botanin5
2024-11-14 00:12:50
26244文字
Public トレ監♀(小説)
 

言うこと聞いてくれるよな?

男装がバレないように頑張る監督生と
うんうん可愛いなって思ってるトレイ先輩の話です。
※監は特に設定なし



「サムさん、『僕』を売ってくれませんか!?」


ツイステッドワンダーランドに来てはや数ヶ月。
元々自分がいた世界とは違って、魔法溢れる不思議な国の、おかしな学校で日々を過ごすことにもずいぶん慣れてきた。

これまでの人生を女子として生きてきた私にとって、男子校で馴染めるように男装して生活するのは新鮮だ。上手く振舞えるか不安があったが、この学校には華奢な男子や下手したらそこら辺の女子よりお顔が可愛い男子がたくさんいるため、これまでなんとか誰にもバレずにいる。事情を知るのは先生方だけで、グリムは人間の性別に関心がないらしく、一緒にお風呂に入ったこともあるが特に何も言われたことはない。そして共に時間を過ごすエースやデュースにジャック……いろんな事を乗り越えて結ばれた『男同士の友情』のおかげで、授業や日常生活もどうにか無事にこなしてきたのだが……

足りない。

お金が足りないのだ。


学園長が保護者である私は、必要最低限の生活費を受け取って生きている。光熱費は妖精のお陰でタダだし、水道代も請求された覚えはない。オンボロ寮を日々掃除して建物をどうにか住める程度に保っていることで、色々大目に見てもらっているのだと思う。家具はもともと備え付けだったし、文房具や教科書、実験着に運動着なども支給してもらえたことはありがたかった。部屋着や下着、胸を誤魔化すためのベストはサムさんかに安く売ってもらった。


よって、私がお金を使う大部分は食費であり、あとは洗剤やトイレットペーパーなど諸々の消耗品くらいであることが分かった。この生活が始まった初月に、学園長の指示で家計簿を提出させられ「ふむ、次からはこれくらいで良さそうですね」と生活費を固定されてしまった時は(もっと贅沢にお金を使うべきだった……)と後悔したものだ。一応気を使って節約してしまった。学園長のケチ。こちとらここでは天涯孤独だぞ。

そんなこんなで、私には余分に使えるお金がない。グリムがツナ缶を多めに要求してきた日には、昼ご飯のパンひとつで1日をしのいだ日もあった。グリムが耳を垂れながらしゅんとして「お腹が空いてると上手く魔法が使えねーんだゾ」なんて言い出すと、魔力のない私はご飯を献上するしかなくなるのだ。私たちは2人で1人だが、魔法学校で魔力は必須能力であり、その力の維持は最優先事項となってしまう。グリムが大魔導師になるという夢を叶えるためには、私のサポートが必要だ。

でも、私だってまだ高校生。
お菓子も食べたいし、雑貨も欲しい。お洒落……は、男装の関係でできないが、その分隠れている下着は気に入ったちょっと良いものを買って気分を上げたいなんて思ったりするのだ。

そこで、冒頭の私の台詞に戻る。
ただのアルバイトよりもまめにお金や物品を手に入れる方法を考えた結果、思いついたのが出張サービスだった。
自分をレンタルしてもらい、手伝いの報酬をいただく。掃除洗濯家事代行から、モストロ・ラウンジの手伝いにマジフト部の臨時マネージャー。魔力は使えないがフットワークの軽さを売りにした。『ちょっと人手が足りないから、来て欲しい』そんな時に、気軽に頼めるサービスだ。


サムさんから了承を得た私は、購買内に『監督生レンタルサービス』の宣伝ポスターを掲示させてもらった。このためにマジカメで作った出張サービス専用アカウントのIDを記載しておいたので、手伝いの詳細や報酬についての連絡はスマホに来る。実績がないと利用者は増えないと考えて、初めてのレンタルはカリム先輩に頼んだ。ある程度の収入と、拡散力を期待したことによる人選だ。もちろん失礼にならないよう自分の策略を先輩にも伝えたのだが、面白がって何度か仕事を持ってきてくれて、無事に『監督生のレンタルサービス』は学園内に浸透していった。

この仕事の報酬はマドルよりも物品が多い。モストロ・ラウンジのように収入源がしっかりしている相手先だとお金をもらえることもあるが、商売相手はあくまで学生なので、私の場合はもう使わない中古品をいただいたり、こちらから『このお菓子がほしい』なんて要求して買ってもらうことがほとんどだ。前回、カリム先輩がくれた空気清浄機は、埃っぽいオンボロ寮に美味しい空気を届けてくれるためとても重宝している。
こうして私の身の回りは次第に充実していきつつあった。私の真面目な仕事ぶりにリピーターも増えてきて、今ではほぼ毎日何かのお手伝いをするようになっていた。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎







「じゃあ、こっちの木の薔薇を頼むよ。ピンクでも緑でも青でもなく、赤色で頼むな」
「はーい!任せてください」


今日はハーツラビュル寮からレンタルされている。
明日までに薔薇を赤く塗らなくてはいけないらしく、少しでも人手が多い方がいいからと声がかかった。報酬はトイレットペーパー3ダースの予定だ。ハーツラビュル寮のトイレットペーパーは薔薇のいい香りがしてとても好きなので嬉しい。トレイ先輩の指示を受けて白い薔薇に赤色を塗っていく。以前強制的に手伝わされたが、改めてやってみても花びらの色を塗るというのはおかしな文化だ。


「ここの木の列が最後だからな。そうだ、報酬とは別にケーキを用意してるんだ。よかったら食べていってくれ」
「え!いいんですかトレイ先輩!『僕』、先輩のケーキ大好きなんです。やった!」
「ははは、そうやって喜んでもらえて嬉しいよ。うちの寮生なんて、慣れてきたせいか文句ばっかりだからなぁ」
「プロ級のケーキをほぼ毎日食べられるだけでも凄いのに、贅沢なことですね、まったく」


「そこまでいくと大袈裟だな」と笑うトレイ先輩に少し胸がきゅうと音を立てる。
すぐ喧嘩をふっかけてくる生徒たちや、人使いが荒い先輩たち……我が強い生徒が多いこのナイトレイブンカレッジの中で、トレイ先輩のような温厚な人は貴重だ。荒波のような生活の中で優しく微笑み、甘いものを与えてくれる存在は私の中でオアシスと化していた。トレイ先輩はもはや神である。ここが共学だったら間違いなくモテていたし、私も恋する生徒の1人となっていたことだろう。

恋愛に性別なんて関係ないと浸透してきた時代ではあるが、関係が発展すれば男装であることがバレる可能性は高まる。というより、絶対にバレるだろう。仮にトレイ先輩の恋愛対象に性別が関係なくても、私が『異世界から来た性別を隠している監督生』という存在である限り、恋する資格を持っていない。
そもそもこちらが自然体だったとしても、トレイ•クローバーというハイスペックな存在のハードルが高すぎて、関係が発展できるとは思えないけど。

この仕事が終わったら、次はオンボロ寮に戻ってマジフト部のビブスの修繕をしなくてはならない。レオナ先輩がいるおかげか報酬に何を頼んでも許されるので、マジフト部からの依頼もありがたい。そろそろ何か音楽を聴けるものが欲しいと思っていたところなので、音楽プレーヤーとかお願いしてみようかな。


そんなことを考えながら、少し上にある薔薇にハケを向ける。
脚立を伸ばせばよかったものを、届くだろうと思って横着したのが良くなかった。


……監督生、ちゃんと足場をーー」
「うわっ!?」
「危ない!」


バケツが木の枝に引っかかり、バランスを崩した私は、ペンキをぶちまけながら脚立から足を踏み外した。
襲ってくるであろう痛みに備えて目を瞑ったのだが、自分が思うより早く何かに支えられて落下が止まる。地面に足がついていない。恐る恐る目を開けて下を見ると、力強い腕が身体に巻きついている。倒れかけた私の背後に回って、後ろから抱きしめるように捕まえてくれたらしい。おかげで落ちずに済んだが、反射的に振り返ると至近距離にトレイ先輩の顔があり自分の頬が一瞬で熱くなってしまった。すぐに前を向くと、後ろから回っていた腕が離れたため、ふらつく足を叱咤してトレイ先輩に頭を下げた。


「す、すみません先輩、ありがとうございます」
……その…………怪我はないか?」
「えっと……大丈夫そうです。先輩は怪我してないですか?」
「俺は大丈夫だ。……監督生、ちゃんと足場を確認しないと危ないぞ。手伝ってもらってる身で説教はしにくいが、怪我させたんじゃリドルも心配するし」
「ごめんなさい。次からはちゃんと脚立を伸ばします」


素直に謝ると、トレイ先輩は頭をぽんぽんと撫でてくれた。たしかに、怪我をしなくて良かった。みんなに気を使わせてしまうのも申し訳ないし、次の仕事にも支障が出てしまうところだった。

残りの薔薇を全て塗り終えて、ハーツラビュル寮のキッチンに案内される。エースとデュースも合流して、みんなで美味しくケーキを食べた。今日はフルーツタルトで、色とりどりの果物が宝石のようにタルトを彩っている。うん、やっぱり変わらず美味しい。綺麗さっぱり1つ目のピースを食べ終わったところで、目の前に2つ目が差し出された。


「え、『僕』もう食べましたよトレイ先輩」
「知ってるよ。もう1個食べないか?」
「でも、誰かの分なんじゃ……
「気にしなくていい。……さっき抱えたとき思ったんだが、お前ちゃんとご飯を食べてるか?いくらなんでも軽すぎるだろ」
「た、食べてますよ!」


先ほど落ちかけた時にトレイ先輩が抱きとめてくれたことを思い出して少し頬が熱くなる。『軽すぎる』という評価は個人的には嬉しいが、男装がバレてしまってはまずい。レンタルサービスをしていく中で体力も筋力も前よりついてきたなと思っていたのだが、流石に男子ほど硬く重いしっかりした筋肉はついていないらしい。


「ケーキじゃ物足りないかもしれないけど、少しでも食べてくれ。報酬に食べ物も追加しようか?」
「いえいえ大丈夫ですって、本当にちゃんと食べてますよ!朝昼晩、ばっちりです!だよね、エース、デュース」
「まぁ昼飯はちゃんと食べてるの見てるけどさぁ。監督生って俺らに比べて背も低いし本当に小さいって感じだよな。リドル寮長もだけどさ」
「寮長に首を刎ねられるぞエース。とはいえたしかに監督生は……その……頼りない感じはあるな。僕やジャックと一緒に陸上部で筋トレするか?」


そんな風に思われていたなんて、寝耳に水である。一応男装であることはバレていないようだが、これまで全く身体つきの話題にならなかったので疑いの余地すらないのだろうと考えていた。見た目はこれ以上どうすることもできない。ご飯は本当にしっかり食べているし、体型も女子の平均といったところだ。筋トレに参加するとレンタルサービスの時間が無くなってしまうので避けたい。……もっと太ったほうがいいのだろうか。

トレイ先輩に差し出された2つ目のケーキにフォークを刺すと、先輩は満足そうに笑った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎




昼過ぎから雲が太陽をすっぽり隠して、放課後になると雨が降り出した今日は、寝るまでの間モストロ・ラウンジからの依頼をこなす予定である。今度お店の制服をリニューアルするらしいのだが、キッチンスタッフ用のエプロンに専用のワッペンをつけてほしいと頼まれたのだ。今回の報酬はキッチン用品で、お店で使わなくなった食器や調理器具をいくつか融通してもらえるらしい。ラウンジで出されていたお皿はどれも綺麗でお洒落なものばかりだったから、今度からご飯を食べるのが楽しくなるなぁなんてわくわくしていた。


いざ、これまた報酬で手に入れたアイロンを取り出して1つ目のワッペンを取り付けたところで、玄関に傘をさした客人が現れた。
オンボロ寮に直接やってくるのは1年生の誰かだろうなと当たりをつけてドアを開くと、ケイト先輩だった。「やっほ〜!突然の依頼なんだけどいいかな?」なんて明るく登場したが、腕には大事そうに青色のハリネズミを抱えていて、どうやらその子は怪我をしているらしかった。


「ちょっとハリネズミの中で喧嘩が起こったみたいでさ〜。落ち着くまで寮生たちの部屋に1匹ずつ預けてばらけさせることになったんだよね。この子は本来トレイくんの部屋で預かってもらう予定だったんだけど、部活でトラブルがあって寮に帰ってくるのが遅くなるらしくって。怪我が酷いから部屋に置き去りにするのも心配だし、オレは1匹預かっちゃってるから……トレイくんが戻るまでこの子を見ててほしいなぁ〜って」
「なるほど、分かりました。今日はこの後、寮の中で作業するだけですし、ハリネズミ1匹なら見ていられます」
「よかった〜!夜になったらトレイくんが迎えにくるはずだから、それまで頼んでいい?」
「大丈夫です!」


そっとケイト先輩からハリネズミを受け取る。初めて触れるが、怪我で気落ちしているようで暴れることはなかった。ラギー先輩に動物言語について話を聞いたことはあるが、私の知識ではハリネズミと意思疎通することはまだまだ難しい。エースがハリネズミを逃した時はどうだったっけ。元の世界にいたときは、ハリネズミなんてテレビかぬいぐるみでしか見たことがなかった。両手に乗ったハリネズミは、ぬいぐるみと違ってちゃんと生きた温かさを感じる。指に針が刺さらないように気をつけながら、ハーツラビュル寮へ戻っていくケイト先輩を見送った。

談話室ではなく自室に戻って、クローゼットからちょうど良さそうな籠を見繕ってクッションを入れた。さらにタオルケットを敷いてその上にハリネズミをそっと置くと、そのままいがぐりのような身体を沈めてすよすよと眠ってしまったようだ。小さい生き物はとても可愛い。少し寝顔を眺めてから、ケイト先輩からマジカメに送ってもらった『ハリネズミの世話の仕方』一覧を確認し、エプロンにワッペンをつける作業を再開することにした。







晩ご飯を食べ終わって時間は19時。ハリネズミにもエサを与えると、ここへ連れてこられたすぐよりも元気を取り戻しているように見える。ケイト先輩が帰る前に「どっちにする?」と悪戯っぽい笑顔で見せてきたハリネズミの餌は、片方はドッグフードのような茶色い固形のもので、もう片方の袋に入っていたのはコオロギだった。ハリネズミって虫食べるんだ……と少しショックを受けながら、固形のエサを受け取った。
少し元気を取り戻してエサを食べているハリネズミを眺めていると、コンコン、と自室をノックされた。グリムはドアをノックしたことなんてない。ということは、もしかして……と考えた瞬間、ドア越しに「監督生、いるか?」と声がかかった。トレイ先輩だ。


「こんばんは。出迎えずにすみません」
「玄関でグリムに入れてもらったんだ。先に連絡すればよかったな、すまない」
「大丈夫ですよ。ハリネズミくん、夕方より元気になりました」


「それはよかった」と部屋に入った先輩は籠の中で眠るハリネズミを眺める。「籠のまま連れ帰りますか?」と聞いたら、先輩は「いやいいよ、その前にちょっと借りていいか?」と用を足しに行った。待っている間にハリネズミの荷物を簡単にまとめる。そういえば、この依頼の報酬についてケイト先輩と話すのを忘れていた。世話といってもご飯をあげる以外は籠に入れて寝かせていただけだし、今度購買でお菓子でも買ってもらおうか……そんなことを考えているうちに、トレイ先輩が戻ってきた。


「ケイトから『報酬決めてなかった!』って連絡が来てたんだが、何か欲しいものはあるか?」
「えっと、今度何か購買でお菓子とか買ってください」
「それだけか?」
「世話といっても大したことしてないですし……他の作業も同時進行でやってたので、高いものは貰いにくいです」
「そうか。お菓子……少し冷蔵庫見てもいいか?」
「え?はい」


何か考え事をしている様子のトレイ先輩をキッチンへ案内する。もしかして、今あるもので出来るお菓子を作ってくれるのだろうか?少しワクワクしたが、先輩は冷蔵庫の中を確認すると「うーん……」と再び考える様子見せた。


「どうかしましたか?」
「いや、本当にちゃんとご飯を食べてるのか気になっててな。もし食料が足りないなら、今回の報酬を食材にしようかと思ったんだが……品揃えは結構いいな。作り置きもあるし」
「だから食べてますって!……たしかに『僕』は小柄ですけど……似たような身体付きの人はいっぱいいるじゃないですか」
「それはそうなんだが……


パタンと冷蔵庫の扉を閉めたトレイ先輩が探るようにこちらを向く。そのまま少し近寄ってきて、すい、と手を取られた。大きな手のひらで手首を包まれる。一周した先輩の手のひらは、親指が中指の第二関節まで届こうとしていた。え。トレイ先輩、手でっか。私の手首を簡単に一周できてしまうの?というか、手のひらが硬いし、ハリネズミみたいに温かい。
男の人の、手だ。


「ふえ」
……やわらか」


腕に気を取られていたら、突然頬を優しく摘まれる。トレイ先輩って、こんなことする人だっけ。突然の距離感に心臓がどきどきと音を立てる。まるで何かを確認するようにむにむにと数回頬を弄ばれてから解放された。


……なぁ、監督生。お前を丸一日レンタルすることってできるか?」
「え!?……そうですね、他に仕事がなければ大丈夫ですけど……1日ってことは学校がない日ですよね?」
「あぁ。いつなら空いてる?」
「ええと、今週末はパラパラと仕事が入っているので丸一日は無理ですね……来週の日曜日なら大丈夫だと思います」


スマホを取り出して今月の予定を確認する。
「ハーツラビュル寮で何かあるんですか?」と尋ねると「いや、個人的にな」と笑顔を返される。いつものような、片眉を下げた笑い方だ。来週の日曜日に丸一日レンタルの予約をして、ハリネズミを抱いた先輩は自寮へと帰って行った。一日も使って何をするのかは教えてもらえなかった。一体どんな仕事が待っているのだろうか。もし、何か大掛かりなことならばそれなりの報酬が期待できるかもしれない。

先輩を見送って、少しの不安と大きな期待に胸を膨らませながら部屋に戻ると、残るワッペンを取り付けるために再びアイロンを手に取った。





✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎





来たる日曜日。
私服姿のトレイ先輩によって街へと連れ出された『僕』もとい監督生である私は、真っ先にお洒落なお店のフィッテイングルームへと押し込まれた。
目を白黒させているうちに何着か服を持たされ、「気に入ったものを着てくれ」とカーテンを閉じられる。手元の服を確認すると、ワンピースにスカート、襟がフリルになっているシャツなど……どう見てもレディースである。どっと冷や汗が背中を伝う。女だとバレたのか?いや、朝からここに来るまで、それらしい話題は無かったはずだ。『男子』としては、いきなり女性の服を渡されたら困惑するはず……!とにかくどういうことなのかトレイ先輩に聞くためにカーテンを勢いよく開ける。先輩は長い足を組んで、正面に置いてある椅子に腰かけていた。


「ど、どういうことですか!?これ全部女の子の服ですよ!」
……今日は1日“女装”してくれ」
「は!?……いやいやいや、絶対無理です!『僕』は男ですよ!?」
「お前なら大丈夫だって。それに、レンタルに十分な報酬は先に払ってるんだ。今日1日は俺の言うことを聞くべきじゃないか?」
「うぐっ」


無理ですとごねたが報酬のことを言われてしまえば黙るしかなくなる。一昨日、「日曜日の報酬、先払いでいいか?」とトレイ先輩が持ってきたのは、かなり性能の良い中古の冷蔵庫だったのだ。中古とはいえ、おそらく丸一日のレンタルを3、4日しないと貰えないレベルだ。おそるおそる「どうしたんですか、これ……」と尋ねると、「実家で冷蔵庫を買い換えるって聞いたから、安く譲ってもらったんだ」と言う。中古ショップに売る予定だったものを、頼み込んでトレイ先輩が買ったらしい。「家族間のやりとりとはいえ、本来は中古で売れるものだからな、ちゃんと金を払って引き取ってきたよ」と笑う先輩に、おいくらだったんですか……と聞いたら「うーん……内緒」と微笑まれた。
実家の手伝いをするときに、高校生になってからはお小遣いではなくアルバイトとしてしっかり給金をもらっているという話をちらっと聞いたことがあり、先輩はちゃんとしているなぁなんて思っていたが、使い道が間違っているだろう。これ。決して安くはない報酬を見て、日曜日にいったい何をさせられるんだ……と戦々恐々としていたのだが……これは、かなり予想外の依頼である。


「改めて言うよ。今日のお前の仕事は『女性のフリをして俺と1日デートする』だ」
「な、な……なんで、ですか……?罰ゲームとか……?」
「はははっ、どうしてわざわざ報酬を用意してお前に罰ゲームを仕掛けるんだ?」
……ですよね」


ますます混乱してしまう。報酬に冷蔵庫を用意してまで、トレイ先輩がしたかったことは女装男子とのデートだというのか?男の娘が好きとか?目的が全く分からない。服を持ったまま固まった私をみて、トレイ先輩はまた困ったように眉を下げて笑った。


「んー……仕方ない、正直に言うよ。これは練習なんだ」
「練習ですか?」
「そう。俺のデートの練習だ」
「なるほど……?」


それならなんとなく分かる。女の子とデートする時のために、先にシミュレーションしておきたいということか。だから、男子と出かけるのではなく女の子と出かけて練習したいということなのだろう。とはいえ、練習として他の女の子と出かけたら勘違いさせてしまう危険がある。女装した男子と出かけるのが一番良い練習になるということか。……なるか?

トレイ先輩の話を聞いて自分の納得させていく中で(つまり、トレイ先輩にはデートしたい相手がいるんだ)と気がついた。つきん、と胸に痛みが走る。いや、別に……別に、トレイ先輩には憧れているだけであって、好きとかじゃないし……高校生なのだから、先輩にだって好きな人がいたっておかしくない。もしかしたら、彼女かもしれないし。というか、トレイ先輩って落ち着いているしデートの練習なんてしなくてもよさそうだけれど……それだけ本気だということなのだろうか。
悩んでも考えても仕方がない。立派な報酬を頂いたのだから、しっかり役目を果たさなくてはならない。よし!と頭を切り替える。


「今日1日、頑張ります!でも、期待しないでくださいね?上手に女の子役ができるかは自信ないので」
「わかった。ありがとな」
「トレイ先輩はどんな服を着て欲しいですか?」
「俺が決めていいのか?」
「先輩が実際にデートする時に、お相手が着てる服に合わせた方がいいかと思いまして」
……あー……そうだな、そのスカートとか可愛いと思うぞ」


苦笑いした先輩がさしたのは、淡いライムグリーンのスカートだった。膝が隠れるくらいの長さで、ひらひらと軽くて歩きやすそうだ。ならトップスは白がいいだろうか。サンダルも白にして、踵が高めのものにしよう。トレイ先輩は背が高いし、その方がバランスがいい気がする。男装の影響で短めに切っている髪にスカートが合うか少し不安だったが、たいして違和感は無かった。久しぶりに履いたスカートに心が躍る。

全身を改めて鏡に映すと、あまりに胸が潰れていて違和感がある。トレイ先輩の彼女はこんなに貧乳ではないだろう。勝手に脳内で作成された、ライムグリーンのスカートが似合うトレイ先輩の彼女像は、大人っぽい美乳で髪が長い美人……と具体的になっていた。いっそベストを脱いでしまいたいが、胸を潰すため中に下着を着用していない。それに、急に胸が出てきたらトレイ先輩を驚かせてしまう。出来るだけ胸がぺたんこなことが目立たないように、ボタンが大きく少し柄が刺繍された白いシャツを着ることにした。多少誤魔化される気がしたのだ。それに、『僕』は“男の子”なんだから、胸がないことはおかしくない。


……えっと、着ました」
「お、いいじゃないか。似合ってるよ」
「『僕』に言われても……複雑です」
「はは、悪い悪い」


苦笑いした先輩が「これ着て行きたいんですけど」と店員さんに話しかけ、特に不審がられることもなく会計を済ませた。お金は「デートの必要経費だから」と先輩が全額持ってくれた。今余計なお金を使うより、本番で使った方がいいのではないだろうか。着ていた服や不要な荷物をロッカーに預けて街に出る。帰ったらこの服返そう……妹さんとか着るかもしれないし……と考えながら後ろをついて行くと、ぴた、とまった先輩は道の真ん中で振り返ってこちらを見た。


「そんなに離れて歩かないでくれ。寂しいだろ?」
「えっ、あっ、すみません!」


慌ててトレイ先輩に駆け寄ると、ふっと笑った先輩が手を差し出してきた。これは“手を繋ごう”の合図だろう。目の前にある大きな手に自分の手を乗せると、満足そうに笑った先輩は再び前を向いてゆっくりと歩き始めた。歩調を私に合わせてくれているらしく、むず痒い気持ちになる。え、この人デートの練習とかいる?この様子でも練習したくなるほど不安になるなんて、相手はどれだけハードルが高いんだ……。脳内で作り上げられて行く『トレイ先輩の彼女』はどんどん具体性を帯びていく。

それから丸一日、本当にただのデートをした。
服を買ったお店の周りを少し歩いて、ウィンドウショッピングをした後にランチでドリアを食べた。午後から手を引かれてやってきたのはアクアリウムで、この世界にも水族館があるんだ……と驚いた。フロイド先輩が「小エビ」や「カニ」「サバ」など私でも知っている魚のあだ名をつけていた通り、見知った魚がたくさん泳いでいて『ここは本当に異世界なんだろうか』なんて不思議な気持ちになった。私の故郷の名前はこの世界にないと学園長にバッサリ切られたし、闇の鏡にも帰る場所がないと言われたが、こうして知っている言葉や生き物を目にすると本当にそうなんだろうか?と疑いたくなる。もしかしてこの国は私の故郷とも繋がっていて、いつかの別れなんて来ないんじゃないか。そんな小さな小さな希望を持ってみたが、それは魔獣ならぬ魔魚が泳いでいるコーナーで泡となって消えてしまった。


「疲れたか?少し休もうか」
「はい、」


見知った魚の先にいた見知らぬ生き物の存在への動揺と、久しぶりに履いたヒールの高いサンダルで足が疲れてしまった。
アクアリウム内にあるカフェに入って腰を落ちつける。先輩は、館内を回っている間、魚にはしゃぐ私が人にぶつからないようフォローしてくれたし、暗い廊下を先導するのも完璧だった。今も、疲れた私の様子にも気付いてくれたし、練習しなくてもデートで相手を怒らせることは無いんじゃないだろうか。
魚のクッキーが乗ったミニパフェとオレンジジュースに舌鼓をうちながら、ブルーベリーのケーキをつつく先輩を眺める。


「どうかしたか?」
「あの、先輩は練習しなくてもデート完璧なんじゃないですか?」
……今日、楽しめたか?」
「とっても!わた……『僕』が女の子なら間違いなく彼氏にしたいって思います」
「へぇ、それは光栄だな」


危うく「私」と言いそうになって焦って言い直した。今日1日中、自分が男のフリをしていることを忘れていた気がする。本当は女なのに『女のフリをする男』を演じるってややこしすぎるだろう。会話の中でうっかり女子だと分かるような発言をしていないか急に不安になって、1日の行動を振り返る。トレイ先輩はいつも通りだし、たぶん大丈夫な気はする。もし女の子っぽい行動をしていても『真面目にフリをしている』と思ってもらえたかもしれない。
パフェをすっかり食べ終わってぼんやりと外に目を向けると、窓ガラスに反射した自分の姿が見えた。ショートの髪に白いシャツ。淡いライムグリーンのスカート。メイクをする道具も時間もなかったが、今の私は『女の子』にしか見えない。

少しだけ、気持ちが疲れてしまった。見知らぬ場所に連れてこられて、慣れない環境で、性別を偽って、足りないものを手に入れるために一生懸命働いて、私はどうして、何のために、ここで生きているのだろう。毎日苦労や我慢をしても、かわいいスカート1つ自分のものにできない。たとえ買っても、『男の子』の私は着られない。今日もこの世界の女の子という生き物は、何の疑問もなく好きな服を着て、好きなアクセサリーを身につけて、好きな男の子の隣で笑っている。どうして私はそんな小さな幸せが貰えないのだろう。
今着ている服が、かわいくて。今履いている靴が、かわいくて。

今日が、幸せだ。


……監督生?どうした、ぼーっとして。大丈夫か?」
「あ……すみません。大丈夫です」
「嫌になったか?」
「え?」
「今日は色々と無理強いしてしまったから……女装とか。悪かったな」
「先輩にしては強引で珍しいなと思いましたけど、大丈夫ですよ。むしろ……女装も、ちょっと楽しかったです」


「それなら良かった」と笑うトレイ先輩の視線が優しい。先輩の彼女は、いつもこんな眼差しを受けているんだろうか。

いいな。
浮かんできてしまった羨望を、オレンジジュースを飲んでかき消す。


「練習になりましたか?」
「ん?」
「『僕』……上手く出来てたかなと思って」
「大丈夫だったぞ。本物の『女の子』といるみたいだった」
「あ……、そ、そうですか……
「そのうちまた頼んでいいか?」
「えっ!?」


男装はバレていないようでほっとしたが、次も頼まれるとは思わなかった。また『女の子の服装』でトレイ先輩と出かけることが出来るという期待と、男装だとバレたらどうするんだという不安が心をかき乱していく。それに、他の問題もあった。今日の服だけでなく、ご飯や入館チケットまでトレイ先輩が「依頼の範疇だから」と支払ってくれているのだ。あまりに金銭的負担が大きくないだろうか。『監督生のレンタル』というサービスの利用だとしても、ただの『デートの練習』にお金をかけすぎである。トレイ先輩は普通に見えるけど、もしかして金銭感覚が狂ってたりするのか?


「トレイ先輩、もし次の“練習”があるならお弁当を持って公園とかにしませんか。ほら、公園デートすることもありますよね」
「アクアリウムは苦手だったか?」
「いえ、お金が……!報酬をすでに貰ってるのに、今日1日の色んな支払いまでしてもらって、いくらなんでもおかしいです」
「今まで貯まってたアルバイト代を使ってるだけだぞ?」
「本命の彼女に使わないと意味ないですって!」
「彼女?」


私の剣幕にトレイ先輩は少し驚いたようで目を見開く。その様子を見て、そういえば“彼女”は私が勝手に作り上げただけであることを思い出した。本当のところはどうなのだろうか。この際確認してもいい気がしてきた。


「彼女とデートするための練習じゃないんですか?」
「まだ彼女じゃないんだ」
「え?……あ、えっと……じゃあ好きな人とデートする予定があるから、練習したかったんですか?」
「まぁ、そんなとこだな」


やっぱり「デートする相手」は居るのだ。まだ付き合っていないから、私に練習を依頼してきたのだ。後輩を女装させてまで練習したい相手って、どんな人なんだろうか。ここまでくると絶対に失敗したくないという意志を感じとれる。そんなに好きなんだ。
じくじくと胸に暗雲が立ち込めてくる。いや、私は別にトレイ先輩のことなんて、好きじゃない。

私は、『僕』は、男の子なんだから。
少なくとも、ナイトレイブンカレッジにいる間は『僕』は男の子でいなくてはならない。
『僕』は、トレイ先輩のただの後輩だ。


「トレイ先輩の好きな人って、どんな人なんですか?」
「どうした?そんなことを聞いてくるなんて」
「えっと……次があるのなら、少しでも女装を寄せた方がいいかなと思って」
「やる気だな」


「そうだなぁ」なんて、好きな人を思い出そうとする先輩の顔は楽しそうで、『僕』の胸にもやもやが積み上がっていく。


「いつも一生懸命で、可愛いやつだよ」
「へぇ」
「見ていて飽きないところが面白いな。頑張っている姿に手を貸してやりたいって思うんだが、なかなか甘えてくれないんだ」
……なるほど。……外見とかは、どんな感じですか?中身より、見た目の方が近づけやすいと思うんですけど」
「うーん、見た目か……身長はお前と同じだから気にしなくていいぞ」
「よく着る服とか、どんな感じですか?」
「服かぁ。今日のスカートみたいな感じは、すごく可愛いと思うよ」
「スカートですね。あとは……髪型とか」
「長い髪を高い位置で結んでるのとか、見てみたいかな」
「先輩ポニーテール好きなんですね」


「好きというか、見てみたいってだけだぞ」と笑う先輩は少し照れているようだ。髪が長くてスカートを履く可愛さのある人が、トレイ先輩の好きな人。
頭の中で想像した人物像は結構当てはまっているんじゃないか?『僕』って天才かも。簡単に手帳にメモしてから、服やウィッグが購買で手に入るかサムさんに明日聞いてみようと計画を立てる。


「だいたい分かりました。見た目は近づけるよう頑張ってみます。次のデートまでにスカートとウィッグを用意しておきますね」
「新しく買うのか。じゃあ、この後買いに行くか?」
「いえ、こういう依頼が今後もあるかもしれないので、自分用に後で買うから大丈夫ですよ。この服は今日のデートが終わったら返しますね」
……いやいいよ。俺が持っていても仕方ないし、貰ってくれ」
「そういうわけにはいきません。報酬としても貰いすぎです。トレイ先輩の妹さんとか、こういう服着たりしないですか?」


トレイ先輩は何か考えるように一瞬黙ったが、「妹が着るかは分からないけど、預かっておくよ」と引き下がってくれてほっとする。少し不安になって「好きな子にあげたりしないでくださいね」と言うと「ダメか?」と聞いてくる。ダメだろう。もしかして、普段から他人のためにケーキやタルトを作りすぎて『他人に何かあげる』ことに鈍感になっているのではないだろうか。いや、トレイ先輩は何か頼まれたとき条件をしっかりつけているのを見たことがある。この服も今後なにかに活躍したりするのかもしれない。先輩がお金を出したものではあるが、この服を何かの対価や交渉に使われるのは複雑な気持ちだ。流石に、好きな子にあげることはないかもしれないが、「他人が着た服をプレゼントとして渡すのはダメです」と念を押せば、「ああそういうことか。それはしないから安心してくれ」とトレイ先輩は笑った。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎







日曜日のデートを終えて、『僕』の日常はまたいつも通りに戻っていった。
相変わらずたくさんのレンタル依頼が入り、オンボロ寮で使えるものが充実していく。報酬として日用品やツナ缶を頼むようにしたら、学園長から貰う生活費を貯金に回せるようになり、次のデートに着られそうな服を無事に買うことが出来た。
サムさんから貰ったカタログで注文した服は、淡い青のワンピースだ。前回、トレイ先輩がライムグリーンのスカートを選んでいたので、相手の女の子は寒色系の服が好きなのかもしれないと思った。『僕』もピンクやフリルの服よりあっさりした色が好きだった。悩んでいるうちになんだかんだ自分の好きな服を選んでしまったような気がする。

ウィッグは、買おうと思ってサムさんに相談したら、一時的に髪を伸ばせる魔法薬があると言われ安く売ってくれた。試しに買った日の夜に一錠飲んでみると、ずるずると髪が伸びて、床につくくらいになったところで止まった。まるでホラー演出のように伸びていく髪が怖くて少し泣いた。胸元あたりの長さになるようハサミを差し込んで切る。前髪も伸びてしまい、顔まわりのカットがかなり難しかったが、違和感がない程度には整えることができた。試しにポニーテールで結んでみる。久しぶりの長い髪に、自分の心が踊っていることが分かる。楽しい。ほどくのは惜しい気がしたが、バレると厄介なので一緒に買った魔法を解く薬を服用する。キラキラと淡く光った髪は、瞬きした瞬間に元の長さに戻っていた。切った髪は売れるかと思ったが、一緒に消えてしまった。





マジフト部の臨時マネージャーを終えた今日は、購買で大量のツナ缶を受け取る手筈になっている。3日前に、クルーウェル先生からのレンタルで生徒に配布する資料作りを手伝った報酬だ。紙は全て魔法の印刷機が刷ってホチキス留めしてくれるのだが、なにぶん性格が厄介で印刷中に印刷機が語る自慢話を聞いていないと真面目に仕事をしてくれないらしい。いつもは喋るぬいぐるみに相槌を任せているらしいのだが、今日はぬいぐるみに他の業務があたっていたらしく、『僕』に白羽の矢が立ったのだ。先生方も『僕』の生活状況を知っているので、簡単な手伝いを依頼してくれて助かっている。

「サムさんこんにちは〜」と購買部の扉を開くと、店内にトレイ先輩がいた。手に持っているのはバターや強力粉にチョコレートなどで、またケーキとか作るんだな、と覗き見ながら会釈する。レジに行って、両手で抱えるサイズの段ボール箱をサムさんから受け取る。中を覗くと、高級ツナ缶ばかりで驚いた。クルーウェル先生は、言動が厳しいくせに最後はなんだかんだ生徒に甘い気がする。グリムを太らせてどうする気なのだろう。

ぐっと箱を持ち上げてみると、中身が入った缶が詰まっているだけあってけっこう重い。台車を借りるほどではないが、オンボロ寮へ持っていくまでに何度か休憩が必要そうだ。サムさんにお礼を言ってフラつきながら振り向くと、とん、と胸板にぶつかった。その勢いと箱の重さで後ろに倒れそうになった瞬間、両腕をがしっと掴まれてなんとか前に重心を戻す。会計の順番待ちでカゴを提げて背後に立っていたトレイ先輩にぶつかってしまったらしい。


「びっくりした……ありがとうございます、トレイ先輩」
「いや、立つ位置が近すぎたな。悪い。……重そうだな」
「クルーウェル先生からの報酬で、ツナ缶をいっぱい頂きまして」
「運ぶの手伝うよ。すぐに会計を済ませるから、一旦置いて待っててくれ」
「えっ!?自分で運べますよ!」
「いいから、な?」


ぽん、と『僕』の頭を撫でた先輩はすぐに会計を済ませて、自分が買ったものを『僕』に持たせるとツナ缶が入った箱をひょいっと持ち上げた。トレイ先輩が箱を持つとすごく軽そうに見えてしまう。少し悔しい。他人に甘えなくても生きていけるようになっておきたいのに。もし、この学園に在籍している間に元の世界へ帰る方法が見つからなかったら、学園の外、見知らぬ世界で暮らしていかなくてはならない。もしかしたらその時は、学園長が今度こそ「雑用係」として雇ってくれるかもしれないが。オンボロ寮への道を並んで歩きながらもんもんと考え事に耽っていると、少し前を歩いていたトレイ先輩から声をかけられた。


「また1日レンタルしたいんだが、空いている日はあるか?」
「えっ、あ、ちょっと待ってくださいね」


今月の予定をスマホで確認する。今週の日曜日か、来週の土曜日ならば丸一日空いていた。トレイ先輩にそう伝えると「じゃあ今週の日曜で頼む」と言われたため、予定をスマホに打ち込む。報酬については、冷蔵庫分の仕事をまだ出来ていないから要らないと断った。正直、トレイ先輩に借金している気分だ。レオナ先輩やカリム先輩のように懐にものすごく余裕がある人たちは新品同然の物を中古としてくれる。ピカピカの新品の横に置かれた、まだ真新しい可哀想な中古品を見ると「たくさん使ってあげるからね……!」なんて保護する気分になるので、遠慮なく貰っている。しかし、トレイ先輩は普段のお話を聞く限り大富豪といわけではないし、家のお金ではなく個人のアルバイト代から払ってくれている。そんな先輩からこれ以上物をむしり取ることには、どうしても気分が乗らなかった。


「あの……本番のデートはいつあるんですか?」
「ん?」
「先輩の好きな人とのデートです。……あ、内緒なら別にいいんですけど」
「はは、別に内緒ではないけど……まぁ、そのうちかな」


トレイ先輩が本当のデートを終えたら、“練習”はもうなくなるだろう。少し寂しくて、でも少しホッとした。この先何度もデートを繰り返すことになったら、この優しい人のことを、取り返しがつかないくらい好きになってしまうかもしれない。新しい服や髪を伸ばす魔法薬の話をすると、先輩は「それは楽しみだな」と笑った。

そんな話をしているうちに、そういえば、とモストロ•ラウンジから依頼された仕事を思い出した。明後日、木曜日の夜にラウンジで『クロスドレッシングパーティ』と称した『女装で接客するイベント』が行われる。女装をしたウエイターが注文をとって料理を運ぶのだ。接待はないが、写真はOKという話だ。いつもより時給が高く設定されているため、ラギー先輩が「一気に稼ぐチャンスっス!」と意気込んでいた。ラギー先輩はすごく女装が似合いそうだ。変なファンが付かないか心配である。

女装が似合いそうな生徒にバイトをしないかと声をかけていたらしく、男子生徒の中に混ざるとやはり華奢である『僕』にも声がかかった。衣装はラウンジで貸し出してくれるそうだが、自前で用意すると本来引かれるクリーニング代をバイト代に加算してくれるらしく、服なら持っていますとアズール先輩に伝えていた。どうして持っているのかと訝しげな顔で見られたが、レンタルサービスの過程でと説明したら「……おかしな依頼を受けたりしてませんよね?」と少し心配された。「女装カフェも大概では?」といえば「そうですね」とさらりと返されたので、本気で心配したわけではなさそうだった。

そのバイトの時にワンピースを着て行こうと考えていたが、飲食を伴う業務だしデート前に汚してしまったらまずい。もしまだトレイ先輩の手元にあの時のデートの服があるならば、買い取れないだろうかと考えた。クリーニング代より高くつくので自前で用意する意味はなくなるが、あの日の服がずっと気になっていた。トレイ先輩が可愛いと言ったスカート。他の誰かに着られるよりは、自分で持っておきたい気持ちが尾を引いていた。


「トレイ先輩、前のデートで『僕』が着た服ってまだ持ってますか?あるなら買い取りたいんですけど、」
「ん?部屋に置いてあるが……買い取らなくても、報酬の1つとして渡すよ」
「え、でも、まだ冷蔵庫の分も返せてないので……それじゃ高くついちゃいますよ」
「そうか?」
「そうですよ……
「うーん、しかしな……俺が持っていても仕方がないし……
「妹さんの好みじゃなかったですか?」
「ん?……あー……そんなところだ。……やっぱり貰ってくれないか?報酬じゃなくて、ただのプレゼントって事で。部屋に置いていても場所を取るから困ってるんだ」
「トレイ先輩がそれでいいなら……『僕』に異論はないです。本当にいいんですか?」
「いいよ」
……本音を言うと助かります。実は、明後日モストロ・ラウンジで女装することになって」
「は?」


『僕』の言葉を聞いた先輩の歩みがぴたっと止まる。一瞬考えるように視線を巡らせた後、「何かあるのか?」と聞いてきた。1ヶ月前から結構大々的に、廊下や食堂に『クロスドレッシングパーティ!』と書かれた宣伝ポスターが貼ってあった気がするが、見ていないのだろうか。トレイ先輩はいつも忙しそうだし、目に入っていなかったのかもしれない。事情を説明すると先輩は「あー……そういえばケイトが何か言ってたな……」と遠くを見るような表情を浮かべる。


「それで、先輩とデートした時の服が丁度いいかなって思いまして。自前で用意すればクリーニング代が引かれないらしくて」
「なるほどな……
「今日取りに行ってもいいですか?」
「それは……構わないが。その仕事、やらないとダメなのか?」
「アズール先輩から直接声かけてもらいましたし……バイト代も結構いいので」
……そうか」


トレイ先輩が再び歩き出したので、後に続きオンボロ寮までたどり着いた。グリムが勝手にツナ缶を食べてしまわないように、今日の分を1つだけ取り出しテーブルに置いて、残りは箱ごと普段使っていない部屋に隠して鍵をかけた。今度は今来た道を引き返して、服を受け取るためハーツラビュル寮へ向かう。

トレイ先輩の部屋に着くと、先輩はクローゼットを開けて中から紙袋を2つ取り出した。片方には服が綺麗に畳まれて収まっており、もう片方にはサンダルが入っている。ありがたく受け取ると、トレイ先輩が「紅茶を入れるから、この後予定がなければ飲んでいかないか?」と誘ってくれた。今日の仕事は終わっているし、少しゆっくりさせてもらうのもありかもしれない。さっき出たばかりなのに、慌ただしくオンボロ寮に戻るのも気分が乗らない。トレイ先輩が昨日部活で作ったというキャラメルを頬張って、ベッドに腰掛けて雑談をする。気が緩んできたところで、トレイ先輩が「そうだ」と声を上げた。


「冷蔵庫の分はまだ依頼出来るんだよな?」
「そうですね。あと3日くらいは丸一日働かないと、なんて思ってるところです」
「ふーん。少しずつ使っていくのもありか?」
「もちろん!あんな良い冷蔵庫をいただきましたし、トレイ先輩のお願いならなんでも聞きますよ」
「じゃあ、今もう一回着てくれないか、それ」
「へ?」


少し微笑みを浮かべた先輩が指したのは、先程『僕』が受け取った紙袋だ。今、着る?ここで?なぜ?疑問符を浮かべる『僕』の表情を見た先輩は、困ったように眉を下げる。なんだか、今日の困り顔は少しわざとらしく見える。しかしそれは一瞬で、先輩の表情はすぐに神妙なものになった。


「実は、あのデートの後に思ったんだが……
「え、『僕』なにか粗相をしましたか?」
「いや、それは大丈夫だよ。そうじゃなくて、お前の感想を聞く限りデートまではいいとして、その後部屋に連れてきてからの流れを“練習”してないなと思ってな」
…………えっ!」


なにを言っているんだ。デートの後に部屋に連れてくるって、つまり、その。それを今から『僕』で練習する気なの?何を、どこまで?顔を赤くしたり白くしたりする『僕』の様子を見ていた先輩が、思わずといったように吹き出した。


「くっ、はは、動揺しすぎだろ」
「揶揄ったんですか!?」
「いや、本気。着てくれるか?」
「先輩……こ、後輩の、男子に女装させて、部屋に連れ込む“練習”するって、ヤバい人みたいですよ」
「うーん、そう思われるのは心外だな」


はははと先輩は苦笑いをしているが、あまり気にしている風ではない。もしかして、『僕』が知らないだけでこの世界の男子校生は男同士で“練習”をするのが当たり前だったりするのだろうか。あまり拒否するのはおかしいのかもしれない。でも、練習の間に男装がバレてしまったら大変だ。これは断るべきだろう。


「先輩、さすがに無理です」
「どうしてだ?」
「ど、どうして……って……その」
「もし失敗してフラれたら悲しいんだ。頼むよ」
「全然不安そうに見えないんですが……
「うーん、どう言えばこの不安が伝わるかな。お前は恋人がいたことあるか?」
「えっ、ないですけど」


ふーんと言う先輩は少し楽しそうにも嬉しそうにも見える。後輩の未経験がそんなに面白いのだろうか?たしかに、級友たちも「お前童貞?」「まじ!?彼女できたの?ヤッた?」などと教室で平然と話している。ここは見栄を張って「いましたけど?」くらい言えばよかった。いや、もし細かく聞かれたらすぐにボロが出てしまうだろうから、言わなくて正解か。


「先輩はどうなんですか?」
「ん?」
「恋人です。あ、でもいたことあったら練習しないか」
「交際経験ならあるぞ」
「え!じゃあ練習いらないじゃないですか!……前の恋人で失敗したんですか?」
「はは、そういうことにしておこうかな」


どこまでが本当なのか全然分からない。前に恋人がいたという話を聞いて、少し心が曇る。トレイ先輩は、たぶん、モテる。あんなに余裕があって、優しいのだから。揶揄われているとしか思えないし、このまま雑談で話題が流れていかないかな、なんて期待したのに「で、着てくれるよな?」と追い詰められてしまう。さらに「冷蔵庫……」と小さく呟かれてしまえば、もう言うことを聞かざるを得ない。あの冷蔵庫は容量が大きくて本当に助けられているのだ。

トレイ先輩は引き下がる気がなさそうだし、もうこちらが腹を括るしかない。「分かりました」と紙袋を手に取って、着替えるためにバスルームへ向かう。先輩に「ここで着替えてくれてもいいぞ?」と言われ、確かに“男同士”だから隠れて着替えるのはおかしいかと迷ったが、パンツを見られたらおしまいだ。「スカートを履くところなんて見られたくないですよ」と言えば「それもそうか」と軽く流された。

着替え終わって、鏡に映る自分の姿を確認する。ベストによって胸はぺたんこだ。髪を伸ばす薬は寮に置いてあるので今は使えない。トレイ先輩の言う“練習”がどこまで何をすることなのか分からないので、下手に身体に触れられて男装がバレたらどうしようかと不安になる。うんうん唸っていたら、ふと良いことを思いついた。ドア越しにトレイ先輩を呼ぶ。


「トレイ先輩!」
「どうした?」
「先輩のユニーク魔法って、『僕』の身体を女の子に変えることって出来ますか?」
……やってみたことはないな」
「やってみましょうよ!なんなら、『僕』の顔も好きな子の顔に変えるとか」
「いや、顔はさすがにやめとくよ。……身体なぁ。まぁやるだけやってみるか」
「お願いします」


トレイ先輩の魔法で身体を女の子にすれば、たとえ触られても『魔法で女の子になってるだけ』であり、男装はバレないのではないか。我ながらナイスなアイデアだと思った。もし魔法がかからなくても、もともと女の身体なのだから「上手く魔法がかかりましたよ!」と言えばいい。


「ドゥードゥル•スート」


ドア越しにトレイ先輩が魔法を唱える声が聞こえる。自分の身体にはなんの変化も違和感もない。もともと女の子だから、分からないのだろうか。とりあえずベストを脱いで畳んでいた制服の中に隠す。開放感を得た胸は、下着が無いせいで重力に従って少し下がっており、胸の先端がつんとシャツを押し上げている。想像以上に恥ずかしい気持ちになって、自分が言い出したことなのにかなり後悔の念が押し寄せてきた。
『僕』、いや、私、この状態でトレイ先輩の前に出るの?いや『僕』は男の子で、今一時的に女の子の身体を手に入れただけだ。“男同士”なんだから、恥ずかしくなんてない。

自分に何度も言い聞かせるが恥ずかしい気持ちには勝てず、胸元を腕で隠しながらバスルームを出た。トレイ先輩はベッドに座ってスマホを確認していたようだが、ドアの音に気がついてこちらを見る。「やっぱり似合うよ、そのスカート」と褒められるが、羞恥心が勝って先輩の言葉に反応できない。早く終わってくれ、この時間。

トレイ先輩に手を差し伸べられたため、ベッドに近づいて片手を伸ばす。ゆっくりと引き寄せられ、ベッドに座る先輩の足の間に立って見下ろす。眼鏡の奥からこちらを見上げている、マスタードに染まる瞳を直視できない。もう“練習”のスイッチが入っているのか、先輩の視線はかなり甘い。


「腕、外してくれ」
「あ、」


そっと胸を抑えていた手を取られる。両手が捕まってしまった。子どもに話を聞かせる時のように、『僕』の両手を取った先輩の指が、『僕』の手の平でとんとんとあやすようにリズムを刻む。服を押し上げる自分の胸が、トレイ先輩の視界に入っていると思うとクラクラした。


「触っていいか?」
「えっ、あ……は、い」


『僕』たちは“男同士”。頭の中で再び何度も何度もそう繰り返す。
そっと伸びた先輩の指先が、シャツ越しに胸をゆっくりと押し上げる。重力に逆らって上がろうとする指たちが胸に沈んでいく。ぶわ、と自分の熱が上がった。トレイ先輩が、触ってる。
そのまま手のひらで包むように先輩の右手が胸を覆う。先端が手のひらに当たるのがわかった。先輩も、その存在に気付いただろうか。優しく、優しく手に力が入っていく。むに、と丸い胸の形が崩された。腰が震える。
これは、ダメだ。今すぐやめたい。


……女の子になっちゃったな」


先輩の声が頭にぐわんと響いて、耳まであつい。囚人を捕らえるように『僕』の両手を纏めているトレイ先輩の左手を振り払って、立ったまま、目の前に座るびくともしない体躯に抱きついた。『僕』は、『僕』は男の子だもん。胸に触れていた手が離れて、「大丈夫か?」と背中を優しくとんとんと叩かれる。一応頷いたが、正直いっぱいいっぱいで、大丈夫ではない。“練習”ってどこまでやるんですか。問いたいのに自分の口からは浅い呼吸しか出てこない。先輩の肩に顔を埋めれば、彼が、ふ、と笑ったのが分かった。

心臓の音はどきどきなんて可愛いものは通り越していて、今すぐ破裂してしまいそうだ。背中に回っていた先輩の手が、背骨を辿るようにゆっくりと下りていく。腰まできたところで、脇腹を通ってシャツとスカートの間に指が入れられた。ぎく、と肩に力が入る。スカートを脱がされたら、中に穿いているのは女性モノの下着だ。
どうしよう、どうしようと焦っていたら、予想に反してトレイ先輩の手はスカートに入っていたシャツを引っ張り出した。左手で腰を支えられ、右手はシャツの中に入ってくる。見えないから動きが予想できなくて、でも直接肌に触れられているのはよくよく分かって、先輩の手の熱さに余計頭が浮かされる。肋骨をなぞるように滑った手は、再び胸にたどり着こうとする。親指が先に、胸の下に触れた。ふに、と指が沈む。直接、触られている。思わず瞑った目から、ぽろ、と涙が溢れた。先輩の肩に顔を埋め直す。

寮のキッチンで頬を摘んだ時のように、位置を変えては柔らかいところを、むに、とつまんだり優しく押し込まれたりする。「は、」とこぼされた先輩の熱い息が肩にかかる。腰を支えていたトレイ先輩の手はいつのまにか下がっており、太ももまで到達していた。指の力が少し抜けて、今度は皮膚を胸の形に沿って、まるく、優しくなぞっている。
つつ、と滑っていた指が一瞬離れて、ホッとして息を吐いた瞬間、先輩の指が、ぴん、と先端を弾いた。
甘い痺れが一気に背中を駆け上がる。


先輩の手が、『私』を、弄んでいる。
こんなの、もう、『僕』じゃいられない。


「っあ、」と小さく声をこぼしてしまって、『私』はもう一度トレイ先輩の肩に深く深く顔を埋める。先輩の左手はいつの間にかスカートの中に入っていて、優しく太ももを撫でていた。くすぐったくて身体をよじろうとしたが、先端をぐりぐりと親指で押しつぶしながら、残りの指が肋骨辺りまで伸びてぐっと上半身を引き戻される。せんぱい、手がおおきいから。「ふうっ」とか「ひ、」しか言えなくなってしまった私を無視して、太ももをさすっていた先輩の指が、かり、と腰骨を覆う下着を引っ掻いた。あ、もうだめだ。バレてしまう。下着を引っかけた指が、勢いよく下げられて息を飲む。片側だけじゃうまく下りなくて、かわいそうな下着は太ももの中途半端な位置でズレて止まった。

くた、と腰が砕けてバランスを崩し、後ろに倒れそうになると、「おっと」と呟いた先輩がどちらの手も離し私を抱え直して、自分の足を支えとして出してきた。
トレイ先輩の腿にまたがる形になって、腰を下ろした瞬間、そこが、くちゅ、と音を立てた。
ズレた下着が少し冷たい。


……お前、どこまで俺を許す気だ?」


真剣な顔で私を覗き込むトレイ先輩と目があって、これ以上ないと思ってたのにもっと体温が上がった。頭が真っ白になって、目の前の胸板をどん、と押す。でもバランスを崩したのは私で、先輩の腿から滑り落ちて床にぺしゃりと座り込んだ。力が入らない。さっきまで見下ろしていたはずのトレイ先輩が、今度は私を見下ろしている。は、と浅い呼吸を整え直す。
震えた小さい声しか出ない。


「も、もう終わりにしましょ?先輩」
……
「せんぱいは、練習、しなくても大丈夫です」
……そうか」
「もう魔法も終わりです。ぼ、『僕』は男の子に戻りまーー」
「かけてないぞ」
……え?」

「かけてないんだよ、魔法」


先輩が何を言ってるのか、一瞬理解できなかった。
だって、そんな、え?バスルームからこの姿で出てきた時、あんなに平然としてたじゃないか。


「さっきは言葉を唱えただけで魔力を込めてない。魔法なんてかかるはずないんだ」
……なんで」
「いつ音を上げるかなと思ってたのに、ここまで触らせて。俺はお前が心配だよ」
「トレイ先輩、なに言って」
「もし同じような依頼が来たら、また“女の子のフリ”でもして触らせるのか?自分は“男の子”だから平気ですって?……は、笑えないな。今のとろけたその顔、鏡で見てみるか?お前は、どっからどう見ても“女の子”だよ」


トレイ先輩の言葉に頭を殴られたような衝撃が襲う。先輩には男装がバレていた。いつからだろう。早く、早くここから離れたい。かっと顔が熱くなって、先輩の視線が怖くなって、逃げ出すために立ち上がろうとした。砕けている腰が足に力を入れてくれなくて、伸びてきたトレイ先輩の腕に簡単に捕まってしまう。


「逃すわけないだろ、こんな状態で外に出せるか」
「っ!」


ぐい、と引っ張られてベッドに身体が突っ込む。一瞬拘束する手が離れたので、そのままベッドを這い上がって、膝を擦りながら奥まで逃げて壁に背をついて振り返る。天蓋が覆うベッドは少し暗い。ぎし、と軋む音を立てながら先輩が近づいてきて、私の逃げ道を塞ぐ。もうだめだ。

先輩は私に触れないまま両側に手を置いて、ぐっと顔を近づけてきた。ゆっくり、優しく、そっと唇が奪われる。とん、と壁に頭をぶつけた。


「俺のものに、なってくれないか」


こつんとおでこを合わせて、離れた口から発せられた言葉に、頭がクラクラする。追い詰められたウサギみたいに、ふるふる震えることしかできない。こんな甘い香りの先輩に捕らえられてしまったら、もう自分で立つことなんてできなくなってしまう。胸の奥はもう張り裂けてしまいそうに切ない。


「せんぱい、なんで」
「教えただろ?俺の好きな人」


ぐるぐると先輩の言葉を思い出す。

『いつも一生懸命で、見ていて飽きなくて、頑張っている姿に手を貸したいけど、なかなか甘えてくれない』


「先輩、いつもそんなふうに私を見てたんですか」
……そうだよ。一生懸命なお前が可愛くて、頼ってほしいって思ってたんだ」
「だって、私は……この世界で1人だから、全部自分でやらなきゃいけなくて、……グリムの夢も叶えてあげたくて」
「うん」
「だから、色々我慢して、……男の子として、頑張ってたのに」
「えらいよ。お前は本当に頑張ってる。いや、充分頑張った。……だから、その抱えてるものを俺にも持たせてくれないか?」
……ふ、え」


トレイ先輩の視線が、甘くて、優しくて、この人は私を全部受け止める気なんだと分かった。気が抜けて、ぽろぽろと涙が溢れる。そっと腕を伸ばしたら、先輩は大事そうにぎゅうと私を抱きしめてくれた。もう手を離すことなんて出来なくなってしまうじゃないか。


「トレイ先輩、好き。好きです」
……流されてないよな?」
「ずっと、好きでした」
「はは、そうか……嬉しいよ。……俺もお前が好きだ」


もう一度、優しいキスがおりてくる。
これからは、1人で頑張らなくていいんだ。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「『私』のこと、見つけてくれてありがとうございます」


トレイ先輩が入れ直してくれた紅茶を受け取って、今は並んでベッドに腰掛けている。この世界にきてから1番の多幸感にあふれている。トレイ先輩が私の正体に気付いてくれなかったら、今も、これからもずっと“男の子”として頑張っていたのだろう。
まだ他の人に性別について打ち明ける気はないが、『自分のことを分かってくれている人がいる』ことが私の肩を随分軽くした。紅茶をすすって横に座る先輩を見ると、少しだけ考えるような顔つきをしている。


……お前はもう少し、行動に気をつけた方がいいかもしれないな」
「え?」
「俺が最初に違和感を持ったのは、薔薇を塗ってる時に足を踏み外したお前を抱えた時なんだ」
「あー……あの時は……ありがとうございました……
「軽かったこともだけど、支えるために胸周りに腕を回したとき妙にぐにって手がブレたから、中に何を着てるんだろうって疑問に思ってな」
「うわぁ……


ベストを着ていても、触るとやはり違和感があるということか。うまく着こなせていない気はしていたが、気をつけなくてはならない。


「それだけじゃまだ、本当に華奢なだけかもしれない、とも思ったんだが……まぁ、少し引っかかる行動がいくつかあってな。試しにデートに誘ってみたら、サンダルも簡単に履きこなしていたし、“女装”とはいえ抵抗なく女性用のレストルームにも入っていったし、もう確信してたよ」
「なるほど……
「これからも男装のまま過ごすんだろう?」
「はい。そのつもりです」
「なら、常に危機感を持って行動しないとな。俺もフォローはしていくつもりだが……とりあえず、明後日のバイトで女装するのは無しだ」
「え!?」


明後日といえば、モストロ・ラウンジで行われる『クロスドレッシングパーティ』のバイトの事だろう。当然だろ?とでも言いたげな顔の先輩に、つい口を尖らせてしまう。


「え、いやです!だってすごく時給がいいんですよ?急に行かないって言ったら、アズール先輩も困ると思いますし」
「そこで油断してバレたらどうするんだ?俺は流石に参加できないし、心配なんだよ」
「でも、でも」
……はぁ。……給料が同じなら、“女装”じゃなくてもいいよな?」
「え?」


困ったようにため息をついたと思ったら、すぐに口角をにやり、と上げた先輩がこちらにスマホを向ける。マジカメのチャットらしい。


「実は、さっきアズールに連絡をとってたんだ。俺のケーキのレシピをいくつか教えるから、業務をキッチンに変えてくれってな。時給はそのままで、もちろん女装はなし」
「え?え?」
「もうアズールから了承は得てるぞ」
「えーー!?」


私が着替えて部屋を出た時、スマホを触っていたのはこの連絡をしていたからだったのか。チャット画面にアズール先輩から『いいでしょう。僕も馬に蹴られたくはないので』という返事が来ている。


「トレイ先輩、アズール先輩に男の子が好きって思われてますよ」
「ん?別にいいよ。相手がお前ならなんでも」
……へへ」


「長期休暇になったらうちでバイトしないか?」と誘われて、大きく頷く。トレイ先輩と一緒にいられるうえに、お金も稼げるなんて一石二鳥だ。



これからどうなるのか、何が起こるのかなんて、未来のことは分からないけれど。


2回目のデートの約束の日。
青いワンピースを着てポニーテールにした髪を揺らしながら現れた私を見て、少し頬を染めた先輩の姿を目に焼き付けると、きっとこの先も、隣にはこの人がいるんだろうなぁなんて思えて、大きな手をぎゅっと握りしめた。