょうか?」
「え?いや、別にいいよ。この後はどうする?俺は寮に戻ってフィナンシェでも焼こうかなと思っているんだが、お前も来るだろ?」
「えっ?」
「ん?」

『どうして?』


トレイ先輩が不思議そうな顔をした後、私の気持ちを代弁してくれた声は、後ろから聞こえた。聞き覚えのある声に、ゾクリと背中が粟立つ。恐る恐る後ろを振り返ると、ドアの前にふわふわと佇んでいたのは、あの銅像のゴーストだった。『どうして?どうして!どうして、どうして?』と、壊れたラジオみたいに同じ言葉を繰り返している。どうしてここにいるんだろう。クルーウェル先生が魔法薬を撒いてくれたはずなのに。もう魔法が解けてしまったのだろうか。それとも、このゴーストの魔力が強いのか?
ゴーストが痺れを切らしたように叫ぶ。


『死んでくれなきゃ迎えに行けないじゃないかっ!』


ポルターガイストを、初めて見た。この学園のゴーストたちは、みんな温厚だったから。保健室に置かれている瓶や包帯、ハサミやピンセットまでがゴーストの怒りに触発されてふわりと宙へ浮く。「どうしてここに、」と震える声で呟くとトレイ先輩が「あいつか……」と納得したようにゴーストを確認し、私の肩を抱いて引き寄せると口から“ふっ”と何かを飛ばした。空いた手にはマジカルペンを持っている。
トレイ先輩が飛ばしたものは、ゴーストの頭をすり抜けてカツンと壁に当たって落ちた。


「おっと、銀の弾丸は悪魔にしか効かないんだったか?」
『ぐ、ぎぃ……またおまエ、邪魔スるのかっ!』


怒りで声が乱れている。ガァッ!と叫んだゴーストの動きに合わせて、浮いていたハサミやピンセットが飛んでくる。トレイ先輩はマジカルペンを振って、衝立を動かして防いだ。肩を抱かれたまま身体を引かれて、さらに奥のベッドへと移動する。先輩は「先生が早く戻ってきてくれたらいいんだが……」と言いながらベッドと壁の隙間に入り込んで布団を被ると、私を守るようにぎゅっと抱きしめた。


「目眩しの魔法をかけたから、少しの間はしのげるはずだ。あいつがお前に呪いをかけたゴーストか?」
「そうですけど、どうして……
「ん?」
「どうして覚えてるんですか、薬飲んだんじゃ……
「ああ、やっぱりあれそういう薬か。検査結果は異常なしって言うのに出されたから変だと思った」
「飲んだふりしたんですか?」
「口には含んだけど、ドゥードゥル•スートで石に変えてたんだ。お前の反応を見てから飲むか決めようと思って。飲まなくて正解だったな、ちなみにさっき銀に変えて飛ばした」


「ほら」と確認させるように、べ、と少し舌を出した先輩に、先ほどゴーストに当てようとした弾はあの薬だったのかと思い至った。「なんで……」と動揺していると、先輩は「それはこっちの台詞だな」と言って少し目を細めた。私を囲む先輩の腕に力がこもる。ふわっとトレイ先輩の甘い匂いが強くなった。先輩の視線に捕らえられて、目を逸らすことができない。


「どうして忘れさせようとしたんだ?」
「先輩に……自由になってほしくて……
「俺の意思は無視か?」
「だって、そもそもこんなことにならなかったら、先輩が私のことを好きになるなんてありえないじゃないですか」
……はぁ……あのな、どれだけ一緒の時間を過ごしたって、好きになれない奴もいるだろ?俺がお前のことを好きになったってことは、いつかはこうなってたんだよ」
「そ、そうでしょうか……
「お前……自分に自信なさすぎじゃないか?俺にとっては、お前が一番かわいいよ」


顔が熱い。今、絶対に真っ赤だろう。トレイ先輩に顔を見せられなくて、もぞもぞと包まれた腕の中に潜り込む。ふっと笑った先輩は、私の頭にキスを落として「おっと、見つかった」と私を抱き直して立ち上がる。
布団がふわっと落ちて、先輩は私を抱き上げたままひょいっと窓側へ移動した。さっきまで自分たちが座りこんでいた場所にパイプ椅子がぶつかってひしゃげている。ゾッとした。当たっていたら、打撲じゃ済まない。


『はやく、連れて行きたいんだ……はやく、はやク……
「諦めてくれないか?」
「先輩、このゴーストは話が通じないってクルーウェル先生が……
「じゃあ、行動で示してみるか」
「えっ、ちょっ……ん」


こちらを見たトレイ先輩が、私の後頭部を支えながらキスをしてきた。え、今こんなことしてる場合じゃないよね!?呼吸の隙に先輩を止めようと口を開けば、ぬるりと舌が入り込んでくる。いつも短いキスしかしなかったから、一気に頭が真っ白になった。先輩の少し厚みのある舌が、逃げようと引いた私の舌を追いかけてくる。ぎゅっと先輩の制服を掴んで、懸命に動きに応えようとするがどんどん身体の力が抜けていく気がする。初めてのことに、どうしたらいいのか分からない。

少しして、ようやく先輩が離れて顔を上げた。はぁ、と息を吐いてうるさい心臓を押さえる。びっくりした。こんな場所で、こんな状況の時にするキスじゃないよ、これ。暑くて少し浮いた汗を拭って、そっとゴーストを確認すると……

プルプルと小さくなって震えていた。

さっきまで怒っていたのに、今はしくしくと泣いている。『どうして……どうして……』と、再び繰り返すだけになった。予想とは真逆の様子に、驚いて目をぱちくりと瞬かせる。さっきまで浮いていたものは全て床に落ちていた。


……もっと怒り出すんじゃないかと思いました」
「俺もそれを狙ってたんだが……
「えっ!危ないじゃないですか!」
「防衛魔法を発動してたから、こっちには何も当たらないよ。それより、ゴーストに窓でも壊してもらって、先生が早く気づいてくれないかと思ったんだけど……


「泣いちゃったな」と先輩は苦笑いする。
しくしくと泣き続けるゴーストに居た堪れなくなり、「あの……」と話しかけようとしたら、トレイ先輩に止められる。「お前な……あいつのせいで死にかけたのに、もう忘れたのか?」と真剣な顔で言われて、黙るしかない。

突然、保健室の扉が空いた。「えー!なにこれー!!」と叫んだ保健室の先生が頭を抱えて顔を青くした。改めて見てみると、酷い惨状だ。瓶こそ割れていないものの、治療道具はあちこちに落ちているし、衝立にはハサミが刺さっている。ベッドも布団もぐちゃぐちゃで、椅子なんかひしゃげている。

「許さんゴースト!」と叫んだ先生が、額に怒りの血管を浮かせながらゴーストに向けて魔法をかけた。しくしくと泣いていたゴーストは、抵抗することなく先生が放り投げた空き瓶の中にするすると吸い込まれていく。瓶の蓋がきゅっと閉められたのを見届けて、トレイ先輩の肩の力が抜けた。


「はぁ……これでようやく解決か」





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保健室の後片付けは、保健委員を呼ぶから大丈夫と言われて寮へと戻された。先生は、トレイ先輩の記憶が変わっていないことに気づいたけれど、分かってたというように笑っただけだった。


「あの、トレイ先輩、フィナンシェ作るって言ってませんでした……?」
「もっと大事なことがあった」


寮に着いた途端、キッチンへ向かうのかと思いきや手を引かれるがままに先輩の部屋へ連行され、ガチャっと扉が閉じられる。先輩に「大事なことって……?」と尋ねると、「あの日のやり直しだよ」と言って私をひょいっと抱き上げベッドにぽいっと放り投げた。


「あの日、……あの日!?」
「今度は“出来る”だろ?」
「そうですね、そうなんですけど、心の準備が……というか、お風呂入りたいです!」


寝かされた私を逃がさないというように、両腿の上に跨った先輩がジャケットを脱ぐ。思わず見入ってしまった。椅子の背に引っかかるように投げられたジャケットを目で追う。その一瞬の隙に私の顔の横に手をついた先輩が「ボタン、外してくれるか?」と笑う。
震える手でベストのボタンを外す。こちらが緊張で手こずっている間に、先輩は片手で私のジャケットのボタンを外し、ネクタイを抜き取り、ベストもあっという間に開けてしまった。


「先輩、手がはやいです」
「それは動きの話だよな?」


にっと口の端を上げた先輩が、私のシャツをスラックスから引っこ抜く。「先輩、あの……ほんと、せめてシャワー浴びさせてください……」と腕にしがみつくと、「ああうん、分かった」という返事が降ってきてホッとする。


「でも、少しだけ……時間をくれ」
「ひゃっ」


先輩は、私のお腹を確認したかったらしい。少し上げられたシャツから見えるお腹にそっと指が這わされる。つつ……と脇腹からゆったりと登って、へその丸い形に沿って、撫でた。くすぐったくて、恥ずかしくて、息を止めてしまう。


「ちゃんとありますよ」
「うん」


先輩はそのまま上体を倒して、お腹にちゅっとキスをした。
「よし、じゃあシャワー浴びるか」と言いながら起こされる。「あ、はい。待ってます」と座り直すと、先輩は何言ってるんだ?と眉を寄せた。


「え、いや、一緒には入りません!」
「ちゃんと全身が元に戻っているのか、心配だなぁ……
「戻ってますから!あの、本当に戻ってる…………わー!!」







数分後。
『今日は帰れそうにないので、グリムをよろしくお願いします……』というメッセージが、エースのスマホに送信されることになったのだった。