botanin5
2024-11-14 00:00:19
16315文字
Public トレ監♀(小説)
 

全てが手のひらの上

謎のキスマークが出たり消えたりする♣監
※監は特に設定なし



ふわりと甘い香りがして、目が覚めた。
真っ先に視界へ入ってきたのは四角い天井で、次にそれが深紅のカーテンに囲まれていることに気がついた。ふかふかの枕に沈む頭を転がせば、少し狭そうな机に向かってペンを走らせている横顔が見える。トレイ先輩だ。

どうやらここはトレイ先輩の部屋で、私が横になっているのは彼のベッドらしい。
以前この部屋に入ったのは、怪我をしたトレイ先輩の事情を聞くためにグリムたちと一緒に来た時だっただろうか。未だはっきりとしない思考を放置して、紙を走るペンの音を聞きながらぼうっと目に入るものを眺める。

さすがハーツラビュル寮と言うべきか、家具はトランプのデザインが各所に散りばめられていて可愛らしい。自分が元いた世界では、明るく可愛らしい内装は女子の部屋に多い印象があり、未だにここが10代後半の男子の部屋であることに違和感を抱いてしまう。

リドル先輩は可愛い部屋のイメージにぴったりなんだけど。

以前「可愛い」と伝えたときに戸惑っていたリドル先輩の様子を思い出してふっと笑っていたら、ペンの音がピタリと止まった。


「起きてたのか、監督生。身体は大丈夫か?」
「あ、はい……


覚えのない質問に頭が高速回転する。そういえば、私はどうしてトレイ先輩のベッドで眠っていたのだろうか。私たちは所属する寮も違うし、お付き合いもしていない。ただの先輩後輩の関係性だ。私が一方的に淡い恋心を抱いているけれど、特になんの進展もないのでこのベッドで眠る理由はない。
私が混乱しているのを悟ったのか、トレイ先輩はペンを置いて苦笑いしながら身体をこちらに向けた。


「なんだ、覚えてないのか?昼休みにグリムが『新しい魔法を開発したんだゾ!』って食堂で魔法を使おうとしたから、お前が止めただろ。お陰で他に被害は出なかったが、その魔法に当てられて気絶したんだよ」
「なるほど


そういえばそうだった。グリムが思いついた新しい魔法とやらを、見せてみろとエースが煽ったのだ。人がたくさんいる食堂で魔法を使おうとしたので、焦ってグリムの魔法石を掴んだ気がする。咄嗟に手が出ただけで、それで魔法が止まるのかは分からなかったけれど、被害が出なかったなら良かった。


「リドルがエースとグリムに説教し始めたから、俺がお前を保健室に運んで行ったんだ。でも、今日に限って保健室のベッドが埋まっていて……。しばらく寝かせておけば目が覚めるだろうって先生に言われたから、オンボロ寮より近い俺の部屋に連れてきたんだよ。外を通るよりマシかと思ってな。あ、授業のことは心配しなくいいぞ。先生方に事情は話してある」


なるほど、先輩らしい優しい気遣いだ。アフターフォローまでばっちりである。
ベッドで身体を起こして「ありがとうございます」とお辞儀をすると、トレイ先輩は「どういたしまして」と微笑む。つまり、トレイ先輩に運ばれてしまった。重くなかっただろうか。こんなことならお昼ご飯をたくさん食べるんじゃなかった……。そんな意味のない自己嫌悪が頭を駆け巡る。ふと、トレイ先輩のたくましい腕が目に入った。この腕に支えられたのかと思うと、緊張と羞恥で背筋が伸びる。

改めて自分の身体を確認するが、特に怪我もしていないようだし、もう部屋を出たほうがいいだろう。意識もはっきりしている。……はっきりしたお陰で、ここがトレイ先輩の部屋だという実感が湧いてきて落ち着かないのだ。普段からお菓子を作っているからか、部屋の中は自然な甘い匂いに満たされている。

まるでトレイ先輩に包まれているみたいだ。

ぶわっと顔に熱が集まる。何を考えているんだ自分は。この考え方は、少し、いやかなり変態っぽいんじゃないか。もしトレイ先輩に運ばれている最中に意識があったら、私は心臓が爆発していたかもしれない。動揺を隠したくて布団をバサッと避けて勢い良く立ち上がる。


「先輩、ありがとうございました!私はこれで……!」
……そんな急に動いて大丈夫なのか?少し顔も赤いし、まだ休んでいったらどうだ」


心配そうなトレイ先輩と目があって、余計に心拍数が上がる。
大丈夫です!といつもより大きな声が出た。「そんなに元気ならもう大丈夫だな」と笑ったトレイ先輩も立ち上がって、ぽんと私の頭を撫でた。そういうところがずるいのだ。大きな温かい手が離れるのを名残惜しく思いながら、トレイ先輩は誰にでも優しいから、と自分に言い聞かせる。


「あの……明日改めてお礼をさせてください」
「んーじゃあ、明日はこき使ってやろう。……ははっ冗談だよ。気にしなくていい。後輩を助けるのは先輩の特権だよ」


本当にどうしてくれようかこの先輩。優しいにもほどがある。
絶対にお礼してやる。
そう心に固く誓って「寮まで送ろうか」という、これまた優しい申し出を断ると急いで部屋を出て早歩きで廊下を進んだ。



なぜか少しお腹が空いていて、自然と足が食堂に向かっているのだが廊下を歩く人影は少ない。不思議に思って時計を見ると、すっかり放課後になっていた。一体何時間寝ていたんだ私は!道理でトレイ先輩が部屋にいたはずだ。お腹が空いているのも納得である。午後の講義が終わってしまっているなんて……何か課題が出ただろうか。グリムはちゃんと先生の話を聞いていたかなぁ。彼に確認するのは少し不安だ。


「あっ、監督生〜。もう大丈夫なのかよ」


廊下の奥から、軽く手を上げながらエースが近づいてくる。首にはリドル先輩の首輪がはめられていた。私の視線に気がつくと、エースは不満そうに「これ酷くねぇ?今日の夜までこの状態だってさ。鬼寮長め、俺はなんにもしてねぇっつーの!」と口を尖らせた。「グリムを揶揄うからでしょ」と言えば「いーや、お前の監督不行届きだね」と、じとっとした目を向けてくる。

そんなことより今日出された課題を教えて欲しい、と伝えれば「真面目だねぇ」とにやにやしながらも、ちゃんと教えてくれた。思ったより少なくてよかった。メモをとって、部屋に戻った後どこから手をつけようか考えていると、エースがじっとこちらを見つめてくる。何かあった?と聞いても「いや、ん〜〜」と煮え切らない反応だ。


「お前あの後どこ行ってたの?」


何故か少し困惑した顔で聞かれて、そういえばエースはグリムと一緒に、リドル先輩のお説教を受けていたんだっけと思い出す。「トレイ先輩の部屋で寝かせてもらってたよ」と伝えると「へぇ〜ふぅ〜ん」と視線を外して何か考え事をし始めた。保健室のベッドが全部埋まってたらしいよ、と付け加えると「ふぅん。そっか」と少し納得した表情になった。一体なんだと言うのか。今度はこちらが困惑してエースの様子伺っていると、ちらりと私を見て再び口を開いた。


「とりあえず、ボタン閉めたほうがいいんじゃね?いつもより開いてるよ、監・督・生」
「えっ!?」


揶揄うような口調に驚いて見てみると、いつもは上まで留めているシャツのボタンが2つも開いている。そういえば首元がゆるくなっているのに全然気がつかなかった。横になるときに息苦しくならないよう、トレイ先輩が外してくれたのだろう。


「明日、先輩に改めてお礼しないと……
「そうねぇ〜。……あ、そういえば今日の授業でさ〜」


手早くボタンを留めていると、エースは興味が無くなったようで、さっさと話を変えてしまった。








結局、あのまま30分ほどエースと雑談してしまった。オンボロ寮に戻って談話室へ行くと、エースと同じリドル先輩の首輪を付けたグリムがソファでくつろいでいる。声をかければ、少し落ち込んだ様子でとぼとぼとこちらへ歩いてくる。


「今日は悪かったんだゾ……。でも、エースが悪いんだゾ!俺様の魔法を馬鹿にするから……!」


どうやら2人とも反省してないようだなぁと思いながら、グリムを落ち着かせて夕食の用意をする。結局食堂には行かなかったので、すっかりお腹が空いていた。

好物のツナ缶を勢いよく食べるグリムを横目で見ながら、トレイ先輩へのお礼について考える。お菓子……は、トレイ先輩より上手く作る自信がないし、私は魔法が使えないから手伝えることも少ないだろう。薔薇を塗ることならできるけど、それじゃ先輩へのお礼というより、ハーツラビュルへの奉仕活動になってしまう。


「ねぇグリム、トレイ先輩へのお礼は何がいいと思う?」
「んん?なんで眼鏡にお礼なんかするんだゾ?」
「グリムの魔法で気絶した私を、介抱してくれたんだよ」
「あぁ〜!あいつすごかったんだゾ」


ぽんっと手を打ったグリムがうんうんと頷いている。何がすごかったのかと問えば、食堂で私が倒れた後に何があったのか詳しく教えてくれた。
グリムの魔法が止まる瞬間、食堂内は強い光に包まれたらしい。それは何となく覚えている。光っただけで特に影響がなかったようだが、周りは騒然としたようだ。それはそうだろう、昼休みは学園のほとんどの生徒が食堂に集まっていると言ってもいい。そんな場所で魔法を使って目立たないはずがない。さらに言えば、入学時から問題を起こしまくりの私たちだ。目を引かないほうがおかしいだろう。
たまたま近くの席に座ってやりとりを耳にしていたリドル先輩が、すぐに立ち上がって2人を叱りつけたそうだ。エースがいたから、寮長としての責任感が突き動かされたのかもしれない。


「でも、眼鏡のやつそれより先に倒れたお前のこと支えてたんだゾ。……あれは速かった。オレ様、眼鏡がいつ近くに来たのか分からなかったんだゾ」


グリムはすっかり感心しているようだ。
トレイ先輩たちが斜め後ろのテーブル席に座っていたのは覚えている。食堂のように学年関係なく人が集まる場所では、いつも姿を探してしまうのだ。グリムたちが騒がしかったから、私がどこに座っているかなんてすぐ分かったのだろう。でも、倒れた私をいち早く助けてくれたと知ってすごく嬉しくなった。


「やっぱりちゃんとお礼しないとね」
「はいはい!オレ様、お礼はツナ缶がいいと思うんだゾ」
「それはグリムの好きなものじゃん」


やはり、私が出来ることといえば買い出しくらいじゃないだろうか。明日になったらトレイ先輩に欲しいものを聞いて、購買に買いに行こう。うん、それが良い。
自分の案に満足して、夕飯の残りを口にかき込んだ。






「おい、起きるんだゾ〜!」

珍しく私より早く起きたグリムがぼすぼすと布団を叩いてくる。まだ寝ていたくてもぞもぞと寝返りをうったが、薄目で時計を確認して起き上がる。あくびを噛み殺して伸びをすると、グリムが素っ頓狂な声を上げた。


「ふなぁ!お前、首が赤く腫れてるんだゾ!俺様の魔法のせい……?とにかく、早く着替えて保健室に行くんだゾ!」


グリムの剣幕に驚いて、急いで鏡を確認する。そんな激しい痛みは感じないが、腫れているとはどういうことだろうか。
鏡に寝癖がついたままの自分が映る。寝巻きの襟を広げて確認すると、首の左側から鎖骨にかけて赤い鬱血痕が3つあった。これは、腫れているというよりむしろ……いやまて、そんな馬鹿な。昨日お風呂に入っている時は気がつかなかった……というか無かった。流石に、こんな目立つ場所に3つも痕があれば気がつかないはずがない。


「ど、どういうこと?」
「なぁ〜ぼーっとしてないで早くするんだゾ!」
「まって落ち着いてグリム、これ魔法のせいじゃないから!……たぶん!」
……そうなのか?」


それならいいやと、グリムは朝ごはんのツナ缶を探しに部屋を出て行った。今回ばかりは彼の切り替えの早さに感謝しよう。
もう一度鏡を確認し、くっきりとついた痕をおそるおそる指で押す。うん。これはグリムの魔法のせいではないだろう。
というか、キスマークにしか見えない。
だらだらと冷や汗が背中を辿っていく。昨日外されていた首元のボタン。エースの変な反応。


「ははは、そんなわけ……

乾いた笑いが口からこぼれたが、頭の中は1つの考えに占領されていた。
トレイ先輩。いやそんなまさか。


とにかく今日も学校がある。しっかりと上までシャツのボタンを留めて制服に着替えると、グリムと一緒に朝ごはんをかき込んでオンボロ寮を駆け出した。








「エース、ちょっと話があるんだけど」

昼休みにエースを引っ張って廊下の角へ連れ出した。リドル先輩に首輪を外してもらったようで、エースは「なんか用?」と機嫌よくついて来てくれた。


「昨日の食堂でのことなんだけど……
「え、あれはもう良いじゃん。せっかく首輪も外してもらえたんだし」
「それじゃなくて、放課後の!」
「放課後ぉ?」


うーんと思い出す素振りをみせてから、あぁ放課後ねと合点がいった様子で「なんかあったっけ?」と尋ねてきた。その様子に違和感を覚える。友達の首にあんなにはっきりとキスマークがついていたら、忘れるはずがないのでは?それに、デュースならまだしも、エースが面白がらないはずがない。


「昨日……私のボタンが外れてたとき、なんで変な顔してたの?」
「えー俺、変な顔してた?」
「うん、なんだか不思議そうな顔してた」


なんだっけ、と再び思い出そうと首を傾げるエースの様子に少しほっとする。エースが見たときに鬱血痕がなかったのならば、痕がついたのはそれよりも後だろう。トレイ先輩を疑ったことが申し訳なくなった。私は普段から可愛い後輩の一人として扱われているし、そんな相手にキスマークをつけるわけない。切ないけど。お風呂の時には無かったのだから、寝相が悪くて痕がついてしまったのかもしれない。


「あー思い出した。甘い匂いがしたからだ」
「甘い匂い?」
「そー。すげぇ甘ったるい匂いがお前からしてた。倒れた後ずっと授業に居なかったくせにケーキでも食べたのかなと思って、それで変だなって」


トレイ先輩の部屋の匂いが移ったのだろうか。そういえば、部屋の中はほんのり甘い香りがしていた。エースも「まぁトレイ先輩の部屋にいたなら納得だよなー」と笑っている。


「首には何もついてなかった?」
「首ぃ?……別に何も無かった気がするけど、つーか、そんなしっかり見てねぇよ。」
「まぁそうだよね
「なに?落書きでもされてた?ちょっと見せてみろよ」


まずい、エースの目が面白いものを見つけたように細められている。早く誤魔化してこの場を離れたほうがいい。首元に伸びてきた手を「なんにもないから」とやんわり押し返す。エースが思ったより壁に追い詰めてくることに焦っていると、少し離れたところから声がかかった。


「おーい、お前たちそんなところで何してるんだ?」


聞き慣れた柔らかい音にどきりと心臓が跳ね上がる。
ぱっと振り替えると、微笑みながらも不思議そうな目でこちらを見ているトレイ先輩がいた。飛行術の後なのか、運動着の大きく開いた襟元につい目がいってしまう。先輩がゆっくりとこっちに向かって歩いてきたので、エースの手をぐいっと押しのけてこちらから先に駆け寄った。


「こんにちはトレイ先輩。昨日は本当にありがとうございました」
「ははは、監督生は律儀だな。別に大した事ないって」
「ちわーっす、トレイ先輩。監督生、今日は限定のパンがあるから俺もう食堂行くわ」
「あ、うん」


エースの背中を見送りはせず、トレイ先輩に向き直ってお礼について話をする。案の定先輩は「お礼なんていい」と笑うけれど、そうはいかない。


「私の気が済まないので。たぶん買い出しぐらいでしか役に立てないんですけど、必要なものがあれば買ってくるので教えてください!」
「うーん……そうだな……


突然の申し出に、困らせてしまっただろうか。「少し考えるから、今は食堂にいかないか?」と言われたので、一緒に食堂へ入る。人混みの中でグリムたちを探そうとしたが、トレイ先輩に一緒に食べようと誘ってもらったのでついて行くことにした。トレイ先輩はするすると人混みを抜けていくが、背が高いので見失わずに済む。それに、私が歩きやすいように人が少ない通路を選んでくれているようだった。


「あれ、監督生ちゃんじゃーん。どうしたの?エーデュースたちと一緒じゃないの珍しいね」
「俺が誘ったんだ。この人混みの中で探すの大変だろ?」
「もう体調は大丈夫なのかい?」
「はい、ありがとうございますリドル先輩」


ケイト先輩とリドル先輩が座る席にたどり着いた。一緒に座らせてもらったところで、2列奥の席でグリムたちがパンを取り合っているのが見えた。監督生としてはグリムを監視するべきかもしれないが、たまにはいいだろう。落ち着いてご飯を食べられる日があっても許されるはずだ。
すぐに「人が多いから、俺がまとめて買ってくるよ」とトレイ先輩は席を立ってしまった。お礼のこともあるし「私が行きます」と言ったのだが、ぽんぽんと頭を撫でられて椅子に戻される。自分の顔がほんのり熱くなるのが分かった。好きが募って苦しい。「トレイくんってば相変わらず優しいねぇ」と言うケイト先輩に同意して、大人しく待つことにした。


「リドル先輩。昨日は2人を止めてくれてありがとうございました」
「いや、止めたのはキミだよ。ボクは後始末をしたにすぎない。それに、エースはハーツラビュル寮の生徒だからね。寮長であるボクには監督責任がある」
「まぁ、魔法使えない監督生ちゃんにはきつかったでしょ〜。それより昨日はあの後どこにいたの?保健室へお見舞いに行ったけど、いなかったじゃん?」


トレイ先輩から聞いていなかったんだ、と少し驚く。特にケイト先輩は、トレイ先輩と常に色んな情報を共有しているし、当然事情を知っているとばかり思っていた。


「保健室のベッドが埋まってたみたいで、トレイ先輩の部屋で寝かせてもらってたんです」
「ふぅん、午後の授業が1つ終わってから、ボクも様子を見に保健室へ行ったけど……昼休みだけ混んでいたのかな」
……そうかもね〜」
「起きたらトレイ先輩がいて。私、放課後までぐっすり寝入ってたみたいで申し訳なかったです」
「へぇ〜。午後にトレイくんと何回か会ったけど、何も言ってなかったなぁ」


なるほどそっかぁと、にこにこ笑うケイト先輩は楽しそうだ。
何がそんなに楽しいのか聞こうとしたところで、トレイ先輩が戻ってきた。お礼を言ってキノコのカレーライスを受け取る。そのうちに話題は流れていって、ケイト先輩が楽しそうな理由は分からずじまいになってしまった。





「じゃあ放課後になったらハーツラビュル寮のキッチンに来てくれ。よろしくな」
「分かりました」


トレイ先輩が散々悩んでくれた結果、お礼はケーキ作りの手伝いになった。寮生たちの明日のおやつとして作るらしい。いつもこんな風にみんなのためにケーキや料理を作っているんだろう。大変なのに、好きでやっているというのだから尊敬するし、ますます好きになってしまう。
トレイ先輩のことだから、味見と称してケーキを食べさせてくれる可能性が高い。それではお礼にならないので、キッチンに行く前に購買でお菓子に使える材料を買っていこうと決めた。バターや小麦粉なら消費する機会も多いだろうし、買っていって困らせることもないだろう。
なんだか放課後が楽しみだ。






「お、来たか監督生。……それ、なに持ってきたんだ?」
「お邪魔しますトレイ先輩。これはお礼の1つです。手伝いだけじゃ物足りなくて。どうぞ使ってください」
「気にしなくていいって言ったのに。……でも貰っておくよ。ありがとう」


眉を寄せて笑うトレイ先輩に、胸がぎゅっと締めつけられる。喜んでもらえたようで良かった。今日作るのはブルーベリーのタルトらしい。マロンタルトの作り方を教えてもらった時のことを思い出して、あの時は栗を剥くのが大変だったなぁと笑みが溢れる。テキパキと指示を出してくれるトレイ先輩に従って動けば、次々とタルトが完成していく。いつもこれを一人でやっているのだろうか。トレイ先輩の男らしい指が、ブルーベリーを器用に盛りつけていく様子を目で追う。過労で倒れてしまわないか心配になった。


「完成〜!」
「いつもより早く終わったよ。手伝ってくれてありがとな」
「いえ、これくらいいつでも手伝います」
「ははっ、心強いよ。じゃあせっかくだし出来たてを食べようか」


そうくると思いましたよトレイ先輩。
切り分けてくれたタルトが目の前に置かれたと同時に、私は後ろに隠していたもの取り出してトレイ先輩に突き出す。きょとんとするトレイ先輩はレアだ。でも、中身を知れば喜んでくれるに違いない。


「これどうぞ。お礼その2です」
……驚いたな。可愛らしいラッピングだが、中身はなんだ?」
「開けてみてください」


包装をあまり大きく破かないところにも、トレイ先輩の優しさを感じる。箱を開けたトレイ先輩は、さらに驚いたようだった。この顔が見れただけでも、リドル先輩にリサーチしたかいがあった。


「どこで知ったんだ?俺の好物なんて」
「ここへくる前に調べたんです。トレイ先輩はスミレの砂糖漬けが好きだって。購買に置いてあるか心配でしたけど……さすが、ここの購買にはなんでもありますね」
……わざわざありがとな。本当にうれしいよ」


トレイ先輩の溶けたような笑顔に、心の底から嬉しくなる。やっぱり先輩が大好きだ。それと同時に、可愛い後輩扱いしかされないことに胸がちくりと痛む。憶病な私は、好意を口にすることなんて到底できない。せっかく部屋に入れてもらえるくらい仲良くなったのに、変なことを言って距離があいたら悲しい。可愛い後輩として過ごすことが、トレイ先輩の近くにいられる一番の方法なのだ。

隣りに座って雑談しながらタルトを食べ終えると、トレイ先輩はスミレの砂糖漬けに手を伸ばした。いつか手作りして渡してみたい。「うん、美味しい」と笑っている先輩を眺めていると、手に取られた二枚のスミレが目の前に差し出された。


「ほら、口開けて」
「え。いや、私はいいですよ。トレイ先輩に買ってきたのに」
「砂糖が溶けるぞ、ほら早く」


急かされるままに口を開けると、綺麗な花びらが放り込まれる。甘い。薄い花びらは一瞬でなくなってしまった。トレイ先輩の手を目で追うと、その指は再び先輩の口へとスミレを運んでいった。ケーキ作りが得意な上に、こんな可愛いものが好物ってなんなんだ。末恐ろしい。
自分の顔が熱くなるのを隠したくて、思わず机に突っ伏した。先輩は「どうした?眠くなったか」と声をかけてくれる。温かい大きな手が頭に触れて、優しく撫でてくれる。なんだか本当に眠くなってきた。ケーキ作りで、昨日よりたくさん動いたからかもしれない。


「30分くらい経ったら起こすよ。それまで寝てていい」
「ありがとう……ございます」


温かい。ついまどろんでしまう温度だ。トレイ先輩の手が一定のリズムで頭を撫でてくれるのも、ますます睡魔を誘う。これに抗うのは無理だ。お言葉に甘えて少し寝かせてもらおう。ふわふわと漂う甘い香りに包まれながら、諦めて意識を手放した。




ざーっと水が流れる音と、かちゃかちゃと食器がぶつかる小さな音がしてハッと目が覚めた。身体を起こすと背中から何かが滑り落ちる。驚いて下を見ると、制服のジャケットが縮こまっている。トレイ先輩がかけてくれたんだ!急いで拾って、軽くはたきながら汚れていないか確認する。大丈夫そうだ。よかった。
周りを見回すと、シンクで洗い物をしている先輩が目に入った。まずい、片付けをさせてしまっている……!急いで立ち上がってトレイ先輩に駆け寄った。


「すいません先輩!制服ありがとうございます。寝入ってしまったみたいで……あの、片付け手伝います」
「ああ、起こしたか。静かに洗ってるつもりだったけど悪かったな」
「何言ってるんですか!それより、片付けするなら起こしてください。私、お礼として手伝いに来てるのに……!」
「はは、ずいぶん気持ちよさそうに寝てたから、起こすのが躊躇われたんだ。片付けなんて少しだし、いつもやってるから気にしなくていいぞ」


また眉を寄せて笑うトレイ先輩に今度は悔しくなって、スポンジを無言で奪い取った。楽しそうに笑った先輩は、今度は布を取り出して濯いだ後の食器を拭く。これは、休んでてくださいと言っても無駄かな。調理器具と使ったお皿を全部片付けると、ハーツラビュルの生徒が慌ただしくキッチンに入ってきた。誰かがリドル先輩を怒らせて、首輪が飛びそうな事態らしい。


「監督生、片付けは終わったからもう戻っていいぞ。今日は手伝ってくれてありがとな」
「いえ、大したお手伝いもできず……それより、リドル先輩が大変そうなので早く行ってください」
「そうするよ、じゃあまた」


慌ただしく出て行った先輩たちを見送る。一体、誰が何をやらかしたんだろうか……エースとデュースじゃないといいけど。リドル先輩を落ち着かせるために、さっき作ったタルトが早めに登場するかもしれないな。


「あれ、監督生ちゃんだ〜」
「ケイト先輩こんにちは」
「もうできたの?キッチンに置いてある感じ?」


ハーツラビュル寮を出たところで、ひらひらと手を振るケイト先輩に遭遇した。相変わらず端末片手にマジカメをチェックしているのだろうか。「キッチンにありますけど、つまみ食いしちゃダメですよ」と言えば「バレたか〜」と笑っている。リドル先輩がお怒りらしい話はすでに伝わっていた。だからゆっくり寮に戻っているらしい。


「トレイくんが行ったなら、何とかなるでしょ〜」
「人ごとですね
「まぁまぁ〜それより、監督生ちゃんボタンすごく開いてるけど大丈夫?マジカメにアップされちゃうよ」
「えっ!?」


急いで確認すると、またボタンが2つ外れている。さっと血の気が引くのが分かった。今日、1日中隠し続けてきた鬱血痕が、ケイト先輩にバレてしまった!いくら寝相でついてしまったものとはいえ、キスマークにしか見えない痕が知れ渡ったらどんな噂が立つか分かったものではない。


「あ、あの先輩これは……
「ん?」
「この痕はなんでもなくて、えっと、寝相が」
「あと?監督生ちゃん怪我でもした?あ、食堂のとき実は負傷してたとか?」
「え?」


あまりにも反応が薄い。仮に先輩がこういうことに慣れているとしても、もしキスマークだと思えば視線を逸らすなり動きがあるはずだろう。先輩の身長からして、私の首が見えてないわけない。


「先輩、鏡とか持ってないですか?」
「鏡はないけど……自分の姿が見たいならインカメでいい?」
「あ、はい。ありがとうございます」


端末を借りて、自分の首を確認する。
ない。
朝にはくっきりとついていたはずの鬱血痕が、綺麗さっぱり無くなっている。時間が経って自然治癒したのだろうか。2、3日は消えないくらいの色に見えたけど
とりあえず、消えているのならば気にする必要はないだろう。先輩にお礼を言って端末を返すと、手早くボタンを留める。今日は飛行術がなかったし着替えた覚えはないけど、いつから外れていたんだろうか。トレイ先輩に会っている間、ずっとシャツが開いていたなんて恥ずかしい。

緩んでいたネクタイを締めなおして、ケイト先輩に別れを告げて寮へと戻った。











「嘘だ……増えてる……

翌朝。顔を洗うために洗面台へ来たのだが、鏡を見て頭が真っ白になった。昨日、ケイト先輩に端末を借りて確認した時も、あのあとお風呂に入った時も、首の痕は綺麗さっぱり無くなってたはずなのに。
昨日の朝と同じ、左側から鎖骨にかけて三箇所の鬱血痕が再び現れた。それだけでなく、今度は首の右側に二箇所も鬱血痕が増えている。しかも、そのうちの一つはシャツの襟にギリギリ隠れるか出てしまうかの位置で、上までボタンを留めていても首を捻れば簡単に見えてしまいそうだ。


「なんで……?また寝相が悪かったのかな……。鬱血痕って出たり消えたりするものじゃないよね?」


不安がこみ上げてきて、少し目元が潤んでくる。落ち着け。こんなことで泣いていられない。とにかく、私がこの世界で一番頼れるのは学園長しかいないのだから、事情を聞いてもらうしかない。もしかしたら、本当にグリムの魔法が影響している可能性だってある。
とにかく学校へ向かおう。この寮にファンデーションや絆創膏は無いから、一時的に隠すことも難しい。誰にも指摘されないことを祈るしかない。
今日は寝坊しているグリムを起こして、不安を押し込めながら靴を履き替えた。






「お前今日、挙動不審じゃね?」
「体調でも悪いのか?」

エースとデュースに代わる代わる声をかけられるが、大丈夫だからと濁す。心配してくれて嬉しいけれど、こんな話を2人にできるわけない。放課後までごまかして、学園長に説明するまでは何とか乗り切らないといけない。そう思っていたのだが。


「うーわ、お前何つけてんの」


エースに見つかってしまった。
飛行術のため運動着に着替えた時に上まですっかり首を隠していたのだが、やはり自分より背の高い人には見えてしまったらしい。デュースとグリムはいま実践中で、箒に乗って空の上だ。


「寝相が悪くて痕がついた」
「いや嘘じゃん。それキスマークだろ。監督生やーらしー」
「だから……違うんだって……う゛……
「え。ちょ、何で泣くんだよ。まてまて落ち着けって!」


焦るエースを横目に涙が溢れないように深呼吸して、他の生徒から見えないように首のファスナーを下ろしていく。複数の鬱血痕が見えたらしいエースは『正直ドン引きです』といった表情だ。もう一度首を隠してから、朝から不安に思っている事を吐き出す。魔法の影響だったらどうしよう。何か病気だったらどうしよう。エースは大人しく話を聞いてくれたが「魔法でそんな風になるかぁ?」と首を傾げる。


「でも、グリムの魔法を浴びた日から出てきたよ」
「うーん。……まぁ俺たちが考えたとこで分かんねーか。やっぱ学園長に聞くのが1番早いんじゃね」
「うん……


やっぱりそれが一番確実な気がする。でも、今日はずっと学園長の姿を見ていない。授業に乱入してくることもなかったし、学園内にいないのかもしれない。この世界でも、出張とかあるのだろうか。思考がどんどん暗い方へ向かっていく。


「まーそんなに気になるならさ、トレイ先輩に上書きしてもらえば?」
「は?」

「だから、トレイ先輩のユニーク魔法。あれって色とかも上書きできるじゃん?学園長に会えるまで他の奴にバレないように、首の色変えてもらえばいいんじゃねって」


ざぁっと全ての記憶が一点に向かって集結していく。そうだ、トレイ先輩なら『要素』を上書きすることが出来る。マロンタルトの味を変えた時、色や匂いも変えられると言っていた。皮膚の色だって、変えられるんじゃないか。エースやケイト先輩に会ったときには鬱血痕が消えていた。トレイ先輩の魔法は時間に制限があったはずだ。朝起きて鬱血痕が復活していたのは、そのせいではないか。ボタンが外れていた事に気づくのは、いつだって先輩に会った後だった。

鬱血痕を見つけた時、もしかしてって最初は考えた。でも、私はトレイ先輩にとって可愛い後輩で、彼は「先輩」意外の顔を見せたことなんてない。部屋で起きた時も、ケーキを作った時も、色を感じるような素振りは全く見せなかった。だから、キスマークをつける理由がない。無いのだ。でも、状況や魔法のことを考えると、トレイ先輩がつけたとしか思えなくなってきた。ぞくぞくとした震えが身体を駆け巡っていく。心臓が激しく脈打ってきた。体温が上がっていく気がする。この感情は何だろう。こわいのか?それとも、私はーーーー


「監督生?なぁ、大丈夫か?」
「あっごめん、ぼーっとしてた。大丈夫ありがとう」
「で、どーすんの?」
「この後……トレイ先輩のところに行ってみるよ」


この飛行術が今日の最後の授業だ。一度トレイ先輩のところへ行ってみて、鬱血痕を見せて反応をうかがう。これをつけたのが先輩じゃないなら、事情を話して学園長に会えるまで痕を隠してもらう。明日は授業が休みだし、今日さえ乗り切ればなんとかなるのだ。
もし痕をつけたのが先輩だったら。……正直、どう転ぶか分からない。
でも、これはもう、行ってみるしかない。








「トレイ先輩、ちょっと相談したいことがあるんですけど」

三年の教室から出てきたトレイ先輩に声をかける。「何かあったのか?」と真剣に聞いてくれるトレイ先輩を見ると『鬱血痕をつけたのが先輩なんじゃないか』という予想にだんだん自信がなくなってくる。

反応を確認するには、首の痕を見せるのが一番早い。でも、人がたくさんいる廊下でシャツのボタンを外し始めたら目立ってしまう。
どうしようかと逡巡していると「人気が無い方が話しやすいか?」とトレイ先輩が気を利かせてくれた。かといってトレイ先輩の部屋にお邪魔して2人きりになるのは、今はこわい。
少し迷って、オンボロ寮に行くことにした。あそこならゴーストもいるし、デュースに連れられて部活の見学に行っているグリムもそのうち帰ってくるだろう。



ハーツラビュル寮の華やかな雰囲気とは真逆の空気を醸し出す、オンボロ寮の扉を開ける。「きしむ音がすごいな」と苦笑いするトレイ先輩を談話室に案内して、キッチンへ紅茶を取りに行く。どう説明したらいいのだろうか。いきなりシャツのボタンを外したら、さすがに引かれるよね。ぐるぐると次の一手を考えていたが、お湯が沸いた音に背中を押されて談話室に戻る。

ソファに座るトレイ先輩がこちらを見て腰を上げ、紅茶を受け取って机に置いてくれる。促されて隣りに座るが、結局切り出し方が分からない。
いや、迷っていても仕方がないと覚悟を決めて「トレイ先輩ちょっと見てください」とシャツのボタンに手をかける。手元を見つめるトレイ先輩の視線を感じて、ボタンを外す指が震えそうになる。あれ、なんだこの時間は。私、すごく恥ずかしいことをしてないか?
でも、トレイ先輩が何も言わないので、やっぱり先輩が痕をつけたんだという確信が強くなる。


「あの、これ。先輩がやったんですか」
「そうだな」


即答されて拍子抜けしてしまった。優しい笑顔のまま、目を細く開いて見つめてくる。
ぎし、とソファの音を立てて、トレイ先輩が少し近づいてくる。

あ、いつもと空気が違う。

急に怖気づいて「そ、うでしたか、あはは……」と動揺を隠しきれない反応になる。滑る指でボタンを留めようと焦るが、先輩の大きな手でがしっと右手を掴まれる。これは、よくない。じわじわと涙が溜まってきた目でトレイ先輩を見つめると、ぐ、と動きが止まってから、はぁ〜と大きく息を吐いて手を放してくれた。


「悪いな。別に泣かせたいわけじゃないんだ。つい……意地悪したくなるというか」
「い、いじわる……
……ああ、いじわる」


ゆっくり、まるで一文字ずつ言い聞かせるようだ。もう一度トレイ先輩の手が伸びて、襟を避けた指が首に触れる。自分と違う体温に、身体が震える。鬱血した痕をなぞるように、指が鎖骨を辿る。くすぐったい。思わず目をギュッと瞑ると、そのままとん、と指で押されて、あっけなくソファに転がってしまい、焦る。驚いて目を開けるが、起き上がろうとする前に、トレイ先輩の顔が目の前に現れる。顔の横に置かれた手が少し沈んで、ソファがぎしりと音を立てる。だから、これは、よくないんだって。


「あの!えっと、グリム!グリムが戻ってきますよ」
「いや?来ないよ」
「えっ」
「お前が紅茶を用意してくれてるときに時間があったから、ケイトに連絡したんだ。『今夜俺の部屋は空いてるから、グリムをよろしく』ってな」


オイスターソースで私たちを騙したときのように、平然とした顔で言われて思考が止まる。ええと、つまり、グリムは今頃トレイ先輩の部屋でくつろいでいるということか。あんなふかふかのベッドを提供されたら、グリムがオンボロ寮に戻ってくるはずない。
食堂で楽しそうだったケイト先輩を思い出す。まさか、全て察したのか。いつも2人でリドル先輩のサポートをこなしているからといって、いくら何でも察しが良すぎる。出来ないことなんて、無いんじゃないの。


「あ、でもほらゴーストがいます!おーい!ゴーストさんたち出てきてください!」
「ははは、残念だったな。さっき出て行ってもらったよ。報酬はハーツラビュル寮のキッチンに置いてあるケーキだ。ゴーストが出て今頃寮生たちが驚いてるかもな?」


ゴーストってケーキ食べられるの?という私の疑問は「ひっ」という小さな悲鳴に変わってしまった。トレイ先輩が私の首元に顔を下ろしてきたのだ。皮膚に眼鏡の軽くて硬い感触と、熱い息が吹きかかって手に力が入る。一秒がすごく長く感じる。
動けずにいたが何も起こらなくて、トレイ先輩を覗き込もうと身動ぎした瞬間、息よりもずっと熱い舌が鎖骨をなぞって声にならない息が口から飛び出した。


「ん、可愛い」
「トレイ先輩、なんでこんな」
「俺は、お前が可愛くて可愛いくて仕方ないんだよ」


鼻先がぶつかりそうなくらい近くに寄せられた顔に、くらくらする。ガラス越しのマスタードの瞳が熱を持っている。いつも背が高いトレイ先輩を見上げてばかりいたから、こんなに近くで目が合うことなんてなかった。ダメだ。直視できない。
目を閉じてから少し間を置いて、唇に何か触れた。びくっと肩に力が入る。
ええと、これは、指?
反射的に目を開くと、目の前の瞳が嬉しそうに歪む。


「なっ……ん!んん!」


こちらが目を開けるよう引っかけるなんて、本当にいじわるだ。
力強く触れたトレイ先輩の唇が、呼吸を止めようとしてくる。
うあ、食べられる。
何度も角度を変えて押し付けられる間から、催促するように舌で突かれる。まって。お願い。はやいはやい止まって!!
開ける勇気がない口を硬く結んでいると、痺れを切らしたのかトレイ先輩が少し身体を起こす。必然的に離れた自分の唇を守るように、急いで手の甲で隠した。


「大丈夫か?」
「そんなわけ、」


楽しそうなトレイ先輩を睨んでみるが、効果はなさそうだ。 
先輩の胸元に手を当てて、自分よりずっと大きな身体をぐいぐいと押しのける。動かないかと思ったが、意外にも力の流れに合わせて上からどいてくれた。
こちらを楽しそうに見てくるトレイ先輩と目を合わせながら、ゆっくりと立ち上がって後退りする。ちら、と横目で廊下に繋がるドアを確認する。うん、五歩くらいで辿り着ける。

一時撤退しよう。心の準備が出来てなさすぎる。


早歩きでドアに向かい、ドアノブを掴んで回し、ガチャリと少し引いたところで後ろから大きな手で包まれた。
息が止まる。すぐ後ろから、制服の衣擦れが小さく聞こえる。背中は触れてないのに、気配の熱を感じる。ドアノブを掴んでいる私の手は、トレイ先輩の大きな手にすっぽり隠れている。


「かけようと思ってたんだよ、鍵」


誘導された。
トレイ先輩の手に少し力が加わって、ゆっくり、ゆっくりとドアが押し戻される。
小さな音を立ててドアが閉まった。
先輩は私の小さい手に自分の大きな手を添えて軽く掴むと、内鍵のつまみに誘う。

この人には勝てない。



かちり、と鍵を回したのは
はたしてどちらの手だろうか。