botanin5
2024-11-14 00:11:19
18568文字
Public トレ監♀(小説)
 

君に気づくのが遅かった

「妹みたいに思ってる」とフラれるところから始まる話。ハッピーエンドだよ。
※監は特に設定なし
※ モブ君が、ものすごく活躍します。良い子です。(名前無し•外見の描写なし) 監督生←モブ君あり


言うつもりなんて全くなかった。
最後の審判を下される瞬間って、こんな気持ちになるんだろうか。
背中をダラダラと冷や汗が伝って、首は絞められたかのように勝手に呼吸を細くする。
天国に行けるイメージなんて、全く沸かない。この先で待つのは地獄だけ。死神が鎌をもたげたようで、目の前は真っ暗だ。

ちら、と隣に座るトレイ先輩を確認する。
ここはナイトレイブンカレッジの図書館で、私たちは勉強をしていた。正確に言えば、この世界の知識が乏しく授業についていくのが難しい私は、トレイ先輩に勉強を教わっていた。
これは特別珍しいことではなく、先輩には週に何度も時間を割いてもらっていた。勉強を教えてもらう代わりに、私はケーキ作りをお手伝いしている。
今まで何度も2人きりになることはあったのに。

ぎり、と唇を噛む。
「好きです」と口に出したことを、これほどまで後悔したことがあっただろうか。
本当に、言うつもりなんて全くなかった。思わず、という表現がぴったりくる状況だった。

いつもだったら1人では解けない難易度の問題が、初めて最初から最後まで先輩にアドバイスをもらうことなく解けた。それが嬉しくて、「解けました!」と勢いよく先輩の方を向いたところ、トレイ先輩は嬉しそうに笑って「よく出来たな」と私の頭を撫でた。
胸が、きゅうと音を立てて、トレイ先輩の笑顔しか目に入らなくて、本当に、自然と、「好き」という言葉が口をついて出た。

私の頭に手を置いていた先輩は、一瞬固まると、その手を下ろして困ったように眉を下げた。

あ、ダメだ。

そんなこと、すぐに分かった。先輩は言葉を探すように視線を彷徨わせる。私が出来るだけ傷つかないように話をするつもりなのだろう。トレイ先輩は、優しいから。


「監督生」


周りの雑音が、遠く感じる。図書館には他にも人がいるのに。
続きを聞きたくない。今すぐ逃げ出したい。時間を、巻き戻せるなら戻したい。どうして私は、魔法が使えないの。
トレイ先輩の顔を見つめると、いつもみたいに少し微笑んでいる。困ったように眉を下げて。

あぁ、耳を塞いでしまいたい。


……気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも、お前のことは妹みたいに思っているんだ。気持ちに応えることはできない」


ざっくりと、胸を斬りつけられた気持ちになる。好意なんて、私が一方的に持ってるだけなのに、どうして傷つけられた気分になるのか。なんとまぁ、勝手なことだ。
いもうと。妹か。1人の女性とすら思われていないことに、心の中で自嘲する。
しかしまぁそれは自然なことかもしれない。男子校に馴染めるように私は男装しているし、女らしい様子を先輩に見せた覚えはない。普段から関わりのない生徒は私が女であることに気づいてないくらいだし、『弟みたい』と言われなかっただけ、マシなのかもしれない。


……ですよね、突然変なこと言って、……困らせて、ごめんなさい」


声は、震えた。
仕方ないだろう、覚悟がないまま口から出た言葉の結果を、覚悟をもって受け止められるわけがない。
まずい、泣きそう。

これ以上先輩と一緒にいられるわけがなくて、目を合わせられないまま荷物をまとめ「すみません、今日は帰ります」と呟いてその場から逃げ出した。
トレイ先輩は止めなかった。
きっと、あえて私をそのままにしてくれたんだと思う。止められても目の前で無様に泣くだけだって、先輩も分かっていたのだろう。




心配してくれるグリムをなんとか誤魔化して、自室にこもってしばらく泣いた。
泣き終えたらお腹が空いて、ご飯を食べたら気持ちが幾分落ち着いた。

スマホを取り出して、メッセージを送るためにトレイ先輩のアカウントを探す。
このままの状態で明日顔を合わせるのは怖かった。

『今日は突然困らせることを言ってすみませんでした。私は全然平気なので、明日からは普通に接してもらえたら嬉しいです』

送信ボタンを押すまで、10分かかった。
ふぅ、とひと息ついたところですぐに音が鳴り、反射的に確認するとトレイ•クローバーの名前が目に入る。
いつになく早い返信に、(先輩、気にしてくれてたんだな)と複雑な気持ちになった。

『分かった。明日からまたよろしくな』

簡潔な文に、強張っていた肩が緩む。
余計な言葉をなにも添えない、そんなところがありがたかった。
明日からも普通に出来るだろうか。いや、普通にしなくてはならない。
これ以上、先輩に迷惑をかけたくないのだ。








✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎









「なぁ〜早く食堂に行くんだゾ!オレ様のデラックスカツサンドが売り切れちまう〜〜!」
「まって……お願い、お願いだから後3分ちょうだい」
「そんなこと言って、もう10分経つんだゾ。もう知らねー!オレ様は中に入るんだゾ!」
「あぁ、グリム〜〜〜〜」


てくてくと食堂に入ってしまったグリムに向かって伸ばした手が空を切る。

『普通に接してもらえたら嬉しいです』

そんなメッセージを送っておきながら、ついついトレイ先輩を避けてしまってもう3日が経った。
遠くからでも、あの柔らかそうな緑の髪が見えた瞬間に歩く方向を変えてしまう。
今日も、食堂の奥でケイト先輩と楽しそうにご飯を食べている先輩の姿が見えて、足を止めてしまっていた。

グリムが呆れるのも当然である。さらには、エースやデュースと一緒にいるとトレイ先輩に会う可能性が高まりそうで、最近は彼らと休み時間を共に過ごす頻度すら減ってしまった。自分がダメすぎて嫌になる。でも、どうしても食堂に入る気にはなれなくて、購買へ向かうためにくるりと方向転換した。


「うわっ」
「あ、す、すみません!」


振り向いた勢いのままぼすっと誰かにぶつかってしまい、反射的に謝罪の言葉を発してしまう。真っ先に左腕のリボンが目に入り、その赤色から相手がハーツラビュル寮生であることに気がついて息が止まりそうになる。恐る恐る視線をあげると、学年が1つ上の先輩だった。リドル先輩と同じクラスで、たしか、選択の体力育成で自分と同じ時間の授業をとっていたはずだ。見覚えがある。少しほっとして、一人称に気をつけながら口を開く。


「ごめんなさい、『僕』、ちゃんと前を見ていなくて」
「あぁいや、俺の方こそ悪かったな。君は、オンボロ寮の監督生だろう?エースたちとよく一緒にいる……今日は一人なのか?」


穏やかに笑うその先輩の様子に、トレイ先輩を思い出して胸がきゅうと締めつけられる。ハーツラビュル寮生特有の頬のスートが、トレイ先輩と同じクローバーであることも、私の心臓を揺さぶった。


「今日は都合が合わなくて」
「そうか。……じゃあ、お昼一緒に食べないか?俺も、今日は友達と時間が合わなくて1人なんだ」
「え、でも」
「まぁまぁ。ほら行こう」


簡単に自己紹介をしてくれた先輩と一緒に食堂に足を踏み入れる。
トレイ先輩を視界に入れるのが怖くて、周りを見回さないように昼食を決めて席についた。誘ってくれた先輩に、どうして自分と?と尋ねたら「なんだか泣きそうな顔してたから」と優しく笑った。もしかしたら、エースやデュースと喧嘩でもしているんだろうと思われたのかもしれない。なんの事情も知らない先輩の存在がありがたかった。ご飯を食べながら話すうちに仲良くなって、連絡先を交換する。

名前の綴りを聞こうと顔を上げると、ちょうどトレイ先輩が通りがかった。
ぴた、と目が合う。
先輩は足を止めた。
ひくりと自分の喉が締まったけれど、何か言わなければと脳内がぐるぐると回る。一瞬視線を下げると、一緒にご飯を食べてくれた先輩が不思議そうにしている。その存在に安心して、トレイ先輩に視線を戻して笑みを作ることに成功した。


「こんにちは、トレイ先輩」
……こんにちは。今日はグリムと一緒じゃないのか?」
「えっと、置いていかれちゃって。今日はこちらの先輩と一緒です」


ハーツラビュル寮生なのだから、先輩方は知り合い同士に決まっている。「お前たち仲良かったのか?」と少し不思議そうにするトレイ先輩に向かって、目の前の先輩は「俺がナンパしちゃいました」と笑っている。


「『僕』が1人でいるのを見て、誘ってくれたんです」
……へぇ、そうか。エースとデュースはどうしたんだ?」
「今日は購買に行くって言ってました」
「お前たちが一緒にいないなんて、珍しいな」
「そんな日もありますよ」


少しどきりとした。エースやデュースも若干避けていることが、バレていたらどうしよう。トレイ先輩は学年も違うし、3日会わないことはそれほど変ではない。でも、エースとデュースはクラスが同じで、これまでいつも一緒にいた。お昼ご飯は毎日一緒に食べていたのだ。
ぐるぐると不安になったところで、いや、トレイ先輩はそんなことまで知らないだろうと考え直す。寮も違うし、妹としか思っていない人間の動向を詳しく知っているとも思えない。落ち着けと自分に言い聞かせる。
すると、トレイ先輩がふと思い出したように口を開いた。


「そうだ。監督生には申し訳ないんだが、この先1週間くらい勉強を見てやれる時間がないんだ。副寮長の仕事や部活の用事が立て込んでいて……しばらくは図書館に顔を出せないんだが、いいか?」


ガツンと頭を殴られたような衝撃で、すぐに返事が出来なかった。自分は散々避けたくせに、先輩の方から「会えない」と言われただけで拒絶された気分になるなんて、勝手すぎるだろう。先輩の言葉は建前で、本音は私と接するのが嫌になってしまったのかもしれない。嫌な想像ばかりが浮かぶ。あぁ、本当に、告白なんてするんじゃなかった。声を出したら涙が出そうで固まっていると、私の表情を見て何を考えているのか察したらしい先輩が、少し焦ったような顔つきになる。


「あ、っと、本当に忙しいんだ。次の行事の確認があってーー」
「あ〜あれですか。リドル寮長が『学園長は話を降してくるのが遅い!』って憤慨してましたもんね〜」


「副寮長って本当に大変ですね」と苦笑いする目の前の先輩を見て、胸に燻り出していた不安がすっと溶けていく。トレイ先輩は本当に忙しいだけで、私を避けようとしているわけじゃない。むしろ、この先も勉強を見てくれる意思があって、気にかけてくれているのだ。じわじわと嬉しい気持ちが広がって、同時に自分のダメさに落ち込んでしまう。これ以上先輩に迷惑をかけたくないし、気を使わせたくもない。いっそ、「もう勉強を見てくれなくていいです」とこちらから言い出すべきではないだろうか?でも、それでは先輩と話せる時間がなくなってしまう。フラれた身だが、トレイ先輩との関わりが全くなくなってしまうのは辛い。
どうしようかと悩んでいると、目の前に座る先輩が「そうだ」と声を上げた。


「なら、俺が見ますよ。勉強。1年生の範囲なら俺でも教えられるし」
「いや待て、それはーー」
「だって、トレイ先輩は日々のケーキ作りだってあるじゃないですか。俺いつも暇なんで、任せてください。な、いいだろ?監督生」


この先輩は、完全な善意で申し出てくれていることが分かる。さすが陽キャラが集まると言われているハーツラビュル寮だ。他人への壁がかなり薄いらしい。
これは、トレイ先輩離れのいい機会かもしれない。


「『僕』は教えていただいてる側なので。先輩が良ければぜひお願いします」
「よし、決まりだな!」
……1週間でいいからな」
「大丈夫ですってトレイ先輩!俺、けっこう教えるの上手いんですよ」


トレイ先輩はそれ以上何も言わなかった。
私も「1週間でいいです」とは言わなかった。「これからずっとお願いします」とも。
1週間経ったときにトレイ先輩と2人で向き合うことになるのは怖くて、かと言って、この先ずっとトレイ先輩との関係が切れるのも怖かった。本当に困って勉強を教えてもらっていたけれど、先輩と過ごす時間は私の宝物だったのだ。
それが無くなる未来は、上手く想像できない。









✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎









あの日食堂で分かれた後、トレイ先輩は本当に忙しかったようで、1週間ほとんど顔を合わせなかった。廊下ですれ違って会釈する程度だ。
私の方は、トレイ先輩と話せたことで肩の荷が降りて、エースやデュースと再び行動を共にするようになった。2人は自然に私を迎え入れてくれて、何かに悩んでいたと察していたみたいだけれど何も聞いてこなかった。親友の優しさに涙が出そうだ。

放課後になると、あの時の先輩が時間の空いてる日に根気よく勉強を教えてくれた。先輩は本当に優しくて、面白くて、たまに部屋に誘ってくれて遊ぶようにもなった。
エーデュースやジャック、それから、寮長たちがオーバーブロッドした時に関わった先輩以外と話せるようになったことが新鮮で、しかも、自分が男装であることは全然バレなかった。だから、浮かれて気が緩んでしまっていたのかもしれない。


「え、監督生って……女の子……だったのか?」
「あ……


偶然だった。
休み時間の移動が遅れてしまって、体力育成のために運動着へ着替える時間がなくなってしまった。着替えはいつも更衣室の個室を使うのに、もうみんな授業へ向かっただろうと高をくくって広い部屋で着替えを始めてしまった。本当に迂闊だったと言うほかない。
運動用の胸を潰すベストに着替える直前で、下着の状態を見られてしまった。ここ最近すっかり仲良くなった先輩は、目を丸くして固まっている。誤魔化しようがなくて、おろおろと視線を彷徨わせていると、先輩は「エースたちは知ってるのか?」と尋ねてきた。見られたのがこの先輩でまだ良かったのかもしれない。思ったより落ち着いた質問に驚いて先輩を見ると、表情からは動揺していることが分かった。


「エースもデュースも、私が女ってことは知ってます。もちろん学園長も……
……そうなのか」
「あの、黙っていてごめんなさい」
「いや、……事情があるんだろう?」
「まぁ……


事情といっても、男子校に馴染めるようにという理由だけだ。バレたらバレたで仕方がないと思っていたし、他の人に話をされてもまぁいいかと思っていた。そう先輩に伝えると、少しむっとした顔で口を開いた。


「いや、内緒にしてた方がいいに決まってるよ。ここは男子校だぞ?……俺も、他の誰にも言わないから安心してほしい」
「はぁ……
「他には誰が知ってるんだ?」
「えっ、えっと、ハーツラビュル寮だと、リドル先輩と、ケイト先輩と……トレイ先輩……です」
……そっか。教えてくれてありがとう。とりあえず、今後の着替えは気をつけて。ノックせずに入った俺も悪いけど、いつ何が起こるか分からないから」
「そうですね、すみません。ありがとうございます」
「じゃ、早く着替えて授業に行こう。もうチャイム鳴っちゃったから、バルガス先生に怒られるなぁ」


自分の不甲斐なさに落ち込みながら個室に入って続きの着替えを済ませると、先輩と2人で一緒にバルガス先生からのお叱りを受けた。放課後に居残りでランニングを命じられてしまい、さらに落ち込んでしまう。
エースとデュースに、あの先輩に男装であることがバレたと報告すると、2人からも油断するなと散々怒られてしまった。



放課後。再び運動着を身につけて、バルガス先生に与えられた課題をこなすためにグラウンドに向かう。
ランニングコースを3周。長距離はあまり得意ではないけれど、自分1人じゃないことが救いだった。先ほど先生につけられた腕輪は、補習課題をクリアしたら腕から外れて先生に終了を知らせる機能が付いているらしい。魔法道具って色々あるんだなぁと思いながら、例の先輩と合流して雑談しながらゆるゆると走る。最初は、図書館で話すみたいに勉強についてアドバイスをもらっていたのだが、ふと先輩が何か言いたそうにして、でも言い出しにくいのか口をもごもごさせ始めた。「なんですか?」と改めて尋ねると、先輩は意を決したように私を見つめながら口を開く。


……監督生ってさ。トレイ先輩と付き合ってたりするのか?」
…………はぁ!?」
「あ、こら、走り続けて。バルガスにバレるから。……その……今日で1週間経つだろ?さっきトレイ先輩に会ったんだけど、図書館での勉強会は明日から自分が引き継ぐからって言われて……。このまま俺がやりますよって言ったんだけど、もういいからって。だから、2人は付き合ってて、一緒に勉強してるとかだったのかな〜って思ってさ」
「そんなわけないじゃないですか!」


思わず大きな声が出て、足が止まる。いけない、自分が思っているより動揺しているらしい。
トレイ先輩が、また私の勉強を見てくれる。その事に一瞬で喜びが全身を駆け巡った。しかし、それと同時にきっぱりフラれた事実を思い出す。綯い交ぜになった心情が、私の声を大きくしたらしい。目を丸くして足を止めた先輩を見てハッと我に返る。「走りましょう」と呟いて、静かにゆっくりと再び走り始めた。


……私、フラれたんです。トレイ先輩に。食堂前であなたと初めて出会ってぶつかったとき……実は、食堂でトレイ先輩に会うのが怖くて、購買に行こうとしてたんです」
……そうだったのか」
「トレイ先輩は私のこと妹みたいに思ってくれてるらしくて、だから、その……勉強も、それで……ふぐっ、きっと、……ひっく」
…………


パキンと課題の腕輪が外れたのと同時に、私は涙を隠すためにしゃがみ込んだ。
『妹みたいに思ってる』
そう言ったトレイ先輩の顔を思い出して、胸が握りつぶされたみたいに苦しくなる。失恋って、こんなに辛かったっけ。
早く忘れて立ち直らないといけないのに、トレイ先輩と一緒に勉強した時の楽しい思い出がいくつも浮かんでくる。あの時に戻りたい。私が「好き」なんて言わなければ、これから先も、なんの不安も苦しみもなくトレイ先輩との時間を過ごすことができるはずだったのに。

グズグズと泣いたまま立ち上がれないでいると、私の腕輪を拾った先輩は静かに頭を撫でてくれた。優しい触れ方に、またトレイ先輩を思い出してしまう。でも、違う。大きさも、滑る動きも、温かさも、この手が別人であると脳は告げている。分かっているのに、その手に縋らずにはいられなかった。がばっと涙でぐちゃぐちゃの顔を上げると、驚いた先輩がふいっと手を離す。それが寂しくて、勢いよく目の前の先輩に向かって飛び込んだ。先輩は、「うぅ、トレイ……先輩……」と呻く私の背中を戸惑いながらも優しく撫でてくれた。







「あの、本当にすみませんでした……
「いやいや、俺の方こそ辛い話題を振ってごめんな。貰っていいのか?これ」
「貰ってください……1週間も勉強を教えてもらったのに、なんのお礼もできていないですし。何もしないでいるのは心苦しくて」


泣き止むまで無言で背中を撫で続けてくれた先輩にお礼のジュースを手渡した。1週間分のお礼はジュースでは到底間に合わないので、「また改めて何か贈らせてせてください」と頭を下げる。それではと自寮に戻ろうとしたところで、腕を掴まれて引き止められた。


「あのさ、やっぱりこれからも俺が勉強を教えようか?」
「え?」
「だって、フラれた相手と一緒に勉強するって辛いだろ」
「それは、……そうですけど。でも」

「あれ、補習は終わったのか?」


耳慣れた低い声にびくりと肩が震える。振り返ると、部活帰りらしく実験服を身につけたトレイ先輩が不思議そうにこちらを見つめている。私の腕を掴んでいる先輩の手に、力が入るのが分かった。トレイ先輩に見られていると分かって、放してほしいという気持ちをこめて少し腕を引いたが、掴む手にはますます力が入る。言ったら放してくれるだろうか。口を開こうとしたその時、さらに強い力でその先輩に引き寄せられてしまった。


「トレイ先輩、やっぱり明日からもこいつの勉強は俺が見ます」
……は?……もう仕事は終わったから時間ができたって言っただろう。今まで通り俺が教えるからーー」
「“副寮長”はお忙しいじゃないですか。無理しなくていいんですよ。……それに俺も、監督生のことは『妹みたい』に思ってるんで」
「!!……お前、まさか」


私を引き寄せた先輩が発した言葉に、心臓がバクバクと暴れだし、嫌な汗がじわじわと頬を伝っていく。どうしてトレイ先輩に向かってそんなことを言うんですか。そう問い詰めたいのに、胃に重たいものが溜まったような感覚になって言葉を発したら吐きそうだ。トレイ先輩の声がいつも以上に低くて、その地を這うような音に身が竦む。このままここに居たくない。逃げ出したい。怖くて、先輩の顔が見れない。トレイ先輩はたぶん私に怒っている。きっと、フラれた事を他人にペラペラ話したと気が付いたからに違いない。ああもう涙がこぼれてしまう。後悔ばかりが頭を巡る。
俯いたまま顔を上げることが出来ないでいると、「……では、そういうことで」と言った先輩は私の腕を掴んだままその場から離れた。


トレイ先輩は何も言わなくて、結局どんな表情をしていたのかも分からなかった。
でも、これでもうトレイ先輩との繋がりは完全に断たれたと思った。
それについてホッとするより絶望がまさって、私は自分で思っているよりもずっとずっとトレイ先輩のことが大好きだったのだと気がついた。

だけど、今度こそおしまいだ。

私を連れ出した先輩にオンボロ寮まで送り届けられて、玄関で「……強引なことしてごめんな」と謝られる。何も言うことができなくて、でも先輩のせいではないと伝えたくてふるふると頭を振った。全ては私が招いたことなのだ。

寮内に入ると、談話室でグリムに迎えられる。いつも通り元気にサバ缶を掴んでいる様子にすごく安心して、丸ごとグリムを抱きしめた。最初は「苦しい、離すんだゾ!」と腕から逃れようとしていたが、私が泣いてることに気がつくと「……今日だけなんだゾ」と大人しくすり寄ってくれた。


夜になって、トレイ先輩に謝ろうか散々悩んだ。

『今日はすみませんでした。今まで勉強を見ていただき、ありがとうございました』

そうメッセージを打ち込んだはいいが、指は止まって送信ボタンを押せない。
もうトレイ先輩と話すことができないかもしれない。あの笑顔が、私に向けられることが無くなるかもしれない。メッセージを送って、無視されたらどうしよう。いや、先輩は優しいから、きっと私を許してしまう。そんなことになったら、私は自分で自分を許せない。

やはり逡巡して送信ボタンを押せずにいると、あの先輩からメッセージが入った。

『明日は俺の部屋で勉強しよう。魔法史の教科書を持ってきて』

このまま、ずるずると先輩に頼る日が続くのだろうか。それは申し訳ないと思った。勉強会そのものを、明日で最後にしよう。これからは自分1人でなんとかしよう。聞きにいけば、先生だって質問に答えてくれるし、エースも私よりは賢い。トレイ先輩に勉強を教えてもらえることが嬉しくて、これまで自然と選んでこなかった選択肢が次々と浮かんでくる。
『分かりました』と先輩に返事をして、トレイ先輩へのメッセージは送れないまま朝を迎えてしまった。








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「お邪魔します」
「いつも通り適当に座って。同室のやつは2時間くらいで戻ってくるから、それまで勉強しようか」
「はい。……ありがとうございます」


男装がバレていなかったとき何度か遊びに来たことがある先輩の部屋に通されて、置かれたクッションに座る。
先輩はいつも通りの雰囲気で勉強を教えてくれる。昨夜考えた通り、勉強会は最後のつもりで今日は先輩に渡すお礼の品を持ってきている。ここに来る前に購買で買った物だ。
次の話が持ち上がる前に、お礼を言って終わらせなければならない。いつ言い出そうかとそわそわしていると「……集中できないか?」と先輩が苦笑いした。


「あっ……すみません。教えてもらってるのに」
「いや、昨日の今日で何もなかったように勉強するなんて難しいよな〜。ちょっと休憩するか」


先輩が飲み物を出してくれて、申し訳なさに再度頭を下げる。今のタイミングを逃したらもう言い出せない気がしたので、持ってきていた紙袋を机の上に差し出した。


「あの、これ……勉強会のお礼です」
「別にいいのに」
「そういう訳には……。それで、えっと……もう勉強会は終わりにしようと思ってまして。先輩、今まで勉強を教えていただきありがとうございました」


ぺこりと頭を下げると、先輩は何も言わない。突然すぎて失礼だっただろうか。不安になって顔を上げると、正座の上で握り込んでいた拳に先輩の手が重なった。


「また、トレイ先輩に教えてもらうのか?」
「違います!もうそろそろ1人で頑張ってみようかなって思っただけです」
「俺は監督生と勉強するの楽しいよ」
「えっと……それは、ありがとうございます……?」


戸惑う私に、先輩は「あ〜〜」ともどかしそうに頭を掻く。もう一度、先ほどから握っていた私の手を掴み直すと、意を決したように顔を上げた。


「な、俺じゃダメかな」
「え?」
「監督生が女の子って知ってすぐにこんなこと言うのは、不信感を持つかもしれないけど。男だと思ってた頃から可愛いやつだなって……思っててさ」
「私、この世界の人間じゃないんですけど」
「そんなの入学式の騒ぎでみんな知ってるよ」
……えっと、あの、でも、私はトレイ先輩のことが」
「フラれたんだろ?」
「っ!」
「キツいこと言ってごめん。でも一度考えてみて。俺は、お前のこと大事にできる自信あるよ」


呆然とする私を見て先輩は「もう勉強するの無理だな」と言った。部屋の前で「……今日は寮まで送れない。気をつけてな」と少し赤い顔でドアを閉めた。
ふらふらと夢でも見ているような心地でハーツラビュル寮の廊下を進む。告白されてしまった。どうしよう。先ほどの先輩の顔と、トレイ先輩の顔が交互に浮かんでくる。
まだ私はトレイ先輩のことが好きで、でもこの恋は今後一生叶うことはなくて。あの先輩は良い人だけど、こんな中途半端な気持ちで告白に答えてしまっても良いのだろうか。いっそ、トレイ先輩を忘れるためにも付き合ってみた方がいいのかもしれない。でもそんなの失礼じゃないだろうか。
ぐるぐる悩んでいたせいで、私は目の前に人がいることに全く気がついていなかった。


「わっ!っと、ごめんなさい!……え」
……お前が、この階にいるってことは……
「トレイ先輩!あっ、ぶつかってごめんなさい。ちゃんと前見てなくて。……あの、腕を……


ぶつかった拍子に掴まれた腕を、トレイ先輩は放してくれない。先ほどの告白で頭がいっぱいいっぱいになっていた私は、昨日トレイ先輩が怒っていたことなんてすっかり記憶から抜け落ちていた。次々と起こる予想外の事態に、頭が全然ついていかない。トレイ先輩の大きな手が、自分の腕を掴んでいることを改めて自覚すると、そこから熱を発したかのように頭が沸騰する。
やっぱりトレイ先輩を前にするとダメだ。好き。どうしようもなく好きだ。
動けないでいると、先輩は腕を掴んだままふわりと笑って私を見下ろした。


「少し話をしないか?紅茶を入れるよ。さっき作ったクッキーもあるんだ」
……はい」


トレイ先輩に誘われて、断れるわけがなかった。








✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎









「今日もあいつと勉強会をしてたのか?」
「はい」


すごく久しぶりにトレイ先輩の部屋に招かれて、緊張して背筋が伸びる。勉強会はいつも図書館でしていたから、トレイ先輩の部屋に入るのはマジフト大会の直前に怪我をした先輩を見舞った時以来だろうか。
どうして部屋に招かれたのか、トレイ先輩の意図が全然読めない。そうだ、先輩は怒っていたんじゃなかったっけ。昨日のことを思い出して、先ほどからふわふわしていた頭が一気に冷えていく。先輩に、フラれた話を他人にしたことを謝らないといけない。ばっと立ち上がると、先輩は紅茶をカップに注いでこちらを見ないまま話を続けた。


「いつ男装がバレたんだ?」
「え?」
「ほら、あいつ、お前のこと……『妹みたい』って言っただろ」
「あ……


そういえばそうだった。あの言葉でトレイ先輩は『私がフラれた話をしたこと』と『あの先輩が私を女だと知っていること』に気がついたのだ。
何か勘違いが起こらないように、更衣室での出来事を話す。トレイ先輩は眉を寄せて「もう少し気をつけろ」と言った。ごもっともです……と返すと、先輩は「何もなくて良かったよ」と笑った。しかし、すぐその笑みは消えてしまう。


……部屋に行くのはやめた方がいいんじゃないか?」
「え?」
「あいつは、お前のこと女だって知ってるわけだろ。何かあってからじゃ遅いし、もうーー」
「それは、心配してくれてるんですか」


頭は冷え切っていた。先輩の言葉がするすると入ってくる。先輩は心配してくれている。それは、嬉しい。トレイ先輩が私のことを考えてくれることが、とても嬉しい。でも、それは、


「私のことが『妹みたい』だから、心配してくれるんですか?」


自分の声から抑揚が消えていることは分かっていた。私が不機嫌になるのは、筋違いだ。私が先輩のことを好きなのは、私の勝手で、先輩が私のことをどう思っているかなんて、どうにかできることじゃない。でも。


…………そうだよ」


トレイ先輩の返事に、カッと頭が熱くなった。
もう全てがどうでも良くなって、ジャケットを脱いでトレイ先輩に投げつける。驚く先輩をよそにネクタイを外し、シャツのボタンに手をかけた。全て外すのは煩わしくて、2個ほど取れたら頭から引っこ抜いて、中に来ていた男装用のベストも先輩に向かって投げる。「監督生、なにしてーー」と焦った様子のトレイ先輩を無視してベルトを外し、スラックスが下に落ちた。身につけているのは女性モノの下着のみだ。

固まったトレイ先輩を両手で勢いよく突き飛ばして、ベッドに倒れたところへ馬乗りになる。先輩が持っていた私のジャケットが、ばさりと床に力なく沈む。


「おい、お前なにをーーーー」


うるさい口を、自分の口で塞ぐ。うるさいうるさいうるさい。
目を見開いた先輩は、私の口づけと勢いに驚いたのか何も言わなくなった。


……さっき、告白されたんです。あの先輩に」
……は、」
「だから、そのうちセックスすることがあるかもしれません」
「っ」
「でも、私したことなくて。やり方全然分からないんですよね」


動揺する先輩の手を掴んで、下着しか身につけていない自分の胸に押し付けた。


「だから、この先を教えてよ。『お兄ちゃん』」
「!」


私に触れたトレイ先輩の手がびくっと震える。力が入っていない先輩の手に自分の手を添えて、胸の形を歪ませる。自分でやったのに、温かくて大きい先輩の手が自分の胸を覆っったことでお腹の奥が熱くなった。
トレイ先輩は、空いた手でゆるゆると自分の顔を覆う。耳が真っ赤に染まっているのが見えた。


……やめてくれ、監督生。……頼むから……


今まで聞いたことのないトレイ先輩のか細い声に、力が抜ける。これでもダメか。先輩は、どうあっても私のことを女として見てくれないのか。先輩の手を放すと、それは力なくベッドに落ちた。トレイ先輩の上に乗ったまま、途方に暮れていた。先輩がゆっくりと身体を起こそうとしているのに気がついて、俯いて両肩に手を置き押し戻そうと体重をかける。先輩の顔が見れない。どんな顔をしているのか想像もつかない。


「とりあえず落ち着こう、な?」


頭に乗った手の懐かしさに、ついに涙がこぼれ落ちてしまった。


「私は、トレイ先輩の『妹』じゃない!!!」


先輩の手を振り払って、ベッドから飛び降りる。落ちていたジャケットだけ羽織って先輩の部屋を飛び出した。ドアが閉まる瞬間に「おい、待て!!」と先輩が珍しく声を荒げているのが聞こえてきたが、振り向かずに廊下を走った。自分の不格好さは分かっていたけど、もうどうでも良かった。誰にバレてもいい。
エースとデュースの部屋に向かうために階段を登ろうとしたところで、勢いよくケイト先輩にぶつかった。


「え!?ちょっと、監督生ちゃんなんて格好してるの!?……何かあった?」
…………せんぱい」
「とりあえず一旦どこかに……ここからだとトレイくんの部屋が近いか」
っ、いやです!!」
……うーん……じゃあ俺の部屋に行こうか」


ケイト先輩の部屋に行くと、「とりあえずこれ着て」とスウェットを貸し出された。お礼を言ってすぐに着替える。そういえばケイト先輩にはお姉さんがいるんだっけ。下着姿にさほど動揺しなかったところを見ると、慣れているのかもしれない。


「誰かに襲われた……とかじゃないんだよね?」
「ち、違います」
「良かった〜〜けーくんひやっとしちゃったよ。……トレイくんと何かあった?」
……


トレイ先輩の部屋に行くのを拒否した私の様子を見て、察するものがあったのだろう。ケイト先輩は「今コレしかなくてごめんね。飲める?」と言いながら缶コーヒーを渡してくれた。そういえばケイト先輩は甘いものが苦手だったっけ。「大丈夫です。ありがとうございます」と受け取って、冷たいコーヒーを喉に流し込む。少し落ち着いて、ケイト先輩に事情を話そうとしたところで、先輩のスマホに着信が入った。ケイト先輩は、ちら、と私を確認してからすぐに電話に出る。


「もしもし、どうしたの……トレイくん」
「!」


電話の相手がトレイ先輩だと分かって、ケイト先輩のスマホを奪おうと手を伸ばすが避けられてしまう。


「監督生ちゃん?……うん。ここにいるけど」


トレイ先輩に居場所がバレた。
スマホを奪うことを諦めて、ドアへと走る。私の動きに気づいたケイト先輩が「あ、ちょっと!」っと手を伸ばしてスウェットを掴んできた。逃げられないと察して、とっさに部屋の内鍵をひねってドアに鍵をかけた。これで、トレイ先輩は外から入れない。は、と息をついた瞬間にガチャリとドアノブが回ってぎくりと肩が揺れる。ドアの向こうから「……ケイト?」と呼ぶ声が聞こえた。トレイ先輩だ。


「あー……っとね、監督生ちゃんが内側から鍵かけちゃった」
……魔法で鍵壊していいか?』
「え!?だめだめ、ここオレの部屋!」


ケイト先輩が部屋の鍵を開けないように、振り返って抱きつく。そのままぐいぐいと押しながら歩いて、ケイト先輩を後ろにあったベッドに座らせて、目の前に立つ。「えーっと……監督生ちゃん?」と戸惑うケイト先輩の肩に手を置いて見下ろした。


『開けてくれないか、監督生』


ケイト先輩のスマホから、トレイ先輩の声が聞こえる。


「いやです」
……少し話そう』
「今からケイト先輩に“教えてもらう”んで、もういいです」
「え?何を?」
『だめだ』
「っか、関係ないでしょ!『お兄ちゃん』には!!」


私がそう叫んだ直後に、背後のドアがバキッと音を立てた。「は〜〜嘘でしょトレイくん……」と呟いたケイト先輩が、頭を抱える。恐る恐る振り返ると、崩れたドアの向こうから、マジカルペンを構えたトレイ先輩がこちらを見ていた。目が合う。


「悪いなケイト。弁償するから」
……当たり前」
「行くぞ」
「えっ、やだ、放してくださいトレイ先輩!」


ふわっと身体が浮いたかと思うと、トレイ先輩の肩に俵のように抱き上げられた。逃げようともがくが、先輩の力は一向に緩む気配がない。廊下に出ると、ドアが壊れた音を聞きつけたハーツラビュル寮生たちが何人も集まって来ていた。
その中に、あの先輩の姿を見つけて思わず固まる。トレイ先輩もその存在に気付いたらしく、私を抱えたまま先輩に向かって歩き始めた。それによって、後ろ向きに抱えられている私からは姿が見えなくなってしまう。トレイ先輩の歩みが止まった。野次馬たちは、ケイト先輩の部屋に入って片付けを手伝う流れになっているようだ。先ほどより幾分静かになった廊下に、あの先輩の声が響く。


……どういうつもりなんですか、トレイ先輩」
「悪いけど、お前にはやれない」
「『お兄ちゃん』気取りかよ」
「いや、惚れてる1人の男として……だな」
……は?」


ぶわっと自分の顔に熱が集まるのが分かる。今、先輩はなんと言った?


「監督生がどれだけ泣いたか知ってるんすか」
……
「あれだけ傷つけておいて、今さら惚れてるとか虫が良すぎる」
「何度でも謝るよ。自覚するのが遅かった俺が悪い。……でも、謝る相手はお前じゃないんだ」
……〜〜っ、はぁ。……まぁそうか。俺は……監督生の気持ちを知ってるから、身を引きますよ。……でも、一発だけ殴らせろ!!」
「っ」
「これでチャラです“副寮長”。俺は、後輩としてあなたのことを尊敬してるんで。……でも、隙があれば監督生は俺がもらいます」
……っはは、肝に銘じておくよ」


きっと今、トレイ先輩は眉を下げて笑っていると思った。声色がいつも通りに戻っている。
殴られた衝撃で落ちた眼鏡は、殴った先輩が拾ってくれたらしい。


「で、俺ちょっと監督生と話したいんですけど……
……明日にしてくれないか?」
「ふ、分かりましたよ。……はぁ。……明日フラれることにします」


「じゃあこれで」と先輩の声が遠ざかるのが分かる。
再びトレイ先輩が歩き始めて、お腹に振動が伝わってくる。廊下をすれ違った人たちが、驚いた顔でこちらを振り向く。なんだかいたたまれなくなってきて、トレイ先輩の背中だけ見ることにした。
ガチャっとドアを開ける音がして、先ほど逃げ出したトレイ先輩の部屋に戻ってきた。ぽい、とベッドに放り投げられる。そっと身体を起こして座り直すと、トレイ先輩も疲れたようにベッドへ腰掛けた。もぞもぞと先輩の横に移動する。
見上げると、トレイ先輩は目を細めてこちらを見て、その瞳がいつもよりきらきらしていて、もしかして泣きそうなのかな、なんてぼんやり考えた。
いや、そんなわけないか。トレイ先輩が泣くところは想像ができない。さっき先輩に殴られていた頬が少しだけ赤くなっている。だいぶ手加減されたようだ。そっと触れようとしたら、トレイ先輩にその手を掴まれた。

空いている先輩の手が、私に伸びる。親指が優しく頬を撫でて、手はそのまま後頭部へ回って固定される。ゆっくりと顔が近づいてきたので、目を閉じた。ふっと息を感じてすぐに、唇に柔らかいものが触れた。ちゅ、と2度繰り返し口づけを落とした先輩は、再びゆっくりと離れていく。どんな表情をしているのか気になって目を開けて、じっとトレイ先輩を見つめた。


「たくさん傷つけて……悪かった」
……はい」


眉をすっかり下げてしまった先輩は、苦しそうに見える。後頭部から離した手で私の手を取り直して、膝の上でぎゅうと強く握る。トレイ先輩の大きな手に、私の両手はすっぽり隠れてしまう。


「図書館で、好きって言われたときは、本当に戸惑ったんだ。俺は、お前のことを『妹みたいに思ってる』って……自分で思い込んでいて、そう言った」
……
「でも、あいつがお前と仲良くなり始めてから、ずっと……不快感が、あって。いや、不安かな。お前が、誰かものになるのは嫌だなって……そこでようやく自覚したんだ」


「遅いだろ」と自嘲気味に笑った先輩を抱きしめたくなって腕を動かそうとしたが、私の手は先輩に握られていてそれは叶わなかった。普段大きいと思っていた先輩が落ち込んでいるのがわかって、心なしかいつもより小さく感じて、今度は頭を撫でたい衝動に駆られる。


「先輩は、私のことが好きですか?」
「好きだよ」
「お、女として?」
……ああ」


ふにゃりと全身の力が抜けた。トレイ先輩が、私のことを好き。


「一度フったから、もう……お前に想いを告げるなんて勝手なことはできないと思って」
「だから、さっき私が妹だから?って聞いた時も『そうだよ』って言ったんですか?」
……悪かった……
「先輩、私の胸柔らかかったですか?」
「はっ!?」
「ちゃんとドキドキしてくれた?」
…………したよ。だから、ああいうのはもう勘弁してくれ……心臓に悪い」


再び耳を赤く染めて手で顔を隠した先輩を見て、してやったりだと満足する。
いつも、何事にも動じないトレイ先輩が表情を崩しているところを見られるのは、この位置までこれた私の特権だと思った。そう思ったら幸せで、つい調子に乗ってしまった。


「トレイ先輩かわいい」
……は?」
「なんだか今の先輩は、年上っぽくないです」


にこにこ笑う私を見て、先輩は表情を消した。あれ、私、何かスイッチ踏んだだろうか。
手を離した先輩は、ゆっくりと私の肩を押す。いつのまにか背中がベッドについていた。トレイ先輩が身を屈めて、私の首元にすり寄る。耳に息を吹き込むように、ゆっくりと呟く。


「お前の方が可愛いよ」
「ひゃ、わ、先輩」
……ケイトの匂いがする」
「あ、これケイト先輩のすうぇっ……ええええええ!!」


服の下から不意に手を突っ込まれて、勢いよく上が脱がされる。さっきここで脱いだから、スウェットの下はブラのみで、反射的に腕で前を隠す。今度は下に手をかけた先輩に向かってぽすぽすと蹴りを入れる。どうして急に脱がされなきゃならんのだ!


「わ〜〜〜!こら!先輩何するんですか!」
「さっき全部見ただろ。今さらどうしたんだ?」
「さっきは、勢いっ、で、改まる……っと、無理っ!ひゃっ!!」


スポンと下も引っこ抜かれて、私は下着姿のままベッドにごろんと転がった。待って待って、まだ覚悟ができてない!マウントを取られるわけにはいかないと急いで上体を起こすと、トレイ先輩はベッドから離れてクローゼットの前に立っていた。


「これ着てろ」
……これは、先輩のTシャツですか」
「えっと、下のスウェットは……あった。ほら、これも」
……
「なんで膨れてるんだ?」


きょとんとする先輩から服を受け取って着直す。ケイト先輩のスウェットも大きかったけど、トレイ先輩の服はもっと大きくてかなりだぼだぼになった。半袖のTシャツは七分丈のようだし、ズボンの先からは足が出ない。先輩、足長い……とベッドに両足を投げ出していると、トレイ先輩がちょうどいい長さまで裾を折ってくれた。


……絶対今からすると思ったのに」
「ん?」
「セックス」
「ごほっ!……お前な、恥じらいもなくそういうことを言うな」
「先輩は、私としたくないんですか」


少し顔が赤い先輩が頭を抱えて「……いんだよ」と呟く。よく聞こえなくて、「え?なんですか?」と聞き返すと「……今は無いんだよ、ゴムが……」と言って私を抱えてベッドに座り直した。どうやら私に顔を見られるのが嫌らしい。


「ふふ」
……今度はご機嫌だな」
「トレイ先輩が、私のことを大事にしたいんだな〜って分かって嬉しくて」
「大事だよ。これから先は真綿で包むみたいに優しくする。……もう泣かせたりしないからな」
……っ、もう、泣きそうです」


トレイ先輩が後ろからぎゅっと抱きしめる力を強くして、目元にそっと口付けをくれた。先輩からの視線が甘い。その目がぐっと近づいてきて、それに合わせてこちらも目を閉じて、再び柔らかな唇に触れようとした瞬間ーーー

2つのスマホが同時に通知音を鳴らした。


……ケイト……『新しいドアはこれで』って、前より派手なドアになってるぞ。ちゃっかりしてるな……
「あ、あの先輩からです。『明日少し話したいから、中庭のベンチで』って」
「何時だ?」
「えーっと、16時半ですね」
……あいつ、明日のその時間に副寮長会議があって、俺がいないの知ってて……


はぁ、と頭を抱える先輩にきゅうと胸が締め付けられる。心配してくれているのだ。嬉しい。
今度は『妹』への心配ではなく『恋人』への心配だ。


「ちゃんとお話ししてくるから大丈夫です」
……分かってるよ」
「あの先輩には色々ご迷惑をかけちゃったんで、購買で何か買って行こうかな」
「待て、ならタルトを作って渡そう」
「えっ?今から作るんですか?」
「今からだよ。俺のタルトが美味いのは、お前もよく知ってるだろう?」
「知ってますけど……


今から作るタルトは、間違いなく牽制するための品なんだろうな……なんてむず痒い気持ちになる。

明日、タルトを渡される相手の苦笑いを想像して、少し申し訳ない気持ちになりつつ……、「ほら行くぞ」と急かすトレイ先輩に手を引かれて、ハーツラビュル寮のキッチンへ向かうことになったのだった。