シャワーを浴びて身支度を整えてから部屋に戻ると、寝ているだろうと思っていた碓氷はベッドに座ったままぼんやり窓の外を眺めていた。見たことのない何とも言えない表情をして、一瞬息が詰まる。けれど俺に気付いた碓氷がへらりと笑って、それはいつもの碓氷だった。
「なっがいシャワーだったねえ、カヲルちゃーん」
「……るっせえよ」
こちとら頭が冷えたんだよ。とは、口にはしなかった。頭が冷えたのはお互い様だ。何やってんだ俺たち。……、いやこの場合、何やってんだ、は俺だろう。
何がどうあっても。俺は碓氷と、こんな状況になるべきじゃなかった。俺たちは2人して、馬鹿なことをやったのだ。
「……お前も起きたならシャワー浴びとけよ」
「んー」
「俺は帰るけどお前どうすんの」
「もう一眠りして帰ろっかな」
「……んじゃ精算しとくわ」
「おや、カヲルちゃんおっとこまえだねえ」
「だからうるせえっつの」
茶化すなよ。
いつも通りを装う碓氷の姿が痛々しく思えるのは、どうしてだろう。俺もいつも通りにすればいい。それで終わる。ーー終わる?なにが?
全部終わるのか。大学生活4年間で得たもののひとつを、俺たちはぶち壊したのだから。
聞こえたのは大きな溜め息。碓氷は俺から目を逸らす。間接照明に照らされたその横顔に、先程のことを否が応でも思い出す。
忘れることなどきっとないし。そして、今は笑い話にもならない。
「……ほんと、カヲルちゃんがもうちょい自分勝手ならな」
「何が」
「優しいが過ぎるよ」
「……お前相手に自分勝手に出来る程人間出来てねえよ」
「あははっ」
笑い声が空虚に響く。ずきん、と落ちてくる胸の痛み。同時に、俺はもうコイツに会うことがないんだろうな、と思う。
望んだのは碓氷で、傷つけたのは俺だ。
「……ほんと優しー男。……サイテーなクズだなっ」
「碓氷」
「ありがとーねカヲルちゃん、アタシのワガママ聞いてくれて」
「なあ碓氷」
「帰りなよ。一緒に住んでる外人さんによろしくな!」
「……聞けよ」
「聞かないよ」
声が震えている。きっと泣いている。俺は一歩も動けなかった。動いてはいけない気がした。
けれどきっと動くべきだったのだ。そうしたら何か、変わっていたのかもしれない。何か。碓氷の運命とか、俺の運命とか、そういうもの。
俺の方を向かないまま、碓氷はひらひらと手を振る。駄目だ、きっとこのまま別れるべきじゃない。だって俺はきっともう二度とコイツに会えない。そこそこの付き合いはあるーーコイツがそういう女であることを、俺は知っている。
……ああ。知っているから、俺は今日の誘いに乗るべきではなかった。いや、乗る気などなかった。けれど結果としてこうなってしまったのだからーー俺は。
「……気をつけて帰れよ、碓氷」
「おうっ。じゃあねー」
結局何も言えずに、そんなことしか言えずに。笑いながら返されたその言葉に、俺は目を伏せて。
部屋を出てドアが閉まるその時、その言葉は確かに聞こえた。
「ばいばい、渚」
それが、俺が碓氷に会った最後の日の出来事だった。
+++
その翌日の夜に、俺はなんだかんだと理由をつけて楠を呼び出して呑んだくれた。呑まずにはいられなかったから。春からアイツは社会人、俺は院生。腐れ縁とはいえ進路が変われば会うことも少なくなるけれど、大学4年間最低週に1、2度くらいのペースでは嫌でも顔を合わせていた相手だ。学生時代の精算だ何だという意味不明の理由をつけて呼び出したーー意味不明だった自覚は俺にもある。
何せ呑んだくれたもので、その日アイツに何を言ったか、俺はほとんど覚えちゃいない。そもそも俺は酒に強くない。流石に碓氷と何があったか話してはいないと思う。俺が荒れてた時期をアイツも知っているし言ったところで今更だろうけれど、アイツに言う話でもないだろう。
思えば、俺が最後に楠に会ったのもあれが最後だったかもしれない。いや、もう一度くらい会っただろうか?何せ働き出してから連絡が取れなかった覚えしかないけれど。忙しそうだった。ーーまあ家のこともあるしな、と思って、俺も連絡を控えた。気まずかったのかもしれない。碓氷はアイツの友達でもあったから。
何もなかった顔をして春を迎えて、俺は院生になって。ああだこうだと文献と睨めっこする日々で、そうしている間は何もかも忘れられて、没頭するように逃げていた。
「なぎちゃん最近付き合い悪いねえ」
「あー……そうか?」
「そうだよー」
不貞腐れた顔の憂凛にそんなことを言われて初めて、喫茶『たちばな』からも足が遠のいてしまっていたことに気付く。言われてみれば同居人とさえ殆ど喋っていない。邪魔するなと言い放って俺が部屋に引き篭もっているせいだ。
喋りたくない、というのとは何か違う。誰かに何か勘付かれて、余計な詮索をされるのが嫌だったのだ。誰かに話せば楽になる?そうかもしれない、でもじゃあ、俺だけ楽になってどうする?
そんなのは体のいい言い訳で、恐らく俺は怒られたくはなかったのだ。怒られなくても自分が何をしたのか分かっている。分かっているから自覚したくなかった。特にこの幼馴染みには、絶対に。
憂凛はいつだって暴力的な程に真っ直ぐに正論をぶつけてくる。間違いなくコイツは怒るし、人の心の弱いところをぐさぐさ突いてくる。正直勘弁して欲しい。
「前は徹夜の仏頂面でよく来てたのにねえ」
「……まあ家遠くなったからな」
「大学院どうー?たのしい?」
「楽しくなる為に院行ってんじゃねえよ」
「でもなぎちゃんみみずさん読んでる時いっつも楽しそうだもんー、憂凛が邪魔したらすっごい怒るしー」
「……、」
ああ、うん、そうだ。俺は好きだから、今の道を選んでーーずっと好きなことをやっている。楽しくない訳がないのに。
今や事務的に、何かの義務のように読み解くだけで。何も楽しくない。
ーー本当に俺、何をやっているんだろうか。
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