ももせ
2024-11-14 00:35:15
3441文字
Public ゆめ
 

薬湯

現パロ/短編/尾形さんとの日常

 今日は疲れた。
 「疲れた」という言葉を聞けば「疲れた」という認識が強化されるだけだから、という理由であえて言わない努力を続けている私でも、ひとりきりの夜道に思わず三度は「疲れた」とこぼしてしまうくらい、肉体的にも精神的にも疲れていた。
 転職してひと月足らず。ただでさえ孤軍奮闘で過酷だというのに、退勤間際に受け取った電話がクレーム紛いの苦情だったがゆえに、そうなった。
 帰宅して、一目散に給湯ボタンのある壁へと向かう。湯量の目盛りを設定できる上限にまで引き上げると、お湯はりをしますという自動音声に励まされつつ、クローゼットに保管しておいた消耗品をあさった。
 そこから探し出した小袋を手に、廊下をほぼ初めまで引き返すと、脱衣所の奥にある風呂釜のふちで、バシャバシャと勢いよく注がれるお湯の循環口を見つめながら、そこに、封を切ってユーカリの入浴剤を振り入れた。
 この入浴剤は前職の最終日に、同じフロアのさほど関わりのなかった人たちから貰ったものだ。当たり障りのない品物の代表として選ばれたものだろうけど、自分ではあまりこういう贅沢をしないので有り難かった。
 さて、あとはお風呂が沸きましたの自動音声を待つだけ。
 鳴門海峡まがいの激流から顔を上げ、半透明の折れ戸を閉める。すると、重くて分厚い扉の閉まる音がよく聞こえた。恋人が帰ってきた。

 明るすぎるダウンライトの真下に立つ百之助は、思いがけずふらっと現れた私に目を見張ると、廊下いっぱいに広がる薬湯の香りにも驚いて、無言でスンスンと鼻を鳴らした。
「ごめんね、今日の夕飯遅くなりそうだけど、いい? この通り、先にお風呂始めちゃったの」
 この通り、と示されたユーカリ色の空気に再び意識を向けてくれたらしい百之助が、靴から踵を浮かせながら、すぐに「構わんが」と言ってくれる。
 だからいま、お先にどうぞ、と淀みなく勧められれば良かったのだけど。
 思いやるには気力が足りず、覇気のない声で下手に心配をかけるよりはと、予定通り自己保全を優先することにした。
 ただし、一番風呂とはそれ自体がこうして特権になるくらい特別なものだし、百之助だって私と同じくらいかそれ以上に疲れているのかもしれないし、朝よりも縒れたスーツの皺を思えば、百之助を押し退けることに罪悪感を覚えないはずがない。
 罪悪感とは厄介だ。
 たいていは人を口だけの偽善者にする。
「あ、百之助も一緒に入る?」
 と、リビングに向かう横顔を呼び止めたのがその証拠だった。
 もちろんご一緒などするつもりなく、家族のように円熟したいまのふたりの関係性なら、断ってくれると信じたのだ。特に、こんなにへらりと笑っていれば。
 誘うことで罪悪感は消えたから。
 あとはいつもみたいに早くフフンとせせり笑ってよ。シクシクするような皮肉を言って、ソファで羽根を休めてよ。
 という身勝手な期待を裏切って、皮肉どころか少し真剣味を帯びた表情の百之助が、「入る」と即断するものだから、私は焦った。
「いや、あの、ほんとに一緒するとは全然思ってなくて、そのリップサービス――
「リップサービスだろうがなんだろうが、言ったことには責任を持てよ」
 確かに、信頼関係の維持という点においてそのご意見はもっともだし、信頼関係を悪用したという点においてはこちらに一方的な非があるため反論のしようがない。
 だけど、ネクタイの結び目に片手をかけながら目的地まで私を追いつめていく百之助のやり方が、ドアの隙間に片足を突っ込みながら凄んでくる悪徳セールスマンのそれと大して変わりなく映るのは、どういうわけだろう。
 脱衣所の扉まで戻されてついに足を止めると、半歩離れたところから顎で「ん」と入室を促されてしまった。
 冗談で済ませられる線はもうとっくに越えていた。
「じ、じゃあ……
 観念して脇をすり抜ける。
 百之助は人より羞恥心が薄いのかもしれない。
 白い明かりに迎えられながら、そんなことを考えた。
 白石くんという共通の友人も言っていた。山の露天風呂で起きた停電の逸話を聞いたことがあったのだ。新月の夜に命に関わる断線が起こり、取るものもとりあえず裸で山歩きしたというが、そのときも百之助は真っ先に順応したらしい。
 私だって、恥ずかしくない。
 百之助がシイタケの欠片を皿の隅に追いやるところならもう何度だって見ているし、寝癖や髭剃り前の顔だってそう。
 百之助は決して以前のように、かっこよくて、うっとりして、つり合わないと泣きを見るような男じゃない。見られたって別に恥ずかしくなんてない、と自分を奮い立たせる。
 そうして困惑しながらも裸になった。

「そうだ! お互いをなるべく凝視しないように、同時に髪や体を洗わない?」
 凝視するなんて考えすぎだ、と言い含められるかと思いきや、
「気になるんなら好きにしろ」
 と言われたのでやってみる。
 ところが、土壇場で妙案を思いついたものだと喜んだのは束の間のことで、実は下手な考え休むに似たりの状況だったということに、流しっぱなしのシャワーの下で気がついた。
 うちの狭い洗い場に成人が二人も同時に立とうものなら、ゾワッとするほどの密着を避けられないのだ。
 特に、あとから入ってきた百之助が、壁際にあるシャンプー、コンディショナー、そしてボディソープを求めたときにそれは起こった。
 逞しい両腕が後ろから伸びて、同じ向きに立つ私を閉じ込めるようにして、壁につく。
「わざとでしょ……
「なにが」
「ボトルの取り方。これ」
 壁にかけられている体重や、耳のまわりをあたためる息、背中に触れるなにもかも。
 フン。
 離れぎわにふわっと小さな嘲笑を残していくので、絶対にわざとなのだ。

 そんな、自分がどこまで洗ったのか洗っていないのか、コンディショナーを使ったのか使っていないのかさえ定かではないような混乱に耐え、ようやく健全な顔の火照りを手に入れたのでほっとしている。
 百之助が決めたのとは別の端にこじんまりと腰を据えると、二人分の体積を合算したうちの何割かが、とめどなく洗い場にあふれた。
「で? なんでまた」
 浴槽のふちに腕を這わせてくつろぎながら、百之助は言った。
「なんで今日はお風呂が先かってこと?」
 さりげなく胸が隠れるように両手で同じふちにつかまりながら、横目でずるい色男を眺める。
 かっこよくない、なんて意気込んでみても、結局無駄なあがきだった。洗い場での攻防が蘇る。
「そのことじゃねえ」
 と言われて少し我に返った。
「じゃあ、どれ?」
 まだまだ軽い気持ちで促したら、一語ずつ丁寧に突き付けられてしまった。
「お前、出し抜けると思ったんだろ。俺を」
 出し抜くだなんて、と咄嗟に反論を用意して、やっぱり開くのをやめた。
 自分と反対のものを見るように、百之助の目が不機嫌に細められていたからだ。
「元々は、個人的な疲れの巻き添えにしたくなかったんだよ……本当だよ?」
 水底まで視線を下げる私と同じ声量で、「個人的な疲れねえ」と百之助はやや可笑しそうに鼻で笑う。
 広い胸の前でちゃぷんとお湯が揺れた。
「はあ、だったらもう少し上手く隠せよ。『助けてください』じゃなく」
 徐々に荒んでいく語気に反して、湯面を渡ってきた指の感触は柔らかく。
 それは、幼子にするように私の濡れた横髪を掬った。視界の端から影が消えて、電球色がぱっと華やいだ。
「やだ……私、そんなに助けてほしそうな顔してた?」
 してた、というのが、こめかみをわずかに弾いた指の見解だろう。
 バン。
 と撃たれたようで頭がクラクラする。
 ああ、疲れた、と肺一杯分、溜めに溜め込んでいた今日一日の吐息が漏れた。
「ごめん。本当はとっても疲れてたんだよ」
 だろうな、としみじみ返されたことで、音の反響が輪をかけて優しくなった。
 もしかしたら、すぐに溶けちゃう入浴剤よりも脆い疲労だったのかも、と思わせるような。
「これからも入浴剤置いとこうかなぁ」
 と独り言の体を装った私に、湯気の向こうにある天井を見つめながら百之助も言った。
「まあな」
 それから、陽気すぎる蛍光黄緑の湯は信じられないという表情を浮かべながらも、おじさんみたいにそれで顔を洗った。肩を沈めてほうっとする。
 ほうっとする、私も。