botanin5
2024-11-14 00:18:03
43462文字
Public トレ監♀(小説)
 

そんなの言わなきゃ分かりません!

ハッピーエンド
頼み込んで付き合ってもらった先輩に全然好きになってもらえなかったので諦めて目の前から消えたら全力で捕まえられた話
※監は特に設定なし



「先輩が!好きです!付き合ってください」
「おい、ちょっと落ち着け監督生」


オンボロ寮の監督生である私が今いるのは、ハーツラビュル寮の談話室だ。
そして、目の前で私によって壁に追い込まれて困惑しているのは、この寮で副寮長をしている3年生、トレイ•クローバー先輩である。
私より頭ひとつ以上も背の高い先輩を追い詰めると言うのもおかしい話だが、先輩を囲って壁に手をついて逃してなるものかと追い込んでいるのだから、表現は間違っていないだろう。いわゆる壁ドンというやつだ。手をついているのは私だが。

大胆に、勢いよく告白しているなぁと思われそうだが、大胆も大胆。先ほども申し上げたがここは談話室。もちろんこの部屋にいるのは私たち2人だけではない。
私といつも一緒にいるグリムはもちろん、ここの寮生であるエースにデュース。騒ぎを聞きつけてスマホ片手に飛び込んできたケイト先輩。先ほどから固まって紅茶をカーペットにこぼしているリドル先輩。他にも、この談話室で学生同士の仲を深め合っていたハーツラビュル寮生が何人もいる。リドル先輩、早くこぼした紅茶を拭き取らないとシミになりそうだけど大丈夫かなぁ。


「トレイ先輩のことが好きなんです」
「そ、それは分かった」
「両親から、良い男は絶対に捕まえろって教育されておりまして」
「アグレッシブな……ご両親だな……
「先輩は、今彼女いますか?」
「いや、いないが……
「それはそれは。もう一回、好きなところを言い直しましょうか?」
「充分伝わったから、やめてくれ……


頭痛がするとでも言いたげにこめかみ部分を抑える先輩は、すごく居た堪れない顔をしている。こんな大勢の前で、先ほど10分間にもわたって好きなところを語り尽くされたのだから仕方ないだろう。優しくて頼りになって、面倒見がよくて手助けもしてくれて、勉強もできて運動もできて背も高くて眼鏡が似合って短髪が爽やかで笑顔が可愛くてエトセトラエトセトラ。まだ軽く1時間くらいは語ることが出来そうだが、集まる人がだんだん増えてきたので愛の告白から交際の申し込みに切り替えた。

先輩が事なかれ主義なことは把握している。大勢の前で告白すれば、とりあえず場を収めるためにオッケーが貰えるのではないかという私の作戦だ。小賢しいと思われるかもしれないが、ずるい女にならないで好きな男が簡単に捕まるだろうか?否。恋愛は積極的に行動した者の勝ちなのだ。口を開けて待っていても白馬の王子様は降ってこない。少女漫画でも恋愛ドラマでも、ヒーローとくっつくためにまず必要なのは「印象付けて認知される」事である。

入学式からトラブル続きの監督生という立場のおかげで、私のことを知らない生徒はいない。首輪をはめたエースがオンボロ寮へ泊まりに来た時は、とんでもないことに巻き込むな!と思ったりもしたが、結果としてトレイ先輩に出会い後輩として仲良くなることができたのだから、情けは人のためならずとはこの事かと深く頷いたものだ。弁明しておくが、決してエーデュースを利用した訳ではない。好きになったのは出会ってからなのだから。


閑話休題、私は今日たまたまハーツラビュル寮にやってきていた。この状態で言うのもなんだが、今日トレイ先輩に告白する予定は全くなかった。私とグリムはエーデュースと共に談話室で勉強していただけなのだ。そこへリドル先輩がやってきてデュースのノートを覗き込んだ瞬間、眉間にシワがガッと寄った。リドル先輩直々の、勉強会の始まりである。

地獄の勉強会が1時間ほど経過したところで、苦笑いしたトレイ先輩が「少し休憩したらどうだ?」と紅茶とケーキを運んできてくれた。神の降臨だ。談話室にいる他の生徒に今日のおやつを配った後、私たちのところにも来てくれたらしい。トレイ先輩が「根を詰めすぎても頭に入らないぞ。ほら、甘いものでも食べて脳を休憩させよう」と言えば、アップルケーキに誘われたリドル先輩も「仕方がないね」とソファに座り直した。

みんなでケーキをいただきながら談笑していると、「そういえば……」とエースが衝撃的な話題を口にする。


「リドル寮長、お見合い断ったんすか?」


え?と固まったのは私とグリムだけだった。あぁ、と事もなげに紅茶を置いたリドル先輩は「以前の僕ならお母様の言う通りにして、婚約を結んでいたかもしれないけれど……自分の伴侶は自分で見つけたいという意志を伝えたんだ。まだ……保留にすると言われたけれどね」と答えた。リドル先輩がお母様との対話を試みようとしている事に感動しつつ、もっと大きな衝撃を与えたのは「お見合い」という文化だった。この世界にもあるなんて。たしかリドル先輩の出身国は薔薇の王国で、トレイ先輩と同じである。ひやっとした私はみんなが会話の途中であるにも関わらず大きな声をあげてしまった。


「トレイ先輩もお見合いしましたか!?」


私の勢いに驚いたらしく、みんな言葉を飲み込むまで少し時間を要していた。急に名前を呼ばれた先輩も、驚いた後「……は?」と呟いた。いやいや、「は?」じゃないんですよ先輩。私にとっては重要な情報なんですから!新しい紅茶を入れようと腰を上げた姿のまま固まっているトレイ先輩にぐいっと一歩近くと、先輩は気圧されてそっと一歩後ろにさがる。


「トレイ先輩も薔薇の王国の出身ですよね?その国ってお見合いの文化あるんですか?先輩はもうお見合いしましたか?まさか、すでに婚約者がいたりしますか!?」
「お、落ち着け監督生、急にどうしたんだ?」


私が一歩近づけば、先輩が一歩後ろに下がる。


「答えてくださいトレイ先輩」
「え〜なんだよ監督生、お前、トレイ先輩のこと好きなの?」
「うん、そう。大好きなの。だから教えてください先輩、婚約者いるんですか!?」
「え、マジで好きなの?」


後ろから聞こえてきた揶揄うようなエースの声に全力で返事をすると、談話室が一気にざわつく。トレイ先輩は、ぐいぐい近寄る私を見つつ時折周りをちら、と確認しては「落ち着け、」と冷や汗を流している。ついに先輩の背中がとん、と壁についた。トレイ先輩の視線が一瞬背後に気を取られた隙に、両手をどん!と壁について先輩が逃げないように囲い込む。驚いた様子のトレイ先輩は、私を見下ろして固まってしまった。


「婚約者、いるんですか」
「い、いない」
「そうですか……


先輩の答えを聞いて、ほっと肩の力が抜ける。しかし、これで自分の気持ちがはっきりした。私は、こんなに取り乱してしまうほどトレイ先輩のことが好きなのだ。
誰かに取られたくないという気持ちが真夏の入道雲のようにむくむくと起き上がってきてしまったので、もう一度トレイ先輩の目を見つめる。


そして、そこから私の愛の告白が始まったのだ。





「いい加減トレイ先輩のこと放してやったら?監督生」
「そうそう、こんな場所で公開告白は流石にかわいそうだよ監督生ちゃん」


なかなか返事をくれないトレイ先輩との睨み合い(睨んでいるのは私だけ)が、一向に終わらないことに痺れを切らしたらしい野次馬たちから声がかかる。でも、今ここでトレイ先輩に時間を与えてしまったら、いい返事は絶対にもらえない。だって、先輩は私のことをただの後輩としか見ていないのだから。意識したのだって、せいぜい私が告白し始めた今この時からだろう。逃すわけにはいかないのだ。


「いやです。先輩付き合ってください」
……とりあえず場所を変えないか?」


宥めるように頭を撫でられてしまうと心が揺らぎそうだ。そんな風に優しくするから私がつけ上がるんだと分かっているのだろうか?じりじりとした焦燥感に思考を巡らせていると、壁に手をついている腕を下からぐっと掴まれた。トレイ先輩は、そのまま私の腕を持ち上げると「俺の部屋で話をつけよう」と言って腕を掴み直し談話室から私を連れ出した。再びざわつきを取り戻した談話室の喧騒を後にして、静かな廊下を通り過ぎていく。トレイ先輩の手が私の腕を掴んでいる温かさに、自分の体温がどんどん上がっていくのが分かった。先輩は何も言わない。そして、先ほどの宣言通り先輩の部屋へ向かうのかと思っていたら、寮のキッチンに招き入れられた。


「ここ、先輩の部屋じゃないですよ」
「知ってるよ。あの様子じゃ、魔法を使って聞き耳を立てる奴がわんさか出てくるだろうからな。……で、どういうつもりだ?」
「どういうつもりって……先輩の事が好きなだけです」
……本気なのか?」
「本気ですよ。嘘で告白なんて、そんな悪ガキの悪戯みたいな事しません。本当に、心の底からトレイ先輩の事が好きです」


真っ直ぐな私の視線を浴びて、先輩はようやく告白を信じてくれたらしい。顔を赤らめるでもなく、少しも表情が変わらないのは想定していた事ではあった。トレイ先輩の事が好きかもしれないと思い始めてから、何度も何度も告白をシミュレーションしてきたのだ。しかし、今の仲で浮かぶ反応は困った笑顔ばかりで、この告白もしれっと断られるのだろうと覚悟していた。


「お前、自分が異世界から来たこと忘れてるのか?」
「忘れてません」
「元の世界に家族や友達もいるだろう?」
「いますけど、それはこっちでも同じです。グリムは家族だし、エースやデュースは友達です。……そもそも帰れるのかも分かりませんし。家族や友達については、いつか会える方法を探し続けます。やってみてもないのに、トレイ先輩のことを諦めたくありません」
……どうしてそんなに」


それは先ほど時間をかけて談話室で伝えた筈だ。考え込む仕草を見せるトレイ先輩に焦りが生まれる。この流れでは確実に断られてしまうだろう。フラれても簡単に諦める気はないが、トレイ先輩に他の女の子からアプローチが来たりして、その子に気持ちが傾いたりしたらと思うとゾッとする。とりあえずでもいいから、『彼女』の地位を手に入れたい。


「先輩に、好きな人ができるまででいいです。それか、私がどうしても元の世界に帰らなきゃいけなくなったら、その時まででいいです。だから、だから彼女にしてもらえませんか」
…………
「もしかして、今もう好きな人がいるんですか?」
「いや……
「副寮長の仕事は邪魔しません。先輩がいいよって言った時しか近寄りません。キスもハグもデートも無くていいから、私を彼女にしてください」
……お前、それでいいのか?」


呆れたような顔をする先輩を見て、だんだん泣きたくなってきた。私が言い出した条件では、『彼女』になってもなんの旨味もないことは分かっている。本音を言えば、トレイ先輩とイチャイチャしたいし、デートしたいし、キスもハグもその先だってしたい。何度も何度も妄想したのだ。でも、そんなご褒美がなくてもいいから、今この瞬間、私の気持ちを拾ってほしかった。


「だって、だって、先輩の事が好きなんです。ここでフラれても、毎日告白しに行きます。廊下でも、教室でも、グラウンドでも、先輩を見つけたら絶対に駆け寄って告白してやる!」
……どういう脅しだ、それ……


はぁ、と再びこめかみを抑えた先輩を、涙を堪えた瞳で見上げる。涙は女の武器と聞いた事があるが、トレイ先輩にどこまで通用するか分からない。それに、少し悔しいから泣きたくない。先輩は少し考え込んだ後、私を見て小さくため息をついた。こちらが折れる気がないことは充分に伝わったことだろう。


……分かったよ」
…………え?……今の幻聴?」
「幻聴でも妄想でもないぞ。分かった。お前が飽きるまでは付き合うよ」
「私は飽きません!……え、本当にいいんですか?」
「『いい』って言うまで俺のところに来るんだろう?」
「え、じゃあ私、トレイ先輩の彼女ですか!?」
「はいはい、そうだな」
「や、やったーーー!」


万歳と両手を上げる私を見てトレイ先輩が「子どもか、」と言って吹き出す。こんな風に、楽しそうに笑うところを見るのはマロンタルト以来かもしれない。
それにしても、嬉しい。本当に嬉しい!かなりごり押ししてしまったし、ものすごく迷惑な事をした自覚もあるが、とりあえず『彼女』の地位を手に入れた。トレイ先輩に一番近い場所だ。これからどうにかアプローチして、少しでも先輩に意識してもらえるよう頑張らなくては。


「マジカメのチャットは送っていいですか?」
「いいよ、好きな時に送ってくれ。俺はあまり返信がマメな方ではないけどな」
「え!?いつ送ってもいいんですか?そんなこと言ったら、私、毎日送りますよ!?」
「はは、毎日か……まあいいさ。流石に、『彼女』にそんな冷たくしないよ」
「う、嬉しいですせんぱい……!あっ、もう一回お願いします。録音したい」
「そんなに心配しなくても撤回しないさ」


私が録音したかったのは私を『彼女』と表現してくれた言葉だったのだが、先輩は違う捉え方をしたらしい。録音は諦めて、「これからよろしくお願いします」と言えば、「よろしく」と優しく頭を撫でられた。こんなとんでもない告白という名の脅しをした私に触ってくれるなんて、先輩は本当に仏なのではないだろうか。温かい手のひらを大切に噛みしめる。


かくして私は、無事……ではないが、とにかく『トレイ・クローバーの彼女』という地位を手に入れることに成功したのだ。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎








「おはようございます、トレイ先輩!」
「おはよう、監督生」


各寮に繋がる鏡舎の前で待ち合わせて学校へ行くことにも慣れてきた。トレイ先輩の『仮の彼女』になって、そろそろ2週間が経つ。
あの告白の後、エーデュースに根掘り葉掘り聞かれて結果を答えると、2人は「……マジ?」「本当か!?」と目を丸くしていた。どうやら、1-Aのみんなで私の告白がどうなるか賭けをしていたらしい。人で遊ぶなんて失礼だなぁと思ったが、唯一デュースだけが『成功する』に賭けていたと聞いてわしわし頭を撫でてやった。冷静に「やめてくれ」と言われて悲しくなったが、「これからしばらく昼飯がタダだ」と一人勝ちに喜ぶデュースを見て微笑ましい気持ちになった。エースは少し不機嫌になってしまって、「私にもおごってよ」と言うと「やーだね」と頬を摘まれた。

トレイ先輩との交際は順調で、可もなく不可もない。
少しでも先輩の気を引きたくて、朝起きたら一番に「おはようございますトレイ先輩、好きです」とメッセージを送っているし、眠る前には毎日「おやすみなさいトレイ先輩、好きです」と送っている。先輩からは『ありがとう』と返信が来る毎日だ。こんなに送られたら鬱陶しいであろうメッセージすら既読無視しないなんて、本当にトレイ先輩は優しい。でも、それ以上もそれ以下もない。まだまだ私のアピールは先輩の気持ちを動かすに至っていない。もっと頑張らなくては。


「トレイ先輩今日もかっこいいです」
「ははは、ありがとな」
「ちゃんと聞いてください!本気で口説いてるんですから」
「毎日言われたら流石に慣れるさ」


「もっと語彙力をつけることだな」なんて先輩はニヤリと笑う。口角を上にきゅっと上げて意地悪な顔を作る先輩は素敵だ。「その顔も好きです」と反射的に言うと、「はいはい」と軽く流されてしまう。本当に好きなのに。
トレイ先輩の今日の予定を聞き出し、一緒にいても大丈夫な時間帯を確認する。どんどんアプローチしていきたいが、学生の本分である勉強を邪魔してはいけないし、先輩は副寮長の仕事だってあるのだ。ただでさえ私の気持ちを押し付けられていて大変なのだから、弁えるべきところは押さえておきたかった。


「今日は放課後にトレイン先生に頼まれたタルトを作る予定なんだが、手伝ってくれないか?洗い物を頼みたいんだ」
「行きます行きます!なんでもやります」
「はは、ありがたいよ」


今日のメインの予定が決まった。洗い物要員だが、トレイ先輩がお菓子作りをしているところが一番近くで見られる貴重な時間だ。一緒にいられる時間が増えるなら、雑用でもなんでもやりたい。詳しく聞いてみれば、トレイン先生がどこかの学校の先生をお招きしていて、そのお茶請けにタルトをと頼まれたのだそうだ。トレイ先輩のケーキやタルトは先生からも評価されているということか。本当に尊敬する。トレイン先生が何度も先輩にタルトを依頼してくれれば、私も何度もお手伝いに呼んでもらえるかもしれない。今日の魔法史はいつもの倍頑張ろう!なんて気合いをたっぷり入れた。








放課後にキッチンの隅に荷物を置かせてもらい、タルト作りのお手伝いをする。と言っても、朝聞いていた通り洗い物しか手伝えることがなく、私はトレイ先輩が使い終わった調理道具をひたすら洗って片付けていた。今日のレシピは手際良く一人でさくさく作った方が楽なのだそうだ。


「いった!」
「ん?どうした?」


よく確認せずに手を突っ込んで洗い物をしていたせいで、何かの端に当たって指先を少し切ってしまった。案外傷が深いようで、左手の中指の先はぱっくり切れて血を流し始める。(……切っちゃったな)と頭の隅で冷静に考えながら水に血を流していると、後ろからトレイ先輩が覗き込んできてびくっと肩を揺らしてしまう。急に近くに来るのは心臓に悪いからやめてほしい。背後のトレイ先輩の気配を急に意識してしまい、耳が熱くなっていく。


「切ったのか?」
「あ、はい。少しだから大丈夫です」
「血が止まっていないじゃないか。絆創膏を出すよ。たしか、あの棚にーー」


テキパキと救急箱を取り出したトレイ先輩は、私の手を取って指先にそっと絆創膏を巻く。真剣な表情にドキドキして、取られた指先は熱い。不意に先輩が「……お前の手、小さいな」と呟いた。妹の手みたいだ、なんて笑う。“妹”と表現されたのが少し悔しくて、先輩の手を取って自分の手を当てて大きさを比べる。私の指先は、トレイ先輩の指の第一関節の下にあった。先輩の手は、本当に大きい。


「たしかに先輩よりは小さいですけど、流石に妹さんよりは大きいんじゃないですかね」
「そうか?」
「わ、私は一応ですけど先輩の彼女ですからね!?」
「はは、それならこうか?」
「うひゃ!」


合わせていた手の指を、私の指の間に差し込んでくいっと曲げた先輩がギュッとそのまま握り込む。これは、恋人つなぎじゃないですか、先輩!まだ手を普通に繋いだことすらなかったのに、初めてがこんな濃密なつなぎ方になるなんて心臓が破裂してしまう。トレイ先輩と手を繋げた喜びと緊張とときめきに、自分の顔が真っ赤に染まったのがわかる。耳が熱い。今先輩の顔を見たら死んでしまうに違いない。視線を先輩のネクタイに集中させてじっとしていると、先輩の手がゆっくり離れた。
反射的に顔を上げると、先輩は戸惑ったような表情をしていた。


「悪い、軽率だった」


そう言って、一瞬浮いて逡巡した手は引っ込められて、「もう手伝いはいいから、そこで休んでてくれ」と先輩は私に触れることなくお菓子作りの作業に戻っていった。たぶん、いつもみたいに頭をぽんと撫でようか迷って止めたのだろう。膨らんでいた嬉しい気持ちが、しおしおと萎んでいく。先ほどとは違う意味で心臓が締めつけられる。ギリギリと痛い。トレイ先輩は私がここまでの反応を示すと思っていなかったのだ。

今ようやく、本当の意味で私の「好き」という気持ちが伝わって、先輩はそれに困ってしまった。

胃に重たいものが溜まっていく。トレイ先輩を振り向かせることなんて、出来るのだろうか。私の反応は、拒否されなかったが、受け入れもされなかった。息が苦しい。しかし、これは自分が選んだことであり、先輩はもっと困っているのだ。わがままは言えない。

タルトを作る音だけが静かなキッチンに響く。洗い物の続きをしたかったが、指先はじくじくと痛み絆創膏には血が滲んでいる。バイ菌が入ったらいけないし、きっと洗い物を再開したらトレイ先輩に咎められてしまうだろう。何もできなくて、気持ちだけが沈んでいく。
少ししてタルトが完成し、先輩は先生に渡すためにタルトを箱に入れて『トレイン先生用』とメモを書き始めた。以前、どこかの誰かさんがタルトを盗み食いしてから、絶対に手をつけられたら困るものにはメモを貼るようにしたそうだ。意を決して立ち上がり、トレイ先輩の視界に入る位置まで移動して「あの、私そろそろ帰りますね!」と、笑顔を作って極力明るく声をかける。本音を言えばまだ先輩と一緒にいたいが、今は早くここから立ち去った方がいいだろう。トレイ先輩は、こちらを見て小さく笑うと「手伝ってくれてありがとな。そうだ、これ持っていってくれ」と残ったタルトのピースが入った箱をくれた。トレイン先生の依頼はホールではなかったらしい。


「いいんですか?」
「いいよ。2つ入ってるから、グリムと一緒に食べてくれ。紅茶もつけようか?」
「前にもらった茶葉がまだ残ってるから大丈夫です。ありがとうございます!」


受け取った箱を大事に大事に抱える。たぶんこれは、トレイ先輩が気まずさを引きずらないよう渡してくれたのだろうと分かった。まだ、そばにいても良いんだ。
オンボロ寮に戻ってグリムにタルトを渡せば飛び上がって喜びを表現する。グリムの食レポが結構好きな私は、これは楽しくなりそうだと心躍らせる。トレイ先輩に『グリムが大喜びしてます。タルト美味しかったです』と写真を付けてメッセージを送れば、『それはよかった』と返信が来た。

今日、本当の意味でトレイ先輩に私の気持ちが伝わった。辛い反応だったが、ある意味スタート地点に立てたと感じた。私の反応を見て、後悔したトレイ先輩が「やっぱり別れよう」と言うところまで妄想が進んでいたのだ。そうならなくて本当に良かった。私はまだ、『好き』を伝えることを許されている。

「これから頑張るぞ」と呟いて、明日のトレイ先輩に想いを馳せながら眠りについた。






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トレイ先輩の『仮の彼女』になって1ヶ月が経った。先輩は本当に優しくて律儀だと思う。
驚いたことに、先輩は空いている日に「どこか行くか?」と提案し、私とデートしてくれたのだ。しかも、なんと、この1ヶ月の間に2回もである。本当に、本当にすごい事だと思った。好きでもない私のために、2日も時間をくれるなんて思わなかった。
手を繋がない最初のデートは遊園地に行った。デートといえば遊園地という浅はかな知識しかない私の提案を、「久しぶりに行くなぁ」なんて受け入れてくれた先輩の事がさらに好きになった。2回目のデートは動物園だ。どんな魔獣がいるんだろうとドキドキしていたが、私でも知っている普通の動物しかいなかった。魔獣は魔法士と契約される生き物で、動物園で放し飼いするものではないらしい。

トレイ先輩の部屋は何度も遊びに行った。やることは主に勉強だ。2人きりの時間に毎回期待に胸を膨らませて部屋を訪れるのだが、恋人らしいことは何もない。あの、キッチンでのトレイ先輩の反応から、図々しい告白をしたはずの私は『頑張らなくては』と同時に『拒否されたらどうしよう』という気持ちに挟まれ続けていた。あれから先輩は、頭は再び撫でてくれるようになっていた。もう二度と触れられなかったらどうしようなんて思っていたのでほっとした。
振り向いて欲しいけれど、何か仕掛けてフラれたら悲しい。結局、何もできないままただトレイ先輩と過ごすだけの時間が過ぎていく。でも、先輩と過ごせる毎日が本当に楽しくて、キスもハグもないままだったが、私は『これでいいや』と思い始めていた。




「まだ勉強していくのか?」
「はい。月曜の魔法史までに調べていかなきゃいけないことがあって。トレイ先輩はもう終わったんですね……どうぞ、気にせず先に帰ってください」
「分かった。あまり無理はするなよ?」
「ありがとうございます」


今日は金曜日。先に寮へ戻ったグリムに呆れながら、放課後に図書館でトレイ先輩と一緒に勉強していた。参考文献が必要な課題があり、図書館に向かっている途中で偶然会ったのだ。トレイ先輩は今日サイエンス部で実験をしていたらしいのだが、身体の温度を調節できる魔法薬の調合が上手くいかなかったそうで参考になりそうな本を探しに向かっていた。前からの約束ではなかったので一緒の机に座っても平気か不安があり、図書館に着くまで冷や冷やしながらトレイ先輩の隣を歩いた。しかし、先輩は当然のように私を隣に誘導してくれて、トレイ先輩の日常に自分が馴染みはじめていると感じて胸がじわじわと熱くなり、楽しい気分で課題に取りかかることができていた。


先に課題を終えたトレイ先輩が立ち去ってから、ふうと息をつく。
隣に先輩がいなくなったことで一気に集中力がなくなり、パラパラと適当に参考文献をめくる。月曜日の魔法史で扱う範囲の予習の途中だが、少しくらい休憩しても許されるだろう。特に何を考えるでもなくぼーっと紙がめくれるのを眺めていた私の目を引いたのは、様々な魔法道具の絵や写真が載っているページだった。授業で学んだが、魔法道具は使用者が魔力を込めて使うことで力を発揮するものと、その道具自体に魔力が宿っているものがあるそうだ。前者は魔道士によって使われることがほとんどで、後者は私のような魔力のない一般人でも扱うことが出来るらしい。

日常で使う道具から武器まで、魔法道具にも色々種類があって面白い。自分にも魔力があれば、この学校で引け目を感じずに過ごすことが出来たのだろうか……なんて、無い物ねだりをする。ぼんやりと考えごとをしながらページをめくると、次に掲載されていたのは恋愛や恋、結婚の際に用いられる道具だった。思わず真剣に読み込んでしまう。相手を虜にするリップや、ゴーストマリッジでサムさんが出してくれた指輪、それから熱砂の国に伝わる告白が絶対に成功する人形など、種類は豊富だ。やはり人間には恋愛がつきもので、それに関する道具はたくさん存在しているようだ。


「おっ!監督生、それ誰かに使いたいのか?」
「うわっ!?」


不意に後ろから明るく声をかけられてびくっと大袈裟に身体を揺らしてしまう。驚いて視線を横へ巡らせると、後ろから本を覗き込んできたのはカリム先輩だった。「ここは図書館ですよ先輩、ボリューム落としてください」と小声で伝えると、「悪い悪い、またジャミルに怒られちまうな〜」としゅんとしながら私の隣に座る。


「で、監督生はどれを使いたいんだ?熱砂の国に関するものなら、もしかしたらスカラビアの宝物庫にあるかもしれない。勝手に使ったらジャミルに怒られるけどな!」
「別に使いたい訳じゃ……え、あるんですか?」
「おう!この辺りに載ってるやつはたぶんあるぜ」
「えーすごいです……。さすが……豪商の息子……


ここからここ!と指すカリム先輩の指先を目で追う。授業で扱うような歴史的な品物が手元にあるなんて、本当にすごい。「先生が知ったら借りに来るんじゃないですか?」と聞けば「たまにトレイン先生が来るぜ。授業の資料で使いたいって言ってさ」と言う。そういえば、何度か歴史に出てくる魔法道具だと言って授業中に見せられたものがあったが、あの中のいくつかはカリム先輩のものだったのかもしれない。


「まぁほとんどレプリカだけどな!でも、レプリカでも本当に使えるやつも結構あるんだ、魔法の絨毯みたいにさ。監督生も使いたくなったら言ってくれよな!」
「あはは、ありがとうございます。その時は声かけますね」
「おう!」


楽しそうに話すカリム先輩を見ていると、こちらも楽しくなってくるから不思議だ。それからこれは〜と話し始めるカリム先輩にうんうんと頷いて反応を返していると、後ろから「こーら、課題は終わったのか?」と声がかかって、頭の天辺をコツンと小突かれた。振り向くと、苦笑いしたトレイ先輩が立っている。


「え、先輩。寮に帰ったんじゃ……
「一度帰ったよ。でも、お前に分けようと思ってたマフィンをそのまま持って帰ってきてしまったことに気づいたから、まだ居るかなと思って戻ってきたんだ」
「えー!わざわざすみません、ありがとうございます!」
「お前とグリムの分のつもりで、今2個しかないんだが……
「あ、オレの分なら気にしないでくれ!ジャミルの作ったものしか食べないんだ」
「あぁ、そういえばそうだったな」


「カリムも大変だなぁ」なんて笑いながら、トレイ先輩は小さな紙袋に入ったマフィンを私の手にちょこんと乗せた。わざわざ寮から戻ってきて届けてくれるなんて、すごく嬉しい。少しづつでも、トレイ先輩の懐に近づけているということだろうか。
ジャミル先輩が迎えに来て、カリム先輩は嵐のように立ち去っていった。カリム先輩はいつ話しかけても明るく元気で、こちらも楽しくなる素敵な存在だ。まだ残ってくれているトレイ先輩に改めて「課題、終わったのか?」と聞かれる。まだ終わっていないが、もう一度ここで集中することも難しそうだったので、必要そうなページだけ印刷コーナーでコピーして持ち帰ることにした。「借りないのか?」と聞いてきたトレイ先輩に、「みんな同じテーマを予習しているんです。借りていったら土日に課題をやりたい人が困るかもしれないので」と言えば「なるほどな」と頭をぽんと撫でられた。褒められたようで嬉しい。



トレイ先輩と雑談をしながら帰路につく。七つの寮へ繋がる鏡舎の方がオンボロ寮より近いので、お別れが早くて少し寂しい。約束していない限り土日に会うことはないし、金曜日はいつも寂しい。しかし、それもいつものことか、とトレイ先輩に「また月曜日に」と言えば、先輩は「寮まで送ろうか」と言い出した。言葉の意味が一瞬理解できなくて、固まってしまう。


「え?今の幻聴ですか?」
「ははは、幻聴じゃないよ。もう結構暗いし、オンボロ寮までお送りしますよ、お嬢さん?」
「ゔっ!先輩……今の好きです、もう一回、もう一回言ってください……録音するから……!」
「ほらほら、行くぞ」
「うあーー先輩もう一回〜〜!」


スマホを取り出そうとしたのに、ぐいぐいと背中を押されてしまい歩みを進めるしかなくなってしまう。トレイ先輩に『お嬢さん』って言われた。好き。心臓がぎゅうと握りしめられたようだ。トレイ先輩に捕まりっぱなしである。「本当に騎士みたいでした!」と言うと「……ルークみたいなことを言うのはやめてくれ……」と少し照れてしまった先輩が見れた。
これはどうしたことか、もしかして幸運を全て使い切ったのでは?これ夢だったりする?トレイ先輩が、マフィンを届けにわざわざ戻って来てくれて、「お嬢さん」と呼んでくれて、寮まで送ってくれている。喜びで思わずスキップしてしまいそうだ。ふわふわとした気分で楽しい。

寮の前にある門まで来たところで、先輩は「じゃあな、夜更かしするなよ?」と言ってハーツラビュル寮へと戻ろうとする。もう少しだけ、もう少しだけお話しできたりしないだろうか。トレイ先輩を引き止める話題が何も思いつかない。あぁ、先輩が行ってしまう!考えがまとまる前に、身体が先に動いてしまった。「待ってください!」とトレイ先輩の手を掴む。「ん?」と優しく振り向いた先輩と目があって、じわじわと自分の顔が熱くなる。あぁすごく熱い、握っている先輩の手も、かなり熱い。

……ん?先輩の手が熱い?


「トレイ先輩、熱ありませんか!?」
……ない」
「いや、この手の熱さ普通じゃないですよ!ちょっと屈んでください、おでこ出して」
「大丈夫だって」
「いいから屈んで!!」


腕をぐいっと引っ張るとトレイ先輩は諦めたように少し屈んでこちらにおでこを向ける。ぴと、と手を当てれば、体温計で計らなくても熱があると分かるくらいには熱い。続けて首にも触れれば、これまた熱い。私の手が冷たかったのかトレイ先輩は「ん、」と少し目を閉じる。その色っぽさに心臓が沸き立ったが、今はそれどころではない。どうしてこんなに熱があるのに平然としていたんだ!?


「いつから辛かったんですか!?とりあえず、今はオンボロ寮に行きましょう、近いので」
……大丈夫だよ、帰れるから」
「ダメです!途中で倒れたらどうするんですか!ケイト先輩に連絡入れるので、迎えに来てもらいましょう。今は横になった方がいいです!早く!」
「わかったわかった」


熱を自覚したからか、少しずつ呂律が怪しくなっていく先輩に不安になって、倒れても身体を支えられるよう寄り添ってオンボロ寮の入り口へ向かう。「たぶん、部活のせいだから……」とぽつりと溢した先輩に、そういえば今日はサイエンス部の実験で体温調節の魔法薬に関する実験をしていたと話していたことを思い出した。魔法薬が後から効いてきて、熱が上がってきてしまっているということだろうか。


オンボロ寮の談話室までトレイ先輩を引っ張って、ソファに寝かせる。本当はベッドで横になってもらいたいが、身体の大きな先輩を抱えて2階へ上がることは私にはできない。心の底から魔法が使えないことをもどかしく思った。魔法があれば、簡単に先輩をベッドへ運べたかもしれないし、熱も下げてあげられたかもしれないのに。急いでケイト先輩に連絡を入れ、氷水を桶に入れて冷たいタオルを作る。いったん購買へ走って、サムさんに解熱剤が無いか聞いた方がいいだろうか。でも、こんなに苦しそうなトレイ先輩を一人にするのは不安すぎる。無理にでもハーツラビュル寮へ帰ろうとしてしまうかもしれない。

冷やしたタオルでおでこや首回りを拭うと、先輩は「は、」と息を吐く。大丈夫ではないだろうと分かっていながらも、他に言葉が浮かばなくて「大丈夫ですか?」と声をかける。トレイ先輩は「……うん」としか言わない。これは、かなり苦しいのかもしれない。
「ちょっとシャツを開けますね」と一応前置きして、制服のジャケットを脱がせてシャツのボタンを少し開ける。汗だくで、熱のせいで肌が少し赤らんでいる先輩の色気に当てられて、グッと息を呑んでしまう。今は、それどころじゃないでしょ!と自分に厳しく言い聞かせて、鎖骨辺りまでを冷たいタオルで拭き取る。

病気の熱とは違って魔法薬で強制的に熱を上げている状態なのだろうが、このまま熱が上がり切って先輩が溶けちゃったらどうしよう。早く、熱を下げないといけない。引っ張り出してきた体温計で熱を計れば、なんと40℃を超えている。こんなのインフルエンザじゃないか!これ以上熱が上がったら先輩が死んでしまうとパニックになった私は無理やり先輩を背負ってバスルームへ向かった。階段を上がるのは無理だが、横移動ならできると判断したのだ。力のない先輩の身体はおそらく起きている時より重い。ぐぅ、と潰れそうになりながらも、火事場の馬鹿力!と念じてバスルームに転がり込み、「先輩服が濡れるけど許してください!」と言って冷たいシャワーを上からかけた。上に引っ掛けたままのシャワー口から降ってくる水に、私も制服のままびしゃびしゃに濡れていく。

ふと、そういえばスマホがあったらまずいと気がついて先輩のズボンのポケットを探る。見当たらなかったので、おそらく先ほど脱がせたジャケットのポケットに入っているのだろうとホッとする。そこで、自分のスマホは羽織っているジャケットに入れたままだと気がついて、急いでポケットから取り出す。少し水をかぶっていたが、防水魔法がかけられいるようで無事だった。一安心して脱衣所の方へスマホを放る。

しばらく観察していたが、浴槽にもたれて座り冷たい水をかぶった先輩は、先ほどより心なしか呼吸が落ち着いてきている気がする。シャワーを流したままにして、ケイト先輩から返信がないか確認するために這って脱衣所へ向かおうとしたら、熱い手にぎゅと腕を掴まれた。


「トレイ先輩?」


どうかしたのだろうか。先輩の顔を覗き込もうと近寄ると、掴まれた腕を引っ張られてゆるゆると抱きしめられる。驚いて「え!?先輩!?」と大きな声を出してしまう。トレイ先輩は小さく「寒い……」と呟いた。しかし、私を抱きしめる身体はすごく熱いままだ。魔法薬がおかしな作用をもたらしているのかもしれない。どうしたらいいか分からなくて、シャワーを止めるべきか迷ってコックを掴もうとするがトレイ先輩に抱えられた身体では上手く腕を伸ばせない。顔に当たる水は冷たいのに、先輩と私の間を流れていく水は体温に温められてぬるくなっている。シャワーを止めることは諦めて先輩の胸に頭を預けることにした。トレイ先輩の体温は依然として熱いがさっき体温計で計った時より下がっているようだし、呼吸も落ち着いている。水に当たるのが寒かったようだが、私を抱きしめてから先輩は何も言わなくなった。体感温度が丁度良くなったのかもしれない。とくんとくんと規則正しく鳴る先輩の心音を聞きながらじっと目を閉じる。

思いがけず先輩に抱きしめてもらえて、不謹慎ながら少しラッキーだなと思った。苦しんでいる先輩を前にして実際には口が裂けても言えないが、今の関係では一生抱きしめてもらえる機会なんてこないところだった。うれしい。

この機会にどうせなら、なんて思ってトレイ先輩の身体を抱きしめ返そうとしたところで、廊下をバタバタを駆けてくる足音が聞こえてきた。ぱちっと目を開けた瞬間に脱衣所のドアがガチャッと開けられる。


……えーっと、大丈夫?」
「だ!大丈夫です!ありがとうございます、ケイト先輩!!」


ばっと勢いよくトレイ先輩から離れる。先ほど連絡を入れたケイト先輩が迎えに来てくれたらしい。ケイト先輩の足元からグリムが顔を覗かせて「オレ様が連れてきたんだゾ!」と誇らしそうにしている。さっきまで見かけなかったからおそらく二階で寝ていたのだろうグリムが、事態に気がついて玄関まで来ていたケイト先輩を中に入れてくれたらしい。


「これ、監督生ちゃんから連絡もらってから、先にクルーウェル先生のところへ行って事情を話してもらってきたよ。この魔法薬で体温は元に戻るだろうって」
「よ、よかった……!ありがとうございます!!」


ケイト先輩が裸足で風呂場に入ってきてくれたので、急いでシャワーを止める。「トレイくん飲める?」とケイト先輩が魔法薬が入った瓶を渡すと、トレイ先輩はゆったりとした動作で受け取って中身を飲み干した。すぐ効果が現れてきたようで、次第に覚醒してきたトレイ先輩が「……ケイト?」と声をかける。良かった。ほっとして肩の力が抜ける。まだ少し身体がだるそうだが、手で顔を覆う先輩はいつも通りの雰囲気に戻ってきている。


「あー……、悪い。こんなに影響が出るとは思わなかった」
「意識がハッキリしたなら良かった〜寮に戻れそう?もう少しここで休ませてもらう?」
……いや、帰るよ。……悪かったな監督生。驚いただろ」
「あ、いえ、大丈夫です。トレイ先輩が元気になったのなら、よかったです」


「うわ、べたべたで冷たい〜」と笑うケイト先輩に少し支えられながらトレイ先輩は身体を起こしてバスルームを出る。「仕方ないな〜」とケイト先輩がマジカルペンを振ると、先ほどまでべたべただった先輩たちの服がぱりっと乾いていく。魔法は本当に、なんでもアリだなぁと思う。私だって、使えれば、トレイ先輩をすぐに助けられたのに。


「あ、監督生ちゃんの制服も乾かすよ、こっちおいで?」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です!もうこのまま洗濯しちゃうので」
「そう?じゃあオレたちもう行くね。リドルくんに見つからないようにしなきゃ」


先輩たちの見送りはグリムに任せて、濡れたままのバスルームでふーと息をついて座り込む。今日はなんだか色んなことがあって、頭の中がぐちゃぐちゃだ。ぎゅっと自分の膝を抱えて顔を埋める。トレイ先輩の体温を忘れたくなくて、もっと強く腕をしめる。胸が苦しい。魔法で簡単にトレイ先輩を助けたケイト先輩に、少し嫉妬していた。無い物ねだりをしても仕方がないのに。
トレイ先輩に近づこうとすればするほど、先輩が遠ざかる気がする。仲良くなれてきているけれど、その分違いを目の当たりにする。この世界は魔力のない人間と魔力を持つ人間が共生していると聞いてはいるが、私は他の“普通の人間”にまだ出会ったことがない。魔力をもたない人間が、魔力を持つ人に対等に相手をしてもらえるのかどうか、“常識”ではどうなっているのかさえ知らない。トレイ先輩は優しいから私に付き合ってくれているだけなのかもしれない。

でも、先輩が好きだ。


グリムが戻ってくるまで、すっかり冷えきった自分の身体を放置して考えても仕方がないことをぐるぐる悩んでしまった。









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「くしゅん!…………あー、さいあくだ」


体温計が示す温度は38℃。
昨日、お風呂で身体を冷やしきっていた私は風邪を引いてしまっていた。今日は休日で授業は休みだが、エースやデュース、一年生のみんなと一緒に図書館で課題をやろうと約束していた。そして、その後にモストロ•ラウンジへ行ってご飯を食べようと計画していたのだ。もちろんメインは後半である。楽しみにしていたのに。マスクをして冷却シートをおでこに貼り付けた私が寮の玄関でみんなを出迎えると、すごいスピードでUターンさせられた挙句に勢いよくベッドに寝かされ目が回った。


「課題はオレ様たちに任せて、子分はゆっくり寝てるんだゾ!」
「引くほど熱出てんじゃん……なんか冷たいもん買ってきてやるから、今日は寝とけって」


と、グリムとエースに言われて大人しく布団をかぶる。ジャックがすぐ外に出て、購買で食べ物とスポーツ飲料水、それから風邪薬を買ってきてくれた。ありがたすぎて頭が上がらない。デュースは「付いていた方がいいんじゃないか?」と優しいことを言ってくれたが、風邪を移したら申し訳ないので遠慮した。勉強場所の確保のためにエペルとセベクが先に図書室へ行っているはずだし「待たせたらかわいそうだよ」と彼らを送り出した。


みんなが出て行ったオンボロ寮はいつもの倍も静かに感じる。何度かゴーストたちが心配して見に来てくれたのが救いだった。食欲はあまりなかったが、少しだけパンをかじって薬を飲む。ベッドに横になってスマホを確認すると、エースから『やばくなったら連絡して』とメッセージが入っていた。その気遣いに温かい気持ちになって『ありがと』と返信する。
他にも通知が来ていることに気がついて確認すると、トレイ先輩から『昨日はありがとう。今度お礼させてくれ』と連絡が来ていた。『気にしないでください』と打ち込みながら思わずニヤついてしまう。それから、ケイト先輩から『トレイくん復活〜⭐︎』という言葉とともに写真が送られてきており思わずスマホに前のめりになる。私服のトレイ先輩だ!どうやらトレイ先輩とケイト先輩は休日を利用して街に下りているようだ。苦笑いで写真に映る先輩が愛おしくて、すぐ保存する。デートで2回私服を見たが、そのどちらとも違うコーディネートで新しいトレイ先輩を見れたことに感謝する。ケイト先輩に『ありがとうございます……!』と送ると、『どういたしまして⭐︎』と返ってきた。相変わらず返信が早い。

ケイト先輩のマジカメを確認すると、二人は薔薇の王国に遊びに行っていることが分かった。トレイ先輩の地元だ。「いいなぁ」なんて小さく呟いて、スマホを閉じる。トレイ先輩の実家に行ってみたい。どんなケーキ屋さんなんだろう。ご両親や、弟さんや妹さんにも会ってみたい。でも、さすがに『仮の彼女』の身分でそれは欲張りすぎだろう。チリチリと頭の隅が痛む。トレイ先輩、薔薇の王国に遊びに行くこと言ってくれなかったなぁ。“本当の”彼女だったら、教えてもらえたんだろうか。これは、少し嫌な考え方だなと思って、急いで頭から追いやって目を閉じる。眠ってしまおう。早く。

いい夢が見られますように。






「監督生〜、寝てんの?」


ドア越しにエースの声が聞こえて目が覚める。もぞもぞと身体を動かしてスマホを見ると、2時間ほど眠っていたらしい。そろそろお昼ご飯の時間だ。朝よりは楽になったなとぼんやり考えていると、再び「監督生〜?」と声がかかったので「起きてるよ」と返事をする。するとドアノブがガチャっと回って、隙間からエースが顔を覗かせた。私と目が合うと、ニッと笑って部屋に入ってきた。


「調子どう?」
「結構楽になったかも。エース1人?」
「そー。心配だったから来ちゃった」
「え、なにそれ。エースこそ熱あるんじゃないの?」
「お前さぁ、せっかく心配して来てやったのにそれは失礼じゃね?」
「ぎゃ、ごめん嘘だって、嬉しい!ありがと」


わしゃわしゃと私の頭を撫でるエースは楽しそうだ。「風邪移るから」と言えば「そーねぇ」と分かっているのかいないのか軽い返事をして、壁際に置いてあった椅子を持ってきてベッドの近くに腰掛ける。


「他のみんなは?」
「モストロ行った。他の奴らも来たがってたけど、ジャックが『大勢で押し掛けたら悪化するかも』って言ったから、ジャンケンで勝ったオレが代表」
「そっか、みんなにも心配かけて申し訳ないなぁ」
「なぁ、トレイ先輩は来てないわけ?一応、彼氏じゃん」


急に先輩の名前を出されて、咄嗟に反応出来なかった。思わずエースを見つめて固まってしまう。エースも、真剣な顔で私の目を見ている。


「来ないよ。そもそも風邪引いたこと言ってないし」
「はぁ?なんで?」
「心配かけたら申し訳ないから」
「お見舞い来て欲しくないわけ?」
「来て、欲しいけど。でも、『彼氏』だからって義務みたいに呼びつけたくないし」


もし風邪を引いたことがバレたら、トレイ先輩は絶対に『自分のせいだ』と思ってしまうだろう。私が自分の判断で水を浴びて、すぐ着替えずにいたのだけれど、先輩はきっと責任を感じてしまう。先輩の負担になりたくない。ただでさえ勝手にそばにいるのだから。


「お前そんなんで楽しいの?」


エースの言葉がグサグサ胸に刺さる。楽しい。楽しいよ。私が望んだことなんだから。昨日だって、先輩は私にマフィンを届けてくれて、寮まで送ってくれて、ハプニングとはいえ抱きしめてくれた。少しずつ、ほんの少しづつだけけど本物の恋人同士に近づいている。


『でも、休日どこに行くのかさえ教えてもらってないじゃん』


はっと顔を上げてエースを見る。不思議そうな顔をしたエースを見て、今の声は頭の中で自分が囁いたのだと分かった。自分でも分かっているのだ。不毛なことをしていると。トレイ先輩と付き合い始めて1ヶ月が経ったが、進展と言えることなんてほぼ無い。
黙ってしまった私を見て、エースは気まずそうな顔をする。エースは悪くない。本当のことを言っただけだ。私とトレイ先輩は、傍からみてもおかしな関係に見えているのだろう。


……トレイ先輩に連絡するわ」
「やめてよ!絶対困らせるから」
「そんなの分かんないじゃん。案外すぐ飛んでくるかもよ?」
「来ないよ。今日は薔薇の王国に行ってるんだから」
「は?」


「なんで?」という顔をしたエースに、先ほど見たケイト先輩のマジカメを見せる。エースも自分のスマホで確認して、「あー本当だ。え、てかトレイ先輩ん家のケーキ屋さんってここなんだ。オレん家でも買ったことあるわ」なんて呟いている。

改めて自分のスマホで更新された投稿を流し見ていると、トレイ先輩が綺麗な女の人と一緒に写真に写っているのが見えた。投稿時間は15分前だ。思わず食い入るように写真を見てしまう。場所はトレイ先輩の実家のケーキ屋さんだ。結構大きいお店で、繁盛しているんだろうなということが写真越しにも伝わってくる。ケイト先輩がたくさんアップしている写真の中に何度か出てきた女性は、先輩たちよりも少し年上に見える。妹ではないだろう。パティシエの衣装を着ているその人は、トレイ先輩のお店のスタッフのようだった。ページをスクロールする指が震える。

トレイ先輩とその女性が並んで写っている写真が目に止まった。先輩が、少し照れたようにはにかんでいる。ぎゅう、と心臓を鷲掴みされた気分になる。身動きが取れないまま、喉に刃物を突きつけられているような。

先輩、この人のことが好きなんじゃないか?

じわりと湧いた疑念は、なんの証拠もないのに私の中で確かに形作られていく。
だって、先輩がはにかんでいる。先輩は、この人に会うため今日薔薇の王国へ行ったのではないか?「写真は得意じゃない」と言う先輩を気遣って、私たちが2人で撮った写真は一枚もない。だって、『仮の』彼女だから。どうしよう、どうしようと頭の中で色んな可能性がぐるぐると浮き出ては消えていく。スマホを見て動かなくなった私を見たエースが「どうしたんだよ?」と聞いてくるが、思考がぐちゃぐちゃで反応出来ない。

私のことを今すぐ思い出してほしくて、さっきまでの自分の発言をさっさと捨てて先輩とのチャット画面を開く。『先輩、今日は薔薇の王国へ行ってるんですか?ケイト先輩のマジカメ見ました』と打ち込み送信ボタンを押す。もう一度ケイト先輩のアカウントを開くと、二人は店を出て電車に乗っていることが分かった。『♯混みすぎ』というタグが付いた、切符とカラフルなドリンクを持った手の写真が投稿されている。
移動中ならメッセージを見てくれるかもしれないと、チャット画面に戻る。祈るような気持ちで画面を見ていると、私が送った文の隣に『既読』の文字がついた。ほ、っと少し気が抜ける。しかし、読まれたはずのメッセージに対する返信が来ない。『そうだよ』の一言でもいいのに。1分待って返信が来なくて、焦れったくなってケイト先輩のアカウントへ戻ると、先程のケーキ屋さんで撮った写真にコメントがついているのが見えた。見知らぬアイコンは可愛い苺のケーキが写っていて、さっきの女性だ、とすぐにピンと来た。


『今日は遊びに来てくれてありがとう!またケーキ食べに来てね』


そのすぐ下に、ケイト先輩の『ちょ〜美味しかったです⭐︎また行きまーす!』という返信がくっついている。敬語だから、やっぱり年上なんだろうと察した。
それから。苺のアイコンのコメントに対してリアルタイムで返信がついて息が止まった。


『さっきのメロンのケーキ、今度是非レシピを教えてください』


トレイ先輩のアカウントだ。
頭がガンガンと鳴って痛い。きっと、熱のせいだ、これは。
返信の順序なんて、個人の自由だから、先輩が誰に先にメッセージを返そうと私が文句を言う筋合いなんてない。でも、私のチャットを確認してたのに、苺ケーキの人に先に返信をした。先輩の中の優先順位をまざまざと見せつけられた気分になる。すぐ返信をくれないなら、既読を付けないでほしかったなんて、心の中で勝手になじってしまう。最悪だ、私。
別に、彼女を最優先にすべきなんて価値観は持っていないし、友人と遊ぶ約束とデートの約束が被ったら、先着で予定を決めてくれてもいい。まして、私は本当の彼女ではない。でも、頭の中で分かっていても、悔しいのは仕方がないじゃないか。あぁ、私って自分で思ってたより面倒くさい女だったんだなと気がついた。もう何も見たくなくて、スマホの電源を落とす。


先輩の1番になりたかった。
でも、突然鏡の外から現れた私は、トレイ先輩と一緒に生活して三年目になるケイト先輩には敵わないし、もっと長い付き合いがありそうな苺ケーキの人にも敵わない。どうあがいても、その時間は埋められない。

トレイ先輩に出会わなきゃよかった。

トレイ•クローバーという人を知らなきゃよかった。

向けられる優しい笑顔も、撫でてくれる大きな手も、少し体温が高い身体も、全部全部、大好きなのに。



ぽき、と身体を支えていた何かが折れる音がした。




……大丈夫か?監督生」


横から伸びてきた手が、そっと頬に触れて指先を滑っていく。エースが眉を寄せているのを見て、自分が泣いているのだと分かった。私に触れている指が首に移動して「熱、上がってね?寝れば」と促す。小さく頷いて、布団をかぶり直す。


「トレイ先輩、さっきの写真の人が好きなのかもしれない」
「そんなの、あの写真からじゃ分かんないだろ。お前に返信きてるかも知れないし、見てみれば?」
「来てなかったらもっとへこむからやだ」


横からスマホを覗いていたエースは、私が考えていることを察したのだろう。難しそうな顔をしている。


「とりあえずさ、もう寝ろよ」


目の上に手を置かれて、強制的に暗闇を作られる。自分の熱が高いせいか、エースの手が少し冷たく感じる。何も考えたくない。さっきより頭痛が酷くなっていて、本当に熱が上がってきているらしいな、と他人事のように思う。

これが全部、夢ならいいのに。



私の不安が勝手に生み出した、悪夢ならいいのに。









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「だから〜今は監督生寝てるんで。帰ってくんない?」


少しイラついた様子のエースの声が耳に入ってぼんやりと目を開ける。ゆっくり視線を巡らせたが部屋の中に姿が見えないので、廊下にいるんだなと気がついた。時間を確認しようとスマホのボタンを押したが画面は暗いままで、そういえば寝る前に電源を落としたんだったとぼんやり考える。少しお腹が空いた気がして、ゆっくりと身体を起こす。頭痛はなくなったが、相変わらず頭も身体も重い。


「寝てるなら、どうしてお前がここにいるんだ?」


ドア越しに聞こえてきた声に、胸がざわざわと荒立っていく。エースと話しているのは、トレイ先輩だ。
どうしてここにいるんだろう。
布団を頭までかぶって、スマホを起動する。画面が立ち上がるまでがもどかしい。布団越しで先ほどより聞こえづらくなった2人の声が、何を話しているのか分からなくて不安になる。でも、聞きたくない。ようやく点いた画面を確認すると、エースが来てくれてから1時間半ほど経過していた。私が寝ている間、ずっと付いていてくれたのだろうか。親友の優しさに涙が溢れそうになる。

チャットの通知に気付いて、いつもの癖で開いてしまってから『しまった』なんて思う。見るとトレイ先輩から返信が来ていた。


『実家で新作のケーキを出すって聞いたから食べに来たんだ。お前にも買ってきたから、後で持っていくよ』


自分の不甲斐なさに、涙が溢れた。トレイ先輩はこんなに優しいのに、私は勝手に嫉妬して、恨んで、へこんで、何をしているんだろう。先輩に合わせる顔がない。

スマホを握りしめて力なく泣いていると、エースの「あ、ちょっと!」という声と同時にドアが開く音がした。思わず身を固くすると、かぶっていた布団がばさっと捲られて視界が明るくなる。涙で揺れてよく見えないが、アイビーグリーンの髪とマスタードの瞳がこちらを覗いているのが分かった。一つ涙が溢れて、世界が少しクリアになる。

私のおでこに手を当てたトレイ先輩の眉間にシワがよる。


「どうして黙ってた?」


いつもより低い声が耳に届いて、びくっと身体を揺らしてしまう。先輩に心配かけたくなくて。先輩に迷惑だと思われたくなくて。言い訳はたくさん浮かんでくるのに、どれ一つとして言葉になってくれない。はぁ、とため息をついた先輩が、マジカルペンを冷却シートに向かって振る。ぬるくなっていたそれが、ひんやりと冷たさを増していく。あぁ、また魔法だ。
エースの方を振り返った先輩は「昼は食べたのか?」と確認する。あー……と思い出す仕草をしたエースが「……そういえば、食べてなかったかも」と呟くと、再度こっちを見た先輩が「身体が辛いかも知れないが、少し食べられるか?スープを作ってくる」と私に確認する。スープなら飲める気がして、無言でこくりと頷いた。

キッチンへ向かうために部屋を出た先輩の背中を見送ったエースが、心配そうに私を見た。「大丈夫だよ、ありがとう」と言えば、「嘘つけ」と返される。嘘じゃない。トレイ先輩が来てくれて、辛くなったのも事実だが、ホッとした自分もいるのだ。


その後、テキパキと看病をしてくれるトレイ先輩の様子を見ていたエースが、スマホを見て「やべ、デュースからめっちゃ連絡きてるわ。みんな心配してるし、オレもう戻るな」と言い出した。「オレがいなくなっても大丈夫?」と確認してくれて、「うん。大丈夫」と小さく返す。その様子を、トレイ先輩は静かに見ていた。「今度お礼するね」と伝えれば「お前が元気になればそれでいいって」と笑ったエースはひらひらと手を振ってオンボロ寮を出て行った。私の親友は優しい。


トレイ先輩と二人きりになる。
結局迷惑をかけてしまったという沈む気持ちと、先輩がここへ来てくれた喜びと、色んな気持ちがぐちゃぐちゃと私の中をかき混ぜている。『あの女の人は誰ですか?』そう聞きたいけど、私には聞く資格がない気がして黙ってしまう。1ヶ月前、付き合いたての私だったら間違いなく「これ誰ですか!?先輩、私というものがありながら〜!」なんて茶化しながら確認していただろう。今は、そんなふうに先輩に話しかけるのが怖くなってしまった。踏み込んで、嫌われたくない。
でも、何か話さなくてはと必死に言葉を探していると、トレイ先輩が私の頭を撫でながらぽつりと話し始めた。


「悪い、俺のせいだよな」
……違います」
「昨日、水を浴びたからだろう?」
……私が、着替えるの遅かっただけなんで」
「水をかぶる羽目になったのは、俺のせいだろ」


でも、水をかけることを考えたのは私です。そう言い返そうかと思ったが、言葉の応酬になるだけだろうと諦めた。それに、言い合いをするにはまだ頭が重い。おでこの冷却シートは、トレイ先輩が魔法をかけてくれてからずっと一定の冷たさを保っている。気持ちがいい。静かに目を閉じる。


トレイ先輩が、布団の上からとんとんと一定のリズムを刻んでくれる。だんだんと眠くなってきた。さっき起きたばかりなのに。でも、このまま目を覚ましていてもトレイ先輩が私を心配してしまうし、早く眠れば彼も寮に戻れるだろう。すーっと呼吸を落ち着かせる。


意識が落ちる寸前、耳元でトレイ先輩が小さく何か呟くが、上手く拾えない。


唇に、何かが触れたような気がした。















「ふなぁ〜〜!今帰ったんだゾ!もう平気か?」


グリムの大きな声と、布団にどすっと落ちてきた重みに驚いて目を開ける。顔の上にズレた冷却シートが乗っている。眠る直前に顔に当たってたのはこれか、なんて1人で納得しながら身体を起こすと、外はとっくに暗くなっており頭の重さはすっかりなくなっていた。一日中ベッドに横になっていたせいでまだ少し身体が重いが、これは復活したと言っていいだろう。膝の上でんん〜と伸びをするグリムを撫でて「課題終わった?」と聞くと「バッチリなんだゾ!」なんて胸を張る。スマホを見ればもう18時になっていた。

きょろきょろと周りを見回してみるが、トレイ先輩の姿はない。もしかして、先輩が来てくれたところから夢だったんだろうかなんて思ったが、ベッドサイドテーブルに置かれたカップを見てホッと息を吐く。トレイ先輩がスープを入れてくれたものだ。そのカップの下にメモ書きが挟まっているのを見つけてそっと抜き取る。


『寮でトラブルがあったから一旦戻る。目が覚めたら連絡を入れてくれ』


“一旦”という文字に、再びオンボロ寮へ来る意思があることが伺えて嬉しいと同時に申し訳ない気持ちになる。寮で一体何があったんだろうかとスマホを開いてケイト先輩のマジカメアカウントを確認する。それが一番早く事情が分かるので、ケイト先輩の投稿をなにかと重宝していた。画面をスクロールしていくと、どうやら薔薇の迷路に迷い込んでしまった生徒が出たらしかった。5人が面白半分に入り込んで、まだあと2人見つかっていないらしい。
これは大変そうだなぁと、怒り心頭に違いないリドル先輩を思い浮かべる。トレイ先輩は苦笑いして寮長をなだめていることだろう。こんな状態のハーツラビュルにいる先輩に連絡することは躊躇われた。しかし、一向に連絡しないのも余計に心配させてしまうかもしれない。残る2人が見つかった後に呑気に連絡したら、手が空いたトレイ先輩が疲れているのにわざわざこちらに来てしまうかもしれないし、連絡のタイミングが難しい。迷っていたらケイト先輩のマジカメが更新されて『#あと一人』というタグがついた写真がアップされた。メッセージを送るなら今か。


『目が覚めました。完全に熱も下がって元気です。先輩のスープ美味しかったです、ありがとうございました。ケイト先輩のマジカメを見たのですが、忙しいと思うので、こっちには来なくて大丈夫ですからね!』


とトレイ先輩に送信する。送ってから、いや、熱計ってないなと思い出して体温計を挟む。それが音を鳴らすのと同時に、トレイ先輩から返信が来た。今回は思ったより早くて、かなり心配させたんだなぁと反省する。


『本当に大丈夫か?』


疑われているなと思った。熱が出たことすら黙っていたのだから、当然と言えば当然だ。体温計を確認すると、36.8℃を示している。うん、これなら大丈夫だ。体温計の写真を撮って『ほら、下がってますよ』とメッセージを送る。先輩からはすぐに『良かった』と返事が来た。さらに『冷蔵庫にお土産を入れておいたから、食べてくれ』と続けて送られてきた。昼の連絡で来ていたケーキだろうか。少しワクワクして一階へ降りていく。「ケーキがあるらしいよ」とグリムに伝えれば、「やった〜!」と喜ぶ様が可愛らしい。

ガチャっと冷蔵庫を開ける。綺麗な白い箱を見つけて、きっとコレだとそーっと取り出す。「早くするんだゾ!」と急かすグリムにはいはいと返事をして、シールを剥がして箱を開けた。

メロンのケーキだ。


『さっきのメロンのケーキ、今度是非レシピを教えてください』


トレイ先輩のコメントと、苺ケーキのアイコンがフラッシュバックする。さっきまで上がっていた自分の口角が下がる。あぁ、なんて醜い嫉妬だろうか。
このケーキは、あのお姉さんが作ったものに違いない。
きっと、美味しい。


「ふなぁ〜〜!すっげーキレイなんだゾ!」
「グリム、これ……2つとも、食べていいよ」
「ん?いいのか?後で欲しくなってもやらねーゾ?」
「大丈夫、まだ食欲ないんだ」


そう言えば、納得したらしいグリムが「そういうことならオレ様が貰ってやるんだゾ!」と嬉しそうな顔をする。大きめのお皿を出して、ケーキを2つとものせて、フォークを1つ出した。後でトレイ先輩に『美味しかったです』と送れるようにグリムが入った写真を撮る。

チリチリと痛む胸に気づかないフリをした。










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「失礼しました」


先生に頭をさげて、静かに保健室を出る。昨日の体調不良が本当に風邪なのかという不安があって、診察をしてもらうために学園にやってきていた。先生から「風邪だったみたいだよ。でもすっかり治ってるから大丈夫」と言われてホッとした。この世界で大病を患ったりしたら、身分を示すものが何もない私が大きな病院で治療してもらえるとは限らない。
「腹が減ったんだゾ〜」と呟き出したグリムに適当に返事をしながら中庭に出ると、トレイ先輩とケイト先輩が歩いているのが見えた。昨日の騒ぎがどうなったのか最後まで確認しなかったし、トレイ先輩に看病のお礼を言わなくてはと名前を呼んで駆け寄る。2人は少し驚いた顔をしたが、いつも通りの笑みで私を迎えてくれた。その様子にホッとする。


「もう走って大丈夫なのか?」
「はい。今保健室で診てもらったんですけど、治ったって言われました」
「それならよかった。ケーキは食べなかったみたいだから、食欲が無いのかと少し心配してたんだ」
「えっ」


どうしてバレているんだろう。ちら、とグリムを見るがキョトンとしている。恐る恐るトレイ先輩に視線を戻すと「写真のケーキ、皿もフォークも1つだったから、グリムがまとめて食べだんだろうと思ったんだが……当たりみたいだな」と片眉を下げて苦笑いした。「ご、ごめんなさい」と頭を下げると、「気にしなくていいよ。体調が悪かったのにケーキは重かったよな。悪い」なんて謝られた。トレイ先輩は全然悪くないのに。ケーキは、私の嫉妬で食べられなかっただけなのに。
自分がすごく酷い人間に思えて、心がどんどん萎縮していく。そして、その心臓をさらに縮こまらせたのは、ケイト先輩の言葉だった。


「ケーキって、トレイくんの初恋の人のケーキ?昨日余分に買ってたの、やっぱり監督生ちゃんの分だったんだ〜」


息が止まった。
「おい、ケイト」とトレイ先輩が気まずそうな顔をする。あぁ、やっぱりトレイ先輩はあの女の人が好きだったんだ、と妙に腑に落ちた。
思ったより自分が冷静で驚く。最後の確認のために、笑顔を作った。


「それって、昨日マジカメの写真に写ってた人ですか?」
「そうそう。5個年上なんだっけ?トレイくんがミドルスクールにいた頃にパティシエになりたいってお店にやって来て、それからずっと働いてるんだって」
「え、すごいですね……
「すごいよね。『魔法が使えなくても美味しいケーキを作ってみせます!』って親父さんに啖呵切って弟子入りしたらしいよ。で、そんなかっこいいお姉さんがトレイくんの初恋の君ってわけ」


昨日の頭痛が戻ってきた気がする。
あの人、魔法が使えないのか。

私と同じだ。

腹の中に渦巻いていたモヤモヤが、はっきりと嫉妬という形で頭をもたげてくる。トレイ先輩は「あの人はそういうんじゃないって言ってるだろ。憧れてるだけだよ」と苦笑いしている。苦しい。


「今度、ケーキのレシピを教えてもらうんですか?」
「ん?ああ。今まで店では使ったことのない生地に挑戦していたから気になってな。来月の連休にもう一度実家へ行こうかと思ってるんだ」
「ほんと、トレイくんって研究熱心だよね〜」


本当に、それだけ?あの人に会いたいから行くんじゃないの?
私は嫌な子だ。
嫉妬が私の中をぐちゃぐちゃにする。だめだ、もうだめだ。こんな醜い私は、キラキラ輝く苺ケーキの人には叶わない。5歳差なんて、大人になればあってないようなものだ。トレイ先輩には、何にも持たない私より、同じ志を持つ人の方が合っている。

もう、終わらせなきゃ。




「これからケーキを作るんだが、試食も兼ねて遊びに来ないか?」とトレイ先輩に誘われる。大喜びしたグリムだけ預けて、私は「用事があるので」と断った。行くべき場所ができたのだ。「じゃあ作ったケーキはグリムに預けるか」と笑うトレイ先輩に、きゅうと胸が締め付けられる。好きだ。このまま、先輩には笑っていてほしい。


寮に繋がる鏡舎で先輩たちとグリムを見送る。みんなが鏡を通り抜けたことをしっかり確認してから、私は別の鏡の前に立った。



スカラビア寮へ向かうために。










「お、監督生遊びに来てくれたのか?」
「こんにちは、カリム先輩」


「じゃあ今日は宴にしないとな!」と言い出す先輩を慌ててなだめて、さっさと本題に入る。以前、図書館で一緒になった時に先輩が言っていた“魔法道具のレプリカ”を借りに来たのだ。行動力が、私の取り柄だったはずだから。最初にトレイ先輩に告白したときのことを思い出して、あの時の自分は本当にぶっ飛んでいたなぁと笑う。

宝物庫まで案内される途中で、ジャミル先輩にも会った。訝しげな顔をされ「魔法道具を借りたい」と言えばさらに不審そうな顔で見られてしまったので、一緒に来てもらうことにした。別に、カリム先輩に危害を加えようとしているわけではない。


「えーっと、これか?」
「あ、それです」


宝物がたくさんあるのに気にかけることなく、ガシャガシャと音を立ててカリム先輩が目当てのものを掘り出してくれた。スカラビア寮の雰囲気にはそぐわないその魔法道具は薔薇の形をしていて、繊細そうなガラスでできている。熱砂の国いちの豪商の家には、いろんな国に伝わる魔法道具が集まるらしい。図書館で読んだ資料には薔薇の王国に伝わるものと書かれていたはずだ。


「これ、レプリカだけど大丈夫か?」
「使えるんですよね?」
「あぁ、使えるぜ!」
「では、それを使わせてほしいです。一生カリム先輩の従者として働くので、どうか譲ってください」


お願いしますと頭を下げると、カリム先輩は「えぇ!?」と驚いた顔をする。ジャミル先輩も、私の発言には驚いたようだ。買い取るのが一番良いのだろうが、残念ながら私には歴史の教科書に載っているような代物を、たとえレプリカだとしても買えるほどのお金を持っていない。そう話して言葉の真意を伝えると、カリム先輩は「タダでやるから気にするな!」と薔薇を差し出してきた。「流石にそういうわけにはいきません!」と断るが、いいからいいからと手に薔薇を持たされる。助けを求めてジャミル先輩を見ると「カリムの従者になんて、簡単になれるわけないだろう。身分が証明できないものを雇うことはできない。……って、国に帰ったら言われるだろうな。だから、カリムの言葉に甘えてさっさと持って行った方がいい」と、呆れたように目を閉じた。


「本当にいいんですか?」
「もちろんだ!」
……ありがとうございます」


受け取った薔薇を大事に抱えて、もう一度頭を下げる。見送ろう、と言ったジャミル先輩に連れられて、カリム先輩と分かれて寮を出るために鏡へ向かう。鏡を通る直前、ジャミル先輩が確信を持った様子で口を開いた。


「君は、それを“逆に”使う気だな?」
……なんでわかったんですか?」


振り向いて、ジャミル先輩を見る。
この“ガラスの薔薇”は、永遠の愛を誓うための魔法道具だ。きらびやかな魔法と違って血液を必要とするため、おまじないというより呪いに近い代物である。性質は、断絶の指輪に近いだろう。2人の血液で薔薇を赤く染め、魔力を込めて愛を誓うと死ぬまで一緒にいられるという謳い文句で伝承されている。

そして、その“逆”とは。

血で染めた薔薇を“逆さ”にして魔力を込めると、永遠に離れ離れになる。物理的に、相手の姿を視認できなくなるのだ。お互いの姿を見たくなければ、お互いの血を。片方だけ見たくないならば、消えてほしい人の血を薔薇に塗る。

私は、これを使ってトレイ先輩の前から消えるつもりだ。

本当は、元の世界に戻れるならそれが一番いい。「仕方ないから」で消えることができる。しかし、まだ帰る方法は見つかっていないし、私はこの学園しか身寄りがない。トレイ先輩の前から消えるには、この方法しかないのだ。他の人には私の姿が見える。トレイ先輩が私のことを見つけられなくなるだけだ。私からは先輩を見ることができるままだが、好きな人を眺められるのだから何も支障はない。

ただ「別れてください」といえばいいだけなことは、分かっている。でも、私はトレイ先輩のことが好きで、きっと別れてもそれは態度に表れてしまうし、絶対に、トレイ先輩は私を気にかけてしまう。優しいから。勢いに任せて告白したことを後悔しはじめていた。でも、トレイ先輩との思い出が作れたことは心から良かったと思う。

先輩は、苺ケーキの人と幸せになった方がいい。


……トレイ先輩に使うのか?」
「あは、そこまでバレてるんですね。……私が消えます」
「それを使うには魔力が必要だろう。どうするつもりだ?」
「大丈夫です、ちゃんと考えてるんで」
「あまり、いい方法だとは思えないな」
……そうですか?」


にこ、と笑えば、ジャミル先輩はもう何も言うまいとため息をついた。
「譲ってくださりありがとうございます」と頭を下げれば、早く行けと言わんばかりに下向きの手をひらひらと振られる。鏡から出て、鏡舎に知り合いがいないかそっと確認する。生徒はちらほらいるが、見知った人はいなかった。ほっと緊張で強張っていた肩を緩めてオンボロ寮へ向かって走る。

誰かに見つかる前に。
授業の課題でたまたま使った参考資料に載っているような、目につかない魔法道具のことを知っている生徒なんてほとんどいないだろう。私が消えても、トレイ先輩がこの呪いに気がつく可能性は低い。ジャミル先輩もきっとバラしたりしない。魔力を込めた後に薔薇を壊してしまえば、この呪いは永遠のものとなる。

ガラスだからと慎重に走っていたつもりだが、やはり気が急いていたのか足がもつれて道の途中で転んでしまった。左腕に抱えた薔薇を庇っておかしな転び方をしてしまい、地面についた右手を大きくズリッと擦ってしまう。右足も捻ったようで、かなり痛い。じわじわと涙がこぼれそうになって薔薇が壊れていないか確認する。少しだけ欠けて小さくヒビが入ってしまっていたが、大丈夫そうだ。地面に座ったまま、薔薇の花弁に右の掌を塗りつける。オンボロ寮に戻ったら刃物で指先でも切ろうかと思っていたが、思いがけず怪我をしたおかげで怖いことをせずに済んだ。

花弁についた血は少量だったが、ガラスだというのにじわじわと滲んで広がっていく。布に水が染みていくように、薔薇は綺麗に赤く染まった。私の血で。
痛む手に顔を顰めながら、ゆっくりと立ち上がる。捻った足は思ったより重症で、もう走ることは難しい。

あとは、この薔薇を“逆さ”に持って、トレイ先輩に魔力を込めてもらうだけ。

時間を置くと勇気がなくなってしまう気がした。



明日、決行する。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎








「どんだけ酷い転び方したらそうなるわけ?」
「あはは、うっかりね」


私の教科書を持ってくれているエースが口を尖らせる。昨日転んで捻った足はばっちり捻挫と診断されて、1週間は松葉杖だと言い渡された。「そういえば、マジフト大会の前にクローバー先輩も足を怪我していたな」とデュースが懐かしそうに言うので、心臓がチリチリと音を立てる。

今日、ガラスの薔薇にトレイ先輩の魔力を込めてもらわなければならない。件の薔薇は、割れないように布に何重にも包んで鞄の中に仕舞い込んでいる。そして、先輩には『放課後少し会えませんか?』とすでにお伺いを立てている。先ほど『部活の後でもいいか?』と返信が来ていたので、その通りの時間に人気のない場所を指定させてもらった。

風邪が治ったばかりなのに今度は足を怪我しているので、親友たちはかなり過保護になっている。ありがたいが、放課後になったらどうにか1人にならなくては。どうやって時間を作ろうかと考えていると、エースに「今回はちゃんとトレイ先輩に言ったんだろうな?」と言われて、思わず「あ」と口を開けてしまう。


……お前さぁ〜〜!」
「や、今回は伝えそびれてるだけ!隠してるわけじゃないから!」
「本当だろうな?」
「デュースまで!本当、後でちゃんと連絡するから!」


ガラスの薔薇のことで頭がいっぱいになっていて、怪我をしたことを伝えるという発想自体が消えていた。わたわたと松葉杖でバランスをとりながらスマホを取りだそうとした私を見て、エースが「もう報告した」とスマホの画面を見せてくる。そこには『監督生が怪我して松葉杖です』という言葉とともに、保健室で治療を受けている私の写真が貼り付けられていた。


「いつの間に撮ってたの!?」
「お、もう返信来た。『今どこだ?』だって」
「もう休み時間終わるから!」


自分のスマホも音が鳴ったので、デュースに肩を借りながらポケットからスマホを取り出す。トレイ先輩から『昼休みに一度会おう』と連絡が来ていた。予定は早まるが、この時にやるしかない。『分かりました』と返信する。
計画していた時間とも場所とも変わってしまったが、仕掛けてしまえばそれで終わるので、問題ないだろう。






昼休み。
中庭が見える渡り廊下に腰掛けてトレイ先輩を待っていると、廊下の角を曲がった先輩がこちらを見つけて早足で近づいてきてくれる。松葉杖を軸に立とうとすれば「座ってろ」と肩に手を置かれた。


「何があったんだ?昨日か?」
「寮に戻る時に転んでしまって……


あはは、と笑う私を、先輩は眉を寄せて覗き込む。その目は『本当か?』と言っているように見えた。転んだことは本当だ。


「そういえば、グリムからケーキ受け取りました。レモンケーキ、すごく美味しかったです」
「お、今回のは食べられたのか、良かった」
「先輩のケーキは食べますよ」


ふふ、と微笑んだ私の言葉の真意に、先輩は気がつかない。『“先輩の”ケーキは食べます』
でも、気づかれなくていいのだ。これで最後なんだから。
ケーキの感想を伝えていると、先輩のスマホに着信が入った。ポケットから取り出された画面の真ん中に、電話してきた相手のアイコンが映る。

苺ケーキだ。

「悪い、少し出ていいか?」と申し訳なさそうにこちらを見た先輩に「どうぞ!」と明るく声を返す。本当は嫌だ。だって、今は私と話していたのに。これが、最後の会話なのに。電話に出る先輩から視線を外して、ぼーっと中庭を眺める。芝生の上やベンチに座って昼ご飯を食べている生徒たちを見て、そういえばまだお昼を食べてなかったなぁと気がついた。綺麗な青空を見ていると、なんだか涙がこぼれそうになって、廊下に視線を戻した。

3分ほど電話していただろうか。先輩が「悪かったな、話の途中だったのに」と戻ってきた。大丈夫ですよ、と笑顔を作る。早く、終わらせよう。
胸ポケットに移してきていた薔薇を取り出す。私の血で赤く塗られた薔薇だ。先輩は少し不思議そうな顔をした。その表情から、先輩はこの魔法道具のことを知らないと確信を持つ。ほっとして、薔薇を逆さに握った。茎に装飾された刺が、ちくちくと手のひらを刺激する。


「トレイ先輩、これ一緒に握ってもらっていいですか?」
「なんだ?これ。向きはこれで合ってるのか?」
「合ってます。これ、さっき保健室の先生にもらったんです。魔力を込めると足の怪我が少し楽になるらしくて。でも、私は魔法が使えないので、先輩の力を借りてもいいですか?」


ふーんと言う先輩は少し訝し気な様子だ。嘘があからさますぎただろうか?でも、怪我を治すためをいう理由を通せば、優しい先輩は手伝ってくれるはずだ。自分がこんなに平然と嘘がつけるなんて思わなかった。いつからこんなに悪い子になってしまったんだろう。


……わかった。魔力を込めればいいんだな?」


トレイ先輩が、私の手の上から茎を握る。大きな先輩の手に、少しドキッとする。これが、最後。
先輩が魔力を入れ始めると、持っていた茎部分が綺麗な緑色に染まっていく。これで、“薔薇”が完成する。
あと少し。
もう少しで茎が染まりきるタイミングを見計らって、痛む足を無視して腰を浮かせ、隣に腰掛ける先輩の頬に口付けた。口は、大事な人のためにとっておかなくちゃいけないから。松葉杖がカランと倒れる。突然のキスに驚いたらしい先輩は、「は、」と呟いて固まっている。目を見開く眼鏡越しの顔が少し幼く見えて、可愛いな、なんて思った。
耐えようと思っていたのに、涙が一筋落ちていく。


……私から解放してあげます、トレイ先輩」
「っ、は?」


「さようなら」




がしゃん




茎の色が染まり完成した“逆さの薔薇”を、勢いよく廊下に打ちつける。
トレイ先輩の視線が外れて、私を見失ったのが分かった。これでもう二度と、トレイ先輩は私を認識できない。

転がった松葉杖を拾って先輩に背を向けて廊下を歩き出す。後ろから「……監督生?」と呟く声が聞こえる。目の前から突然人が消えたのに、取り乱さないトレイ先輩の落ち着きぶりは流石だ。スマホを開いて、先輩を見ないまま最後のメッセージを送る。


『先輩が、心から愛する人と一緒になってください。先輩と過ごせて幸せでした。今までありがとうございました』


すぐに画面に既読がつく。
返信が来たら先輩側に既読がついて、私が見ている事がバレてしまう。急いでマジカメの個人チャットを閉じる。数秒遅れてトレイ先輩からの通知がきて、危なかった……と息を吐く。先輩の連絡先を消す勇気はなくて、未読のままミュートに設定する。これで、メッセージが送られてきてもうっかり開くことはない。

松葉杖をつきながら廊下を進む。次の授業は体力育成だから、この足を理由に保健室で休んでも許されるだろう。


……っ、ふ。せんぱい……


大好きでした。


もっと、強くなろう。
今夜だけいっぱい泣いて、明日からは切り替えよう。失恋の話を、エースとデュースは聞いてくれるだろうか。


割った薔薇を置いてきたことなんてすっかり忘れた私は、曇りはじめた空を見上げて静かに涙を流した。









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あれから5日が経った。
足にはたまに鋭い痛みが走るが、少しずつ治ってきているのが分かる。先生が松葉杖は1週間と言った通り、もうすぐ杖なしでも歩けそうだ。

『トレイ先輩はもう私を認識できない』という話をしたとき、エースとデュースは想像していたよりも怒った。なんで1人で勝手に決めたんだと言われた。私よりも2人の方が辛そうな顔をしていて、心配してくれているんだって痛いほど分かった。
私の気持ちや苺ケーキの人の話をすると、特にエースは不満そうな顔をしたが渋々納得してくれた。今一番混乱しているであろうトレイ先輩にも、簡単に事情を話すと言ってくれた。

トレイ先輩は、一度は私が元の世界へ戻ったのかと思ったらしい。エースが「監督生のことが見えないのはトレイ先輩だけっすよ。俺には見えてるし、ケイト先輩にも見えてます。あと、監督生から伝言。『私の事は無かったことにして、幸せになってください』だって」と伝えると、一瞬眉間にシワを寄せたが「……そうか」と言ってそれきりだったそうだ。

追いかけて欲しかったわけでは無かったが、あっけない終わりに「こんなものか」とも思った。
トレイ先輩と廊下ですれ違ったり、食堂で見かけたりもしたが、グリムを抱っこしていれば気づかれることは全く無かった。グリムが1人で歩いていると、先輩が目で追っているのは分かった。それから、エースやデュースと一緒にいるときにトレイ先輩に会うと、先輩はぐるりと視線を巡らせるので、私の存在を探っているのだろうと思った。早く忘れてくれていいのに。

ケイト先輩やリドル先輩とも、あまり話さなくなった。必然的にトレイ先輩に近づくことになるし、無視して会話をするのはいくらなんでも感じが悪い。
今まで毎日送っていた『トレイ先輩好きです』というメッセージも、送らないことに次第に慣れていった。








「も〜!なんでこんな時に限って、グリムは説教受けてるの!」


松葉杖でバランスをとりながら、ぐっと背伸びをして本に手を伸ばす。課題で使いたい本があるのだが、届きそうで届かない場所に置かれているのだ。いつもだったら私の頭に乗ったグリムが背伸びして高いところの本を取るのだが、今日は魔法薬学でビーカーを割ったグリムは居残りしている。普段だったら監督生である私も一緒に居残りするのだが、足の怪我のおかげで免除された。


「あと、少し……っ!」


目的の本の背に触れて、爪をカリッと引っ掛けると微妙に本が動いたので心の中で来た!とガッツポーズする。しかし、その時足にピキッと痛みが走ってバランスを崩し、どたん!カランカラン!と間抜けな音を立てて本棚の間の通路に転がってしまった。


「いった……
「大丈夫か?」


身体を起こすと同時に聞こえてきた声にひゅっと息を呑む。
今自分がいるT字の通路に入るための、正面の少し広い通路から顔を覗かせているのはトレイ先輩だった。私が飛ばしてしまったらしい松葉杖を持って、こちらを見て固まっている。しかし、その目は私を捉えていないので、認識されていないことに気付いてほっとする。


……監督生か?」


どき、と心臓が脈打つ。
そうか、松葉杖が飛んできたのに、その先に誰もいなかったら“見えない人がここにいる”ことになるのだ。
トレイ先輩が通路に入ってきてしゃがみ、ゆっくりと松葉杖を差し出してくる。少し迷ったが、ゆっくりと掴んだ。私の声も、トレイ先輩には聞こえていないはずだ。


「消えた……けど、触れるな」


そう言うが早いか、トレイ先輩は松葉杖を辿って手を伸ばし私の腕を探り当てた。大きな手に、絶対離さないと言わんばかりの強さで掴まれて思わず身動ぎする。驚いた拍子に松葉杖を取り落として、再びカランカランと図書館に大きな音を響かせた。トレイ先輩は、見えない私の腕を掴んだまま離さない。それどころか、ぐっと力任せに引き寄せられる。膝立ちするトレイ先輩に、ぎゅうと抱きしめられた。バスルームで抱きしめられたときより、少し体温は低い。あのときは、熱があったんだっけ。「せ、先輩離して」と言うが、残念ながら私の声は届かない。


「うん。いるな」


存在を確認するように、先輩の手が私の背中を這う。離してほしい、やっと、先輩がいない日常に慣れはじめてきたのに。抱きしめられる温かさに気持ちが負けそうになる。トレイ先輩は、私を離さないまま、まるで場所が分かっているんじゃないかと思うくらい的確に、耳元で囁いた。


「絶対にお前を“見つける”から、覚悟しておけよ」


ふにゃ、と自分の力が抜ける。トレイ先輩の身体が離れて、松葉杖を拾って近くに置いてくれた。今度こそしっかりと杖を掴む。
「じゃあ、“また”な」と言った先輩は、私の方をじっと見てから本棚を離れていった。



どうして。
トレイ先輩は、どうして私を捕まえようとしているんだろう。せっかく私から解放されたのに。
座ったまま、力が入らなくて呆然としてしまう。
1つの可能性を考えてみる。トレイ先輩が、私のことを好きな可能性だ。
でも、これまでの先輩の行動にその片鱗は見られなかったように思う。付き合いだして、デートに行くようになってから、先輩の行動に大きな変化はなかった。唯一、オンボロ寮まで送ってくれたあの日。あの日だけは特別だったが、私の中でトレイ先輩の行動の全ては「熱のせい」だと位置付けられていた。苺ケーキの人と、トレイ先輩の写真を思い出す。
うん、やっぱり先輩が私を好きだとは思えない。
きっと、後輩がいなくなってしまったことが寂しくなったんだろう。先輩は、優しいから。


私のことを見つけると言っていたが、“逆さの薔薇”はもう壊して割ってしまったのだから無理だ。もう二度と、永遠に私を見つけることなんてできない。あの参考書にも、魔法の解き方については書かれていなかったから、存在しないのか、発見されていないのかのどちらかだろう。



ふう、と息をついて自分の身体を抱きしめる。

トレイ先輩の温もりを、今度は早く忘れたかった。








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足を捻挫してから1週間が経った。無事に松葉杖を卒業して、サポーターを巻くだけで歩けるようにまで回復した。転んだ時に擦った手のひらの傷もほとんど塞がって分からなくなっている。傷が全て消えて、足が治る頃にはトレイ先輩のことを吹っ切れるような気がしていた。


図書館で先輩に会ってから、私はより慎重に行動するようになっていた。姿や声は認識できないのに、身体には触ることができるなんて知らなかったのだ。突然トレイ先輩にぶつかったりしないように気を付けていたら、エースに「お前挙動不審すぎ」と笑われてしまった。




グリムと一緒にクルーウェル先生に課題を提出しにいった帰り、部活帰りらしいケイト先輩とカリム先輩に遭遇した。「あ、監督生ちゃん久しぶり〜」と声をかけられてしまい、周りにトレイ先輩がいないか確認してしまう。


「お疲れ様です!寮に帰るところですか?」
「おう!でも、帰る前にケイトが購買で何か食べ物を買っていくらしいんだ」
「監督生ちゃんも行こ〜お兄さんが奢ってあげるよ」


ぱち、とウインクするケイト先輩に誘われるがままについて行く。カリム先輩はジャミル先輩が作ったものしか食べないのだから、本当にただついて行くだけなのだろう。でも、楽しそうにしている様子が可愛くて、カリム先輩は癒しだなぁと改めて思う。
雑談しながら購買への道を歩いていると、カリム先輩がそういえば!と声を上げた。


「監督生は、おまじない上手くいったのか?」
「わ、わー!!わー!!先輩!」
「おまじない?」


急いでカリム先輩の口を手で塞いだが、ケイト先輩には聞こえてしまっていたらしい。カリム先輩が「悪い、内緒だったのか」としゅんとして眉を下げる。あはは、と笑って流そうとしたが、ケイト先輩は「おまじないってなに?もしかしてトレイくんと関係してる?」と眉を寄せて問い詰めてくる。思わず「違います!なんでもないです!」と大きな声を出してしまった。


……トレイくんさ、最近暇さえあれば図書館に入り浸ってるんだよね」
「そ、そうなんですか」
「何冊も本を借りて部屋でも読んでるみたいだし…………一体なにを調べてるんだろうね?」
……なんでしょうね……?」


へら、と笑うと、ケイト先輩もにこっと笑った。……ように見えた。目は笑ってない。
ヒヤリと背中に冷や汗をかく。


「トレイくんなら絶対見つけると思うよ」


なにを、とは言わないケイト先輩を見つめると、今度は本当に笑った。


…………絶対無理です。だってもう壊したんだから」
「え?」


「ごめんなさい、もう帰ります!」と叫んで駆け出そうとして、自分が走れないことを思い出して早歩きでその場を去った。街頭の少ない道を、オンボロ寮へ向かってずんずん進む。グリムが「待つんだゾ〜!」と言って追いかけてくる。

私が使った魔法道具が分かったところで、解く方法は無いし、薔薇そのものも壊れている。もう、どうしようもないのだ。
早く諦めてくださいよ、トレイ先輩。




少しだけ苛立ちを感じながら、オンボロすぎて軋むドアをバタンと勢いよく閉めた。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎








「もう少しでサポーターも外していいよ」
「ありがとうございます」


手のひらの傷がすっかり治り、捻挫ももうすぐ完治というところまできた。
まだダッシュはできないが、軽く走るくらいなら痛くない。しかし、ここで無理をしてまた挫いたらいけないので、気をつけておこう。


保健室から出ると、外はもうだいぶ暗くなっていた。私の診察が待ちきれなくなったグリムは先にオンボロ寮に帰っている。周りに人がおらずぶつからないことを確認して、歩きながらスマホを取り出す。エースやジャックから連絡がきていて、ちまちまと返信する。
ふと、トレイ先輩のチャット画面が気になった。
あの日から、ミュートしたまま確認していない。そろそろ、動揺しないで読むことができるだろうか。ミュートの設定を外す。未読の通知は3通になっていた。ぱっと画面を開く。


『どういうことだ?どこにいる?』



『話がしたい』



『絶対に、見つけるからな』




上の2通は私が最後のメッセージを送ったすぐ後に送信されてきている。そして、最後の言葉は図書館で抱きしめられた日だ。指が滑って、画面を閉じてしまう。最近まで私のチャット画面をトレイ先輩が開いていたんだと分かって、既読をつけてしまったことに不安になる。でも、まぁいいか。私が返信しない限り、繋がりは絶たれたままだ。



オンボロ寮に帰ってくると、グリムはすでにツナ缶を食べ終えてソファにゴロゴロと寝転んでいた。私も簡単に食事を済ませてさっとお風呂に入る。アイスを食べながら談話室へ行くと、グリムは気持ちよさそうに眠ってしまっていた。動かすのは可哀想に思えて、タオルケットをかけて電気を消し、自分は二階に上がる。

部屋に入ってベッドに潜り、かち、と自室の電気を消した。その瞬間。ぐ、と自分の上に何かが乗ったような重みを感じる。仰向けのまま目を凝らすが、いつものボロボロな天井しか見えない。金縛りだろうか。そっと手を伸ばすと、伸ばしきる前に透明な何かにぶつかった。確認するように触れ直すと、手首をがしっと掴まれた。驚いて「ひゃ!」と声が出てしまう。なんだ、なにに掴まれたんだ、ゴーストか!?

ベッドから抜け出そうともがくと、自分の少し上から「こら、暴れるな」と聞き覚えのある声が聞こえる。ピタ、と動きを止めると、ふわっと何もない場所からトレイ先輩が現れた。片手には黒いローブを持っている。「これな、裏返すと自分の姿を隠すことができるんだ」とトレイ先輩が笑う。「せんぱい、」と思わず声が漏れるが、トレイ先輩には相変わらず聞こえていないようで、先輩は一方的に話し始める。腰辺りにのしかかられて、腕は掴まれたままで動けない。


「やっと準備ができたんだ。この薔薇がなんの道具か分からなくて、文献を見つけるのに苦労したよ」


トレイ先輩が手品のように取り出した薔薇に、息を呑む。どうして、それが。
ガラスの薔薇は花弁が赤く塗られていて、茎は透明になっている。それは、トレイ先輩に魔力を入れてもらう前の状態だった。「なんで、」と尋ねると、ちょうど先輩も説明しようと思っていたらしく、上手く会話が繋がった。


「お前が割ったガラスを集めておいたんだ。形だけ修復して、何に使うものかずっと調べてた。薔薇の形をした魔法道具ってけっこう多いんだ。ある程度まで絞ったところで、ケイトが教えてくれたんだよ。お前が『壊したから無理』って言ったことをな。そこから、一度だけの使い切りの道具に目処をつけて参考文献を漁っていった。ようやく見つけたまでは良かったが、壊れたら魔法が永遠に解けないなんて書いてあったから……少しだけ、挫けそうになったよ」


眉を下げて笑うトレイ先輩に、複雑な心境になる。どうして、そこまでして私を見つけようとしたんだろう。これ以上、動揺させないでほしい。
お願い、期待させないで。


「とまぁ、振り出しに戻ったなぁなんて思ってたんだが、これ、もう一回“正しい向き”で使えばもう一度魔法をかけ直せるんじゃないか?って考えたんだ。……だから、この薔薇を『魔力を入れる前』の状態になるよう『上書き』した」


にこ、と先輩が綺麗に笑う。
ぞくぞくと、背筋に緊張が走っていった。魔力を入れる前の状態になるよう上書きするなんて、そんなめちゃくちゃな話があるだろうか。
先輩にしかできない。『薔薇を塗ろう』
私の血の色に染まった薔薇を、トレイ先輩が愛おしそうに眺める。


「俺の血も混ぜて、花弁を上に向けて魔力を込めれば、“正しく”魔法がかかる」


先輩がマジカルペンをピッと横に振ると、先輩の左腕が少し切れて血が流れる。痛そうなのに、そんなこと気にもかけずにトレイ先輩は自分の血を薔薇に塗りつけた。赤が、もっと深い色に染まる。「指を切ると、ケーキが作れなくなるからなぁ」なんて笑う顔は、恐ろしいほどいつも通りで、これから永遠にかかる魔法を使おうとしているとはとても思えない。



「先輩は、後悔しないんですか」


話しかけても届かないと分かっていながらも聞かずにはいられない。この薔薇を正しく使えば、死ぬまで私と一緒にいることになる。私が嫌になっても、他に好きな人ができても、ずっと、ずっとだ。


「お前、この薔薇を正しく使った場合の『一緒になる』ってどういうことか知ってるか?」


トレイ先輩は、まるで勉強を教えてくれる時のように優しく尋ねてくる。分かっていると答えようとしたが、よく考えたら『死ぬまで一緒』とはずいぶん曖昧ではないか。物理的に離れられなくなるのだろうか。それとも、気持ちが強制的に両思いのままになるのだろうか。いまいち分からなくてトレイ先輩の答えを待つ。


「正解は、どちらか一方でも相手のことを好きじゃなくなった時点で、死ぬんだ。2人とも」


からりと言ってのけた先輩に、驚いて息が詰まる。それって、『死ぬまで一緒』じゃなくて『一緒じゃなくなったら死ぬ』じゃないか!


「さて、俺は使う覚悟があるが、お前はどうだ?……その気があるなら、一緒に握ってくれ」


掴まれていた手首が薔薇の茎に誘われる。ガラスで作られたそれは、トレイ先輩が握っていたせいか温かい。

トレイ先輩を、一生好きでいる覚悟。



そんなの、あるに決まってる。



ぎゅっと強く茎を握りしめる。ちく、と刺で少し皮膚が切れたのが分かった。探るように動いたトレイ先輩の手が、私が茎を握りしめたことを確認すると先輩はにっと笑った。


「じゃあいくぞ」


トレイ先輩が、薔薇に魔力を込めていく。薔薇の茎が、綺麗な緑色に染まっていく。その色が濃くなるにつれて、トレイ先輩の目が、私を捉え始めたことに気がついた。マスタードの瞳が、ゆらゆらと揺れている。「先輩、」と口に出すと、ちゃんと声が聞こえたようで先輩は嬉しそうに笑う。


完璧な薔薇だ。


少し明るく光っている茎から私が手を離すと、私がもう消えないことを確認したトレイ先輩は持っていた薔薇を勢いよく床に叩きつけて割った。
これで、この魔法は永遠に解けない。
割れた音に驚いて思わず目で追おうとしたが、がしっと頭を固定されて唇を奪われる。枕に身体が沈んでいく。かちゃ、と顔に当たった眼鏡が音を立てる。「ん〜〜!!」と抗議の声を上げるが先輩が止まってくれない。一瞬先輩が離れたので息をしようと口を開くと、ぬるりと熱い舌が入り込んでくる。送られてくる唾液に窒息しそうだ。口の横からどんどんこぼれていく。追いかけてくる舌から自分の舌を逃がそうと必死に引っ込める。ぞろりと歯の裏を先輩の舌がなぞっていって、ぞわぞわと腰が浮く。

少しの隙間も空けたくないというように、先輩は全身で私を抑え込んでくる。話をしたい。先輩に、確認したいことがあるのに。
ばしばしと背中を叩くと、ようやくトレイ先輩が身体を少し起こした。私の目を見て「どうした?」なんて聞いてくる。どうしたもこうしたもない。


「先輩、どうして」
「どうしてって……


心外だという顔を作った先輩は、ぐっと私に顔を近づけてくる。「分からないのか?」と囁く先輩はずるい。「分かりません。先輩は、苺ケーキの人が好きなんじゃないんですか?」と、とぼけてみる。「苺ケーキ?」とキョトンとしたトレイ先輩は、思い出すように視線を巡らせて「……あー……そういうことか……」と呟いた。


「お前、あの人にやきもち妬いてたのか」
「なっ!や!……そうですけど!?」
「はは、本当に可愛いなぁ」
……は!?」


愛おしそうに私を撫でる先輩に、悔しい気持ちになる。「あの人のことは、本当にパティシエとして憧れているだけだよ」と優しく諭される。
ここまでの行動をされて、今更その真意が分からないとは言わないけれど、そろそろちゃんと言葉にしてほしい。



「で、先輩はどうしてわざわざ私を追いかけてきたんですか。せっかく!魔法をかけてたのに」
「拗ねるなよ」
「拗ねてません!ちゃんと言ってほしいだけです!……言われたことないから」


「え。……俺言ったことなかったか?」


思わず「はぁ!?」と声を荒げてしまう。1度も!言われたことないよ!どんどんと先輩の胸板を叩けば、「わ、悪かった!」と今度は少し焦ったような顔になる。


「言ったつもりになってたんだよ」
「私、先輩が何も言ってくれないからずっっっと自分は『仮の』彼女だと思ってましたけど?手も繋がないし、キスもなかったし」
「それは、タイミングがなかっただけで……いや、キスはしたぞ」
「え?してないですよ。違う人と間違えてませんか?」
「そんなわけないだろ。だって最近じゃ……。あ、」
「どうしました?」
……悪い、勝手にした。お前が寝てる時に」
……は!?」


思わず口を押さえる。いつだ、全然わからない。
気まずそうに頬をかく先輩を見て、想像以上に思われているのでは、なんて少しわくわくしてきてしまう。


……先輩、本当にわたしのこと」
「好きだ」


「好きだよ」と真剣な目で言われて、今度は思わず涙が出そうになる。情緒が不安定すぎるなぁ、私。


「その、俺がお前をちゃんと好きになった時はもう付き合ってたから、スタートしたと同時にゴールにいたというか……
「それで『好き』って言うの忘れるとかあります?」
「これからはちゃんと言うよ。好きだ。お前が可愛い。……ちゃんと愛してるから」
……ふひ」


ドラマみたいなセリフを次々と言われて、なんだかむず痒くなってきてしまう。なんだこれ、恥ずかしい。にやにやし始めた私をみた先輩は、じとっとした目を向けて「お姫さまの希望に沿ったんだが?」なんて頬を摘んで引っ張ってくる。「いひゃい、せんひゃいごめんなしゃい」と見上げれば、トレイ先輩は引っ張られて歪んだ私の口にもう一度キスを落としてから「は〜〜〜〜」と息を吐いてゴロンと隣に転がった。

そこでようやく気がついたが、先輩は制服のスラックスを穿いてシャツを着ている。もしかして、魔法を上書きすればいいと気がついてから急いでここに来てくれたのだろうか。嬉しくなって先輩に抱きつくと、片腕でぽんぽんと頭を撫でられる。


「もう会えないかと思ったよ」
「あんなに自信満々に『見つけるから覚悟しておけ』って言ってたじゃないですか」
「自分にそう言い聞かせないとやってられなかったんだ」
……勝手なことしてごめんなさい」


もそもそと起き上がってベッドの上で座り直し、先輩に頭を下げる。あの時はあれが最善だと思っていたけれど、よく考えらた私の一人相撲だった。先輩も上半身を起こして、「俺こそ悪かった」と眉を下げる。


「俺がちゃんと言葉にしていれば、ここまでにはならなかっただろ?」
……それは……そうですね」
……
「え、先輩自分で言ったのに不機嫌になるのやめて」


黙ってしまった先輩に急いで「冗談です!」と言えば、「ああいや、反省してるんだよ」と頭を撫でられた。


「先輩いいんですか?私なんかと永遠を誓っちゃって」
「お前こそいいのか?俺は……たぶんお前が思ってるような人間じゃないぞ」
……先輩が、いいんです」


そう言えば、「なら仕方ないなぁ」と先輩がはにかむ。その笑顔が、苺ケーキの人と写っていた写真よりとろけていて、心の中で『勝った』と思った。私はまだまだ良い子になれないらしい。


「私、先輩と一緒に写真が撮りたいです」
……撮ったことなかったか?」
「無いですよ!!ちょっと先輩スマホ貸してください」


パスワードを外して渡してくれた先輩のスマホをタップして、画像欄を開く。私がカメラを起動すると思っていたらしいトレイ先輩が、「あ、待て!」と焦った声を上げる。私は『ほら見てください、ツーショット無いでしょ?』と言おうとしただけだったのだが、目の前に並ぶ自分が写った写真たちに驚いて何も言えなくなる。
「あー……」と手で顔を隠した先輩の耳が、ほんのり赤い。

最初の、遊園地のデートではしゃぐ私や、動物園でアルパカに齧られそうになっている私、それに、トレイ先輩の部屋でうたた寝している私……と、見覚えのない写真がずらっと並んでいる。先輩、私の写真撮ってたんだ。


「先輩これ何ですか」
……
「盗撮ですか」
……悪かったよ」
「いいんです、私もこっそり先輩の写真撮ってるので。たくさん」
「は?」


「ケイト先輩からもたくさん貰ってます」と自分のスマホ画面を見せると、「あいつ……」と呟いたトレイ先輩は再び頭を抱えてしまった。


「トレイ先輩、私のことすっごく好きじゃないですか!」
「好きだよ。さっきも言っただろ?」
「今ようやく実感しました」
……はぁ」


「嬉しいです!」と飛びつけば、「はいはい」と抱きしめられる。そしてそのままベッドに転がされ、上からトレイ先輩に見下ろされる形になった。


……せんぱい?」
「お前、恋人同士でベッドの上にいて、何もないまま寝られると思ってるのか?」
「え、待ってください。私初めてだから、あの、」
……それは良いことを聞いたなぁ」


にっこりと笑う先輩は、さっきまでのしおらしさが飛んでいってしまっている。


「俺の“愛情”が伝わってなかったらしいから、誠意を持って分からせてやる」
「え、あの、本気ですか?今から?」
「今から」
「明日、学校ありますよ」
「ん〜まぁ、なんとかなるだろ」


プチプチと私のパジャマのボタンを外しはじめた先輩に、かける言葉はひとつしか思い浮かばなかった。




……お手柔らかに、お願いします……!」