ギャビィ
2024-05-10 20:02:38
3290文字
Public クロセル
 

新しい文明開花

クロセル

それはちょうど冬が終わって暑い暑い夏が来る間の、一瞬の停滞のような季節の頃の話で、まだ甘やかさを残した太陽の光がゆらゆらと揺れる海の水面を輝かせていた。本業の合間をみては気まぐれに造船ドックに足を運ぶことも両手で足りないくらいになるだろうか。すっかり顔馴染になったドックの所長は会う度に「恋人はいないのか?」と聞いてくるので、苦笑いをして「いないよ」と返すのが常だった。格好いいのに勿体ないなァ、いい子紹介してやろうか? とお節介を焼いてくる海の男に、ありがとな。と適当に返しながら停泊中の大型船に乗り込んだのが朝の九時頃。それから疲れるたびに甲板に出て暑い暑いと言いながら他の作業員たちと一緒に煙草をふかして海をぼうっと眺めて、また作業に戻って。そういうのを何回か繰り返しているとそのうち腹が減ってきて、そろそろ昼飯にでも、などと考えていると後ろから肩を叩かれた。振り返るとやけに嬉しそうな様子で所長が立っている。不思議に思って首から下げていたタオルで顔を拭いて向き直ると「兄ちゃんやるじゃねえか」と一言。更にわけがわからずにいると「彼女が弁当持ってきてるぜ」と船上へと向かう通路のほうをにこにことしながら親指で指すのだった。
「は? 彼女?」
「ああ。可愛い子だな」
「は?」
 今は特に連絡取ってる女は居なかったはず、と考え込んでいると、どうも違うようだと思い始めたらしい所長が控えめに「ベオグラードから来たって言ってたけど、」と言うのでそれでハッとひとつの考えが浮かんだ。いやいやまさか、そんなまさか! 半ば祈るように念じながら船上へと足を向けて走り出した自分の後ろからは、「午後は戻ってこなくていいですから!」と所長の楽し気な声が聞こえてくる。人の気も知らないで!

 船上に出て船へりに駆け寄るのと同時に、やっぱり! という言葉が頭に浮かんで顔を歪めた。こういう時の予感は往々にして当たるものだ。眼下の地上にはワンピース姿のセルビアが大きなバスケットを持って突っ立っていた。どうやら上から見下ろす自分に気づいてないらしく、船の搭乗口のほうをむくれた顔で見つめている。遅い、などと思っているのだろう。嘘だろ……、と溜め息をついて目を覆ったが、数秒後にもう一度覗いてもやっぱりあそこに居るのはセルビアだった。しょうがなく急いで搭乗口のほうへと向かう。途中途中でさっきまで一緒に働いていた作業員たちがなにか軽口を叩いたり口笛を吹いたりするのが聞こえて恥ずかしいったらない。
「スルビヤ!」
 そうやって僅かな時間に数百倍に膨張させた苛立ちから大声で呼びかけると、セルビアは案の定怒った声で「遅い!」と返した。
「なんでいんの。急な仕事? なら連絡くらいいれろよ」
 タオルで額の汗を拭きながら近づくと、怪訝そうな顔で「お弁当持ってきたんだけど」とセルビアは言う。
「は? なんで? 頼んでないんだけど!」
「嘘つき! こないだ言った!」
「いつ! どこで!」
「先週! ベッドで!」
 思わずまた掌で目を覆う。言っただろうか。言ったかもしれない。けれどそんなの本気にしてほしくなかった。
自分で言ったことは棚に上げて苛立ちながら手をどかすと、目の前のセルビアは勝ち誇ったかのように得意げな笑みを浮かべているのだった。むかつく!

 せっかく作った弁当を無駄にするわけにはいかないし。あと腹も減っていたし。
そういうことにすることにして、船からそう遠くない海沿いのベンチに場所をとった。なぜか自慢げなセルビアが広げた弁当は、ひき肉を丸めて焼いたチェバピとキュウリのサラダ、朝早くに焼いたらしいパン、とお馴染みのメニューで、これにすぐ近くのカフェで買ってきたコーヒー(もちろん走らされたのは俺!)をつける。まあ悪くない昼食だ。隣にいるのが此奴でなければ。しかも困ったことにまるで恋人のように「おいしい?」と聞いてくるので命の危機に似たものを感じ目を背けながら「普通」と答えた。すぐに肩の辺りをめがけて拳が飛んできた。
「つーか、なんで来たんだよ」
「自分で呼んだくせに」
 によによと笑うセルビアに軽く殺意をおぼえながらパンに挟んだチェバピをもう一口。こっちに来るのに仕事調整するの大変だったんだから! と得意げに言うセルビアに苛つきながらもう一口。なんでそういうことやる時は無駄に早いんだ! 沸々と怒りを募らせながら、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「その服どうした。珍しい」
 すると途端にパアっと顔を輝かせたセルビアが「あのね、フランスさんにね、」ととある男の名前を出してきたので、今までそれなりの穏やかさを保っていた苛立ちの刃が急速に砥がれていくのは、断じて俺のせいじゃないだろう。
「いまパリで流行りの服なんだって! こないだフランスさんに貰ったの。きっと私に似合うだろうって」
「へえ。また無駄なものを」
「無駄? 無駄じゃないでしょ! フルバツカだってこないだウィーンいったときにスーツ買ってたくせに」
「あれは仕事用だろ」
「じゃあこれも必要」
「そうやってこないだも突然テレビ買ってきたよな!」
「テレビも必要!」
「あれ運ぶのすっごい重かったんだよ!」
「そんなこと言って結局ボスナに運ばせてたくせに!」
「しょうがないだろツルナゴーラが起きなかったんだ!」
「私の妹こき使わないで!」
 二人して息を切らして睨み合いながら、ほとんど同じタイミングでカップを持ち上げて乾いた喉にコーヒーを流し込んだ。言い争っている間にすっかり冷めてしまっている。
「まあ、一番なにもしてなかったのはスロベニアだな。あいつ屋敷の見取り図持って指図してただけだから。あっ、つーかおまえ! スロベニアには事前に言ってたな、テレビのこと!」
「だって勝手に買ったらスロベニア怒りそうだったし」
「俺も怒ってるから!」
「フルバツカは……、べつに良いかなって」
 軽く鼻で笑ったセルビアが心底憎らしくなって、咄嗟に両手で頬を引っ張ってやった。モゴモゴと言葉になってない文句をわめいている顔が良い具合に不細工だったので、愉快になってしばらくして手を離した。隣でわんわん言ってるセルビアを無視してコーヒーをもう一口飲んで、手の中に残っていたパンの最後の一口を口に放り込む。「おいしい?」ともう一度、最初よりも機嫌を悪くした声で聞かれたので、同じように「普通」と答えて、おそらく拳が飛んでくるだろうタイミングで申し訳程度に「……普通においしい」と付け加えた。拳は飛んでこなかった。横を見てみるといま流行りのミニ・ワンピース姿のセルビアが柄にもなく顔を赤くしていた。照れるくらいなら聞かないでほしかった。そう思っている自分もあり得ないことに顔が熱くなっている気がするのが恐ろしい。
「テレビは必要」
 セルビアが小さく呟く。
「そうだな」
 そう俺も答える。
「ワンピースも必要」
「そうだね」
……
「でも俺も言ってほしかった」
……努力する」
 おそるおそる隣を伺うと、いつも通りむくれた顔をしているセルビアは、けれどもまだ顔を赤くしていて、なんだかおかしくなってしまった。こっちのほうが似合うよ。と、顔に掛かってた横髪を耳に掛けてやる。するとセルビアはますます普段の勢いをなくしてなんだか縮こまった風船のようになってしまった。ますますおかしくなってとうとう声に出して笑いはじめると、すぐにまた肩に拳が飛んでくるので、あやうくコーヒーポットを割るところだった。店に返さないといけないのに。なにかまた喚きはじめたセルビアは無視して、広げた弁当を片付けはじめる。パンを包んであった新聞紙をバスケットに綺麗にたたんで入れて、皿とフォークをしまった。むくれているセルビアには鍵を渡して家の場所をおしえてやる。たしかここでの家には来たことがなかったはずだ。聞いたばかりの道順を小さく反芻しているセルビアをぼうっと眺めて、たしかにワンピースは必要だなとばかみたいなことを思った。