冬人と水樹さん

習慣

 ひやりとした空気に静かな街中。白む朝日に香る金木犀。
「よし、今日も走りますか!」
 きゅ、と帽子のつばを引き下げ笑う水樹を見て準備体操を終えた冬人は頷き、揃いの帽子を深く被る。
「じゃあ……よーい、どん」
 合図は駆けっこだけれど速度は緩やかに伸びやかに。冬人と水樹は並んで朝靄を切っていく。
 新たな習慣、早朝のランニングはこなれたものだった。

 紅葉の季節である。紅葉が気になる季節である。
 やたらと速い焼き芋屋の車を追いかけて全力疾走した帰り道、未だに荒い呼吸を繰り返す冬人と水樹は「もう少し体力つけようか」「これは流石にいけない」と話しながら歩いていた。
 ふたりは丁度テレビで観た山の紅葉に盛り上がったところであり、次は山の行楽でもしようかと話していたところに石焼き芋の小唄を聴いたのだ。奇しくも突きつけられた体力不足に軋む体、立ち仕事は腰にくる。
「せっかくだからちゃんと頂上に行きたいよね……
「ロープウェーがある場所にする?」
「あー、それも楽しそう!」
 くるくると手の中で焼き芋を回しながら暖を取る水樹が目をきらきらさせる。ゆっくりと運ばれていく箱のなか、山々の絶景を拝むのはきっと楽しいことだろう。
 そう思いつつ、冬人は己の右脚に視線を落とす。
 日常ではほとんど気にならなくなっているが、事故に遭って手術をした脚は酷使したりうんと寒い日なんかに痛み、動きが硬くなってしまう。労わることはもちろん必要だが、動かさなければ動かさないだけ動かなくなってしまうのが人体である。これからも水樹と方々へ赴く、赴きたいと望むのであればこのままにしてはおけない。
「ランニングでも始めようかな」
 水樹が顔を上げる。
「ランニング?」
「うん。早朝ランナーになろうかと」
「僕もやりたい!」
 ぴ、と伸ばされた水樹の腕。落とさないようにしっかり持たれた焼き芋から香ばしい匂いがする。
……これから結構寒くなるけど」
「体を動かせばぽっかぽかってやつですね」
 たったいま全力疾走したばかりでも寒いが、水樹はちいとも気にした様子がない。
……俺、脚がだめで途中で帰るなんてこともあり得るけど……
「そのときはゆっくり帰ろ! なんなら僕が背負っていきますからね、任せてくださいよ」
 ぴかぴかの笑顔で胸を叩き、焼き芋が潰れそうになって慌てて形を確認する水樹に、冬人は秋風に冷えた体が暖かくなる心地がした。
 寒さに腰が引ける軟弱な心も、迷惑をかけるかもしれない事情も、水樹は全部含めて大丈夫なのだと笑う。あまり社交的になれずにいた冬人にとって、それがどれだけ心強いことか、安堵と喜びをもたらすことか。きっと水樹は知りやしないだろう。
……背負われたら多分潰しちゃうかな」
「なにおうっ? 見てくださいよ、この立派な力こぶ!!」
 むん、と腕を曲げる水樹であるが、季節に相応しくゆったりと分厚い服の上からではあまり目立たない。だが、冬人が緩く握ってみれば確かに隆起する筋肉がある。もう骨ばかりがあたるような細腕ではない。
「逞しい腕ですね」
「そうでしょう、そうでしょう。ご希望とあれば冬人さんをお姫様抱っこすることだってできますよ」
……ご希望はしないかな」
 恥ずかしいので。身長差の心配もあるので。
「遠慮しなくていいんですよ?」と覗き込んでくる水樹を「まあまあまあ。ほら、焼き芋冷めちゃうから帰ろう」となあなあに躱す。焼き芋が冷めては一大事である。
 先ほどよりも急ぎ足になりながら、ぽつりぽつりと早朝ランニングについて話し合う。水樹となにかしらの行動を起こすときはいつも駸々乎として「いつかしよう」の言葉が埃を被ることがない。運動に適した服の用意。集合時間に場所。ルートはどうする、距離は時間は。帰路で決め切らない部分も冬人の家で焼き芋を食べながら調べ、とんとん拍子に決まっていく。
 当日も先に起きたほうがモーニングコールをすると取り決め、互いの声で目覚めるのが日常になるのは早かった。
「──冬人さん、前方にポン吉を発見!」
 前を走る水樹が指を差すほうに雑種だというやたらとでかい見た目をしたコーギーと、その飼い主の女性が歩いている。毎朝、挨拶を交わすようになった一人と一匹は冬人と水樹に気づくとどちらも顔を明るくさせるが、女性は素早くしゃがみ込んで愛犬のポン吉を押さえるように抱きかかえた。尻尾をプロペラのように振り回すポン吉は人間が大好きで、特に知り合いと思うと突進の勢いで撫でられにくるのだ。それを押さえる女性は大変そうだが「おはよぉ」と挨拶する声にも表情にも親しみが込められている。
「おはようございます! ポン吉、今日も元気ですね。撫でてもいいですか?」
「どうぞー。このおじさん、撫でてもらわないと落ち着かないわ……
 犬年齢ではおじさんらしいが、目をきらっきらにして水樹に撫でられているポン吉がおじさんと呼ばれていると冬人は吹き出してしまう。
「っおっと」
「おじさん、見境ないわねえ」
「ポン吉にも冬人さんが良いひとって分かるんですよ」
「水樹くんほどじゃないけどなあ」
 水樹の手に満足したのか冬人の足元で飛び跳ね始めたポン吉に、冬人もそのふわふわの毛皮を撫でていく。毛深い。うんうん頷く水樹の袖にも毛がついているので、ポン吉はきっと冬毛に生え変わっているのだろう。
……よし。そろそろ行こうか」
「うん。ポン吉またね」
「ふたりとも気をつけてねえ」
 手を振る女性とへっへっと舌を出すポン吉に手を振り返し、冬人と水樹はまた走り出す。
 街路樹の下、降ってくるイチョウの黄金色。渡る橋の下を流れる川に映る青空。からりと透き通った空気を浅く吸い込んでは吐き出すのを繰り返せば、足音だけでなく荒い呼吸まで重なっていく。
 さらに進んで道を変え、ここからは帰りの道。目覚めた人々が動き出す街中を走り抜け、集合場所を通ってそのまま冬人の家に向かう。平日であればここでそれぞれの家に向かうのだが、今日のような休日が重なったときは冬人の家でシャワーを浴びるのがいつの間にか決まっていた。
「あ゛ー、生き返る……
「これでも結構慣れてきたけどね……
 雪崩れ込むように玄関のドアをくぐり、喉を鳴らしながら飲んだ水は甘露のようだ。
「先にシャワーどうぞ」
 人心地ついて促す冬人を、水樹の目がじっと見てくる。
「冬人さん、一緒に入りませんか」
 恥じらいがないわけではないだろうが、水樹の言葉に躊躇いはない。
 ランニングを始めてしばらく経つので、冬人も予想してはいた。だが、当たり前のものとするのはまだ少し照れがある。
……うん、そうしようか」
 照れはあるが嬉しくもあるし、恋人としての言動を惜しまぬようにと努めるようになった冬人は素直に頷いた。
 ぱっと輝く水樹の顔。まだ引っ込まない汗もあってスポーツドリンクのCMに出られそうなほど爽やかだ。自分にはなかなかな持てそうにない水樹の透明感が冬人にとっては眩しく、また慕わしいものだった。
「冬人さんの背中は僕に任せてください」
「昨日やってたバディものの映画でも観た?」
「序盤から出てきた犬が助かってほんとうに良かったよね」
 映画の感想を言い合い、向かう風呂場。
 熱いシャワーが立てるざあざあという音。湯気に白む空気に石鹸の香り。
 濡れた前髪を掻き上げる水樹を見て、冬人は彼の頬に手を伸ばす。
 ──何度目にもなったって、キスの前の緊張にはまだ慣れない。