私の目が見えるうちに、或いは私の手がまだ動くうちに、書けることを書き遺しておこうと思う。誰かに話しておくには私の声は既に亡く、再びこの唇を開く日は恐らく来ない。私はその呪いを自分の意志で了承したのだから、そこに悔恨はなく、寧ろどこか晴れ晴れとした気持ちでいる。誰かに何を聞かれても、もう私は答える必要も教える必要もないのだから。
私が最初に失ったのが声だったのは、その為かもしれない。煩わしい、と言ってしまえば言葉は悪いけれど、糾弾されるのが嫌だったのだと思う。コミニュケーションに最も有用な手段を失ってしまえば、わざわざ糾弾する相手は減るという打算か。そして次に失ったのは聴覚。何も聞こえなくなったのは、もう何も聞きたくなかったから。聞いてしまえば私の決意が鈍るかもしれない、と思ったからではない。何を言われても私の意志が変わらないことを私は知っていたから、あってもなくても変わらないものから排除されたのだ。恐らくは、だけれど。
この目と、この手と。失うのはどちらが早いだろうか?今はまだ、このふたつはどうしても必要だ。これがなければ、クロエとコミュニケーションを取ることがどうしても難しくなってしまう。でも、そう、クロエ。願わくば貴女の目にこれが触れることがありませんよう。いつか私の命が潰えるそう遠くない未来が来る前に、これは何処かに隠しておくべきか。それならば書き遺さなければいいのかもしれないけれど、それはそれ、これはこれーーというより、時間が有り余っていて、何もすることがないというのは気持ちが悪いのだ。ああ、また働いて、とユキノが呆れた顔をしていたのを思い出す。ああ、ユキノ。私の大切な人、唯一無二の親友よ。最後の最後に滅多に涙を見せることのない貴女を泣かせてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。けれど貴女は許してくれた。私の勝手を。ごめんなさい、ありがとう、大切な貴女。
始まりを綴るなら何処からだろうか。私の『エクソシスト』としての人生を振り返るべきか。長かったけれど、私は恐らく短い方ではあるだろうと思う。そう例えばあの人や、あの男や、聖女様や。そういう相手と比べれば、私が生きた年数など僅かなもので、大したものではない。一人の人が生きて死ぬ年数としては、少し長かった、程度のものだろう。
『エクソシスト』になる前の私の記憶はない。そう、全てを聞いた今でも、私はその記憶を思い出せない。封じ込めた記憶の箱が開くことはなく、だから私は正気を保っていられるのかもしれなかった。けれどその過去を知って、納得のいくところはとても多かったのだ。だから私はこうで在るのだと知った。
かつての私は戦争によって孤児となり、物心つく頃には既に修道院に身を寄せていた。だから親の記憶はない。親と言うならば修道院に居た神父様やシスターなのだろうけれど、私は彼らを一人も憶えてはいない。そう、ただの一人もだ。
他人事のように言ってしまえば、運が悪かったのだろう。その修道院は『悪魔』に侵蝕された、聖職者を育む修道院とは名ばかりの『悪魔』の巣食う場所だった。私は年齢を重ね、少女となり、身体が女となる頃には『悪魔』たちの贄となり、修道女とは名ばかりの娼婦ーーの方がまだマシだったのだろう、男達の玩具となっていた。人として扱われず、けれど女としては扱われる。そんな生活を、過去の私はどんな気持ちで生きていたのだろう。記憶がなくても分かることがあるーーきっとずっと、私は神に祈り続けていた。神よ、主よ。救い給え。この試練の先に、貴方は私を必ず救済するだろう。そう信じなければ生きていけなかった。よく信じ続けられたものだと思う。祈り、願い、信じ、そしてその時の私はそれ以外の生き方など知らなかった。小さな修道院の中だけが私の世界で在り、縋るものを神以外に知らなかったのだ。自死を禁じられた世界で、神に仕える他生き方を知らなかった私は、恐らく狂うことさえ出来ずに生き続けたのだ。
結果としてある日私は子供を身篭り、出産している。悪魔の子。私はその子のことをつい最近まで知らなかった。恐らくは悪魔の子を産んだという事実に耐え切れず、その頃から記憶を焼き切るようになってしまったのだと思う。当然だ、神に仕える者が悪魔の子を孕むなどあってはならない話で、その事実を忘れなければ、捨て去らなければ、神に愛されない。この地獄から救われない。自死を選べば更なる地獄へと堕ちるのみ。それは当時の私には何よりも恐ろしいことであったろうし、それならば忘れてしまえば、『なかったこと』にしてしまえば。許しを得られないであろう大罪を犯してなどいないと自分に思い込ませなければ。手に取るようにそんな考えが分かるのは、過去の私が確かに私で在るからなのだろう。
結果として、ある日私は神に救われた。祈りは届いた。『エクソシスト』としての力に目覚めた私は、必死で悪魔たちから逃げ出して助けを求め、そうして私はそこで全ての記憶を喪っている。名前以外の全てを喪った状態で、エクソシスト協会に迎え入れられたのだ。
この記録にロックを掛けたのは、果たして誰なのだろうか。あの人か、或いは案外お節介なあの男か、或いは優しい顔をしていた傀儡か。私の知らない誰かかもしれない。内部からでは私は私の記録を知る術は一切なく、そして不思議なことに私は私のことを調べようと思ったことは一度もなかったのだ。……当たり前か、そこにあるのは地獄の記録だと、無意識に拒絶し続けてきたのだろうと思う。知ったところで自分の過去だと理解は出来ても記憶が戻って来ないのは、私自身がどうしても思い出したくないからだ。恐らく記録に残っている以上の地獄を、私は味わって生きている。思い出したが最後、ということなのだろう。思い出してしまえば私は悪魔と化してしまうかもしれない、というのが私にとっては一番恐ろしいことだ。私はアレには成らない。成ってなるものか。そう成るくらいならば、舌を噛み切って死んだ方が遥かにマシだ。
さて、エクソシスト協会に入った私のことだ。
私は当初、女として見られることに酷く怯えていた。それは過去の記憶から来るものだったのだろうけれど、兎に角『女だから』と言われるのがとても嫌で、一時期髪をベリーショートにしていたこともある。けれど見た目をいくら変えようとしたところで私の身体が女であることは変わらない。結局、全ての雑音を振り払うように与えられる仕事に没頭した。何かをしていないと不安で怖かった。私を見る他の『エクソシスト』の視線がとても嫌だった。常に無表情で無愛想になったのもこの頃だったように思う。媚を売っているとか、女を武器にしているとか、そういうことを言われたくなくて、私はそうやって自分の身を守るしか方法を知らなかった。
私が憶えているあの人との初対面はこの頃だ。あの人が私が居たあの悪魔の巣食う修道院を殲滅した人であることをーーつまりは私を救い出した人であることを知ったのはつい最近であり、当時の私は「異様なまでに悪魔を憎んでいる人だ」程度の認識しかなかった。鬼だの気が狂っているだの殺戮者だの兎角良い評判のない、見た目も出来れば忌避したい雰囲気のある人ではあったけれど、あの人は私には優しい人だった。不器用な愛情を注いでくれたのは、果たして私の来歴に彼の家族を重ねたからであったのだろうか。……そうかもしれない、真偽は私には分からないし、恐らくもう誰にも分からないのだろう。彼自身にさえも。
あの人が恐れられていたお陰もあるのだろう、少しずつ私は協会内で居場所を作れるようになっていた。仕事の功績が認められるようになってきたのもある。陰口は叩く者は居なくはならなかったけれどーーああ、思い出した。私があの人に体を売って地位を得ているのではないか、なんて馬鹿なことを言った輩が居た。そのことがあの人の耳に入って、その後のことはご愁傷様、としか言いようがない。口は災いの元、とはよく言ったものだ。……そう、少しずつ平和になって、少しずつ私の知っている日常に近づいていった。どこであの日常が綻んでいったのか、それは今でも私には分からない。ああ、けれど、あの男を助ける為に協会を変革したあの時には、きっともう後戻り出来ないところまで壊れていたのかもしれない。確かに平和で確かに幸福な時間はそこにあったのに。
私がユキノと出会ったのは、とある大規模な『ディアボロス』討伐作戦の時。それは失敗した作戦で、私は死にかけていたところをユキノとーー当時ユキノの相棒をしていたスミナに助けられた。ユキノはまだ見習い『ウィザード』ではあったけれど、その実力は確かなものだった。私から情報を得たユキノとスミナは二人で私達が討伐し損ねた『ディアボロス』を倒し、然るべき機関に引き渡したのだから、とんでもない話だ。ーー今考えると、あの『ディアボロス』討伐作戦も何かしら仕組まれていたのかもしれない。粛清のような何か。疑い始めればキリがないので、考えないことにしよう。
その後ユキノはやたら私のことを気にした。気に入ったから、と本人は嘯いていたけれど、さてどうだろうか。気にしてくれた、のだと思う。彼女は彼女なりにあの作戦のことも調べただろうし、生き延びた私のことを心配してくれたのだろう。彼女とよく話すようになり、連絡を取るようになりーーそしてあの事件が起き、スミナが亡くなった。相棒を喪い、相棒の母を敵に回し、それでも気丈に笑う彼女のことを見ていられなくなって、彼女の相棒になると声を上げたのは私だ。それだけ情が移っていたのだろうし、何より命の恩人である彼女が困っているのを放っておけなかった。
さてそれを快く思わなかったのはエクソシスト協会の方だ。何せそんな仕事は『エクソシスト』の仕事ではない。悪魔を狩り、異教徒を狩り、主の教えを広めること。それが仕事なのだから、当時はまだどこの馬の骨とも知れない『ウィザード』であったユキノの相棒になる、だなんて協会を破門になってもおかしくなかった話だ。最終的に協会の仕事をしながらユキノの手伝いをする、という方向に落ち着き、それが時が経つにつれてユキノと仕事をしながら協会の仕事を手伝う、という風に変わっていったのは、ユキノが稀代の『ウィザード』として名を馳せたお陰だろう。あれは彼女の努力の賜物だ。
あの人も、私がユキノと仕事をすることに良い顔はしなかったーー最後まで良い顔はしていなかったか。最初の頃は会う度に無理をしていないかと心配させたものだ。最後の方は私の方が心配なら仕事を手伝えるようになって下さいと怒ることになっていたのだけれど。……本当に戦うこと以外は何も出来ない不器用な人だ、あの人は。
ユキノと共に過ごす日々はとても楽しかった。ユキノが結婚し、リツが生まれ、あの時は我がことのように嬉しかったし、リツは私によく懐いてくれた。リツに乞われれば何だって惜しみなく教えたし、懐いてもらえるのはとても嬉しかった。母親のような、姉のような。そんな気持ちになって、同時に何故だかユキノが羨ましいとも思った。そのことを正直に言って、ユキノに怒られたことを覚えている。羨ましい、なんて蚊帳の外のようなことを言うな、と。私はユキノの家族の一員なのだから、リツの母であり姉で在ればいいのだと、本気で怒られた。殴られてはいないのに、頭を殴られたような気持ちだった。家族。私はそれに、心のどこかでずっと憧れていたのかもしれない。だから羨ましい、と思ってしまったのだろう。私が知らないもの。家族。暖かい場所。その一員だと言って貰えたことはとても嬉しいことで、本当に優しい言葉で、ユキノの気持ちはあの時の言葉に集約されているのだと思う。きっと、今でも。
そう、でもーーそう。家族。その言葉を聞いた時に、真っ先に私の頭を過ぎったのはあの人のことだった。今から思い返せば自覚したのはその時なのだと思う。私にとってあの人は大切な人であるということ。ユキノが家族だと言ってくれる、その暖かい気持ち。私にとってのその矢印は、あの人に向いているのだということ。その時あの人に会いたいと思ったのは、多分、きっと。
クロエに初めて会ったのは、彼女がまだ幼子だった頃。ユキノとの仕事で出掛けた先、『エクソシスト』達の異教徒狩りに遭遇したのだった。
異教徒。私はそれに対しての感情は特に持ち合わせてはいない。仕事として異教徒狩りに出ることもほぼなかったこともあるのだろう。信仰は自由なものだーーという考え方は、もしかしたらユキノからの影響だったのかもしれない。外部の影響、ということを考えると、エクソシスト協会がユキノと仕事をすることに関していい顔をしなかったのも何だか分かるような気がする。
閑話休題、クロエの居た集落で行われていたのはその異教徒狩りだ。『異教徒は死ね』、を合言葉に行われる虐殺の限り。ユキノは憤っていたし私もやり過ぎだと思ったけれど、私はエクソシスト協会に属している限りそれに正面から異を唱える訳にはいかない。ユキノもそれを分かっていた。だから、目を盗んでクロエひとりを助け出すのが精一杯だった。情けないことに。
私にもっと力があれば、出来ることなら地位があるならば、その虐殺を止めることだって出来たのかもしれない。生憎持ち合わせてはいなかったから、どうすることも出来ず、自分の無力を思い知らされた。悔しい。どうしてあんなことが許されるのか。どうしてあんなことを放置しているのか。或いは上からの命令であるならば、何故あんなことを命じるのか。疑問は尽きず、けれどいくら疑問を持ったところでどうすることも出来ない。私はただの、一介の『エクソシスト』でしかなく、何かを変えられる立場にはなかった。クロエひとりだけでも助け出せたことが奇跡だったのだろう。……あれは、ユキノのお陰だ。クロエは私のお陰だと言うだろうけれど、あの場に居合わせたのがユキノだけであれば、きっともっと多くの人が助かった筈で、クロエしか助からなかったのは私の責任だ。
クロエが私に懐いているのは、雛が最初に見たものを親だと思い込むようなものだ。救出した時意識を失っていたクロエは、三日三晩目を覚まさなかった。私とユキノが交互に看病していて、クロエが目覚めた時に居たのがたまたま私だったというだけだ。クロエは憶えているだろうか、彼女は目を覚まして、私を見て、心底驚いた顔をして。開口一番、舌っ足らずな声で「めがみさま?」と聞いたのだ。ひどく動揺して、けれど首を振って、シスターですよ、と答えたけれど。どうしてクロエは私を女神などと言ったのか、ずっと分からなかった。神とは主であり、私のような俗物ではなくーーずっと、分からなかった。
それは私の長年の疑問で在り続けた。そしてそれは同時に、私に「神とは何か」ということを考えさせることとなった。今でもその答えは出ていない。けれどひとつだけ分かったことがある。
私にとっての神は主ではなく、あの人であったのだ。
過去の私が祈り続けた先、私を救ったのは神ではなくーー主ではなく、あの人。あの人が居なければ、今の私はない。ユキノと共に生きる私もまた、ない。『エクソシスト』の力を得ただけでは、人は救われない。いつだって人を救うのは神ではなく人であり、誰にも救われないからこそ、多くの『エクソシスト』は、『カーディナル』は、悪魔に魂を売ってしまったのだ。その存在を、魂を、堕としてしまった。彼らは、救いを求め、そして救われなかった成れの果て。
私は救われた。あの人のお陰で、救われた。それの何と幸福なことか。救いの主を神と呼ぶのであれば、クロエがあの時私を女神と呼んだ意味もまた分かる。事実のところは兎も角。
そういう意味では、私にとってもまた刷り込みだったのかもしれない。あの人が助けてくれた、と思うのもまた思い込みなのかもしれない。けれど確かに私はあの人に救われて、だから『エクソシスト』として生きることが出来た。……ああ、けれど私はあの人を救えなかった。この先も救えはしないのだろう、永遠に。けれど、どうしても避けたかった。
貴方が私を殺してしまうことだけは、あってはならないーーそれは私の為ではなく、あの人の為に。その責苦を背負わせてはいけない。だから、私はあの場所を離れることを選んだのだから。
多数の『エクソシスト』や『カーディナル』が『ディアボロス』や『デーモン』となった頃。例に漏れず、と言うべきだろうか、私の隣にも悪魔は居た。その悪魔の名乗った名前はシトリーーー恋愛感情を操る悪魔。欲情を操る者。その悪魔が私のところに来たのは、私があの人に抱いていた感情を弱味と見たからなのではないだろうか、とは思う。私は悪魔の声に一切耳を傾けなかった。悪魔の誘惑に負けることはあの人に対する最大の裏切りだ。死んでも二度とこの身は悪魔には渡さない。……、そう、その時私は確かに「二度と」、と思ったのだ。何の疑問も抱かなかったけれど、やはり私の記憶には確かに過去の私が居るのだろう。
悪魔は様々なことを告げて私を誘惑した。私の過去の話もそのひとつだ。悪魔の語ったことを信じたくなかった私は、カヤシマの仕事をする上で得た人脈を使って私の過去を調べ、そして悪魔の言葉が事実であると知った。それは何よりの衝撃であり、そして私とよく居た『エクソシスト』達には周知の事実であり箝口令が敷かれていたことがそれに追い打ちをかけ、私は協会に近寄れなくなった。怖くなったのだ。皆がどんなことを考えながら私に接していたのか、悪魔の子を生んだ女など、『エクソシスト』に相応しくないにも程がある。何より、あの人の傍にはもう居られないと思った。全てを知っていてあの人が私に優しく接してくれていたことは分かっていても、私は自分を許すことが出来なかった。
思い悩んでいるうちに事態は急転し、あの人は壊れてしまった。私が傍に居れば、どうにか出来ただろうか?ーーいいや、きっと出来なかった。あの人は優しい。きっとどんな手段を使っても、私を自分から引き離しただろう。事実、私を巻き込まないようにと無理矢理ユキノのところに行かせたこともある。あの時は流石に泣いて怒ったーー涙が流れるのを、本当に止められなかった。けれどいくらそうしたって、届かない想いは届かない。いくら言ったところで、あの人はきっと私にとってあの人がどれだけ大事なのかなど分からない。だってあの人は、自分の価値を分かってはいないのだから。心に飼った暗いものに全てを食い潰されて、きっと、私のことなど忘れてしまうのでしょう。あの人には私なんかよりも大切なことがある。心に飼った暗いもの、復讐の、怒りの炎。私ではそれをどうすることも出来ず、救い出すことは出来ない。私は貴方に救われたというのに。何と無力なのだろう、どうして、何も出来ないのだろう。
だから私は遺すことを決めたのだ。悪魔の子、私の子、ジルド=セミナーティ。無力な私の代わりに、どうか。それは勝手な願いで、きっと叶うことはないのだろうけれど。それでも構わない。あの人が主に反旗を翻したというのなら、私もまた、この世界に私の最大の罪を、遺していく。その代償にこの命を削ったことを、呪われたことを、私は後悔してはいない。
ーー……あの人は今頃、どうしているだろう。
リツが用意してくれたこの安全な場所で、考えるのはそのことだ。分からない。きっともう生きてはいないのではないか、とも思う。考えたくはないことではあるし、或いはあの男が流石に放っておけないとは思うのだけれど、それでもーーそれでもやはり、あの人はきっと救われることがない。
本当なら傍に居たかった。傍に居られなかったのは私の弱さだ。例えどうなっても、例え貴方が私のことを忘れても、私は貴方の傍に居たかった。けれどそれは叶わない。貴方に私を殺させる訳にはいかないから。私はそれでも構わないけれど、貴方がこれ以上貴方を苦しめる原因を増やしてはいけない。私はきっと貴方を苦しめてしまうから、離れたこの場所から貴方を想い、貴方が救われることを祈り、最期の刻を待っている。
あの人の最期を、どうか私に教えないで。どうか私のことで、誰もあの人を責めないで。私は己でこの道を選び、進んだ。この道が不幸だと思わないで。私にとって一番怖いことは、そして何より不幸なことは、『あの人が死んだ』事実を突きつけられることだ。
私を救ってくれたあの人がいない世界には、どうしても意味を見い出せない。あの人の傍で生きられないことは、とても辛くて苦しい。ごめんなさい、ユキノ。クロエ。何度も何度も考えたけれど、それは揺らがなかった。私が己の過去を知らなければ今でもあの人の傍に居たのかもしれないけれど、知ってしまったことをなかったことには出来ない。こんな私を、どうか許して頂けますか。
神の居ない世界に救いはなく、救いのない世界で生きていける程、私は強くは在れない。ずっと昔から、私は神に縋って生きていたのだからーー縋るものがなくなってしまうのは、ああ、なんて恐ろしい。やはり、考えたくもない。
ジルド。貴方が生きる道はきっと困難に満ちている。悪魔の子、多くの人を殺して生きてきた子。けれど誰にでも救いはある。どうか、どうか、私は願うのです。私の代わりに、クロエが貴方の道標になれれば、と。私は母らしいことは何一つ出来はしないから、私の全てをクロエに遺して、貴方の元へ置いていきます。貴方がいつか苦しむ日が来た時、クロエはきっと貴方を救ってくれる。……クロエはとても、いい子で。本当に私のことを、愛してくれるから。その愛に、どうか、貴方が救われる日が来ることを、私は願っています。
クロエ。貴女には私の最期に付き合わせてしまうことになって、ごめんなさい。ありがとう。毎日笑顔で私と接してくれる貴女の存在に、私は本当に助けられている。あんなに小さかった貴女が、大きくなって、こんな風に私を慕って、愛して、傍に居てくれること。その無償の愛を、私は誇りに思うのです。私は貴女に恨まれても仕方ない人間なのに、その愛を貰う資格もないのに。……我儘に付き合ってくれたこと、本当にありがとう。もう少しだけ、一緒に居てください。
ユキノ。……ユキノ。貴女に伝えるべきことは、伝えられた。きっと私が死んだ時、貴女は誰より悲しむのでしょう。貴女の情の深さを、私はちゃんと知っていますよ。誤解を受けやすい性格だから、この先も心配ですが。どうか、笑っていて下さい。
……ああ、他にも書き残したいことはあるのに。伝えたい人は居るのに。ああ、でも、これは誰にも見せられない。クロエが帰ってくる前に、何処かに隠しておかなければいけない。私が死した時は、どうか、共に燃やして貰えれば。想いは昇って、いつか届くだろうから。
手が震える。そろそろ字を綴ることも、難しくなっていく。ゆっくりと近付いてくる死の足音を子守唄に眠りましょう。まだ、もう少しだけ、この世界に。私は。
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