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砂塵
2022-05-29 21:24:44
14927文字
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眠りの海で待っている【アソ龍】
「己はとうとうキグルヒになつてしまつたのだらうか」
夢を見る亜双義と、そんな亜双義と手を繋ぐ龍ノ介が夜歩く話。クリア後推奨。
とりあえず避難させました。
「眠り姫と云う女を知っているか」
居酒屋で飲んでいた折、赤らんだ顔の亜双義がそんなことを云い始めた。
今日の仕事を終え、約束通り二人で牛鍋をつつきながら日本酒をいただく。検事として働く亜双義も、弁護士として働くぼくも、まだまだ若いので苦労が絶えない。そんな中でたまにこうして二人で会うのが息抜きになっていた。
日本酒に映る電灯の色がつるりと蠢く。東北の地酒であるらしいこの酒の名前はなんと云ったか。そんなことも思い出せないくらい、ぼくも亜双義も出来上がっていた。
「さあ・・・・・・誰なんだ?」
「独逸の民話に出てくるそうだ。なんでも、茨の生垣を越えた城でずっと眠り続けているとか」
「へえ。いいなあ。ぼくもずっと眠っていられるなら眠っていたいよ」
「キサマはまたそんな・・・・・・まあ、キサマらしいと云えばそうなのだろうが」
亜双義からその民話について詳しく聞く。なんでも、幼い頃に魔女の呪いにかけられたお姫様が糸車の紡錘で深い眠りに落ちてしまう話らしい。ぼくだったら針なんかに触らないけどなあと考えていると、亜双義がにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「一説によると、紡錘は男性器の象徴らしい」
口に含んだ日本酒を吹き出せば、亜双義はあっはっはといつもの通り快活に笑った。彼がそんな冗談を口にするなんて珍しかった、
これは亜双義も相当酔っている。酔狂に異国の民話を話す彼は、実に楽しそうだった。
ころころと鈴のように笑う亜双義の声に耳を澄ます。周囲も酔っ払いばかりで騒がしいが、なぜか彼の声だけは湖の清水のようで、ぼくの耳によく届いた。
「で、その姫様は、ある日城を通りかかった王子の接吻で呪いが解けて目が覚めるのだ」
「せ、接吻・・・・・・。そんな卑猥な民話があるのか、独逸には」
「さあな。オレもホームズ氏が話していたのを聞いただけだ」
相変わらずホームズさんは物知りだなと感心したいのは山々だが、そんな破廉恥な話を亜双義に聞かせるのはどうかしらん・・・・・・と思わなくもない。亜双義は美丈夫だから、そのような経験もあるかもしれない。しかし生真面目な此奴がそう簡単に人に靡かないのはぼく自身がよく知っている。どうにもこうにも、胸の靄がつかえてしまってよくない。
「それにしても、キサマには卑猥な話に聞こえるのだな」
「お前は違うのか?」
首を傾げて問うと、亜双義は、す、と笑みを消した。凄絶な陰が途端に彼の目元を覆い隠してしまう。ぼくらを照らす天井の電灯が、ぱちぱちと点滅した。
「そうだな、オレは・・・・・・」
彼の長い睫毛が邪魔で、思わず手を伸ばしたくなってしまう。彼に纏いつく陰は、大英帝国での出来事が終わってもずっとついてまわっている。その陰が取り払われることは一生ないのだろうけど、それでもぼくは彼の傍にいられて幸せだった。
その陰ですらも、亜双義を美しく仕立てあげてしまうのが、どうにも悔しくていけない。
亜双義は目を伏せて呟いた。その小さな声は、ぼくの耳にちゃんと届いていた。
「オレは・・・・・・どんな手を使ってでも起こしてほしいがな」
事務所兼自分の家に戻り、整理していなかった仕事のあれこれを確認していたら深夜弐時になっていた。
十一月の晩秋、外は冬の息吹を感じるようになり、寒さばかりが肌を突き刺した。月灯に照らされた亜双義の白い頬が目に焼き付いて離れてくれない。店内ではあんなに赤らんでいたのに、外に出た彼の皮膚は死人のように真っ白だった。
色を無くした唇から漏れる白い吐息が、月に反射して輝いて見えた。白い靄で、彼の顔が見えなくなるのが怖かった。亜双義は白く彩られた表情のまま手を振ってその場を後にした。
考えすぎだ。ぼくの親友は強い人だ。ぼくが心配する余白などないくらい、亜双義は一本筋の通った男なのだ。それこそ、記憶を亡くしても大英帝国まで渡ってきたのだから。
それでも、たまに。
たまに彼が纏う陰が濃くなるときがある。咄嗟に抱きしめたくなって手を伸ばしかけるけれど、そんなことはできなかった。そんなことをしてしまえば、気丈な彼を傷つけてしまいかねない。傍にいるのに、なにもしてやれなかった。
分かっている。亜双義は子どもではない。それでも親友として見過ごせないのだ。
すべてが解決してもなお、彼を苦しめているものがなんなのか知りたかった。真実を追究する者として、妥協なんてできなかった。
酒気も抜け、そろそろ眠ろうと窓の外を眺める。寒空に凜と輝く満月が、窓下の細い道を照らしていた。
そこに浮かび上がる、白い人影。
ひゅ、と息を呑んだ。こんな時間に人がいるとは思えなかったのだ。突然浮かんだそれに心臓が悲鳴をあげた。人間か、幽霊か、はたまた別のなにかか。心臓が口から出そうなのに確認せずにはいられなかった。
よく見ると、その人影は白い浴衣を纏っていた。濡羽色の髪が、寒風に吹きつけられ乱れている。女性のような淑やかな雰囲気はあったが、その体格は男性のものであった。
その出で立ちは、ぼくがよく知っている男だった。
「亜双義・・・・・・?」
見間違えるはずはない。あれはぼくの親友、亜双義一真だ。こんな時間に出歩くなど、一体なにがあったのだろう。狩魔はまだぼくの手元にあるから仕方ないと云えばそれまでだが、それでもこの時間に出歩いているのに獲物の一つや二つを持っていないのは不用心が過ぎる。
まだ寝間着に着替えてなくて良かった。
紳士服の上から外套をはおった。やはり深夜故に空気は凍りついており、つんざく寒さに身震いした。道なりに進むと浴衣姿の亜双義にすぐ追いついた。足取りは覚束ず、吹きすさぶ風にふらついている。普段の気丈な彼はなりを潜め、病人のように不安定だった。浴衣から覗く手首がやけに生白く見えた。
亜双義の様子がまるで幽鬼のようで、目が離せなかった。
「亜双義」
名前を呼んでも彼が振り向く気配はない。白いうなじを晒すのみだった。大英帝国で記憶を亡くしていたときのほうがよっぽど反応があったものだ。
「亜双義、どこに行くんだ」
もう一度呼びかける。やはり歩みを止める気配はない。仕方がないので彼の隣に並んでついていった。そっと左手に触れてみると、ぞっとするほど冷たかった。先ほどまで酒で顔を赤らめていた人物だとは思えなかった。寒空の下、浴衣一枚で歩いているなど尋常ではない。ぼくは自分の外套を脱いで、彼の肩にかけてやった。
よくよく亜双義の横顔を見ると、目の下には深い隈ができていた。今日一緒に飲んだときにはこんな暗い隈はなかった。亜双義の凍った左手に指を絡ませてみるが、握り返されることはなかった。
亜双義の身体を少しでも温めてやりたくて、できるだけ体をひっつけて歩く。ぼくの熱がどんどん奪われるばかりで、亜双義の手も全然温かくならない。それでも一緒にいたいのは、自分の我儘なのだろう。
やがて、潮騒が近づいてくる。もうそんなに歩いたのかと顔をあげれば、漁港に続く道筋であることに気づいた。そこで、亜双義の目的地を知った。
生臭い潮の香りが近づいてくる。生物たちの死骸の匂いだ。亜双義はなぜそんなところへ向かおうとするのか、ぼくにはさっぱり分からない。
いつものように、ぼくの名前を呼んでくれ。一向に握り返されない手を強く握って念じても、今の彼には届かなかった。
そうして、夜の海にたどり着いた。
今日は風が強いから夜釣りはしていないようで、海には光が一切見当たらない。ただひたすら、暗澹たる色と壮絶な水の音が広がっていた。夜の海は夜空よりずっと深く昏い。この波に呑み込まれたら、人間なんて見つかりはしないのだ。
夜空と夜の海は、境界線が明確に分かるほど、黒の種類が違っていた。月灯さえ吸い込んでしまう黒は、ぼくらの姿を簡単に隠せてしまうのだろう。
不思議なのは、この暗闇の中でも白波の色が見えることだった。深い暗闇の中で、波の白だけが鈍く光る。亜双義の浴衣の色みたいだった。
亜双義は一度歩みを止めた。なにも映していない目が思案げに揺れる。
そして、一歩前に出た。海のほうへ向かっていく。そこでぼくは、彼が今まで裸足だったことに気づいた。
すっかり色の失った踵が波の泡を踏みつける。ぼくは慌てて亜双義を引き留めた。
「亜双義! どこへ行こうと云うんだ!」
亜双義はぼくを見ようともしなかった。ただ、海の果てだけに視線を巡らせていた。
ぼくの言葉には耳を傾けず、代わりに、か細い声で口にした。
「・・・・・・父上」
それは、亜双義が心の底から尊敬していた人物だった。
海の果ての大英帝国で亡くなった亜双義の父親、亜双義玄真。その亡霊が、事件が解決してもなお彼の心を苛んでいた。
愛する者が亡くなった傷は、癒えることはない。
生き残った者がその痛みを享受して、噛み砕いて、己の中で整理して、そうして生きていく。亜双義はずっと独りでそうやって生きていた。独りだった期間、彼に寄り添ってやれた者がどれほどいたのだろうか。ぼくには分からなかった。
お前を隠す陰はこれだったのだと、漸く合点がいく。けれど、亜双義まで海の向こうに行かせるわけにはいかなかった。
どこにそんな力があるのか、亜双義はぼくの手に構わず、迷いのない歩みで海の中へ入っていく。必死に亜双義の腕を引っ張るが、ぼくの力では引き留められない。ぼくも海へ足を踏み入れてしまい、紳士服の裾が濡れた。亜双義をどう留めるべきか、必死に思考を巡らす。亜双義にぼくの声は聞こえていない。まるで寝言のように亜双義玄真を呼んでいるだけだ。・・・・・・寝言?
『眠り姫と云う女を知っているか』
今日、酒の席で亜双義が話していたことを思い出す。
『なんでも、茨の生垣を越えた城でずっと眠り続けているとか』
あの話が、ぼくに助けを乞うものだとしたら。しかし、そんなことがあり得るのか。
『その姫様は、ある日城を通りかかった王子の接吻で呪いが解けて目が覚めるのだ』
親友に接吻なんてできるはずもない。友への背信行為と云っても過言ではない。きっと我に還った亜双義に殴られるのが関の山だ。
しかし、亜双義は確かにこう云ったのだ。
『オレは・・・・・・どんな手を使ってでも起こしてほしいがな』
起こしてほしい。そう云ったのだ。亜双義は。
だったら一か八か、試してみるしかない。
「・・・・・・亜双義、ごめんよ!」
亜双義の肩を無理に掴んで、顔だけ此方を向かせる。勢いで彼の唇を奪った。慌てたせいで歯ががつ、とぶつかる。唇から鉄の味がした。亜双義の唇は冷え切っていて、体温など一欠片も感じられない。かさついたそれから唇を離せば、亜双義の目に焔が灯りはじめた。
「・・・・・・なるほどう、」
「亜双義、目が覚めたか?」
いつもの、生気のある亜双義の表情になったところで、彼は大きく身震いした。がちがちと歯の根が合わなくなり、ぼくと繋いでいないほうの手で外套を握りしめた。
「・・・・・・寒い」
十一月の海は凍り付くような冷たさだ。そこへ裸足で立っているのだ。いくら頑丈な亜双義でも堪えられないだろう。亜双義の手を引いて海からあがった。
「とりあえずぼくの事務所に帰るぞ。いいな」
夜の浜風に当たりすぎるのも良くない。亜双義はそこでやっとぼくの手を握り返してくれた。力の入っていない、弱々しい手だった。
「成歩堂、どうしてキサマが」
「どうしてって・・・・・・外を眺めてたらお前が歩いているのを見たんだ。尋常じゃない雰囲気だったから心配になってついていったらこの有様だよ」
「それは・・・・・・すまん」
亜双義はぼくの足下を見て、顔を顰めた。紳士服など洗えばどうとでもなる。しかし、亜双義はそうはいかない。親友のためには紳士服は必要な犠牲だったのだ。
亜双義はぼくの外套を着直して、衿に顔を埋める。顔色は未だに白く、血色が戻らない。
「亜双義、正直に答えてくれ」
「・・・・・・・・・・・・」
「一度や二度じゃないだろう」
問い詰めると、亜双義は暫しの沈黙の後、深く頷いた。
二人並んで夜道を歩く。ぼくらの背後を照らす満月の光で、二人分の陰が重なって見えた。
亜双義の指先は震えていた。すっかり冷え切ったぼくらの手は、それでも離すことなんてできなかった。
ああ、恐かった。友がいなくなってしまうのではないかという不安が、一度に押し寄せてくる。亜双義が隣にいる事実が、ぼくをひどく安心させた。みっともなく鼻を啜りそうになり、ぐっと堪えた。
二度と失わせてくれるなよ、親友。もう、あんな痛みなんてごめんだ。
玄関には持って行こうとして忘れ去られた洋燈があり、それに火を灯して事務所に亜双義を招き入れる。二人して足を濡らしていたので、亜双義を玄関に座らせて手ぬぐいで足を拭いてやる。彼の足はあかぎれていて痛々しい。亜双義の足に恐る恐る触れると、少しだけ身体を揺らした。痛いだろうに、表情を一つも動かさない。後で薬を塗ってやろうと提案すると、亜双義はやっと顔を顰めて、「自分で拭く」と手ぬぐいを奪った。
ぼくも濡れた靴と洋袴を脱いで、とりあえず玄関に置く。冷えた空気に素肌が晒され、総毛立った。さすがに褌一丁では締まりがないので、適当に足を手ぬぐいで拭って建物の中に入る。亜双義に「勝手に入ってくれ」と声をかけておいた。まっすぐに寝室に向かい、箪笥から鼠色の浴衣を取り出す。乱雑に服を脱ぎ捨て浴衣を着た。寝室の引き戸を開けっぱなしにしていたので、亜双義の足音が近づいてくるのが分かった。
ぽて、ぽてと、頼りない足音が聞こえてくる。亜双義の浴衣も濡れていた気がする。あの、白蛇のような浴衣。ぞっとするほど、吐き気を催すほど美しいその色。目の裏に焼き付いてしまった白が、どうしても嫌いになれなかった。
箪笥からもう一枚浴衣を取り出す。亜双義が心許なげに寝室を覗いていたので、その浴衣を渡してやった。藍色は亜双義には似合わないかもしれないが、着替えないよりはマシだろう。
狭い自室の扉を閉め、洋燈を文机の上に置いた。身体が冷えてしょうがないので、火鉢を用意する。分厚い毛布を手にして、亜双義を振り返った。
「あそう、ぎ・・・・・・」
亜双義はその場で浴衣を取り替えていた。洋燈に照らされた肉体は完成されており、筋に陰が出来ている。男性の香りのする四肢はしっかりしているのに、晒された白いうなじがやけに艶めかしく、つい釘付けになってしまった。
衣擦れの音と共に、亜双義の肌が藍に隠される。そこで彼は目を細めてぼくに微笑んだ。
「どうした、成歩堂。顔が紅いぞ」
「い、いや・・・・・・」
「風邪を引かせてしまったか・・・・・・。すまんな」
違う方向に話が逸れて助かった。ぼくはまっすぐに見てくる亜双義に分厚い毛布を押しつけた。
火鉢の前に陣取ると、毛布で身を包んだ亜双義が手招きする。亜双義の真意を図りかねて首を傾げると、彼は片腕で毛布を持ち上げて空間をつくった。
「キサマも来い」
「いいよ。お前が使えよ」
「二人で使ったほうが暖かい。それともオレを凍死させるつもりか?」
先ほど親友を邪な目で見てしまった手前、居心地が悪い。遠慮するが、こういうときの亜双義は押しが強いから厄介だ。結局ぼくが折れて。二人寄り添って毛布にくるまれた。
凍死なんて大袈裟な、と思ったが、実際亜双義の身体は氷のように冷たかった。亜双義の肩に頭を乗せると、彼の深い呼吸音が聴こえてくる。夜もすっかり更けている。きっと亜双義も眠いのだ。もう少し暖まったら布団を敷かなければと、ぼんやりした頭で考える。
「なにか温かい飲み物でも持ってこよう」
そう云って一度毛布から出ようとするが、亜双義がぼくの腕を掴んで離してくれない。亜双義を見やれば、親を見失った幼子のような目をしていた。
「そんなのはどうでもいい」
「でも」
「・・・・・・共にいてくれ。頼む」
間近で見る亜双義の睫毛は長くて、少し濡れていた。腕を掴む亜双義の手が震えていたので、その手に自分の手を重ね合わせる。もう一度強く繋ぎ直した。
火の鳴る音が聴こえる。洋燈の中で燃え盛る焔はゆらゆらと蠢き、狭い寝室を不思議な色合いで彩っていた。焔の臙脂色が、部屋の壁に溶けていく。亜双義が深く息を吐いた。
「なあ、亜双義。お前、いつからああなったんだ」
「・・・・・・はじめて気がついたのは一ヶ月ほど前だ。目が醒めたら海で溺れていた」
やはり今回みたいなことは一度や二度ではないらしい。海で溺れていると聞いて、ぞっと身の毛がよだった。
亜双義は静かに語る。
「オレはただ、夢を見ているだけなのだ」
「夢?」
「父上と母上に呼ばれる夢。オレはいつも光の差さないところにいて、彼らに向かって必死に走っている。そんな夢を見る。そうして目が醒めると、オレはいつも海の中にいるのだ」
亜双義の横顔はどこか寂しそうだった。
「オレはとうとう気狂いになってしまったのだろうか」
「・・・・・・亜双義」
珍しく弱音を吐く亜双義の手を強く握る。ぼくは亜双義が気狂いになっただなんて思ってもいなければ、弱い人間だとも思っていなかった。
亜双義はただ、愛する人たちを忘れられないだけなのだ。
深く愛し、深く悼み、時には己を犠牲にする。亜双義はそんな男だった。その苛烈とも云える情念は、裏を返せば彼なりの優しさだった。
忘れられないことは、悪ではない。ぼくも、親友のことを片時も忘れたことはなかった。
どのみち不器用な優しさを持つ此奴を愛してしまったぼくも、同じ穴の狢なのだ。
「亜双義、ぼくはお前が気狂いになったとは思えない。ただお前は淋しいだけなんだ」
「成歩堂・・・・・・」
「だから、今日からしばらくの間ここに住め」
「ああ・・・・・・・・・・・・は?」
一緒に住むことを提案すると、亜双義が訝しげに眉を顰める。
「どうしてそうなる」
「だって、お前が溺れないためには誰かがとめなきゃいけないだろう?」
「だがな・・・・・・」
「それに、今日ぼくはお前をとめてみせただろう。お前が入水すると云うならぼくがとめてやる」
「しかしだな。」
「亜双義」
彼は弱った自分を見せたくないのだろう。親友であるぼくにも、きっと。此奴は大英帝国へ向かう前、ぼくになにも話してくれなかった。だから今回も、独りで抱えるつもりだったのだろう。
でも、そんなのはもう赦されない。ぼくは、お前を知ってしまったのだから。
「ぼくを信じろ」
強く手を握り、衿を掴んで引き寄せた。亜双義の目を見据えると、彼は一度狼狽え、そして鼻頭に皺をつくった。ぼくが亜双義を引き寄せたように、亜双義もぼくを引き寄せる。ぼくの肩に額を押しつけて、震える声で云った。
「・・・・・・・・・・・・助けてくれ」
焔の爆ぜる音にすらかき消えてしまいそうなか細い声で、確かに彼はぼくに救いを求めた。
亜双義の背中に手を回し、抱き寄せた。親友の身体は凍りついていた。少しでも体温を分けてあげられたらいいのに、二人して冷えていくばかりだ。
毛布にくるまれた小さな世界で、ぼくらは朝まで過ごした。空が白んでいく。朝日の欠片が部屋の隙間から入り込んでくる。
座ったまま眠ってしまった亜双義の頬を撫でた。その頃には体温も元に戻っていて、ひどく安堵した。
亜双義、また、二人で暁光を浴びよう。小さな覚悟が、きっとぼくらの道を照らしてくれる。ぼくはお前との未来を信じている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「ところで、キサマはどうやってこのオレの入水をとめているんだ?」
「え」
亜双義が事務所に居座って一週間が経った頃、二人で夕餉を食べているときに不意に彼がそう尋ねてきた。
そこで、亜双義はぼくが接吻するところまでは覚えていないのだと知った。それはそうだろう。覚えていたら今頃ぼくは斬られている。
これ幸いとばかりに、頭を掻いてごまかした。
「え、えーと・・・・・・、そんなのどうでもいいだろ。ちゃんとお前の意識を戻せてるんだから」
「しかし、その方法さえ身につければキサマにばかり頼らなくていいだろう。他の人に頼むという手段も・・・・・・」
「そ、それはだめだ!」
咄嗟に卓袱台を両手で叩きつけてしまう。亜双義は驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んで、「なんだ、ここは法廷ではないぞ」と揶揄ってきた。
他の人に頼むだなんて、絶対に駄目だ。それこそ、亜双義が想い慕っている人なら話は別だろうけれど・・・・・・まで考えて、異様に胸が痛いことに気づいた。なんて身勝手な感情だろう。唇を勝手に奪っただけではなく、彼を独占したいなどと。
亜双義がぼく以外の人と口づけするところを想像してみる。意識のない亜双義に、見知らぬ誰かが唇を重ねる。我に還った亜双義は優しく微笑んで、「帰ろう」とその人の手をとるのだ。
やっぱり、嫌だった。
皿に乗った焼き鮭を箸でほぐして口に運ぶ。寿沙都さんがお裾分けしてくれた鮭は脂がのっていて、口の中で溶けていく。それに加え、蕪菁のお漬物と豆腐の味噌汁が卓袱台に飾られていた。
「そんなしけた顔をするな。キサマが云いたくないならオレも聞かん」
「・・・・・・ごめんよ、今はまだ云えないんだ」
少なくとも、亜双義が夜中出歩かなくなるまでは口にできない。ぼくが接吻していたと発覚すれば、亜双義はどんな反応をするのだろう。怒って口をきいてくれなくなるかもしれない。あるいは
――
。
「ぼんやりしてるな、成歩堂。飯に集中しろ」
「あ・・・・・・ああ」
亜双義の言葉で思考を中断する。今考えても仕方のないことだ。いつ、なにがどうなるかだなんて、そのときにしか分からないのだから。
亜双義は、不定期で夜中に出歩いた。
外に出る日付は決まっていないらしく、三日連続で出る日もあれば、一週間ほど音沙汰のないときもあった。ぼくは亜双義が布団から抜け出したらすぐに気づけるように、彼と床を共にした。亜双義は少し嫌そうだったが、理由が理由なのでおとなしく承諾してくれた。
ある日、暗闇の中、亜双義が口にした。
「どうしてキサマは、そんなによくしてくれるんだ」
うとうとと眠りにつきそうな真夜中、亜双義が突然尋ねてくるので、向けていた背中を翻して彼と向き合った。彼の顔が思ったより近く、吐息の音を聴いて緊張してしまう。あくまで生真面目な表情をしている彼の唇が薄く開いていて、今すぐ奪ってやりたいなどと思った。
鼻頭がくっつきそうな距離に、泣きたくなってしまった。彼の微かな呼吸音に、安心してしまう自分がいた。
「お前は、ぼくの親友だから」
漸くそれだけ口にすると、亜双義は少し不機嫌そうな声で「そうか」と返す。どうやらぼくの返答はお気に召さなかったらしい。なら、どう答えてやれば良かったのか。明確な答えを教えて欲しかった。
そうして彼は目を瞑る。美しい夜がやってくる。
深夜弐時頃になると、亜双義はふ、と布団からいなくなる。亜双義の気配で目を覚まして、彼の後をついていく。冬の時期は風邪をひいてしまうので、彼を厚着させるのに苦労した。放っておくと浴衣姿で裸足のまま出てしまうので、それだけはなんとか避けた。
また、接吻する機会も窺わなければならなかった。何度か試したのだが、道の途中で口づけしても彼が正気に戻ることはなかった。必ず海を見せ、その上で接吻してやらなければならなかった。まったく、困ったお姫様だ。
しかし、そうしているうちに、夜を闊歩する回数も減ってきた。今では一週間に一度徘徊すればいいほうだ。ぼくは亜双義と夜の散歩をするのは苦ではなかった。寧ろ、楽しいくらいだった。こうして二人きりで夜を歩くのは、悪くない。夜は光が差さないが、その分夜空に浮かぶ月や星が眩しく見えるのだった。
海へ向かう途中、亜双義によく話しかけている。返答がないのは分かっているが、どうしても彼に語らずにはいられなかった。
亜双義、雪が降ってきたぞ。また寒くなるな。
亜双義、雪に月の光が反射していてキラキラしているな。
亜双義、つららがあるぞ。まるでラムネ壜みたいだ。
亜双義、雪が解けてきたな。見ろ、小さな花だ。なんて名前だろう。
亜双義、つくしだ! なんてかわいらしい格好をしているんだろうな。
亜双義、ふきのとうがあるぞ。今度天麩羅にして食ってやろう。
亜双義、桜が咲いたぞ。桜は好きだな。・・・・・・お前みたいだから。
亜双義、・・・・・・月が綺麗だな。
「亜双義
――
お前を愛しているよ」
穏やかな春の夜に、・・・・・・親友に届かないのを良いことに、ぼくは呟いた。
届かなくてもいいのだ。どうせこの言葉だって陳腐なものなのだから。
彼への感情をうまく言葉にできなくて、一番近かったのが「愛してる」というだけのことなのだから。
お前との夜は楽しいよ。そう笑いかけても、虚ろな目にはなにも映らない。
最初は返答のないことが淋しかったが、最近はそうでもなくなってきた。隣にいてくれるだけで心が満たされる。彼と手を繋いで、夜歩く。
ふわ、と、柔らかい香りを引き連れて、桜の花弁が目の前を通り過ぎた。
この漁港には一カ所だけ土手があり、そこに桜の樹がところ狭しと植えられていた。土手の上には小さな小学校がある。津波がきたらどうしようとも思うのだが、その土手は防波堤の役割をしているらしく、存外高いところに建物があった。
桜の花びらに手を伸ばしてみると、運良く掴み取れた。力を入れたらすぐに破けてしまいそうな柔さだった。夜に見る薄桃色の花弁は、月の光を吸収して淡く発光している。手の平を広げると、風に乗って海の彼方へ飛んでいった。
今日の亜双義も、海を目の前にして呆としている。そろそろ正気に戻そうと思って声をかけようとしたら、亜双義が此方を見つめていた。
夢に囚われている亜双義が視線を巡らしているのは珍しい。つい見つめ返していると、亜双義の夜色の目から一筋流れ星が落ちた。
「なるほどう、」
ぼろ、と頬に伝う雫を指先で拭ってやる。亜双義は声を出さずに、静かに泣いていた。そのまま片手で頬を包んで、夢から醒ましてやる。亜双義の唇は桜の花びらのように柔かった。
亜双義の目に光が宿る。暫くぼくを見て呆然としていたが、自分が泣いていることに気づいて、繋いでいたぼくの手を離そうとした。咄嗟に握る手に力をこめるが、亜双義は片手で顔を覆った。
「・・・・・・見るな!」
「亜双義」
「見るな・・・・・・っ! 見ないでくれ、頼む・・・・・・」
この期に及んで弱さを見せようとしない親友が逃げようとするのを引き留め、抱きしめた。
彼の背中に腕を回して、肩に顔を埋める。顔は見ないでやるから、ぼくから逃げないでほしかった。
亜双義の肩は震えていた。浴衣越しに感じる体温は、最初の頃より温かい。彼の背骨をなぞれば、落ち着いてきたのか深く呼吸をし始めた。
ぼくの親友は声も出さずに泣くんだな、と心の中で独りごちる。肩の濡れる感触が心地よい。彼の心臓がせわしなく動いている。時を刻むように、音を立てている。
夢に囚われた彼が少しでも泣けますように。心臓の音に耳を傾け、目を閉じた。鼓動と潮騒が混じり合って、まるで水の中にいるようだった。
ぼう、ぼう、と、遠くで音が鳴っていた。
深い眠りから目が醒めた。
外からは小鳥の囀りが聴こえる。白い光が部屋の隙間から差し込んでいるのを見て、朝の訪れを知った。布団から起き上がると、隣で寝ている成歩堂が身じろぎする。うん、と童子のように声を漏らす彼が愛おしくて、左目蓋に口づけを落とした。
「キサマはまだ寝ていろ」
頭を撫でてそう云えば、夢心地なのか成歩堂は目を閉じたままへにゃりと笑って、再び穏やかな寝息を立て始めた。此奴は、オレがこうして口づけをしてあやしていることなんて知らないのだろう。・・・・・・多分。
朝の鍛錬のため、浴衣から道着に着替える。外の水場で顔を洗う。水は朝日に反射して、成歩堂の瞳のようにキラキラと輝いていた。
海で目を醒ますと、いつも決まって成歩堂の目が一番最初に飛び込む。
それこそ口づけでもしてしまいそうな距離で、成歩堂が此方を覗いているのだ。彼の目の輝きは清らかな朝の光にも似ていたが、どうにもしっくりこない。似ているのは確かなのだが。
なぜそんな、目に輝く光が見えるほどの距離にいるのか、いつも不思議に思っていた。問い詰めると曖昧な返事しかしないので放っておいているが、気になるものは気になってしまう。聞けばなぜだか淋しそうな顔をするから、触れてはいけないことなのかもしれない。
相棒が隠し事など珍しいとも思うが、彼奴は人のためなら平気な顔をする。嘘が下手なくせに、変なところで肝が据わっているのだ。そこが彼の美点なので、とやかく云う必要はないが。
昨日の夜はみっともないところを見せてしまった。気がついたらオレは泣いていて、成歩堂が絶対に手を離してくれなかった。止まらない涙をどうすることもできず、抱きしめる彼の腕になすがままにされた。相棒の体温は温かくて、心臓の音も穏やかで、オレはつい安心して泣いてしまったのだった。
ひたすら夢を見ていた。父上と母上の夢を、ずっと。しかし、二人の元へ行こうとすると、真っ黒な人影がオレの手を取って連れ戻すのだ。なんで父上と母上のところに行かせてくれないんだと喚き嘆いても、その黒い人影はオレの話を聞かずに強い力で引っ張っていく。
毎夜のように同じ夢を見ていた。しかし、昨日は違った。
父上と母上の姿は見えず、暗い世界でぽつんと独り立っていた。とうとうオレは独りになったのだと悟った。淋しくて、哀しくて、そしてこれがオレに与えられた罰なのだと己を嘲け笑った。愛する者のために修羅になった己の、正しい末路。オレはこの光の差さない世界でずっと独りでいるしかないのだと、そう思った。
そんなとき、左手にぬくもりを感じた。
其方を見やると、いつもの黒い影が見えた。いつも靄がかかって見えないその人は、そのときはじめて口を開いた。
「亜双義」
まっすぐで、透き通った声だった。その声に聞き覚えがあった。オレが焦がれてやまないその人は、穏やかに笑んでこう云うのだ。
「お前を愛しているよ」
彼が呪文のように唱えた瞬間、さあ、と靄が晴れた。気がつけば、オレはその人の名前を呼んでいた。
なるほどう、と何度も何度も呼んで、彼の手に縋り付いて、そうして気がついたらオレは泣いていた。
鍛錬が終わり、手ぬぐいで汗を拭う。そろそろ尋ねてみてもいいかもしれない。彼が、どうやってオレを起こしているのか。
オレはもう、あの夢に縛られることはないのだから。
朝にそんなことを考えていたからだろうか。真夜中にふと目が醒めた。
暗闇に慣れた目で時計を確認すると、ちょうど深夜弐時あたりだった。こんな時間に目を醒ますなど珍しい。隣では、成歩堂が健やかな寝息を立てていた。
布団から這いずり出ると、成歩堂が意思を持って起き上がる。眠たそうな声で、オレを呼び止めた。
「亜双義、待ってくれ・・・・・・。ぼくも行く」
成歩堂はオレが自らの意思で起きていることに気づいていなかった。これはもしかすると、成歩堂がどうやって起こしているのか知る絶好の機会ではないのか。特有の悪知恵が働いて、オレは浴衣姿のまま部屋を出た。
このまま幽鬼の振りをして、成歩堂を暴いてやろうと思った。裸足のまま玄関に滑り込むと、後からついてきた成歩堂が「靴を履いてくれ」と呼び止める。オレを無理矢理玄関に座らせて靴を履かせた。ここまで甲斐甲斐しく世話をしてくれていたとは知らなかった。
オレの肩に外套をかけて、彼は隣に並ぶ。左手に指を絡ませて、へへ、と小さく笑っていた。成歩堂の顔が見たかったが、幽鬼の振りをしているのだからそうもいかない。オレは漁港までの道のりを、心を殺して歩いた。
歩いている間も、この男は騒がしい。一切返答をしていないのに、成歩堂は嬉々としてオレに語りかけていた。この前新しい団子屋ができた話や、道ばたに咲いた花の話、海沿いにある小学校の話をしていた。あまりに楽しそうに話すので、拍子抜けしてしまう。ずっと、迷惑をかけていると思っていたのに。
ふと、握られた右手が強ばった。朗らかだった空気に緊張が混じる。
言葉を詰まらせた成歩堂が、苦しげな声で云った。
「亜双義、お前を愛しているよ」
胸がざわついた。今すぐこの男を腕に囲ってしまいたい衝動に駆られた。しかし今のオレは幽鬼だ。少なくとも、成歩堂がどうやってオレを起こしているのか確かめなければ、この呪いは解けないのだ。
胸のざわつきを無理矢理抑え込み、漁港へ向かう。潮風がオレたちの間を過ぎ去っていく。澄んだ潮の香りは、隣にいるこの男を連想させた。すべての命を包む、生の香りだ。
海辺を歩いていると、花吹雪に煽られる。淡い光の欠片が靄をつくり、夜闇を照らしていた。この土手の上に小学校があるのだと、先ほど成歩堂が云っていた。
桜の花びらが海へなだれ込む。水際まで行くと、桜の欠片が水面に浮かんでいた。
桜の咲く季節になっても、夜の海はやはり冷える。思わず身震いすると、成歩堂がオレの身体を温めようと身を寄せてきた。
それにしてもやたら成歩堂の距離が近い。戸惑っていると、成歩堂が此方へ手を伸ばしてきた。
オレの頬に触れ、顔を寄せる。どうした、と問う暇もなく、唇を奪われた。
柔らかくて穏やかで、不器用な口づけだった。
一生このままでいたいと願ってしまった。泣きたくなるくらい、胸が痛んだ。心の中に巣くう幼子の己が、喧しく泣き喚いている。もう泣かなくていいのに、欲しい欲しいと駄々をこねる。
気がつけばオレは成歩堂の腕を引っ張り、海へ身を投げ入れた。
「う、わっ⁉」
成歩堂の無様な声があがる。二人して水面に叩き付けられる。水際なので、溺れず浴衣が濡れるだけで済んだ。
身体の熱が奪われていく。それでも、オレは愉しくて笑わずにはいられなかった。無様なオレは、この男に掬われていた。その事実が愉しくて・・・・・・嬉しくて、笑わずにはいられなかった。
オレに覆い被さった成歩堂が、大慌てで身を起こす。
「亜双義⁉ 大丈夫か⁉」
「いや・・・・・・、はは、すまんな」
喉奥で笑いを堪えるオレの様子を見て、成歩堂は漸く察したらしい。途端に眉をつり上げて、歯を見せて怒った。
「あ、亜双義・・・・・・ぼくを騙したな⁉ 心配しているぼくの気持ちを返してくれ!」
「だから、すまないと云っているだろう」
「ごめんで済むなら弁護士や検事なんて必要ないだろ!」
純粋に怒っている成歩堂の様子が面白くて、こんなにも愛しい。オレはそのまま水面に浮かんで夜空を見上げた。月の灯にかき消されて気づかなかったが、無数の星々が瞬いていた。
あ。と声が漏れた。星の光は、成歩堂の目に宿っていた。
星の灯と暁光は似ているのだと気づいて、余計に笑ってしまった。オレを覚醒に導くその光に目を凝らして、手を伸ばした。
「成歩堂、」
来い、という言葉はかき消えた。成歩堂がオレの身体に身を預けて唇を重ねる。どぷ、と少しだけ身体が海中に沈んだ。海の中から見える星は眩しくて、どうしても離れがたかった。
桜の花びらが耳を掠めて流れていく。
海のような深い夜を越えて、どこまでも流れていく。
はあ、と息を溢した。水泡となった呼吸は、つやつやと輝いて水面へと上がっていった。そうして身を起こして、二人ずぶ濡れの状態で微笑みあった。
この男はそうやって、醒ましてくれるんだな。その光で、小さな己を掬いあげてくれるのだ。
無数の星々を散りばめた目を細めて、成歩堂はオレの左手を再び握った。
「帰ろう」
「ああ」
その手を握り返して、静かに頷く。海水を含んだ浴衣を引きずって、オレたちは元来た道を戻った。体温は奪われているはずなのに、指を絡ませた手は温かかった。
もう、夢で泣くことはない。
もう、海を求めて徘徊することはない。
もう、この手は離さない。
もう
――
独りの夜は来ない。
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