ギャビィ
2024-06-02 20:42:53
1961文字
Public その他
 

ハンガリーとクロアチア

ジョチ・ウルス〜モハーチの戦いあたり

 港町リエカのすぐ近くで小さな教会に2人で逃げ込んだあの日、隅の壁際に蹲ったハンガリーは彼奴にしては珍しく黙ったまま下を向いて俯いていて、馬の蹄の音がそこかしこで響いていた。俺は不安になってハンガリーの服の裾を強く握りしめた。それからしばらく互いに息を殺して縮こまって、何時間も経った後にハンガリーの王様が俺たちを探し出した。まだ年端もいかない子どもの姿をしていた頃の話だ。当時、ハンガリーはまだ少年の面影で、俺は声変わりもしていなかった。しかもその時ジョチウルスの軍が俺の大地を踏み荒らしてくれたお蔭で、俺の変声期はそれからしばらく経ってもやってこなかった。もっともそれはジョチウルスだけのせいじゃなかったけれど。

 晴れた日は真っ青な空の下ドナウの岸辺にどこまでも緑の続くモハーチの平原は、いまや硝煙や泥や草木の焼ける匂いに満ち満ちていた。負け戦だ。とにかくハンガリーたちを探さなければ。そう思って辺りを見回すが、立ち込める土煙でうまく姿を見付けられない。その間にもオスマン軍の放つ大砲の音が鼓膜を震わせていた。俺はジョチウルスの軍が攻めて来た時のことを思い出していた。あの時ハンガリーの王様は、アドリア海の孤島に逃げ延びて、そうして俺に向かって「助かった」とそう言った。だから俺は、ハンガリーを探さなければいけない。あの日見せたハンガリーの心許無さげな表情は、不遜で傲慢で、悠然とした広大な、そんなハンガリーのイメージからは明らかにかけ離れていて、ただ長閑な平野でときどき自然や天候に揶揄われながら、それでも健気に生きているようなただの少年のようで、今となってはそう思うから、だからそれを唯一知っているあの場に居合わせた俺は、何としてでもハンガリーを助けなければならないだろう。
「王よ!」
 喧騒とする空気を裂くような悲痛な声が辺りに響く。すぐに振り返ると、ハンガリーが唖然とした表情である一点を見詰めていた。すぐに馬をそちらに向けて、手綱を強く握りしめる。けれどもその時ハンガリーに気づいたのは俺だけじゃなかった。オスマン兵の一人が弓を引くのが視界の端に見えた。ギッと力を込めてハンガリーへと向けて照準を合わせている。気づけよ馬鹿!舌打ちをしながら、さらに馬を走らせる。間に合えよ……!そう思ってさらにもう一度強く手綱を握る。
「相棒!」
 ハンガリーがまたしても悲鳴を上げる。そんなことをするのは止めろよ、弱く見えるぞハンガリー。俺はその言葉を言えないでいる。弱みを見せるのは俺の前だけでいいだろう。勿論その後に続く言葉もだ。
「何やってんだお前!」
「こっちの台詞なんだけど……いってえ……
 奇跡的にも心臓は無事らしい。自分の身体でまだ血液が巡っていることに安心しながら、横腹のあたりに突き刺さった矢を無理矢理抜いて地面に放ったのと同時に、退却の命令が出た。馬からずり落ちるぎりぎりの所で引っかかっている俺を引き上げながらハンガリーが素早い動作で後ろに乗り込んで、俺の代わりに手綱を引く。「くそっ」そうやって悔しそうに歯ぎしりをしている。ドナウに沿って北にひたすらに馬を走らせる間、ハンガリーはずっとその調子で、くそっだとかこの野郎だとか悪態を吐いていた。ただ俺が血の滲む横腹のあたりを押さえながら「これだから遊牧民あがりは嫌いなんだ」と呟いた時、まったくその場に似つかわしくない小さな笑みをひとつ零して「俺も遊牧民あがりなんだけど」と可笑しそうに言った。けれどまた直ぐに顔を強張らせて「エルデーイを見失った」と不安げに呟いて、それがもう陽が落ちて暗くなった辺りにしんしんと滲みていった。
「これからどうする」
 馬を休ませるためと自分たちのために、ちょうど見つけた馬小屋で少しだけ仮眠を取った。それから日が明ける前にそこを離れた。
「俺は北に。一旦タトラの麓のちびのとこで身を隠してから、落ち着いたらポジョニに出る。お前は」
「ラグーザのところに行ってみる。あそこならしばらく見つからないはずだ」
「そうか」
 俺はなんだか胸騒ぎがした。ここでハンガリーと別れてはいけない気がしたんだ。何故だかわからないけれど、俺たちこのまま二度と会えないんじゃないかと思ったんだ。でもこんなことは今までだってたくさんあったはずだ。ジョチウルスの時だって、俺たちなんとかやり過ごしてきたんだ。黙り込んだ俺を見かねて励ますようにハンガリーは肩を叩いた。
「そんな顔するな。俺は大丈夫だから」
「別に、心配してるわけじゃない。怪我が治ったら直ぐに戻る」
 ハンガリーは満足そうに笑って「絶対な」と、あのいつもの勝気な顔で言った。けれどもすぐに俯いて、「そういやエルデーイの奴、どこに行っちゃったんだろう」と呟いた。