botanin5
2024-11-14 00:28:45
47444文字
Public トレ監♀(小説)
 

Kiss me 先輩。

キスしてくれないトレイ先輩の真意が分からなくて揉めに揉めたら最終的にクソデカ感情ぶつけられた話
※監は特に設定なし
※ トレイ先輩に元カノがいる設定(キャラとしては出てきません)


オレンジを煮詰めたような夕日の差し込むオンボロ寮。
遊び疲れて眠ってしまったグリムは、すよすよと椅子の上で小さく丸くなっている。
一緒に遊んでいたゴースト達が出て行ってしまった後の談話室は、静かな環境音しか聞こえてこない。

先ほどまで広げていたトランプを片付けようと、三人がけのソファに座ったまま伸ばした私の手は、同じくカードを集めようとしていた隣のトレイ先輩の手と重なった。
一瞬、互いの呼吸が止まる。
先輩の指に自分の指先を乗せたまま、隣を見る。
少しだけ張り詰めた空気は、この次になにが起こるのか、たいへん豊かな想像を掻き立たせる。

今しかないだろう。

トレイ先輩の指を、きゅっと握る。
何度も、この瞬間を待っていたのだ。
先輩の目をじっと見つめると、少し戸惑うように瞳が揺れた。
何も迷わなくていいのに。
そう伝えたくて、ゆっくりと目を閉じる。

1秒。

3秒。



たっぷり5秒待っても、待ちわびている感触は降ってこない。


10秒経って、手の下から指が抜かれていった。


あぁ、今日“も”ダメだった。

もうどれだけ沈んだか分からない心を叱咤して目を開ける。
こちらを見ないで苦笑いするトレイ先輩は、「早く片付けないとな。今日の調理当番が心配だから、キッチンを見に行きたいんだ」と心なしかいつもより早口で述べる。
まるで、言い訳でもしているみたいに。


「そうなんですか。あとはトランプをまとめるだけですし、先輩もう寮に戻っていいですよ?」
「いや、これくらいは片付けてから行くよ」
……ありがとうございます」







トランプを片付け終わった先輩が、寮へ帰っていくのを笑顔で手を振り見送る。
さっきまで手の届くところにあった大きな背中が、遠く小さくなっていくのを見ながらため息をついて、玄関のドアに体重を預ける。



トレイ先輩と交際し始めてから、こうやって寮で遊んでくれることが増えた。と言っても、3年生であり、ハーツラビュルの副寮長でもある忙しい先輩の空いている時間に限られてはいるのだが。
一緒に過ごす時間が増える一方で、恋人らしい時間というものは皆無に近い。今日も、トレイ先輩が「寮へ遊びに行ってもいいか?」と聞いてくれた時は嬉しくて舞い上がったが、(いつも通り本当に“遊ぶ”だけなんだろうな)と思ったとおり、寮に着いた先輩は「みんなでトランプでもしようか」とグリムとゴーストを談話室に呼んだ。
みんなと一緒に遊ぶのは私も楽しいし、トレイ先輩と同じ寮生になったような感覚で嬉しくなる。でも、これではまるで、小学生のデートじゃないか?いや、今時の小学生のほうが進んでいるに違いない。せっかくの先輩と一緒にいられる時間を、2人だけでゆっくり過ごしたいという思いがずっと燻り続けている。


それから……トレイ先輩はキスしてくれないのだ。

付き合いはじめてから1ヶ月ほど経ったとき、私は先輩の部屋に手作りのお菓子を持って行った。トレイ先輩と一緒にお菓子作りをする機会が増えて、寮で空いた時間を使って自分でも作るようになっていたからだ。先輩は、何を作っても「美味しいよ」「よく出来てるじゃないか」と優しく褒めてくれるので、調子に乗ってどんどん作りすぎてしまい、グリムに「もう飽きたんだゾ」と呆れられることもある。

そんなこんなでいつも通り作ったお菓子が、いつもより上手に出来た気がしてトレイ先輩に早く見せたかった。あの日、あわよくば甘い雰囲気になって、そろそろキスをしてみたいという下心が無かったと言えば嘘になる。お菓子を簡単に包んでハーツラビュル寮へ行き、トレイ先輩の部屋をノックすれば、先輩は驚いた顔をしつつも部屋に私を招き入れてくれた。2人でベッドに腰掛けて、トレイ先輩が私の差し出したお菓子を食べる。すごくいい雰囲気で、楽しくて、これならいけると思ってトレイ先輩の制服の袖を掴み、くい、と小さく引っ張った。
こちらを見下ろした先輩と視線を絡めて、キスしたいですと目でアピールした。ゆっくりと目を閉じようとしたところで……先輩は視線を外して「紅茶のおかわりいるか?」と言い出した。


「えっ?」
「もう冷めてるな。入れ直してくるから、少し待っててくれ」


ぽん、と私の頭を撫でてから立ち上がった先輩は、温め直した紅茶を持ってきて座り直すと「次の考査は大丈夫か?」とすっかり話を変えてしまった。
私は混乱していた。もしかしたら、アピールが伝わらなかったのかもしれない。でも、普通、あの空気の中で恋人が目を閉じようとしているのに、紅茶のおかわりを聞いたりするだろうか。
はぐらかされた?
じりじりとした不安が心を占めていく。落ち着こう。先輩がそういう気分じゃなかっただけかもしれない。私が早まってしまったのかもしれない。ぐるぐると頭の片隅で考えながら、さっきの空気など無かったかのように振る舞う先輩に合わせて笑顔を作って、それから少しだけ話して、その日は部屋を出た。

私の考えすぎかもしれないし、まだ時期が早かったのかもしれない。トレイ先輩が初めての彼氏である私は、男女交際の流れについて聞きかじった程度の事しか知らない。
でも……でも、先輩とキスしたかった。


思い出してしまった少し苦い記憶を振り払って、玄関のドアに預けていた身体を起こして寮の中へ戻る。
あれから何度も何度も、今日のようにチャンスを見つけてはキスしたいとアピールを続けてみたのだが、先輩は一向に答えてくれない。もういっそ「先輩キスしたいです」と直接伝えてみるべきだろうか。ドラマのような……目があって、お互い何も言わずとも吸い込まれるように近づく素敵なキスに憧れていたのだが、恋愛初心者にはハードルが高かったのかもしれない。


いや、ひょっとしたら……トレイ先輩は、キスするほど私のことが好きではないのかもしれない。

私、本当に先輩と付き合ってるんだよね?
不安になって、スマホを操作して“お守り”を探す。
付き合いはじめたきっかけは、やはりお菓子作りだった。トレイ先輩があっという間に可愛くて綺麗なお菓子を生み出していくのを見て、自分も作ってみたくなった。手伝いを申し出て、ハーツラビュル寮に何度も来ていた。
ずっと、妹みたいに扱われているな、と思っていたけれど、優しくて頼りになって、時々からかって笑わせてくれるトレイ先輩のことを好きになってしまっていた。

先輩への恋心に気がついてからしばらく経ったある時、クッキー作りでうっかりオーブンに触ってしまい火傷をした。程度は軽かったけれど、トレイ先輩はすごく真剣な顔で私の手を取って、急いで水で冷やしてくれた。すぐに氷嚢も作ってくれて、それで私の指を押さえながら「大丈夫か?目を離して悪かったな」と申し訳なさそうに眉を下げた。

上から氷嚢で押さえながら、下から私の指を支える先輩の手が温かくて、つい「……先輩が、好きです」と呟いた。すごく自然に言葉が出てきて、言ってからも後悔の念はこなかった。無音になったキッチンも、特別居心地の悪さを感じることはなかった。それは、目の前のトレイ先輩が目を見開いて、少しだけ頬を染めて私を見たからだと思う。気持ちが拒絶されなかった事で、私は落ち着いていられた。この後どんな返事が来ても、大丈夫な気になっていた。
トレイ先輩は、少し考えるように視線を外して「あー……」と呟く。反応はそんなに悪くない。少しドキドキしながら言葉の続きを待つ。


……ええと……それじゃあ、付き合うか?」


こちらを伺うように、そう尋ねてきた先輩に、(え?付き合ってくれるの?)と半ば混乱しながら頷いた。そこまで話が進むとは思っていなかったのだ。というより、「好き」と伝えた後のイメージが具体的に湧いていなかった。
そうか、「好き」と伝えたならば、その先にあるのは「付き合うか否か」だ。そこで初めて『自分はトレイ先輩の彼女になるのだ』と理解して、ぶわ、と自分の顔が真っ赤になったことを覚えている。

その日の夜に、『夢じゃないか不安になっちゃいました。先輩、私のこと好きですか?』と面倒くさい彼女らしさ満載のメッセージを送ってしまった。トレイ先輩からは『現実だよ。ちゃんと、お前のことが好きだから心配するな』と返信が来た。そのやりとりは、スクリーンショットを撮って今でもたまに見返している。私にとっての大事な“お守り”だった。



何度も繰り返し見ている“お守り”を確認しながら談話室へ戻る。とりあえず、私たちが交際していることは私の妄想でも空想でもなく事実だ。……でも、トレイ先輩がもう、私のことを好きではない可能性は否定できない。付き合ってからすでに半年ほど経過しているが、キスが1回も無いというのは……高校生という自分たちの年齢を鑑みて、あり得るのだろうか。なんなら、もうキス以上のことも終わらせているカップルは世の中に沢山いるだろう。
先輩は、いつも時間ができれば遊んでくれるから、私のことをまだ好きでいてくれるのだろうと思っていたけれど、もしかして別れ話をするタイミングを失っているだけなのかもしれない。言い出しづらくてグリムやゴーストを呼んでいるのかも。私と2人きりになるのが、辛いのかもしれない。
どんどん暗い方へ思考が偏っていく。そういえば、しばらくデートもしていない。今までは、休日になれば2人で賑やかな街へ降りて、手を繋いでスイーツ店の散策をしていたのに。デート中も、キス出来ないか何度かチャレンジしていたけれど、全てかわされていた。


「もう、別れた方がいいのかな……


ぽつり、と思ってもいないことを呟く。
本当はまだまだトレイ先輩と一緒にいたい。いつ元の世界に戻るか分からない状況で……できるなら離れたくないけれど……突然の別れが訪れた時に『先輩とキス出来なかったなぁ』なんて後悔したままになるのは嫌だった。いずれは離れ離れになるのだから、今のうちにたくさんの思い出を作っておきたいのに。
もし、『先輩とキスがしたい』と伝えて、それをきっかけに『できない、別れよう』と切り出されてしまったらどうしよう。最近は、そんなことばかり考えてしまう。歯磨きが趣味の先輩には清潔感が大切なのかもしれないと思って、ケーキを作って食べたとき、2人で歯磨きをした後にキスをねだったこともある。唇がカサカサではいけないと思って、常にリップで保湿することも意識している。でもダメなのだ。キスしてくれない。彼女として、キスをするためにできることは結構やってきたつもりだ。

残すは直接「キスしたいです」と伝えることだけ。
……でも、今ではそれが一番の難関になってしまっていた。






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「エースはどう思う?」
「あんまり聞きたくなかったなと思う〜」
「ひどいな!友達が可哀想とか思わないわけ?」
「は〜〜?友達と先輩の痴情のもつれを聞かされる俺の方が可哀想じゃね?」
「もつれてはないし!……だって、エースは彼女いたことあるじゃん……
「だからさ〜あんなの付き合ったうちに入んないんだって。ほぼ未経験と言っても過言じゃねーし」


やれやれとでも言いたげに首を振るエースをじとりと見る。

『トレイ先輩がキスしてくれない』

思い悩んでようやく初めて相談してみたというのに、エースの反応は薄情だ。自主練するからと早めに部活へ行ったデュースにグリムを預けて、食堂でエースにこっそり事のあらましを打ち明けている最中なのだが、あまり真剣に聞いてくれていないように思う。


……もう先輩に嫌われてるのかな。別れた方がいいと思う?」
「うげ〜〜。今すっげー面倒くさいこと言ってる自覚ある?」
……あ、あるよ」
「普通に言ってみればいいじゃん『トレイ先輩、私、先輩とキスしたいんです!』って」
「それ私の真似?全然似てないからね。……言えたら苦労してないんだって……『無理だから別れよう』って言われたらどうしたらいいの」
「トレイ先輩はそんなこと言わないっしょ」
……でも、」


「何やらお困りのようだね!」


『うわっ!?』と、驚いたエースと私が声を揃えて振り向くと、そこに立っていたのはポムフィオーレの副寮長、ルーク・ハント先輩だった。大きな羽のついた帽子に、演技がかった立ち振る舞い。よく話すようになってからまだ時間は経っていないけれど、すごく変で、でも観察眼が優れていてなんでも見透かされてるような気持ちになる、少しだけ怖い先輩だな、という印象だ。大きく腕を動かしながら「僭越ながら、何に困っているか聞いてもいいかな?トリックスター」と笑顔で尋ねてくる。
ルーク先輩は、トレイ先輩と同じサイエンス部だ。副寮長同士なこともあってかよく一緒にいるところを見るし、何か良いアドバイスをくれるかもしれない。


「実は……


出来るだけ客観的に。トレイ先輩を責めるような発言にならないよう気をつけながら、でも自分も出来ることをやってきたのだと主張を交えつつ説明する。トレイ先輩がキスしてくれない。もう、私のことが好きではないのかもしれない。話していくうちにどんどん言葉に詰まってしまって、最終的には目に涙が溜まってしまった。溢れることはなかったけれど、今度はエースも真剣にこちらの様子を伺っている。私がここまで参ってしまっているとは思っていなかったみたいだ。


「ふむ。トリックスター。まずは君自身が君の努力を労ってあげよう!君の努力は実に素晴らしいよ、とても頑張ったね。愛する人への細やかな心遣いは称賛に値する行動さ!」
「でも、全部無駄だったんです」
「ノンノン、そんな言い方をしてはいけないよ。まだ結果が出ていないだけかもしれないじゃないか」
「そうそう。トレイ先輩って後輩の面倒見は良いし俺らのこともよく見て色々気付いてくれるけどさ、恋愛系って鈍そうじゃん。ほら、前もゴーストが無理矢理イデア先輩と結婚しようとしたとき、ひっでぇ歌うたってたし」
「でも、ビンタされても平気そうな顔してて……女の子の相手、慣れてるのかなって……
「んー……あれは、もしかしたら弟とか妹が暴れた時と同じ感覚だったんじゃね?オレも、小さい頃に兄貴と喧嘩したとき叩いたりしちゃったことあるし……。でもさ、オレがどんだけ暴れても兄貴は絶対にやり返してこなかったんだよね。口喧嘩は全然勝てなかったけど。歳が離れてて力の差もあったから、オレに怪我させると思って手を出さなかったんだなって今なら分かる」
……そうなんだ……


ルーク先輩とエースの言葉に、少しだけ心が軽くなった。そうかもしれない、と思えてくる。
話を聞いてもらう代わりにエースに奢ったジュースの缶は、もう空っぽみたいだ。自分の缶ももう残り少ない。随分長く話してしまったみたいだなと反省する。トレイ先輩に『キスしたい』と伝えてみようか。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ勇気が出てきた。もぞもぞと手の中の缶を遊ばせながら考えていると、ルーク先輩が良いことを思いついた!と言わんばかりに「あぁそうだ!」と声を上げ、ぱあっと朗らかな笑顔で私を覗き込む。


「トリックスター。今日はサイエンス部の見学に来ないかい?」
「えっ?」
「一緒に活動して話しやすい空気を作ると良い。部活が終わったら、きっと薔薇の騎士へ贈る言葉も浮かんでくるよ」
「いいじゃん。オレももう部活行く時間だし、ついて行ってきたら?」
……うん。そうしてみる」


思いがけない提案だったが、善は急げだ。部活で楽しく話したあとなら、もしかしたらトレイ先輩がオンボロ寮まで送ってくれるかもしれない。その時に『キスがしたい』と伝えてみよう。正直、反応が怖いけれど、このままモヤモヤとした気持ちを抱えたまま付き合い続けていくのは難しい。

ぱん!とほっぺを叩いて気合いを入れると、先を歩き出したルーク先輩の後を追いかけた。







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カルガモの親子のようにルーク先輩の後ろをついて行きサイエンス部に合流すると、先に活動の準備を始めていたトレイ先輩は驚いた顔をして近くに来てくれた。ルーク先輩が「私が誘ったのさ」とウインクすると、「ルークが?」と不思議そうな顔をする。
トレイ先輩に誘導されて化学実験室に入ると、今日の活動は料理のようだった。他の部員たちは心なしか浮き足立った様子で、部室から運んできたらしい器具や卵を弄んでいる。以前、バスケ部へ遊びに行った時にジャミル先輩が差し入れとして持ってきていたお菓子を食べさせてもらったことがあるが、部活で何かを食べるというのは、少しの優越感と背徳感もあってより美味しく感じてしまうから不思議だ。

前にトレイ先輩から聞いてはいたけれど、実験器具と調理道具を取り入れながら進められていく調理はなんだか面白い。『実験っぽいから』という理由で今日のメニューはポーチドエッグだった。確かに、お湯の中に落とした卵をくるくると包んでいくのは難しく、化学の実験と言われてもなんとなく納得してしまう雰囲気はある。
黄身を上手く包めたと盛り上がっている2年生たちの横で、慣れていない1年生はなかなか綺麗に包めず苦戦している。飛び入りで参加させてもらった私の卵も、途中でうっかり触れた黄身が割れて中身が出てしまった。

悔しい気持ちで鍋から取り出した卵のお酢を落してからお皿に乗せると、そのお皿がひょい、と取り上げられて代わりに綺麗に包まれたポーチドエッグが目の前に置かれる。視線を上げると、向かい側の席に腰掛けたトレイ先輩が「上手くできたから食べてくれるか?」と笑った。


「えっ、わっ、すごい……!どうしてこんなに綺麗に包めるんですか!?」
「前に何度か作ったことがあるだけだよ。ほら、割ってみてくれ」
「え〜なんだかスプーンを入れるのがもったいない……


柔らかい卵にそっとスプーンを差し入れると、中からとろりと黄身があふれてくる。すごい……!トレイ先輩は本当に料理が上手で器用で……感動してしまう。差し出された塩胡椒を少しかけてスプーンで卵を口に運ぶ。とても美味しい。とろとろでやわらかくて、舌触りが最高だ。


「すっごく美味しいです!」
「はは、それは良かった。お前はいつもすごく美味しそうに食べてくれるから、作りがいがあるよ」
「だって本当においし……あぁ!!先輩、それ失敗したやつ!」
「ん?大丈夫、そんなにひどい失敗じゃないぞ?」
……どうせなら完璧に作れた時に食べてほしかったです……


私がトレイ先輩のポーチドエッグに夢中になっている間に、先ほど失敗したどろどろぐちゃぐちゃ卵が先輩の口に運ばれていた。恥ずかしい。もっと上手くできた美味しいものを食べてほしかったのに。歪な卵を取り返そうとするが、先輩はお皿を持つ手をぱっと上にあげて椅子ひとつ分後ろに下がってしまい、私の手は届かない。


「先輩取り替えましょ?そんな不味いの食べなくていいですって」
「同じ卵だから味なんて変わらないだろ」
「そんなわけない……!」
「はは、まぁいいじゃないか。お前が作ったものを食べたいだけだよ」


そう笑われてしまえば、もう好きにさせるしかない。私はトレイ先輩の笑顔に弱いのだ。
座り直して美味しいポーチドエッグをいただく。悔しい。今度オンボロ寮のキッチンで綺麗に作って、トレイ先輩に持っていこう。






「よし、部室の最終チェックも済んだし……帰ろうか。寮まで送るよ」
「ありがとうございます」


ぱらぱらと部室から去っていく生徒たちをぼーっと眺めているうちに、片付けの確認を終えたトレイ先輩が部室から出てきた。横に並んで雑談しながら帰路につく。オンボロ寮まで送ってもらうとトレイ先輩が遠回りになってしまうので、普段は見送りを断ることも多い。しかし、今日は『トレイ先輩にキスしたいと伝える』という大事なミッションがあるため、申し出を素直に受け入れて送ってもらう必要があった。


「そのとき、エースに押されたデュースがグリムの尻尾を踏んづけちゃって」
「大変だったんだな、怪我はなかったか?」
「それは大丈夫でした!」


隣を歩きながら体力育成で起こったハプニングについて報告しているうちに、魔法薬学室を通り過ぎて、小さな雑木林に入った。この先にあるのはオンボロ寮だけなので、いっきにひと気が無くなる。とはいえ、寮についてしまえばゴーストたちの目についてしまうし、そろそろ言わなくては。トレイ先輩に話をどう切り出そうか迷っていると、先輩が「そういえば」と思い出したように尋ねてきた。


「ルークに誘われてサイエンス部に来るなんて珍しいなと思ったんだが、今日は何かあったのか?」


来た。今が話すチャンスだ。
どんな反応が返ってくるか分からない恐怖に、手の中が汗でじっとりと濡れる。足もすくみそうだ。
でも、ここで聞かないとこれからずっと心を曇らせたままになる。交際しているのだから、不安は話し合って2人で解決していくべきだろう。


「あの、実はトレイ先輩に話したいことがあって。ルーク先輩は、部活帰りの方が話しやすいだろうって誘ってくれたんです」
……なんだ?」


歩みを止めて話し出した私の雰囲気から、真剣な内容だと察したらしいトレイ先輩が一歩前で止まってこちらを振り向く。
どくん、どくんと音を鳴らす心臓が、口からどろどろと出てきてしまいそうな緊張感に眩暈がしそうだ。こんなこと、いちいち口に出して確認することなのだろうか。自分がこれからすごく場違いなことをするような不安に恐れる。でも、もうこのもやもやに蓋をしているのも限界だ。言わなきゃ。


「私、トレイ先輩とキスがしたいです」


ざぁ、と風が木の間を吹き抜けていく。
自分の髪が風に煽られて舞い上がり、思わず瞬きしてしまう。その瞬間、刹那に垣間見えたトレイ先輩の表情は、ぎゅ、と眉間に皺が寄っていた。しかし、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。目の前の先輩を見つめたまま、自分の手をぎゅっと握り立ち尽くしていると、トレイ先輩はゆっくりと私に近づいて頭をそっと撫でてくれた。


……もしかして、不安にさせてたか?悪かったな」


先輩の目を見つめると、苦笑いをしている。
キス、してくれるだろうか。
話をしなきゃという焦りで頭がいっぱいになっていて、今日はリップを塗るのを忘れていたなぁなんて頭の隅っこで考える。
どきどきと高鳴る心臓を抑えようと、胸の前でぎゅっと拳を握る。頭を撫でていた先輩の手が、耳をすっと辿って頬まで降りてきた。

しかし、いつまで待ってもトレイ先輩は顔を寄せてくれない。先輩は背が高いんだから、屈んでくれなきゃキスできないのに。
頬に添えていた手を離して、私の視線に耐えかねたように目を逸らした先輩が言葉を紡ぐ。


「言いにくいんだが、その、初めてで」
……へっ?」
「まだ心の準備が出来ていないんだ。もう少し時間をくれないか?」


苦笑いをしながらこちらに視線を戻した先輩に、呆然とする。
本当……だろうか。
過去に交際の経験があるのかどうか、そういえば聞いたことがなかったなと今更思い至った。


「先輩、今まで彼女いたことないんですか?」
「あぁ、ないんだ。リードしてやれなくて申し訳ないな。……だから緊張してしまって……
「私も先輩が初めての彼氏です」
……へぇ、そうか」


驚いたように目を見開いた先輩は、少し照れた様子で眉を寄せて笑っている。
そうなんだ。いつも余裕に構えていて、この半年間のデートで常に私をフォローしてくれていた先輩に交際経験がないなんて。俄には信じがたいが、手を繋ぐ以上のことに対して奥手だということだろうか?


「お互い初めてとはいえ、もう付き合って半年以上ですよ先輩」
……そうだな」
「そろそろダメですか?」
…………
……先輩、私と……キスしたくないんですか?」
「そんなわけないだろ」


自分の中で燻っていた一番恐ろしい質問をしたが、即答してくれたことにホッと胸を撫で下ろす。私のことが嫌いになったわけではなさそうだ。よかった。
一歩トレイ先輩に近付いて、そっと手を掬って両手で先輩の手を握る。ちら、と見上げると、先輩は困った顔をして笑っている。困らせたいわけではない。私の手からそっと先輩の手が抜けて、今度は包み直される。先輩の手は、私より皮膚が硬くて、少し温かい。


……心の準備ができたら俺からするから、待っていてくれないか?」
………………はい」


不貞腐れてしまいそうな頬を引っ込めて、ようやく返事をする。
準備ができるの、いつなんですか。


「待ちます、けど。……私がおばあちゃんになる前にお願いしますね!」


明るく、出来るだけふざけた雰囲気でトレイ先輩に笑顔を向ける。
『はいはい』と笑ってくれるところを想像していたのに、先輩はぴたりと固まってしまった。どうしたんだろう。心配になって、「……先輩?」と包まれている手を少し引っ張ると、はっとしたトレイ先輩は「あ、あぁ」とようやく笑ってくれた。


「そうだな。そうしたいもんだ」






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「えっ、マジ?」
「うん」
「いやいや、奥手にも程があるでしょ、トレイ先輩に限って……うわ信じらんね〜」
「先輩が過去に交際経験がないって聞いてびっくりしちゃった」
「そうか……それにしても、その、監督生は積極的なんだな……
「なに顔赤くしてんだよデュース!ははっキスって単語自体がお前には早かった?」
「なんだとエース!」


話に興味がなさそうなグリムがお昼のデラックスカツサンドに夢中になっている間、2人に昨日の結果を聞いてもらっていた。デュースには「トレイ先輩がキスしてくれなくて」という前提から説明しなくてはならず、話の間に何度も赤面されてこちらまで恥ずかしくなってしまった。エースは「あのトレイ先輩がね〜」と釈然としない様子だ。


「とにかくそんな感じで、結局キスできなかったし、お預けをくらっています」
「まぁオレも彼女いた時キスまでしなかったし?」
「エースのそれは、本気で好きじゃなかったからじゃ……はっ」
「自分の発言にへこむのウケるんだけど」
「うるさいな……


トレイ先輩はあの時、私が「キスしたくないんですか?」と聞いたら「そんなわけないだろ」と即答してくれたのだから、今はそれを信じるしか私に出来ることはない。本当に、先輩とキス出来るのはいつなんだろうか。勝手にこちらから仕掛けたら、どんな顔をするだろう。もしかして、いつも余裕に構えている先輩を動揺させることができたりして。
今度、トレイ先輩の部屋に突然お邪魔してみようかな……と考えながらお昼ご飯のサンドイッチを口に含んでいると、ピロンと音が鳴り、エースがスマホを取り出す。


……監督生、トレイ先輩が」
「え?」


たぷたぷと何度かスマホを触ったエースは、届いたメッセージに目を走らせると少し焦りを滲ませた様子でこちらを見る。


「トレイ先輩、実践魔法で事故ったって」







「あっ来た来た後輩ちゃんたち……あー……監督生ちゃんも来ちゃったかー……
「不味かったっすか?一応こいつ、トレイ先輩と付き合ってるし」
「クローバー先輩、大丈夫なんですか!?」
「う〜ん……今回は、怪我とは違うんだよね〜」


エースに急かされながらみんなで走ってやってきた保健室にはケイト先輩がいた。トレイ先輩と同じクラスであるリリア先輩から、軽音部の繋がりでケイト先輩に連絡が入ったらしい。リリア先輩が魔法を使ってトレイ先輩をこの保健室まで連れてきて、ケイト先輩と入れ替わりで教室の片付けに戻ったそうだ。トレイ先輩は実践魔法の授業中に、暴発した他生徒の魔法に当たってしまったのだという。ケイト先輩が言う通り外傷があるわけではないらしく、奥のベッドにいるトレイ先輩は上体を起こして座り、保健室の先生と話している。魔法が当たったすぐは意識がなかったそうだが、少し前に目覚めて、今は簡単に状況の整理をしているようだ。その様子は普段と変わらないように見える。
大丈夫ですか、と声をかけようと一歩踏みだすと、ケイト先輩に腕をぎゅっと掴まれて止められてしまった。


「わっ、あの、近寄ったらダメなんですか?」
「うーんと、……トレイくんが当たった魔法は時間操作の魔法なんだ。一年生でも授業で少し触れるよね?」
「はい。物体の時間を遅らせたり早めたりする魔法……でしたっけ」
「そうそれ。世界の時間を止めるような大掛かりな魔法はとても無理だけど、個々の時間を操作することで特定の植物だけ早く成長させたり、濡れたものを早く乾かしたりすることが出来るやつ」
「トレイ先輩、それに当たっちゃったんですか?」
「そうなんだよね……本来、意識を持つ生き物の時間を操作するために使うのはタブーなんだけど……力みすぎたのか暴発させた生徒が出ちゃって。トレイくん、近くにいたリリアちゃんを庇ったらしくてさ」


なるほど。副寮長であるトレイ先輩が、なぜ防ぐことなく暴発事故に巻き込まれたのだろうかと少し不思議に思っていたが、人を庇ったのか。以前、リドル先輩が階段から落ちた時にもトレイ先輩は咄嗟に動いて庇ったが、自身が怪我をしてしまっていた。今回も、身体が先に動いてしまって自分の身を守ることが出来なかったのだろう。そうやって、人を助けることができる先輩のことが大好きだが、自分を大切にしてほしいとも思う。


「それで、トレイ先輩は……?」
「それがね、頭に魔法が当たって脳の一部が過去に戻っちゃったらしくて、今のトレイくんは一年生の終わりくらいまでの記憶しか持ってないんだよね」
……えっ?」
「だから、たぶん監督生ちゃんのこともエースちゃんのことも分かんないし……
「じゃーなんでケイト先輩はオレらを呼んだんすか?」
「これから寮に戻るんだけど、トレイくん記憶が過去に戻ってる実感ないみたいみたいだからさ〜……。後輩と少し話してみた方がいいかなって」


話を終えたらしい保健室の先生が、こちらへ来るとケイト先輩に「3日くらいで記憶は戻るから大丈夫。他の臓器に影響がなくて良かったよ」と伝えて小部屋へと戻っていった。その言葉を聞いて、もし心臓や肺に魔法が当たっていたらどうなっていたのだろうと考えてゾッとする。時間操作によって臓器の機能だけ止まったり、早く老化したり、逆に機能が戻ったりしていたら……トレイ先輩が死んでいたかもしれないと思うと、恐ろしくて足が震えた。
固まる私をよそに、ケイト先輩が軽く腕を組みながらみんなに指示を出す。


「とりあえず、エーデュースコンビで話しかけてみてくれない?運が良ければ、刺激を受けて記憶が早めに戻ってきたりしないかな〜とも思ってるんだけど……
「監督生じゃなくていいんすか?」
「うーん、今のトレイくんは中身が一年生の状態だから『男子校に女の子がいる』ことをまず受け入れられるかどうか……
「あー確かに。じゃ、とりあえずオレらで行ってみますか!」
「あぁ、わかった!」
「オレ様も行くんだゾ!」
「は〜い、グリちゃんはここでお留守番ね。モンスターがいたらトレイくんびっくりしちゃうから」


ケイト先輩に捕まったグリムを見て笑ったエースとデュースが、ベッドに座るトレイ先輩へと近づいていく。トレイ先輩がこちらに立つケイト先輩をチラッと確認する。ケイト先輩は視線に気づくとにこっと笑って手をひらひらと振った。トレイ先輩は少し困ったように笑っている。身体は3年生だけれど、中身が一年生の状態であるせいかどことなく表情が幼く見える気がする。


「どーも!トレイ先輩。オレらハーツラビュルの後輩なんすけど……オレはエース。で、こっちが万年赤点のデュース」
「余計な紹介をするなエース!それに、毎回全部が赤点って訳じゃ……
「ははは、元気だな」
「え〜トレイ先輩いつもと変わんねーように見えるんだけど。本当に記憶飛んでんすか?」
「正直こっちも疑ってる。お前たち2人のことは確かに見覚えがないが……俺はこの学校の生徒全員の顔と名前を把握している訳じゃないし……。ただ、ハーツラビュルの寮生は全員覚えてる。となると、ケイトやリリアと組んだ他寮生が腕章を取り替えて揶揄ってる可能性もある……とかな」
「げ〜全然信じてないじゃん」
「でもクローバー先輩はさっきまで保健室の先生と話してたんじゃ……
「先生が悪ノリしてる可能性だってあるだろ?」


エーデュースとトレイ先輩のやりとりを聞いて、私の隣に立つケイト先輩に目を向けると、あ〜と困った顔で苦笑いしている。さらには、「一年生の頃って、よくリリアちゃんと2人でトレイくんにイタズラ仕掛けてたんだよね……」なんて頬を掻く。「トレイ先輩がこんなに疑うほどなんて、どんなイタズラをしたんですか?」と聞けば、「う〜ん、内緒」とウインクを返された。それ、トレイ先輩の対応力の高さや物事に動じない姿勢に拍車をかけたのでは?なんて考えながら再びエース達の方へ目を向けると、2人とも今度は先輩を立たせて身体の変化を指摘しているようだった。


「確かに背は伸びてるんだよなぁ。ケイトも大きくなってた。でも、リリアは変わってなかったし……
「うっ、ヴァンルージュ先輩は確かに小さいですけど」
「くふふ、失礼なやつじゃな」
「リリア!?」
「うわっ!?窓から来た!」


ひょこっと窓から顔を出したリリア先輩に驚いたエースのひっくり返った声が、保健室に響く。随分騒がしくしているが、他に生徒がいなくて本当によかった。リリア先輩が来たことでケイト先輩がみんなに近づいていったので、私も後ろからそろそろとついて行く。


「リリアちゃん、教室の片付け終わったの?」
「うむ。クルーウェルが魔法でほとんど終わらせよった。トレイ、目が覚めたんじゃな。もう身体は大丈夫か?正直自分で避けれたが……庇ってくれたことは礼を言うぞ」
「あ、あぁ。もう平気だ。何があったか覚えてないんだが……俺はリリアを庇ったのか?」
……んん?これはどういうことじゃ?ケイト」
「ね〜ケイト先輩ちゃんと説明してやってよ。トレイ先輩、全然事態を把握してないんですけど?」


ぎゅっと眉を寄せたみんながケイト先輩を見ると、先輩は「はぁ〜しょうがないなぁ」と呟いてスマホを確認する。「もうすぐ来てくれるみたいだから少し待って」と笑うケイト先輩を不思議に思っていると、保健室のドアがガチャっと開いて綺麗な赤いまん丸の頭が顔を覗かせた。きょろきょろと視線を巡らせたリドル先輩は、こちらを見とめると不思議そうな顔をして近づいてきた。


「揃いも揃って……。ケイト、突然『急いで来てほしい』なんて、何かあったのかい?」
「リドル!?」
「トレイ?どうしたんだい、怪我でも……?」
「ケイト、どう言うことだ?どうしてここにリドルが……
「今オレ達は3年生で、リドルくんは2年生。そして、リドルくんは今のハーツラビュルの寮長で、トレイくんは副寮長だよ」
「俺が副寮長!?……まぁ、リドルが寮長ならそうなるのか?……いやでも、」
「これで信じた?一時的に記憶が飛んでるだけだって」
……
「トレイ、おぬしの荷物を教室から持ってきたんじゃ。スマホで日付を確認するといい」
「あぁ、すまないなリリア……


リドル先輩を見てようやく事態を飲み込み始めたトレイ先輩が、スマホを操作して「本当に、2年経ってる……」と呟く。そんなトレイ先輩をケイト先輩の背後から見つめながら、私は次第に居心地が悪くなっていくのを感じていた。今のトレイ先輩は私のことを知らない。デートしたことも、もっと言えば付き合っていることすら知らないのだ。これまでトレイ先輩の温かさに慣れ切っていた私に向かって、知らない人を見る視線を向けてくるトレイ先輩に、耐えられる自信がない。いっそ、ここから逃げ出してしまいたい気持ちに襲われる。3日後には記憶が戻ると言われていたし、グリムを連れてもう出て行こうか。エースとデュースはリドル先輩に事情を説明し始めているし、抜けるなら今な気がする。


「ねぇ、グリ……
「ふなぁ!いい加減、オレ様たちも話に入れるんだゾ!」
「わぁ!グリちゃん早いって!」
「狸が喋ってる……!?」
「オレ様はタヌキじゃねー!!偉大な大魔法士になる予定のグリム様だ!!」


もう行かない?と声をかけようと思った矢先、ケイト先輩の指示で律儀に私の後ろに隠れていたグリムが頬を膨らませて怒りだす。その勢いに、トレイ先輩は大きく目を開いてたじろいだ。それはそうだろう、今では私とグリムの存在に周りもすっかり慣れてしまったが、入学時には学園長が「前代未聞です!」と嘆いていた。記憶のないトレイ先輩にとって、グリムと私はなかなか受け入れ難い存在だ。
ケイト先輩が困った笑顔で、要領を得ないグリムの説明を引き継ぐ。


「えーっと、この2人はエーデュースちゃんと同級生で、事情があってオンボロ寮で生活してる生徒だよ」
「あのオンボロ寮で!?そうなのか。……この様子だと知り合いなんだろうけど、覚えてなくて悪いな」


困った笑顔をこちらに向けるトレイ先輩の視線に、胸がツキンと痛みを訴える。今すぐ崩折れてしまいそうな足でどうにか身体を支える。何か声をかけたいのに、頭の中は真っ白で何を伝えたらいいのか分からない。力んだ手が、震える。私が話せないと察したエースが少し尖らせた口を開く。


「トレイ先輩、マジでなんも思い出せない?こいつアンタと付き合ってるんだけど」
「えっ!?……でもここの生徒ってことは男、だよな?」
「あーっと、これまた事情があるんだけど、監督生ちゃんは女の子だよ。表向きは男子生徒ってことにしてるみたいだけど、生徒たちはだいたい把握してる」


驚いた様子で、いや、戸惑った目をしてこちらを見るトレイ先輩に泣きそうになる。どうしよう、「はじめまして」と、言えばいいのだろうか。おろおろするしかない私の背をリリア先輩がぽんぽんとさすってくれる。……そうだ、落ち着かないと。トレイ先輩が一番混乱しているのだから。
とりあえず名乗ろうかと口を開いた瞬間、トレイ先輩が思いがけない言葉を口にした。


「それは、えーと……。でも、ちょっと待ってくれ、俺は、地元に……交際してる相手がいるんだが」


「もう別れてるってことか?」
困惑した様子でそう聞いたトレイ先輩によって、ぴし、と空気が固まったのが分かる。
私とトレイ先輩の交際は、周知の事実だったから。


あ、だめだ。
泣く。

自分の目から涙が溢れる前に踵を返し、勢いよく廊下に出る。ドア越しに遠く「おい、どこ行くんだゾ!」とグリムの声が聞こえるが、止まることは出来なかった。トレイ先輩の目は、私を写しているけど“見て”いない。あの、温かい笑顔や撫でてくれる優しい手のひらがぐるぐると頭を駆け巡る。

先輩は嘘をついていた。
私に『交際経験がない』と言ったことは全くの嘘だった。ミドルスクール時代ですらなく、ナイトレイブンカレッジにいる期間に彼女がいたのだ。いや、そもそも地元の彼女と別れているのだろうか?私は『学園内での彼女』で、本命は『地元の彼女』だったりしないだろうか。もしかして、今も続いているのかも。いや、トレイ先輩がそんな酷いことをするはずないと頭の中では理解しているのだが、『嘘をついていた』という事実が思考に待ったをかける。

そんなことを考えながら廊下を駆け抜けたせいか、下の階へ降りようと一歩踏み出したところで足がもつれて階段を踏み外してしまった。

ふわ、と内臓が浮く感覚がして、頭の端で、あ、落ちる。なんて他人事みたいに思った。





「危ないよ、監督生くん!」


後ろから、ぐいっと腕を掴まれて上の階に引き戻される。前へつんのめった拍子に、胸ポケットに入れていたスマホがするりと飛び出して眼下の階段へと吸い込まれていく。それを目で追うことしか出来なかった。引かれるままに後方へとよろめいて足が地についた感覚に、緊張が解けてどっどっと激しく心臓が脈打つ。へなへなと床に腰を下ろして掴まれた腕を辿ると、こちらを見て驚いた顔をしているのはルーク先輩だった。掴んだだけで私を上に引き戻すなんて、すごい腕力だ。

下から遠く、カシャンという音がして、ルーク先輩を見上げたまま「スマホ……」と思わず呟くと、先輩は「ふむ……あれかな?」と呟いて魔法でふわふわと落ちたスマホをこちらまで引き寄せる。「ありがとうございます」と床に座り込んだまま浮いたスマホを受け取ると、当たりどころが悪かったのか、電源が付かなくなってしまっていた。身を屈めて私の手元を覗き込んだ先輩が、悩まし気に眉を寄せる。


「修理に出したほうがいいかもしれないね。購買部へ持っていけば、すぐに代替機がもらえるから安心するといい」
「ありがとうございます……あの、助けていただいて……落ちるところでした」
「私もよく獲物を目の前にすると、胸の躍動を抑えることが出来なくて思わず駆け出してしまうからね。ただ、階段は危ないよ。……ところで、兎のようにあんなに急いで一体どうしたというんだい?」
……実は、トレイ先輩が」


ルーク先輩は、食堂で話を聞いてくれた時のように、つっかえる私の言葉に辛抱強く耳を傾けてくれた。「ふむ」と思案する表情になり、「では私も彼に会ってこようかな」と身体を起こす。それと入れ替わるように、廊下の奥から「監督生〜!」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。エースとデュースが、グリムと一緒にこちらへ駆けてくるのが見えた。ルーク先輩が「素晴らしい友情だね!」とこちらに笑顔を向けてくれるので、少し嬉しい気持ちになる。そう、私の親友たちは優しいのだ。


「監督生、大丈夫か?……まぁ、あんなこと言われちゃ、無理もねーけど」
「どうしたんだ?床に座って……ハント先輩、なにかあったんですか?」
「えっと、私が階段から落ちそうになったのをルーク先輩が助けてくれたの」
「はぁ!?何やってんのお前。自暴自棄とか勘弁してよね」
「足が滑っただけだから!」
「怪我はねーのか?」
「ありがとグリム。大丈夫だよ」


私が立ち上がると、みんな安堵の表情を浮かべる。本当に、心配をかけてばかりで申し訳ない。保健室へ向かうというルーク先輩を見送っていると、エースがスマホを見て「うわやば!もう次の始業のチャイム鳴りそうなんだけど!」と声を上げた。


「えっ、デュース、次ってなんだっけ?」
「たしか……魔法史だったか?急がないとトレイン先生に叱られるな」
「急ぐんだゾお前ら!」


いの一番に駆け出したグリムを追ってみんなで走る。壊れたスマホは、ひとまずスラックスのポケットに仕舞い込んだ。
データ、大丈夫かな。
そんな不安を飲み込んだまま、鳴り始めてしまったチャイムが耳に入って急いで足を動かした。







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「う〜ん、小鬼ちゃん、残念だけど復旧できないよ」
「やっぱり……


放課後になり、グリムと2人でスマホの修理のために購買部へと訪れていた。サムさんに渡したスマホの画面はヒビが入って真っ暗で、何度ボタンを押してもつくことがない。学園長に、怒られてしまうだろうか。


「ヘイ!そんな暗い顔しなくても大丈夫!学園長が保険に入っていたはずだから、すぐに新しいスマホを渡せるよ」
「そうなんですか!よかった。……データは、無理ですかね?」
「バックアップを取っていないなら難しいかな。全部本体に保存していたのかい?」
「そうなんです。……私はパソコンも持っていないし……でも、大丈夫です」


スマホに入れていたデータといっても、みんなで撮った写真たちだけだ。インターネット上に画像を保存できるサービスを利用しようかとも考えたが、いつ元の世界に帰るか分からない私が、非公開とはいえネットの海にデータを残していいのだろうかという葛藤が出てきてしまい使わなかった。連絡先はマジカメを通じているから、ログインさえできればどうにでもなる。それに、写真も全部一緒に写った人たちと共有しているから、後で貰えばいい。

消えてしまったのは、“お守り”のスクショだけだ。
トレイ先輩と私が付き合っている証明。

でも、それもまたマジカメのチャットを辿ってスクショし直せばいい。







「え。個人チャットって残らないの!?」
「機種変すると消えるぜ。全体公開してる投稿データは残るけど、個人チャットはバックアップとって残しておかないとダメ。セキュリティの関係がどうたらって前に兄貴が言ってた」
「う、うそ……


新しいスマホを貰ってハーツラビュル寮に向かい、新しい端末に触りたがるグリムをデュースに預けて、談話室でエースにスマホの設定を手伝ってもらいながらマジカメへとログインしたのだが、個人チャットの項目は真っ新な状態になっていた。先ほどまで、『きっと残っている』なんて高をくくっていた自分を呪いたい。「なんか大事なやりとりあった?」と少し心配そうな顔をして聞いてくれるエースに「……うん……」と小さく返事をする。

消えてしまった。
トレイ先輩が、私を好きだと言ってくれた証明が。
まさか、トレイ先輩に頼んで『あのやり取りのスクショを送ってください』なんてことは言えない。『好きだ』という言葉を形にして残しておかないと不安だったなんて、本人に伝えるのは気持ちを疑っているようで失礼じゃないか。……最近は、もう私のことを好きじゃないかもしれないと思っているけれど。
さらに言えば、今の先輩は記憶が一年生の状態だ。デートの時に撮った写真すら、送ってもらうことを頼めない。


「どうしよう……
「そんなに大事なチャットだったわけ?トレイ先輩とか?」
「うん……
……じゃあさ、今から行こうぜ。トレイ先輩のところ」
「えっ!?」


エースの言葉に驚いて思わず談話室に壁にかかる時計を見上げると、時刻は19時だ。まだ部屋を訪問しても咎められない時間ではあるが、今のトレイ先輩にとって私は赤の他人である。あの、知らない人を見る目で見つめられるのが怖い。


「でも、トレイ先輩は……私のこと忘れてるし……
「少し話すくらい大丈夫だって。トレイ先輩、お前が保健室を飛び出した後で心配してたけど」
「え、私のことを?」
「うん。まずいこと言ったかな〜って顔してた」


気持ちは置いておくとしても、状況だけ見れば確かにトレイ先輩の発言はまずい。今の彼女の前で、前の彼女に気持ちがある発言をしたのだから。でも、1年生までの記憶しかないトレイ先輩にとっては私の存在のほうが異物だから仕方がない。……仕方がないと分かっているのだ。


……トレイ先輩さ、私に嘘ついてたってことだよね」
「あー……そういやそうだな」


……嘘?」


私とエース、珍しく2人しかいなかった談話室に、3人目の声が通る。耳慣れた低い声に、どくんと大きく心臓が鳴った。これは、大好きな人の声にときめいたのではなく、本人には言うはずのなかった言葉を聞かれてしまったことに対する動揺だった。背中を、つーっと冷たい汗が落ちていく。ぎぎ、とオイルが足りない機械よりもなぎこちない動きで談話室の入り口を見る。気まずそうにこちらを見て立っていたのは、案の定トレイ先輩だった。


「あーっと、……悪い。立ち聞きするつもりじゃなかったんだ」
「トレイ先輩こんなとこで何してるんすか?ケイト先輩に色々教えてもらってるんじゃなかったっけ」
「あぁ。ひと段落したから飲み物でもと思って……キッチンに紅茶の用意をしに降りてきたんだ。そうしたら、お前たちの話し声が聞こえてきたから、つい。悪かった」
「そんな、談話室で話してるんだから、誰が聞いててもおかしくないですよ。むしろ……こんなところでトレイ先輩の話題をだしてしまって……すみません」


立ち上がってトレイ先輩に少し頭を下げる。先輩はまた、困ったように笑っている。私と、どう接したらいいのか分からないのだろう。
キッチンへ向かうのかと思ったが、トレイ先輩は談話室の中に入ってきた。そのことに動揺して、思わずエースを見ると彼も意外そうな顔をしている。そのままぼうっと先輩を目で追っていると、ぐるりとソファを迂回して私とエースの正面に腰掛けた。座るように視線で促されて、ゆっくりと腰を下ろす。


「えーっと、監督生は……今の、3年生の俺と交際してるんだよな?」
「は、はい」


返事をしてから、「はい」と言ってよかったのか不安になる。“お守り”を失った私には、もう現実を支えてくれるものが無い。私とトレイ先輩が付き合ってることが、私の空想だったらどうしよう。今までのことが全て都合のいい夢だったらどうしよう。そんな焦りが身体を駆け巡る。現実味がない。


「保健室では……無神経なことを言ってしまってすまなかった」
「いえ、記憶がないんだし、仕方ないです」
「情けない話だが、ケイトに言われて初めて『良くないことを言った』って自覚したよ」


本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいだと言わんばかりの表情に、胸が苦しくなる。先輩に、そんな顔をして欲しいわけじゃない。
トレイ先輩の目を、真っ直ぐ見れない。


「あの、でも思い出せなくても仕方ないんです!えっと、私たちって先輩と後輩の延長って感じだったというか、付き合ってるのかなー?みたいな、」
「は?ちょっと何言ってんの監督生」


早口で捲し立てる私に、エースが怪訝そうな、少し怒ったような視線を向けてくる。
でも、私はトレイ先輩にとてもじゃないが「私たち付き合っててラブラブでした!」とは言えない。だって、キスしたことすらないのだ。


……さっき言ってた、『嘘』ってなんのことだ?」
「それは……


本人に言ってもいいのだろうか。でも、今は1年生の記憶で止まっているのだから、先輩に嘘をついていたという自覚はない。直接、彼を責めることにはならない気がする。膝の上でぎゅっと拳を握って、自分に落ち着けと言い聞かせる。油断すると、声が震えてしまいそうだった。


「えーっと、私は……トレイ先輩から『過去に交際経験はない』って聞いてて……
……俺が、そう言ったのか?」
「はい。でも、トレイ先輩は今、薔薇の王国に彼女がいるんですよね?」
……ええと…………は、実際は俺は18歳なわけだから、今ではないが……。16歳の、1年生の時にミドルスクールから続いてる恋人がいるのは確かだ。まぁ、誰にも言ったことがなかったからな……ケイトもさっき驚いたって言ってたよ。3年になっても黙ってたみたいだな、俺は」
「そうなんですか……。その人とはどれくらい続いてたんですか?あ、先輩の記憶だと今も付き合ってるのか……
……たしか、1年を過ぎたくらいだ」


私とトレイ先輩の付き合いより断然長い。
先輩は、保健室での発言に罪悪感を感じているようで、私の質問にすらすらと答えてくれる。
どうしても……どうしても聞きたい事があった。
もし聞いたら、自分の中の、柔らかいところがぐちゃぐちゃになるだろうって分かっている。
でも、聞かずにいられない。




「トレイ先輩は、その人とキスしましたか?」


はっと、隣に座るエースが息を呑んだのが分かった。
トレイ先輩も、この質問には虚をつかれたようで目を見開いている。
答えを知りたくない。でも、知らなきゃ前に進めない気がする。ぎゅうぎゅうと、握る拳に力が入る。


……したことは、ある」
「そう……ですか」
「でも、今の俺は彼女とはもう連絡すら取っていないみたいだし、過去の話だよ」
「連絡取ろうとしたんですか?」


言葉を詰まらせたトレイ先輩は、しまったという雰囲気を醸している。まだ1年生のトレイ先輩は、3年生の先輩ほどの話術には至ってないらしい。『連絡を取っていない』ことが分かったということは、『連絡先を確認した』ということだ。言葉の隙を見つけて、つい、反射的に尋ねてしまい後悔の念が押し寄せる。仕方ないと自分に何度も言い聞かせる。先輩は、前の彼女と付き合っている状態の記憶を有しているのだから、連絡を取りたくなるのは自然な行為だろう。
でも、もし連絡がとれていたら、どうなっていたのだろう。


だって、今の、目の前にいる先輩が好きなのは、私じゃないのだ。


「ごめんなさい、責めるつもりはなくて」
「いや……確認しようとしただけなんだ。まだ少し……今が2年後だっていう事がしっくりきてなくて。連絡を取ろうとしたわけじゃない。でも、余計なことを言ったな、すまない。……今は君と交際しているのに」
「あ……いや、先輩の記憶じゃまだ、前の彼女さんのこと好きな状態だし、仕方ないって、分かって、ます」
「いや、あいつのことはー…………なんでもない」


トレイ先輩が何か言いかけてやめたことよりも、自分が『君』と呼ばれたことが……彼女さんを、『あいつ』と呼んだことが、思った以上に脳を揺さぶった。いつもだったら、私のことを名前で呼ぶか『お前』と気安く声をかけてくれる。顔すら知らない女の子にトレイ先輩を奪られた気分になる。
初めて出会った日に、食堂で会話した時のことを思い出す。

『君は、オンボロ……ゴホン、使われてなかった寮の監督生に着任した新入生の子だろう?』

見えないラインを引かれた気分になる。初対面に戻ってしまったのだ。トレイ先輩が、私の名を呼んでくれない。
どんどん自分の腹の底が冷えていく。


「連絡先は、残ってたんですか?」
……この話、続けるのか?」
「続けてもいいですか?」
……残ってはいたけど、本当に、最近は連絡を取っていなかったよ。最後のやりとりが大体一年半前だったから……そうだな、2年生になったあたりで別れたんだと思う。その辺りの内容はチャットに残ってなかったから、だぶん直接会って話をしたんだろうな」
「彼女さんと、連絡、取りたいですか?」
「え?」
「監督生、オレが口出すことじゃないの分かってるけど、お前さっきからおかしい」


エースに止められて、黙る。
自分でも、どうしてこんな事を言っているのか分からなくなっていた。トレイ先輩は2年分の記憶が飛んでいるだけなのだから、1年生の記憶を持つ先輩が彼女と別れる未来を後悔しても今この瞬間から動くことはなにも無い。過去は過去で、もう終わっている。
でも、私の中で一つの疑念が沸いていた。

『まだ彼女に未練があるのではないか』

だから『初めて』なんて嘘までついて、私にキスしないんじゃないか。
私との交際は、告白が断れなくて受け入れただけなんじゃないか。
だから、デートをしても2人きりの時間を作らないんじゃないか。


トレイ先輩、私のことなんて、別に好きじゃないんだ。



「先輩、お話ありがとうございました。私、そろそろ寮に帰ります」
「え、あぁ……
「おい、監督生?」


怒った口調のエースに引き止められないように、さっさと立ち上がって談話室を去る。
ちら、っと最後に見たトレイ先輩が難しい顔をしていて、おそらく私の態度で傷つけてしまったんだと分かる。心臓が、ぎりぎりと薔薇の棘で締め付けられているように痛い。苦しい。上手く呼吸ができない。先輩を傷つけたいわけじゃないのに。1年生の先輩は何も悪くない。私が勝手に彼女さんに嫉妬しているだけだ。

廊下に出たところで、追いかけてきたエースに腕を掴まれたので、足を止める。


……泣くくらいなら、なんであんなこと聞いたの」
「だっ、て、」


私の顔を覗き込んだエースが、眉間に皺を寄せる。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を、自分の制服の袖で無造作に拭う。
「赤くなるから擦るなって」と言われたけれど、私はその優しい言葉を無視した。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎








3日後。
トレイ先輩の記憶が元に戻った。


『色々と申し訳ないことをした。話がしたいんだが、時間あるか?』


朝一番で入っていたメッセージに、どう返信すべきか迷って手が止まる。
あれから3日間、ずっとトレイ先輩に会わないように行動していた。1年生の状態である先輩からは、特に連絡が来ることもなかった。何を話したらいいか分からなかっただろうし、もし連絡が来ていても私は困ったことだろう。また情緒を乱されて、おかしなことを聞いてしまう自分が容易に想像できた。

正気、もうトレイ先輩に会う事が辛い。『過去に彼女がいた』という事実は、『キスしてくれない』という問題に対する一種の答えとして私の中で解釈されていた。まだ前の彼女に未練があるんじゃないか。本当は、本人に会ってちゃんと話を聞くべきだけれど、先輩の顔を見たら自分が何を口走ってしまうか分からない。


『すみません、今日はちょっと忙しくて時間取れないです』


迷った末に、断りの返事を入れる。先輩からはすぐに『わかった』と返事が来た。その続きは送られて来ない。いつなら大丈夫かと問われなかったことに、安堵と寂しさを感じながらスマホを閉じる。
本当に、もう別れた方がいい気がしてきていた。いつか元の世界へ帰る自分が、恋愛なんてするべきではなかったのだ。最初から、トレイ先輩を好きにならなければ、こんなに苦しい思いをしなくて済んだのに。いや、そもそも私たちは付き合っていたのだろうか?“お守り”はもうない。キスもした事はない。一緒に出かけたり、寮でトランプをしたりして遊んだ記憶ばかりだ。これって、恋愛だったのだろうか。


「おい、まだ元気でねーのか?もう3日経ったんだ。トレイのやつ、元に戻ったんだろ?」
「グリム……うん。さっき連絡来てたよ」


グリムの頭を撫でると「くすぐってーんだゾ」と逃げられる。ゴーストに急かされて、制服を羽織ってカバンを背負いオンボロすぎる寮を出た。学校へ向かう足が重い。
雑木林を抜けて植物園が目に入ったところでピロン!と通知音が鳴り、スマホをマナモードにしていなかったことに気がついて急いで設定をする。メッセージはエースから来ていた。


『購買の前の道で待ってるから早く来いよ』


暇そうな猫のスタンプが一緒に送られてきて思わず笑ってしまう。親友たちを待たせるわけにはいかない。





走ったことでSHRの時間までにかなり余裕をもって購買の前に着いた。しかし、待っていると言っていたはずのエースたちの姿が見当たらない。鏡舎からは次々と登校する生徒たちが出てくる。購買を背にしてきょろきょろと人混みに視線を走らせていると、後ろからぎゅっと手を掴まれて驚く。


「えっ!?エース……じゃ、ない。……トレイ先輩」
「悪い。エースに連絡とってもらった」
「監督生、ちゃんとトレイ先輩と話せよ。じゃ、俺たちは行こうぜグリム」
「いいのか?」
「2人は大事な話があるから、行こうグリム」
……分かったんだゾ」


私の手を掴むトレイ先輩の後ろからひょっこりと顔を見せたエースとデュースが、グリムを連れて学校へ向かって歩いて行ってしまう。『待って』と引き留めたかったけれど、それは目の前に立つトレイ先輩に失礼だ。もう、腹を括るしかない。
大きく深呼吸をして、先輩を見つめる。
トレイ先輩は、いつも通り困ったように眉を寄せながら苦笑いをしていた。


「こういうときは、なるべく早く話した方がいいと思ってな」
……はい。私も聞きたい事、あります」
「うん。……ここじゃ人目につくから、もう少し先の脇道で話そう」
「はい」


トレイ先輩に手を引かれて木陰に入る。先輩と手を繋ぐのが、なんだかすごく久しぶりな気がする。大きくて、私より硬い手のひら。平熱も私より高めだ。先輩は歩く足を止めたが、手は繋いだまま私と向き合った。逃げないでほしいと言われている気分になる。


「この3日間、本当に申し訳なかった」
「いえ、あの、先輩は魔法に当たっただけで何も悪くないです!むしろ被害者じゃないですか」


頭を下げる先輩に、急いで言葉をかける。これは本心だ。私が勝手にあたふたしただけで、トレイ先輩はリリア先輩を庇ったのだからむしろ褒められるべきだろう。私をチクチクと責め立てているのは、この3日間における1年生だった先輩の行動よりも、3年生の先輩が『嘘をついていたこと』だった。


「でも、初対面みたいな態度をとって、お前のことを傷つけただろ?悪かった」
「1年生の先輩とは本当に初対面だったんだから仕方ないですって」


トレイ先輩が私を『お前』と呼んでくれたことに、気が少し緩む。ああ、いつもの先輩が戻ってきてくれた。どうやら脳が1年生に戻っていた時の記憶は残っているらしい。考えてみれば、この2年間の出来事をただ『忘れていた』だけなのだから、当たり前なのかもしれない。
「それから、その……」と先輩は私の手を握ったまま気まずそうに視線を逸らして、何やら思案しているらしい。ここからが本題だ。これは私から聞こうと、もう一度腹を括り直して、深呼吸してから口を開いた。


「先輩、どうして『交際経験は無い』って言ったんですか?」


真っ直ぐ。トレイ先輩を見つめる。
先輩は、ぐっと言葉に詰まっているようだった。


……言う必要がないと思ったんだ。終わったことだし」
「内緒にされる方が辛いです。こんなふうに分かってしまうよりは、直接先輩から聞いていた方が心の準備ができました」
「っ、悪かった」
……ごめんなさい、先輩を責めたいわけじゃなくて、その、びっくりしてしまって……。先輩に元カノがいたって事実の方が納得です。休日に街へ降りたときのデートとか、慣れてるなって思ってたし。……あの、彼女さんとはどうして別れたんですか?」
「ええと…………ほら、ここの学校は全寮制だろう?場所も、公共交通機関だと遠いから鏡を使える日しか会えなかったし……俺はあまり連絡がまめじゃなかったから、『遠距離が辛い』と言われたんだ」


先輩から振ったわけじゃなかったんだ。なおさら、未練があってもおかしくないなと一人で納得する。もし、ナイトレイブンカレッジが孤島じゃなくて街中にあって、すぐに彼女に会いに行ける環境だったら、別れてなかったのかもしれない。私と連絡をとる時の先輩は、メッセージを入れると結構早く返事をくれるから意外に思っていたけれど、そういう過去があったならば納得だ。
辛そうに眉を寄せる先輩を見ていると、こちらも泣きたくなってくる。いつもみたいに穏やかに笑ってほしい。どうしたらトレイ先輩は笑ってくれるだろう。先輩を好きになって、今だけでも一緒に過ごせて、すごく幸せなのに、私はどんどん贅沢になっていく。この会わなかった3日間、トレイ先輩のことばかり考えてしまって、あぁ、自分は本当に先輩のことが好きなんだなぁと思い直した。トレイ先輩は、私といて幸せなのだろうか。私は……家族にも会いたいけれど、先輩とも一緒にいたい。先輩が一言『元の世界になんか帰るな』って言ってくれれば、『ここにいろ』って抱きしめてくれれば、……いや、それは贅沢な話だ。


「一つ、お願い聞いてもらえますか?」
「なんだ?色々傷つけてしまったし、できることならなんでもするよ」

「キスしてください」


真っ直ぐトレイ先輩の目を見つめてそう告げると、ぴた、と動きが止まる。
私の手を握っていた先輩の手が、少し緩む。


1秒。

3秒。



たっぷり5秒待っても、トレイ先輩は動かない。


10秒経って、今度は私が手の中から指を抜く。



そして、先輩の手を掴み直して、踵を上げて背伸びした。
驚いたのか、……避けられたのか、私の寂しい唇は先輩のところまで届かない。

あーあ、やっぱりだめか。


潔く諦めて、トレイ先輩からパッと手を離す。





「別れましょう、先輩」


トレイ先輩がはっと息を呑む。


「先輩、前の彼女さんのこと、まだ好きなんじゃないですか?」
「いや待て、違う」
「どうしてキスしてくれないのかなって思ってたんですけど……好きじゃない子とは、キスできないですもんね」
「俺は、お前のこと好きだよ」


……嘘つきだなぁ、トレイ先輩は」


ふわ、と笑ってそう伝えると、先輩は次の言葉を紡げずに色を無くした顔をする。
私が好きだと言うのなら、どうしてキス出来ないのだろう。先輩は、言葉よりも行動の方が素直だ。


「私は、先輩のこと……大好きです。たぶん、これからもずっと。……先輩と過ごした幸せな思い出を大事にします。今までありがとうございました」


ぺこりと頭を下げた。
無意識なのか、ゆるゆるとこちらに向かって上がろうとした先輩の手をするりと抜けて、学校へ向かうために足を踏み出す。


メインストリートに出たところで、私は勢いよく駆け出した。とぼとぼ歩いていたら、頬を伝う涙を誰かに気づかれてしまう。
終わった。終わってしまった。
幼い子どもの初恋とも憧れとも違う。本気で好きになったのに、気持ちが通じ合わないと恋愛は成立しない。先輩は、どうして私と付き合ってくれたんだろう。両思いだと思っていた。デートもたくさんしたし、手も繋いだ。笑って、頭を撫でてくれて、私が作ったお菓子も、美味しいって食べてくれて。いつから破綻していたんだろう。最初からだろうか。それとも。

キスを我慢していれば、先輩は私を愛で続けてくれたのだろうか。







予鈴が鳴る前に教室へ滑り込む。先に行っていた3人を見つけて端にいたエースの隣に座ると、小声で「トレイ先輩と、ちゃんと話せた?」と問われる。


「うん、話せた」
「そ?ならいいけど」


「今日も揃っているな?仔犬ども!」と鞭をしならせながらクルーウェル先生が入室してきたため、詳しいことは話さなかった。目が赤くなっていないか心配だったが、エースの反応を見る限り大丈夫そうだ。エースもグリムも、いつも揶揄ったり自分本位なことを言ったりするが、なんだかんだで友達には優しい。デュースはいつも優しい。私の周りは優しさで溢れていて、だから一人でこの世界にいても平気で過ごせているんだなぁと気がついた。
元の世界に帰ったら、みんなともこれきりになってしまう。それはとても寂しいなと思った。これまで16年間過ごしてきた元の世界にも友達はいるし、会いたくなる時もある。私が今平気なのは『帰ったらまた会える』という気持ちがあるからだ。『一生会えない』というイメージがいまいち湧かない。これからまだ長生きするつもりだし、何十年も先の事は分からない。不安もあるけれど、分からない分『きっとなんとかなる』『そのうち元の世界に帰って家族にも友達にも会える』とどこかで思ってしまっている。

でも、こちらの世界に関しては『元の世界に戻ったら、もう二度と会えないのだろう』という意識が強い。魔法という元の世界でファンタジーとされていたものを、この世界の人たちは常識として使っている。今が儚い夢みたいに感じていて、何をしていても現実味がない。朝、目が覚めたら、元の世界に戻っていたらどうしようなんてよく思う。最近は、そちらの方が不安だった。みんなとちゃんと話せないままに夢から覚めて、元の世界に戻っていること。それが怖い。覚めた夢は、もう同じものを見ることができない。この世界から去ったら、グリムにも、エースにもデュースにもこのさき一生会うことが出来なくなるのだ。グリムは毎日一緒に過ごしているし、エースとデュースは色んなトラブルを一緒に解決してきたせいか、普通の友達とは違う、本物の親友だと感じていた。私に何かあれば、すぐに駆けつけてくれる。それから、元の世界に絶対にないもの。今まで心の底から好きだと感じる人に出会った事はなかった。『いつか帰る』と頭の隅で思いながらも、『先輩とずっと一緒にいたい』とも思っていた。好きな人は、元の世界にはいない。
しかし、もう別れてしまった。この世界に私を引き留めるものが1つ消えた。先輩の隣にいたかった。好きな人をただ外から見つめて、知らない女の子と一緒になる姿に幸せを願えるほど私は人間が出来ていない。好きな人の隣には自分がいたい。それが叶わないのであれば、すぐにでも元の世界に帰ってしまってもいいかもしれない。全部を忘れてしまってもいいかもしれない。……帰れるのは、グリムを卒業させてからになるのかもしれないが。
結論は出ない。

私はどうしたいのだろうか。








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「隣に座ってもいいかな?トリックスター」
「ルーク先輩!こんにちは。どうぞ」


トレイ先輩と別れて数日が経過した放課後。中庭でカリム先輩に捕まってクラッカーを口に詰め込まれているグリムをベンチに座ってぼうっと眺めていると、ルーク先輩がひょこっと顔を覗き込んできた。少しベンチの端に寄ってスペースを空けると私の隣に優雅に腰掛ける。ルーク先輩としっかり話すのは、階段から落ちそうになったところを助けてもらって以来だ。そこで、そういえばお礼をしていないと思い立つ。「先輩喉渇いていませんか?私、飲み物を買ってきます」と聞けば、「そうだね、私も一緒に行こう」と言い出してしまった。座っていてくださいと言ったのだが、結局2人で歩いて自販機へ向かう。



「はい先輩。これはこの間、階段から落ちそうになったところを助けていただいたお礼です。あの時は本当にありがとうございました」
「当然のことをしたまでさ!頂いてもいいのかい?」
「もちろんです!むしろ、お礼がこんなものですみません……


「とても嬉しいよ!」とウインクしてくれたルーク先輩にホッとして、ベンチに向かって再び歩き出す。クラッカーを詰め込まれたグリムも喉が渇いているだろうと思って自分が飲むお茶とは別にジュースを一緒に買ったのだが、ジャミル先輩がグリムに何か飲み物を渡しているのが遠目に見えた。


「トリックスター、なぜ薔薇の騎士と別れてしまったんだい?」
「えっ!?あ、え、どうしてそれを……


突然隣を歩くルーク先輩にそう聞かれて、思わず足を止めてしまう。声がひっくり返ってしまった。実はエースとデュースにも、まだ『別れた』という話をしていない。2人から何も言われていないことを考えると、トレイ先輩も特に誰にも話をしていないのだろうと漠然と考えていた。


「部活で会った彼の様子がいつもと違ったからね。しばらく観察していたんだ」
「見ていただけで別れたことまで分かっちゃうんですか……
「彼はいつも時間が空けば君に会いに行っていたのに、最近は図書館で勉強をしたり寮でひたすらケーキを作ったりしているし、スマホを眺めてはため息をついている。トレイくんが君との喧嘩を何も対処せず長引かせるとは思えないからね。ならば、別れたんだろうと思ったわけさ。当たっているかい?」
……はい」
「理由は……君が悩んでいた事かな?」
「そうですね。トレイ先輩……前の彼女さんに未練があるからキスできないのかなって思って」
「トレイくんはなんと言っていたんだい?」
「はっきりとは……何も。私のことを好きとは言ってくれたんですけど、最後に『キスしてください』って言ったらダメでした。先輩動かなくなっちゃって」


トレイ先輩の気持ちはよく分からないままだ。好意は向けてもらっていたと思うけれど……もしかしたら、妹のような感覚だったのかもしれない。その方が納得がいく。みんなでトランプをしたり、お菓子を褒めてもらったり、恋人でしたと断言できない。
「ふむ」と呟いてから黙ってしまったルーク先輩と共に立ち尽くしていると、渡り廊下からエースが声をかけてきた。デュースも一緒にいる。


「監督生〜。今からモストロ•ラウンジ行かね?新メニューのスイーツがめっちゃ美味いってジャックが言ってたんだよね」
「え!行きたい!」
「ハント先輩も一緒にどうですか?」
「残念だが、私は遠慮しておくよ。これからサイエンス部の活動があるんだ」


サイエンス部と聞いて心臓が跳ねる。それに気づかないふりをして、ルーク先輩と分かれてスカラビアの2人に遊ばれているグリムを救出しオクタヴィネル寮へと向かった。
ゆったりとした音楽が流れる少し薄暗い店内の奥は美しい水槽が大きく構えていて、高校生の自分には少し場違いな気がして入店する時いつも気後れしてしまう。高校生が経営している店なのだけれど。店内をほんのりと照らすクラゲのような照明の下を通って、奥のソファ席へと座った。オーダーを取りに来たラギー先輩に、新作のデザートと飲み物を注文する。その際に「ついでにこの特大パフェなんかシェアして食べません?」と聞かれたが、挑戦したというマジカメの投稿を見せられると本当に大きくて、ジャックやセベクが一緒の時にしますと断った。先輩もただ言ってみただけのようで、「はいはーい」と軽く返事をしてカウンターの奥へと消える。


「あんなでけーパフェ、10人くらいいなきゃ無理じゃね?」
「オレ様なら余裕で食えるんだゾ!」
「マジカメで思い出した。私、スマホが壊れた時に写真が全部消えちゃってるんだよね……マジカメに載せてたのは何枚か保存したんだけど、他のも送ってもらえないかな?」
「あぁ、わかった。ちょっと待ってくれ」


スマホを操作し始めたデュースにお礼を言って、いくつかの写真を送信してもらう。それを見ていたエースが、「これ使えば?」と画像をクラウドに保存するサービスを見せてくれた。


「あー……使ってみようと思ったんだけど、残っちゃうから」
「は?残すために使うんじゃん」
「でもほら、私は元の世界に戻る日がくるじゃん?なのにネットに写真とか残しておいてもなぁって。今見返して楽しめてればそれで」
……お前、帰んの?」


エースの声が低くなって驚く。デュースも眉間にシワを寄せて難しい顔をしている。何か怒らせることを言っただろうか。私が帰るための方法を学園長が探してくれていることをみんなも知っている筈だ。


「なんで怒ってんの?」
「オレは、お前がトレイ先輩と付き合うって言うから、もうこっちの世界で生きてくって決めたんだな〜と思ってたんだけど?」
「僕もそう思っていた。まさか、最初から別れるつもりで付き合ってるのか?」
……そこまでは……最初は考えてなくて」
「今はそう考えてるってこと?まじかよ。あ〜あ〜トレイ先輩が可哀想だわ。いずれ絶対別れるって決めてんのに、今を楽しむためだけに付き合わせてるわけ?しかもそれ、トレイ先輩に言ってねーだろ。お前、この前キスできないって悩んでたけど……別れるつもりなら絶対すんなよ。そこまでいったのに残されるトレイ先輩の気持ち考えろよな」
「もう別れたもん!!」


「は?」と固まるみんなを前にして、ぽろぽろ涙が落ちてくる。周りの客として来ている生徒やカウンターにいるオクタヴィネル寮生が訝しげにこちらを見ているのが分かる。でも、そんなことどうでも良かった。エースに言われた言葉がグサグサと胸に突き刺さる。付き合いが長くなるにつれて、自分が甘い考えでトレイ先輩と交際していたことを自覚してどんどん苦しくなっていた。でも。


「好きだったんだから仕方ないじゃん!『付き合うか』って言ってもらえて、嬉しくて、浮かれて、後からどうしようって何度も思った。でも、好きなんだもん。今だけでも一緒にいたいなって思っちゃダメ?自分がやってること最悪だって分かってたよ、でも、でも」
……帰るから別れたってこと?」


「はいは〜い、ご注文の品のお届けっスよ。揉めてんのは分かるけど、この後もここで話すならもうちょいボリューム落としてくんないっスか?他のお客さんもいるんで」


ラギー先輩が先程頼んだ飲み物とデザートを持ってきてくれる。周りを見回せば、こちらを無視する生徒もいるが、ちらちらと様子を伺っている人たちもいる。デュースが「すみません、静かにするんで居てもいいですか?」と聞くと、先輩は「りょーかい!」と笑って去っていった。


……とりあえずさ……何があったとか、お前が思ってることとか、全部話してくんない?」


今度は少し落ち着いたエースにそう言われて、こくりと頷いてひと口ジュースを含む。グリムもこちらをじっと見つめている。しっぽが足に巻きついているから、驚かせてしまったのかもしれない。甘すぎないリンゴのジュースに喉を潤してもらってから、ひとつ深呼吸をした。


「トレイ先輩とは、この前の朝の……エースから連絡があった日に話した時に別れた」
「はぁー……まじか……。喧嘩とかした?」
「ううん。『交際経験がないってどうして嘘ついたんですか』って聞いた。先輩は『もう終わったことだから言う必要がないと思った』って言ってた。それで、もう一回『キスしてほしい』って伝えてみたけど、先輩固まっちゃって……あぁ無理なんだなって分かったから、それで別れようって言った」
「それは確かに訳わかんねーとこだけどさ。じゃー帰る方法が見つかったからとかではないわけね」
……さっきエースに言われたこと結構図星でさ。私、いつかは帰るんだろうってぼんやり思ってたんだけど、なんとなく実感がなくて。今ここにいることも、トレイ先輩と付き合ってたこともなんだか……現実味がなくて。全部曖昧なままトレイ先輩と付き合ってて……本当に失礼なことしたなって思う」


カラン、と少し溶けた氷が音を鳴らす。


「クローバー先輩のことは……もういいのか?」
……まだ好きだよ。帰る帰るって言ってるけど、もし元の世界に帰れなかったとして……トレイ先輩が今後知らない女の子と付き合ったら、絶対に素直に祝福できないなって思う」
「こっちの世界でトレイ先輩と一緒になるとかは、考えてないわけ?」
「考えたことはあるよ。……でも、分かんなくなっちゃって。もしこっちの世界を選んだら、もう家族には二度と会えないのかなぁとか、でも、元の世界に帰って二度とみんなやトレイ先輩に会えなくなるのも辛いし…………ねぇ、私どうしたらいいんだろう?」
……


人に答えを求めるのは間違っている。これは私の問題だ。でも、自分じゃ到底決められなかった。家族にも会いたいし、エースやデュース、グリムとも離れたくない。元の世界にも大切なものがたくさんあるけれど、こっちにも大切なものがたくさんできてしまった。どちらか捨てなきゃいけないのが苦しい。


……もし、トレイ先輩が『帰るな』って言ったら残る気ある?」
「残るって言ったとは思う。……でも、残ることを選んでも、いつかは帰るんだろうなって思っちゃう気がする。トレイ先輩とずっと一緒にいる想像はけっこう具体的にできるんだけど、家族に再会する自分もちゃんと想像できてるんだ。だから……どっちかしかダメって言われても、選ぶのが難しくて。ただ、もう別れたから先輩は『帰るな』なんて言わないよ。私のこと好きじゃないもん……もうすんなり元の世界に帰ってもいいかなって思ったりしてる。……みんなと会えなくなるのは辛いけどね」
「僕も監督生と会えなくなるのは……辛いな。僕が立派な警察官になったときに祝って欲しかった」
「それは本当に、見たいなぁ」


スッパリと決められない自分に腹が立つ。でも、簡単に決められるはずがない。私にとって『この世界に残るか、元の世界に帰るか』という問いは、『好きな人や友達を選ぶか、家族を選ぶか』を問われていることと同義だった。どっちも大切だ。そうみんなに告げると、デュースが勢いよく立ち上がり何か決心した顔で私の両肩を掴んだ。


「どっちも捨てる必要なんかない!僕が、なんとかする!!」
「え?」
「おいバカ、声でけーよデュース!ちょっと座れ」
「監督生は、トレイ先輩のことが好きで一緒にいたいんだろう?そして、家族にも会いたい。どっちも叶えればいいじゃないか!」


デュースの肩を後ろから掴んだエースが体重をかけて座らせようとする。はっと気がついたデュースがきょろきょろと周りを見回してから急いで座り直した。ごほんとひとつ咳をしてから、私に向き直る。


「そもそもまだ帰る方法は分かっていないんだろ?監督生がいる元の世界とこっちの世界、行き来出来るかもしれないじゃないか」
「それは……分かんないけど。もし、行き来出来るようなものじゃなかったら……
「僕が見つける!」
「えっ」
「監督生が諦めなくてもいい方法を、僕が見つけてみせる」


少し声を落としたデュースが、私を真っ直ぐ見つめた。その目が、私に期待を膨らませる。希望をちらつかせる。どうして彼の目は、こうも芯が強いのだろう。全てが本当になる気がしてくる。


「そんなこと……出来るのかな」
「出来るかじゃない、やるんだ。……僕がナイトレイブンカレッジに入れた事だって、地元じゃ奇跡って言われてるんだ。どんなことだって、努力していればきっと叶う。ええと、それから……僕は今の成績ではけっこう厳しいことが分かっているけど、警察官を目指してるだろ。僕が将来夢を叶えるって監督生は信じてくれるか?」
「うん、デュースなら警察官になれるって信じてるよ」
「じゃあ、これも信じてくれ。僕は、監督生がいた世界とツイステッドワンダーランドを行き来できる方法を必ず見つけてみせる。……だから、だから全部諦めて帰るなんて言わないでくれ」
……デュース……
「オレ様も!子分には世話になってなくもねーからな!大魔法士になったらそんなの簡単に出来るんだゾ」
「グリム……


2人の強い言葉に、ぐっと胸が詰まる。ここまで私のことを考えてくれる人なんて、なかなかいない。思わずじわじわと目に涙が溜まってくる。すると、エースが大きくため息をついた。


「万年赤点のお前らだけじゃ無理に決まってんじゃん」
「なんだとエース!」
「やってみなきゃ分かんねーんだゾ!」
「だから〜……オレもやってやるってこと。なんでもそつなくこなすオレなら、案外簡単にその方法見つけちゃうかもね」
……エースまで、」
「先輩たちにピリ辛なこと平気で言ってきたお前が、しおらしく泣いちゃうくらいトレイ先輩のこと好きなんでしょ?……これは、オレは当事者じゃないから言えることだけど……これから先、一応60年とか70年は生きていくわけじゃん?そんときにさ、ずっと隣にいる相手としてトレイ先輩は最強だと思うね。オレは。……簡単に手放しちゃっていいわけ?」
……よくない」


親友たちがここまで言ってくれているのだ。私が信じなくて誰が信じるというのか。スカラビア寮に軟禁されたときも、マジカメで連絡したら遠い道のりを公共交通機関を使って助けに来てくれた。ダンスのオーディションだって、何度も練習して出演の権利を勝ち取った。そんなみんなと力を合わせれば、なんでも叶えられる気がしてくる。


「もう一回……トレイ先輩に告白しようかな」
「お、やる気になってよかったわ。フラれても骨は拾ってやるから心配すんなって」
「フラれても、さっき言ったこと撤回しない?」
「しない!これから先も僕たちが会えるように、行き来出来る方法を絶対に見つける」
……ありがとう」


「そろそろデザート食うんだゾ!オレ様お腹空いちまった」とお腹を鳴らしたグリムにみんなで笑って、ここへ来る目的だったデザートにフォークを差し込む。この学園にきて、エースとデュースに出会えてよかった。一緒にいるのが楽しくて、悩みに親身になってくれて、何かあれば手を貸してくれる。最高の親友だ。

こちらから『別れよう』と言っておきながら今更おかしな話だが、やっぱりトレイ先輩が好きだし離れたくない。これから先もずっと、おじいちゃんおばあちゃんになるまで隣で過ごしていたい。

もう一度、告白しよう。

どうしてキスしてくれなかったのかは、まだ分かっていない。私は前の彼女さんに未練があるのだろうと思っていたけれど、気づいてなかっただけで私自身に何か原因があったのかもしれない。トレイ先輩は私のことを実際は妹みたいに思ってて、好きじゃないって言われる可能性だってある。でも、もう一度ちゃんと気持ちを伝えなおそう。私には、親友たちがついているから平気だ。


「この後、ハーツラビュル寮に行ってみる」
……ははっ、やること決まれば速攻動くの、お前らしくていいんじゃない?」
「頑張れよ、監督生」
「オレ様も応援してやるんだゾ!」
「みんな、ありがとう!」







一足先に自分だけモストロ・ラウンジを出て、ハーツラビュル寮へ向かって走る。気持ちが昂っている今を逃すと、勇気が無くなってしまう気がした。
購買の前を過ぎて、いつもオンボロ寮へ向かう道とは逆の鏡舎へ向かって足を進める。建物の入り口に入ろうとしたところで、出てこようとしていた人物と思いっきりぶつかってしまった。


「うわっ!す、すみませんルーク先輩……!」
「おっと、トリックスター。またしても慌ててどうしたんだい?」
……私、私トレイ先輩に謝って、もう一回告白しようと思って」


ぶつかった勢いで倒れそうになった身体をルーク先輩が支えてくれる。私の言葉を耳にしたルーク先輩は「それは素晴らしいね!」と、とても嬉しそうに顔を綻ばせた。


「色々話を聞いていただいてありがとうございました」
「私は何もしていないよ」
「いえ、聞いてもらえただけで少し楽になりましたし」


「ルーク?そんなところで何をーー」


各寮に繋がる鏡が置かれている広間から外に出ようとしたのだろう、奥から顔を覗かせたのはトレイ先輩だった。自分から会いにいくつもりだったので、突然出てきた先輩にひゅっと息を飲んでしまう。先輩の方も、ルーク先輩に隠れて私がいると思っていなかったのだろう、目を見開いて言葉に詰まってしまった。


「あぁ、少しトリックスターと話をしていただけだよ」
「へぇ……
「あの、トレイ先輩、どこか行くんですか?」


トレイ先輩は少し大きめのリュックを片方の肩にかけて、コートを着ている。校内の移動だとは思えない様子に心がざわついて、思わず尋ねてしまった。私から話しかけられたことに面を食らった様子の先輩に、心の中で(しまった)と思った。なに普通に話しかけているんだ私は。


「ええと……土曜日の午後にミドルスクールの同窓会があるんだ。どうせだから一足先に帰って実家に泊まって、家族にも顔を見せようと思って……日曜日にはこっちに戻ってくるからあまりゆっくり出来ないけどな」


今は金曜日の放課後だ。今夜から泊まって週末を実家でゆっくり過ごすということだろう。
それより今先輩は何と言った?“ミドルスクール”の同窓会?


「先輩それって元カノさんいるんじゃ」


言ってしまってから思わず自分の口を手で塞ぐ。ざわざわと胸に不安が立ち込めてくる。私はもうトレイ先輩の彼女ではないのだから、こんなことを言うのは筋違いだろう。でも、行ってほしくない。


……いるけど、あいつとは何もないよ。それじゃあ、あっちで乗る電車の時間もあるから俺は行くよ」
「あっ、先輩あの」


私の横を通り抜けようとした先輩の袖を掴む。もう一回告白しなければ。早く好きと言わなければ。本当にトレイ先輩にその気がないとしても、元カノさんには気持ちが残っているかもしれない。直接会ったらどうなるのかなんて分からない。引き留めたい。私を見下ろすトレイ先輩は困惑した表情だ。困らせている、私。いやまて、そんなの分かっていたことじゃないか。逃しちゃだめだ、私にはこの人しかいないのに。


「先輩が好きです」


トレイ先輩の動きが止まった。
早く次の言葉を言わなくてはと焦る。別れる時に『ずっと好きです』ということは伝えている。『だからもう一回付き合ってください』と言わなくては。『振り向かせてみせるから、チャンスをください』とお願いしなくては。ああでも、その前にエースたちが私に約束してくれたことを説明しないといけないだろうか?ぐるぐると次の言葉を探していたが、トレイ先輩の腕が私の手から逃げていく。


「ごめんな」


頭が真っ白になった。
フラれることを覚悟してきたつもりだったのに、その衝撃に声も涙も出ない。
好きだと言ってしまったことへの後悔が一気に押し寄せる。
動かなくなった私を見て、トレイ先輩はこちらに向きなおって両手を掬った。


「今はゆっくりしていられないんだ。戻ってきたら話したいことがあるから、時間を作ってくれ」


上手く返事が出来なかった。

手を放した先輩が、「じゃあ……また月曜日に」と言って校舎へと去っていく。『ごめんな』は今の告白の返事ではなく、ちゃんとした答えは週明けに会った時ということだろうか。でも、私はまだ『付き合ってほしい』と言えていない。いったいなんの話だろう。色んな可能性が頭に浮かんでは消えていくが、どれも良くない事ばかりだ。自分が怯えていることがよく分かる。

置き去りにされた私の肩に、ぽんとルーク先輩の手が置かれる。それが温かくて、『落ち着くように』と言われている気がした。
今、一人じゃなくてよかった。


月曜日になったらもう一度トレイ先輩に伝えよう。今度はちゃんと『付き合ってほしい』と言わなくては。







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「で〜〜その不安を誤魔化すのに付き合わされてるわけねオレらは」
「いいじゃん!月曜日に全てが決まると言ってもいいんだよ……ちゃんと最後まで私のこと支えて」
「ははっ、監督生が元気になってよかった」
「カラ元気です〜……


呆れた様子のエースと眉を下げて笑うデュースを前に、ぺたんとテーブルに突っ伏す。グリムは隣で美味しそうにホットドッグを頬張っている。
土曜日である今日は、二人を誘って麓の街に降りてきていた。ハーツラビュル寮でケイト先輩から「最近できたカフェじゃん〜!良さそうだったらオレも行ってみるから感想聞かせてね」と見送られながらやってきたそこは、あまり大きくない店内だが多少の賑わいを見せている。ナイトレイブンカレッジで見たことがある人もちらほらいるから、それなりに話題になっていたらしい。


「てかさ、それ別に悪い反応じゃなくね?オッケーもらえるかもしんないじゃん」
「でも……じゃあ何でわざわざ月曜日なの?その場でもよくない?」
「まぁたしかに……監督生には何も心当たりはないのか?」
「あったらこんなにモヤモヤしてないよ……


金曜日の夜、明日トレイ先輩は同窓会か……元カノさんに話しかけられたりするのかな……と、そんな事ばかり考えてしまって、グリムに「じめじめ、じめじめ……部屋にキノコが生えちまうんだゾー!」と怒られてしまった。連絡したくて何度も何度もマジカメを開いては閉じてを繰り返した。せっかく先輩が地元で羽を伸ばしているというのに、私が連絡して水を刺しては台無しだ。最終的に耐えきれなくなって、ネットで賢者の島のカフェを検索しまくりエースとデュースに「明日パフェ食べに行くよ!!!」とメッセージを送ったのだ。

お店に来てみたら結局パフェではなくみんなそれぞれ自分が食べたいものを頼んだのだが、トレイ先輩が今頃何をしているのかが気になって食が進まない私のお皿にだけグズグズに崩されたアップルパイが残っている。チェリーパイを食べ終えたエースがたぷたぷとスマホを操作しながら「お」と小さく呟いた。続けて「監督生〜見たい?」と意地悪な笑みを浮かべる。


「なに?」
「トレイ先輩のアカウントから同級生っぽいの辿ってたら、同窓会の写真上がってた。見る?」
「み……る」
「ほら。これ元カノっぽくね?」


エースがテーブルの真ん中に置いたスマホをみんなで覗き込む。本格的なパーティではなく、声をかけて集まったメンバーで盛り上がっている……と言った雰囲気だ。それでも20人はいるだろうか。チェーニャさんもいる。写真は何枚か時間を置いて投稿されていて、数枚にトレイ先輩が写りこんでいる。その中に、女の子が先輩に腕を絡めている写真があった。投稿文には『元カップルショット〜』と書かれていて、トレイ先輩たちだけでなく3組ほどのペアが一緒に写っていた。端に立つトレイ先輩は困った顔で笑っていて、エースは「げ〜オレこのノリ無理」と嫌そうな顔をした。自分がこうなったらという想像をしたのだろう。多分トレイ先輩も嫌だっただろうなぁと予想する。
トレイ先輩の元カノさんは結構活発そうというか、いわゆるサバサバ系女子に見えた。どういう接点で付き合い始めたんだろう。一年生の記憶に戻っていた先輩が付き合って一年くらいと言っていたから、付き合い始めた時期はミドルスクールの終わり頃だろう。この人が『遠距離が辛い』と言って別れを告げたようにはあまり見えなかった。しかし、写真からは分からないところもあるだろう。「可愛い人だね……」と嫉妬心を抑えながら呟くと、エースは「そう?オレはこっちの方がタイプ〜」と次へスワイプしていった。


「ミドルスクールの同窓会ってそんなに聞かねーよな。うちの兄貴はナイトレイブンカレッジの同窓会があったらしいけど。やっぱそういうのって高校からなイメージあるわ。よっぽど仲良かったんだな」
「僕は呼ばれる気がしないな……
「元ヤンじゃきついっしょ!っても、オレもあんまり会いたくないヤツとかいるし、もし誘われても行かねーわ」


トレイ先輩の腕に絡んでいたあの人が脳にすっかり焼き付いてしまった。失敗した。見なければよかった。やっぱり、再会して気持ちが盛り上がる可能性は高いのではないだろうか。あの時、トレイ先輩が行く前にちゃんと『もう一度付き合って』と言えばよかった。とはいえ、そう言ったからといって良い返事がもらえていたかなんて分からないけれど。今頃、先輩と元カノさんの方が『もう一度付き合おう』なんて話になってたらどうしよう。再び暗い想像が広がっていく。
すると、不意に目の前へにゅっとフォークが飛び出てきて、崩れていたアップルパイの破片がひょいっと攫われていった。目で追えば、ぱくりとそれを食べたエースが悪戯っ子の笑みを浮かべる。


「なぁ、こっちもそれっぽい写真投稿しない?」
「は?それっぽい写真って?」
「だから〜『デートしてますよ〜』って感じの写真を監督生のアカウントで投稿すんの。トレイ先輩焦るぜきっと」
「焦らないでしょ……先輩気にかけないよそんなの。エースたちと遊びに行った時だって何も言われたことないし。今別に付き合ってるわけでもないし」
「じゃあ尚更投稿してもよくね?ただのお遊びだって、ほら手出して」


エースに言われるがままに手を差し出すと、カメラを起動してから「アップルパイぐちゃぐちゃでやべーわ」と呟く。もう一度別のケーキを注文し直し、グリムもついでにホットドッグのおかわりをして、運ばれてくるまでに構図を決める。
ケーキと紅茶をメインに置いて、私の手が右端に添えられる。その小指にエースの小指が絡められた。カメラ越しに覗くと、男の子の指が絡んでいると一応分かる。これは……匂わせ写真感が強い。「めちゃくちゃそれっぽいじゃん」と満足したらしいエースは、撮った写真を私に送信すると「スマホ貸して」と奪っていった。もうどうにでもなれと任せることにする。新しく頼んだケーキはいつのまにかグリムのお腹に収まっていたので、私はぐちゃぐちゃのアップルパイを口へと運んだ。


「よっしゃ、投稿完了〜」
「ええと……『ケーキとっても美味しいです。紅茶もいい香り』?エース、『デートです』とか打たなくてよかったのか?」
「はぁ〜これだからデュースは。匂わせなんだからこれでいーの」
「匂わせ?」


「だ〜か〜ら〜」と説明し始めるエースを尻目に、取り返したスマホでマジカメを開く。トレイ先輩のアカウントには新規の投稿はない。もともと、頻繁に何かを投稿する人ではない。ぼうっと画面を眺めていると、さっきの投稿にコメントがついた。ケイト先輩だ。『カフェデートどう〜?』と聞かれている。学園を出る前に見送ってくれたのだから私がグリムを連れてエースとデュースと一緒に出かけていることは知っているはずだ。写真を見てお遊びに乗ってくれたのだろう。『雰囲気は可愛いくていい感じですよ!先輩も今度ぜひ』と返信する。
トレイ先輩は、この投稿を見るだろうか。でも、見たからといって先輩が嫉妬してくれるところは想像できなかった。いつも穏やかで余裕がある。リドル先輩に関わること以外で取り乱すところは……正直あまり見たことがない。


小さくため息をついて画面を閉じた。エースが「そろそろ行こうぜ。オレ行きたい雑貨屋あるんだよね」と伸びをする。雑貨屋巡りは好きだ。
何か新しくアクセサリーでも買って気分を上げるとしよう。






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日曜日。
ゴーストに「読みたい本があるんだ。お前さん、借りてきてくれないかい?」と頼まれて図書館に来ていた。グリムは今頃オンボロ寮でカードゲームをしている。
目的の本が思ったより高い位置にあるのだが、近くに梯子が見当たらない。ここの生徒たちは魔法を使って本を取り出せるため、梯子を使用する頻度が少なくあまり置かれていない。しかし、この広い図書館のどこにあるのか探しにいくのは億劫だ。どうにか届かないかとぐっと背伸びをしていると、本が一人でに棚から出てきてふよふよと浮いた。それを目で追って背伸びをやめると、本は私の手元に降りてくる。取ってくれたらしい後ろの人に振り向いてお礼を伝える。


「ありがとうございます、ルーク先輩」
「これくらいお安い御用さ。他にも必要な本があるのかい?」
「これだけなので大丈夫です!」
「ではこれから一緒にランチでもどうかな?食堂で限定メニューが出ているらしくてね……少し気になっているんだ」


グリムのツナ缶はすでにテーブルに用意しておいたし、ゴーストもいるからお昼ご飯は自分で食べるだろう。ルーク先輩に「ぜひ!」と返事をして後ろをついて行く。食堂は月に数回だけ土日の限定メニューが出る。今日はいったい何だろうかとわくわくしながら目的の場所に辿り着くと、食堂のカウンターには少しだけ人だかりが出来ていた。高そうな財布を手に持ったラギー先輩もいたから、またレオナ先輩に買ってくるよう言われたのだろう。大きなエビフライが挟まったサンドウィッチを頼んで自販機で飲み物を買い、ルーク先輩と一緒に中庭へ移動する。今日はとても天気がいい。


「これはとても美味しいね!揚げ物だからヴィルはカロリーを気にして食べないかもしれないが……エペルくんは好きそうだ」
「衣がサクサクで、中のエビはぷりぷりしてて食べ応えもありますね!中にかかってるタルタルソースも、結構食感が残っていて美味しいです」


ベンチに並んでのんびりとサンドウィッチを食べ終わる。少し雑談していたら、ルーク先輩がふと私の髪に目を留めた。「先ほどから気になっていたんだけれど……その髪飾りはとても美しいね!」と褒めてくれる。今日はサイドの髪を片方だけ耳にかけて、新しく買ったヘアクリップで横を押さえていた。網のように透けた葉っぱの形が並んだデザインで、本体の銀色に小さく嵌め込まれたグリーンの石に惹かれて、昨日みんなと街をぶらついていた時に雑貨屋さんで買ったものだ。トレイ先輩の髪の色みたいだなぁと思ったら自然と手に取っていた。普段はアクセサリーや装飾品はつけないのだが、今日は日曜日ということもあって気分を変えようと朝からつけてきていた。


「昨日買ったんです。可愛いですよね、これ」
「とても似合っているよ。昨日はエースくんたちと出かけていたのかい?」
「はい。新しく出来たカフェに行って、ケーキとか食べました」
「では、あの写真の指は……
「あ!先輩も見たんですか!?あれは、エースがふざけて投稿しただけなんです」


小指を絡められた写真を思い出して、少し面倒なことになっちゃったかなぁなんて後悔する。誰でも見られることは頭にあったつもりだが、今後いちいち誤解を解いていくのは厄介だなと思った。今から削除しても遅いだろうし、後から『これはエースです』とリプライをつけても見てくれる人はほぼ居ないだろう。どうしようかなぁと考えていると、ルーク先輩が先ほどよりこちらに距離を詰めていることに気がついた。


「あの、ルーク先輩……?近くないですか?」
「頬にソースがついているよ」
「えっ!」


急いで自分の頬に手を添えるが、その上からルーク先輩の手が添えられる。ぐっとこちらに体重をかけられたことで、ベンチの肘掛けに背中がつくほど身体が倒れ込む。先輩どうしたんだろう。顔が近くて緊張する。ポムフィオーレ寮生はみんなそれぞれ香水をつけているのかいい香りがするのだが、ルーク先輩からも甘いだけじゃないどこか刺激的な香りが漂ってくる。


「あの、先輩……体勢がきついです」
「もう少しだよ」


なにが?
頭に疑問符が浮かんだところで、ルーク先輩の肩が掴まれて後ろに勢いよく引かれた。一気に視界が明るくなる。肘掛けに背を預けたまま呆然としていると、身体を起こして座るルーク先輩の前に立っていたのはトレイ先輩だった。突然現れた先輩に、頭が混乱している。実家から戻ってきていたのか。


「どういうことだ?ルーク」
「おや、どうしたんだい?薔薇の騎士」
「今なにしてた?」
「オーララ!愛おしい子兎と戯れていただけさ。君こそ一体どうしたというんだい?」


言い合う2人を眺めながら身体を起こす。先ほどの『もう少しだよ』とは、トレイ先輩の登場のことだったのだろう。ルーク先輩は、トレイ先輩を揶揄っているのだ。よくレオナ先輩を煽って怒らせようとしているのを目にする。しかし、トレイ先輩に向かって仕掛けるのは珍しいなと思った。


……昨日、一緒に出かけていたのはお前か?」
「おや、いけなかったかな?」
……えっ!?」


ついさっきエースたちと出かけたという話をしたばかりだというのに、『自分とカフェに出かけた』という旨をトレイ先輩に伝えたルーク先輩に驚いた。急いで訂正しようとしたが、こちらをちら、と見たルーク先輩が私に向かってウインクする。一体なんなんだと不思議に思っていると、トレイ先輩が大きくため息をついた。


……ルーク、煽らなくていい。このために俺をここへ呼んだのか?……もう大丈夫だから」
「おや!それは残念だ。もう少しだけ取り乱す君を観察していたかったのだけれど」
「質が悪いぞ」
「君がそれを言うのかい?」


おかしそうに笑うルーク先輩に苦笑いを返したトレイ先輩は、今度は私に向き直る。


「話したいことがあるんだ、今からいいか?」


その穏やかな笑みを見て、私は勢いよくベンチから立ち上がってじり、と後退りする。きょとんとした先輩が、「どうした?」と一歩こちらに近づいてくる。


「先輩、月曜日って言いました!」
「言ったけど……会ったから今話したい」
「私は心の準備できてません!」
「あ、待て!」


先輩たちに背を向けて逃げ出す。別に話すのは今日でもいいのだけれど、私が伝える言葉を考えさせて欲しかった。先輩を見たらこの休みに考えていたことが全部飛んでしまった。もう一度先輩に告白して『付き合ってください』と言わなければならないし、エースとデュースが約束してくれたから『こっちに残る』ということも伝えなければならない。どう話そうかと悩んでいるうちに走るスピードが落ちていたらしく、後ろから追いかけてきていたトレイ先輩に手を掴まれる。
そのまま引き寄せられて、大きな身体に抱きしめられた。ふわりと香る甘い匂いにくらくらする。背中にくっつく体温に(あれ、抱きしめられたの初めてじゃ……)と思い出して顔に熱が集まる。


「あ、え、先輩……?」
「逃げないでくれ。頼む」


ぎゅうと再び力が入った腕をとんとんと叩いて「逃げないから、離してください……」と小さい声で抗議する。心臓がドキドキと鳴って痛い。回っていた腕がゆっくりと離されると、ちゃんと話したいからと近くの空き教室へ行くことになった。ドアを開けて誰もいないことを確認する。休日なのにどうして教室のドアの鍵が開いているのか不思議に思っていたら「午前中にサイエンス部で使ってたらしくて、ルークから鍵を預かった」と見せられる。「私用はだめなんじゃ……」と聞くと「長居しなければ大丈夫だろ」と先輩は笑った。
窓際まで移動して席に座る。トレイ先輩は私の前の席に腰掛けた。「……何から話そうか……」と先輩は独り言ちる。


「まずは大事なところから。……俺はお前のことが好きだよ。だから、もう一度付き合ってほしい」
……私から言おうと思ってたのに……もちろんです。よろしくお願いします」
「はは、いい返事がもらえてよかった」


眉を寄せた先輩が、机の上に乗せていた私の手に自分の手を重ねてぎゅっと掴む。自分の頬が熱くなるのがわかった。


……元カノさんとなにもなくて良かったです」
「あいつとは何もないんだって」
「でも、同窓会の写真……一緒に写ってたから。腕とか、組んでたし」
「あれ見たのか!?」
「エースが……見せてくれて……
「はぁ……やっぱり迂闊だったな。盛り上がっていたから断れなくて」
「先輩嫌だっただろうなって想像してました」
「まぁ、困ったなとは思ったよ」


先輩は空いた手で気まずそうに頭を抱える。少し安心して、窓の外に目をやるとグラウンドで陸上部が活動しているのが見えた。デュースいるかな。見慣れた丸い頭を探してぼーっとしていると、私の手に乗っている先輩の指がとんとんと甲をノックした。


「こら、まだ話の途中だ」
「ごめんなさい」
……話さないといけないなと思っていたんだ。キスしなかった理由」


自分の身が強張ったのが分かる。無意識に後ろへ下がろうとしてしまい、先輩が力を入れて手を掴み直した。


「聞いてほしい。……その前に一つ、謝らないといけないことがある。俺は嘘をついていた。すまない」
……元カノがいたってことですか?」
「それもだが、もう一つ。別れた理由の方だ。……本当は、遠距離が辛いってフラれたわけじゃないんだ。俺から別れようって言った」
「それは……どうしてですか?」
「あの時は……告白されて、特に断る理由もなかったから了承したんだ。好感は持っていたけど、それ以上の気持ちはなかったな。だからなのか……その、違和感があったんだ。キスしたときに」
……
「しばらくは付き合ったけど、それ以上の気持ちを持てそうになかった」
「それで別れたんですか」


なるほど。確かにあの活発そうな人が『遠距離が辛い』と縋るイメージが湧かなかったのだが、先輩の方から別れを切りだしていたのは意外だった。とはいえ、人に流されているようで実際はトレイ先輩が場をコントロールしている……そんなところは何度も目にしていた。


「私はキスする前から違和感があったんですか?」
「いや、それは違う。お前のことが好きだから付き合ってたよ」
「じゃあどうして、」
……初めは、キスしてから『違う』って思ったらどうしようかと様子を伺っていたのは認める。でも、一緒にいると、それ以上に触れたい気持ちが強くて、キスしたら……たぶん抑えるのが難しいなと……
…………っと。私は、トレイ先輩だったら……ぜんぜん……


「大丈夫です……」という声は小さく口の中で響いた。嬉しい。先輩が、私のことをすごく好きなんだと分かって、浮かれてしまう。元カノさんにも勝った気がして、次第に自信が出てくる。ちら、と先輩を見ると、ぐうと喉を鳴らしてから小さく息を吐いた。その唇につい目がいってしまう。キスしたい。


……でも、お前はいつか元の世界に帰るだろ?だから、これ以上先に進んだらダメだと思ってやめてたんだ」


「これが、キスしなかった理由だよ」と先輩が締め括る。一気にざわざわとした焦りが生まれる。先輩も、同じようなことを悩んでいたのだ。私が甘ったれて何も考えてなかった間も、先輩はずっと『いつか帰ってしまうから』と思いながら私に付き合っていてくれたのだ。申し訳なさにじわじわと涙が滲んでくる。もう大丈夫です、トレイ先輩。エースとデュースが約束してくれたから、私はこのままこっちの世界に残るんです。
でも、口をついて出たのは考えていた台詞とは全く別のものだった。


「じゃあ、どうしてまた……私と付き合う気になってくれたんですか?」


先輩に包まれたままの自分の手をぎゅうと握りなおす。先輩は、にこ、と穏やかに笑った。


「お前が元の世界へ帰ることになったら、その時俺も一緒に行く」


……は!?」
「昨日家族にも話してきたんだ」
「えっ、は!?何言ってるんですか!?」
「動揺してたけどな。『好きな女のためなら仕方ない』って納得してくれたよ」
「待って待って、ちょっと待ってください!」


ガタンと大きな音を立てて思わず立ち上がる。混乱した。選ぶ必要があるのは自分だと思っていた。どうして先輩がそんなことを言い出したのか、頭の中が一気にぐちゃぐちゃになる。


「だからもう遠慮する必要がなくなったんだ。責任取るからキスしてもいいか?」
「待ってください!家族と離れることになるんですよ!?」
「分かってるよ。だからこの休みに話してきたんだぞ?」
「私のいた世界は、魔法が使えないし」
「なんとかなるだろ」
「〜〜〜私がこっちに残りますから!!」


思わず大きな声が出た。きょとんとした先輩が今度は眉を顰める。


「家族ともう会えなくなるかもしれないんだぞ?」
「それ先輩も同じですからね」
「だから、俺が行くって言ってるんだ。お前は家族と話も出来ていないだろ?こっちはもう話はつけてある」
「エースとデュースが約束してくれたんです!!」
……は?」


訝しげな顔をする先輩に、エースとデュース、それからグリムが私に言ってくれた約束の話をする。最初はぽかんとしていたが、話を聞き終えるとトレイ先輩は「ははっ」と笑い始めた。


「あいつららしいな。贅沢だ」
「でも、私はみんなを信じてます。だから、トレイ先輩とこっちで一緒になることを決めました」
「プロポーズみたいだな」
……プロポーズです!!」


私の手の上に重なる先輩の手。その上にさらに自分の手を重ねた。じっと先輩の瞳を見つめる。綺麗なマスタードがこちらを見つめ返す。


「私にはトレイ先輩しかいないんです。だから、一生私の隣にいてください!」
……よろこんで」


力強くそう伝えると、トレイ先輩はくすぐったそうに笑った。先輩の空いていた手が伸びて、私の後頭部に触れるとそのまま引き寄せられる。

静かな教室に、ちゅっと小さな音が響いた。
少し先輩が離れて、ふっと笑う。ぶわ、と自分の顔が赤くなったのが分かる。熱い。柔らかかった。今日はリップで準備をしていなかったのに!


「なにするんですか!」
「さっき確認とっただろ」
「いいって言ってない!」
「悪いけど、もう今後はいちいち了承取らないぞ」
「ひぇ」


にやりと笑った先輩に不覚にもときめいてしまう。手を引かれたので、空いた手で赤い顔を扇ぎながら再び椅子に座る。教室でキスするなんて背徳感がすごい。


「後輩たちが覚悟を決めたんだ。先輩が何もしないわけにはいかないな。俺も探すよ、行き来できる方法」
……きっと、見つかります」
「まぁ、もし見つからなかったら俺が行くから安心してくれ」
「見つけますって!私の親友はすごいんですから」
「はは……少し妬けるな」


とろとろに溶けた蜂蜜みたいな視線を送られてくすぐったくなる。頬に伸びた手が耳をくすぐってヘアクリップに伸びる。かち、と音がしてそれが外されたのが分かった。トレイ先輩は少し不満げに指先で装飾をいじる。


「それにしても……ルークとデートしたのか?これ、その時貰ったんだろ。ルークの目の色だ」
「え?……ふふ、先輩それは自分で買ったんです。ルーク先輩の目の色じゃなくて、トレイ先輩の髪色みたいだなぁと思って」
……今言ったことは忘れてくれ」
「いやです。先輩が拗ねてくれて嬉しい」
「お前相手だと余裕がなくなるんだよ。……じゃあ、あの写真の指は誰だ?」
「あれはエースです」
……やられたな」


はぁ〜と大きく息を吐いたトレイ先輩が可愛くて愛おしくて、思わず「撫でてもいいですか?」と聞けば「それは俺の役目だからだめだな」と止められた。ずっと握られていた手が離れて、時計をちらっと確認した先輩が「そろそろ行くか」と呟く。「どこにですか?」と聞けば、ふっと笑った先輩が眼鏡を外して私の顎を片手で固定した。
(あ、またキスされる)と思った頃には顔が近づいていて、柔らかい唇が触れたと同時に開けていた隙間から舌が入り込んでくる。先ほどファーストキスを済ませたばかりの私には、少し、いやかなり刺激が強い深めのキスに驚いて身を引こうとするのだが、先輩が私の顔をしっかりと固定していて動けない。息継ぎのタイミングがわからない。熱い舌が逃げる私の小さいそれを追いかけ回し、歯の裏をなぞってぞわぞわと甘い痺れが身体をつき抜けていく。

どれくらいの時間そうしていたのか分からないが、ようやく先輩が離れてくれて、こちらは急いで酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。どきどきして、腰が砕けてしまった。涙を溜めたまま先輩を睨むと、いつのまに外したのか、その手にはネクタイが握られている。先輩は、ネクタイをしたままだ。ということは。


「いつ外したんですか私のネクタイ!」
「お前がいっぱいいっぱいになってるところ可愛いな」
「答えになってない……
「ほら行くぞ」
「だから、どこにーー」


そう聞けば、次は首元に手が伸びてボタンを一つ外される。開放感を得た首に混乱していると、先輩は「俺の部屋」と笑った。


「えっ、まっ、先輩……ええと、私たちさっき付き合い始めたばかりです」
「おいおい勘弁してくれ……俺は半年我慢してたんだぞ?もう待てるわけないだろ」
「でもほら、色々準備とか」
「必要なものは午前中、こっちに戻るときに買ってきた」


やる気満々じゃん!!
優しく手を捕まえられて、促されて仕方なく立ち上がる。いつかはそういうことするって想像してたけど、突然すぎて頭が追いつかない。
でも、繋いだ手をしっかり握って楽しそうに歩く先輩を止めることは出来なさそうだ。これから慣れていくしかないだろう。

時間はたっぷりあるのだから。






「先輩のえっち」
……期待に応えないとな」
「冗談です!!」










おしまい。