ギャビィ
2023-10-19 21:44:52
3234文字
Public その他
 

無題

19世紀ブルガリアさんとセルビアさん、ボスニアさんラグーザさん

「お前、もう一度国になりたくないの」
 少女とも少年ともつかないような、ただ一目見て其奴だと分かるような、そういうパッと人目を引く容姿をしていた。ラグーザ共和国の話だ。いつもは飄々としてオスマンさんの横で無邪気に笑う彼奴が、私の目を真っ直ぐに見つめながら切々と問いかけたあの日のことは、もうずっとずっと昔のような気がしてしまう。本当に長い間、自分はこの屋敷に居たのだと改めて思い知って、そうして唇を噛み締めた。けれどももう止まるわけにはいかないのだ。

 まだ朝日の気配すら感じさせない暗い屋敷の中を歩いていく。ーー何だって今更彼奴の夢を見たんだろうか。もしかして今回も、あの時のように失敗するってことなんだろうか。ーーそんな恐れが脳裏をよぎる一方で、何が何でも出て行ってやるんだと絶対に譲れない思いがある。また国に、なりたくない訳がない。例え500年の鎖に繋がれようとも、例えその名が失われても、文字や文化や昔の思い出がある限り、私は私である筈なんだ。部屋から持ってきた荷物をギュッと握り締める手に力を込めた。
「行くんだな」
 屋敷を出る手前で夜の真っ暗闇の影の中から話しかけられて身構えてしまう。けれども影から一歩踏み出して目の前に現れた其奴は、よく知っている奴だった。つい、この間もあのひとの部屋の前で会ったばかりだ。
「ボスナ!」
「よう」
 こっちが拍子抜けするほど暢んびりとした調子でボスニアは緩く笑って声を掛けてきた。此奴のそういう表情は、何処となくあのひとに似ている気がする。それも、あの頃の姿に。一番大きかった頃のオスマンさんだ。
「勝手にすれば良い」
「何が」
「あのひとに見張るよう言われてるんだろう。例えお前が告げ口しても、私はもう戻るつもりはないよ」
「そうじゃねーよ。ただの見送り」
「お前が?」
「悪いか?」
 困ったように眉を下げたままボスニアはニッと笑う。私は夢で聞いた台詞を思い出した。もう一度国になりたくないのか。そう囁きかけるラグーザの声だ。
「お前は行かないのか」
「うーん、そうだなァ。行く時はオスマンさんに言って行きたい。それからヘルツェゴビナにも話してみないと」
「ヘルツェゴビナはお前の言うことなら聞くだろ」
「そうでもないさ」
 何と答えるべきか分からなくてつい目線を外してしまう。何だか正反対な気がしてしまう。ずっとオスマンさんの近くにいた私と、ずっとヘルツェゴビナと一緒にいる此奴。だから少し苦手でもある。苦手というよりも、何を話せば良いか分からないという感じだ。そういえば今まではセルビアを間に入れて話すことが多かったかもしれない。
「セルビアのとこ行くんだろ」
「あ、ああ、とりあえず」
「なら伝言頼まれてくれ」
 丁度頭に浮かんでいた奴の名前を出されて困惑する自分を他所に、急に真剣な表情になったボスニアが、いくつかの国の名前を口にする。私はハッと息を呑んで、また荷物を握る手に力を込めた。
 あの夢は知らせだったか。



「よく来たわね、ブルガリア!」
 なだらかな丘と森林に囲まれた村に新しく建てられた家はこじんまりと簡素な様子だったけれど、それを補って余りあるような賑やかさで家主のセルビアは私を迎え入れた。
「アンタが来るの待ってたのよ。とりあえず一杯どう」
 久しぶりに会った昔馴染みは、中に入って座った途端に早速ラキヤを一杯と果物の砂糖漬けを持ってきた。ぐるりと部屋の中を見渡していた私は、差し出されたそれをグッと一気に飲み干した。
「何よ、その顔は」
「元気そうで何より」
「あったり前よ、なんたって天下のセルビア様なんだから!」
「はいはい」
 一緒にあの屋敷で住んでいた頃とまるで変わらない調子で、セルビアは声を張り上げる。彼女はいつもこうして文句を言って、そうしてとうとう一番にあの屋敷を出て行ってしまった。
「あっ、セルビア公国だったわ。セルビア公国様」
「嫌味な奴」
「大丈夫よう、そのうち帝国になるもの」
「何が大丈夫なのかわからないし盛りすぎ」
「野望は大きくね」
 調子に乗ってるセルビアに突っ込みを入れて砂糖漬けをひとつ摘まむ。甘い。味をしっかり確かめるように目を瞑って口の中で転がしていると、セルビアはらしくなくやけに落ち着いた調子で「今度、ルーマニアたちも呼んでアンタの歓迎会やってあげるわ」と言った。私はまだ目を瞑ってる。ルーマニア。もうずっと会ってないけれど、どうしてるだろうか。「まだ出てこれると決まったわけじゃない」隣でどこか態とらしい溜息が聞こえる。
「アンタって本当に」
「本当に、何」
「別に。それよりボスナはどうしてる?」
「彼奴、まだ迷ってる」
 そういえば伝言が——。そう言いかけたところで、隣でハァ?と大声を出されて耳がキンとする。
「あっの石頭!」
「彼奴らしいよ」
「らしすぎるのよ! ったく、ヘェルツェゴビナも何やってんだか」
「まあ、色々あるんでしょう」
 いつの間にか最後のひとつになってしまった砂糖漬けを口に入れる。正面に座るセルビアをチラリと見る。「何よ」「別に」ボスニアに伝えられたことをどう切り出すべきか。二度三度逡巡して、景気づけにもう一杯ラキヤを煽った。
「ボスナからあんたに伝言。ラグーザが消えたって。それからヴェネチア共和国も」
……ふうん」
「案外驚かないのね」
「そりゃあ、ね。だって考えてもみなさいよ。東ローマもセルビア帝国も一度は滅ぶ世の中なのよ」
 それに、一度滅んでもまた蘇ることもあるし。
 セルビアはそう呟いて、私のグラスに注いだはずのラキアをグッと煽る。
「はいはい流石、って言えばいいわけ?」
「そうじゃなくて」
 ガッとテーブルとグラスのぶつかる音がする。セルビアは私の目をジッと見詰めている。
「アンタのことよ、ブルガリア!」
 彼女はいつもそうだ。時々此方が恥ずかしくなるくらい熱い気持ちをぶつけてくる。だから私の方も何だか熱くなってしまう。小さいときはいっぱい喧嘩もした。東ローマ相手に一緒に喧嘩売ったこともある。それからオスマンさん相手にも——
「アンタが三度蘇るのを楽しみにしてる」
「ふん、そこで見てなさいよ。すぐに出てきてやるから」
 セルビアがラキヤを注ぎ直したグラスを差し出す。私はそれを受け取ってまたグッと飲む。
「またそのうちブルガリア帝国様のパシリにしてあげる」
「あっ、ちょっとアンタ調子乗ってんじゃないわよ!」
 そう、私はまた蘇る。あの頃みたいに。
 なんとなく頭の中の靄がすっと晴れていくような、そんな気がした。
 頭の中でラグーザ共和国がまた問いかけている。「お前、国になりたくないの」と、あの生意気で可愛らしい子どもの声で問いかけている。そうして私は、急にスッと、分かってしまった。あの日の彼奴の真剣な眼差しの意味が、今になってようやく腑に落ちた。さっきは喉元を焦がすようだった熱が目蓋の裏に移動してきて、思わず目を左手で覆う。
「どうしたのよ、ブルガリア。飲み過ぎたの?」
「違う、セルビア」
「何だよ」
「ラグーザの、ことを」
……ええ?」
「彼奴、国でいたかったんだな」
 セルビアは何も言わなかった。

「じゃあ、とりあえず一旦帰るから」
「わかったわ。ロシアさんにもアンタのこと伝えておくから」
「ありがと」
「それから、ルーマニアにもね」
翌朝、家の庭先で私を見送るセルビアは、何が楽しいのか笑いながら背中をバンバン叩いてきた。ムッと睨むと、セルビアは軽く笑って受け流して「ボスナに伝言」と言う。
「さっさと出てきなさいよ、ふざけんな、って」
「伝えとく」
「それから、ラグーザのこと、ありがとう」
「それも、伝えとく」
 ばあか、今のはアンタに言ったのよ。
 そうけらけらと笑うセルビアの声が、花の咲き誇る庭に伸びやかに響いていた。