めやぬら
2024-11-13 20:49:56
2749文字
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うそ

燐一(途中・短編)

 バンッと強かに背中を打ち付けた。押し倒した勢いを安いベッドのマットレスは殺してくれず、衝撃に肺が詰まったのか、一彩は顔を顰めた。
「兄、さん?」
 馬乗りになって、掴んだ手首をシーツに押し付ける。加減ができず、きっと痛いだろうと思っても、力を抜けなかった。血が通わない一彩の指先が白く褪めていく。手のひらの下で、穏やかな脈拍がとくとくと肌を撫でた。乱れもしないそれが一層腹立たしく、衝動的に握り潰す。

「いい加減にしてくれ」

 地を這うような掠れた声。戸惑ったように見つめてくるのと目が合った瞬間、一彩は見開いて固まった。その澄み切った碧が余計に俺の怒りと遣る瀬無さを際立たせる。嵐のように荒れ狂っているのは俺だけなのだと突きつける。

……なにを」
「何……?ハッ……よくもまぁ、ンな白々しく言えたもんだよなァ」

 軽薄な口調でせめて重く澱んだ自身の激情を軽くしようとしても、言葉の棘は鋭さを増すばかりで互いの心に突き刺さった。不安気に下げられた眉、傷ついた光を湛える瞳、何かを言おうとして半端に開いた口、強張る手首。その反応の集合体として受け取れるのは、驚愕と戸惑いと怖れ。

「お前、今何考えてんの」
「兄さんが……どうして怒ってるのか……
「それで」
…………ごめんなさい」
「そうじゃねぇだろ!」

 この期に及んで謝る一彩を怒鳴りつける。

「何やってんだって詰れよ!なんでそんな機嫌悪りぃんだって責めろよ!お前いま理不尽に怒鳴られてんだぞ?!謝んな!もっと怖がれよ!言い返せよ!」
「こ、怖いよ!兄さんにいきなりこんなことされて、何故って思ってるし……怖いって……思ってる」
「嘘つくな!お前、そう言えば俺が満足すると思ってんだろ」
「、っ」

 一彩が息を飲む。その反応に舌打ちした。その怯えた表情でさえ、意図して作っているのではないかと勘繰った。
 言えと言っておいて、嘘だと否定する。自分の発言自体がめちゃくちゃになりつつあるのを自覚しながらも、苛立ちは治まらない。何も言い返さないということは、そういうことだ。
 一彩はいつも、いつも。

……いつも、俺の正解を探すよな」

 兄さんが喜ぶなら、なんだってする。
 幼い日の言葉が呪いとなって今も心に蔓延る。
 なんだってする。辛いことも嫌なこともする。耐えてみせる。俺が喜ぶのなら、感情さえ模倣してみせる。俺が望むのなら、例え笑いたくなくても幸せそうに笑い合う。
 一彩は成長した。昔は言葉にしていた“兄さんがそう言うなら”を、今は声に出さないだけなのだろう。俺の顔色を窺って、当たりの反応を探って、真似て、繰り返す。
 そうすれば、ほら。表面上は仲の良い兄弟の出来上がりだ。

「怖くねぇくせに。俺がそうしろって言うから、怖がったんだろ。怯えた反応すりゃ満足するって、俺が喜ぶと思ったんだろ」

 震える手も、絶望一歩手前まで濁った瞳も、全部演技だ。本当に演技か確かめもしないで、そう断じた。そうじゃない可能性なんて、考えたくない。そんな希望はもう持ちたくない。
 どこにもいくなと思ったところで、一彩の思考までは縛れない。体は縫い止められても、心は遊離していく。
 俺を見透かして、俺自身さえ気付いていない一彩への要求を汲み取られて、誤りの一つなく完璧に不完全な一彩を演じられて、俺はそれに踊らされている。
 そんな馬鹿げた考えが、どうしても抜けきらなかった。

 一彩は何も言わない。微動だにせず、張り詰めて毀れてしまいそうなほど俺を凝視している。怒りも責めも、嘆きもない。
 驚いているだけだ。一彩は、突然のことに戸惑って、動揺しているだけだ。だが、強張る肩や、何かを言いたくて言えなかった唇の震えさえも、今は本心なんかではないと決めつけてしまう。こうして大人しく押し倒されるがままであることさえ、俺がそうしてほしいと思っているからで、実際は一彩は振り解いて逃げてしまえるのではないかとさえ。逃げないのは、俺が一彩に行かないでほしいと思っていると、一彩に理解されているからだと。

……結局こうなるんだ、俺たちは」

 自嘲を含めたのに、何故か真実味が滲む。
 好き合ったはずだった。信じたはずだった。
 それでも一彩は俺のことを探ってしまう。俺は一彩を疑ってしまう。分かっていたことなのに、一方通行でもいいと諦められないほど、俺は一彩に恋焦がれてしまった。

……兄さ」
「もういい……もう、いい」

 自制が効かないほど好きになって、挙句その相手を一方的に責め立てて傷つけて、そして愚かにも自責して。こんな不毛なことは、もうやめにしよう。一彩は大切な弟だ。その事実だけは揺るぎない。それ以外は捨てたって構わない。それ以外の中に例え一彩への過剰な愛が含まれていたとしても、それが他でも無い一彩を傷つけるのなら、喜んでそこらのドブに打ち捨ててやる。

「悪かった……痛かったよな、ごめん」

 一彩の上から退いて、赤黒い痣がついてしまった手首を痣を付けた指で摩る。
 早く治れ、そして全部忘れてくれ。これまでの、大切でとち狂っていた時間も思い出も、すべて悪い夢だと思って忘れてくれ。
 仰向けに寝転がったままこちらに向ける顔へ、今更兄の仮面を貼り付けて笑いかける。一彩は焦ったような顔をした。俺がそうしてほしいからなのだろうか。自分の本心さえもう見えない。

「っ兄さん」
「早く寝な、もう遅いんだから。俺は添い寝なんかしてやんねぇぞ」

 寝かしつけるように言って立ち上がる。部屋の出口へ向かう後ろを一彩が追いかけてくる。

「待って!」
「最近さみぃんだから、ちゃんと布団かぶっとけよ」
「話を聞いて、待って、まってよ」

 腕を掴もうとした一彩の手を振り払う。ベッドからここまで、短い距離の中に詰め込まれた足掻き。受け取るつもりなど微塵もなく、恋人であろうとする一彩を黙らせる。

「終わり、だ。分かれ」

 硬直する一彩の頭を正しく兄のまま優しく撫でた。いつもなら心底嬉しそうに笑うのに、今は信じられないとばかりに固まって、呆然としている。その表情は、今日触れて見た中で一番素直に映った。
 あぁ、そうか。やっぱり こっちの方が、お前は正直でいられるんだな。俺が一人で、お前の欺瞞に振り回されていたんだ。
 一彩の兄をしていた時間は長く、身に染みている。どれだけ心が痛もうが覆い隠してしまえるくらいには、この子の兄をしてきた。

「じゃあな……おやすみ」
「兄さん待っ」

 扉を閉め、一彩の声を断絶した。
 そのまま行くあてもなく、部屋から離れる。
 一彩は追ってこなかった。