ミランとレオナールさん

恋着

 主を得たことはミランにとって途方もない幸せであった。
 レオナールに初めて声をかけられた際はとても驚いた。闇属性であることから幽閉されているルイゾンへ押しかけるように兄であるルネが仕えていることを知らないとは思わなかったし、その兄の補佐をする自分などレオナールからすれば鬱陶しいもののひとつだろうと思っていたのだ。
 王太子から直接求められて拒否するなど不敬もいいところだっただろうに、レオナールは辞退するミランに繰り返し声をかけてくれた。ミランから口にしなければ兄の話もせず、ただ能力を買ったのだという。
 己を望む言葉の数々は、変わってしまった兄に唯々諾々と従うミランの乾いた胸へひたひたと染み入った。
 この方に仕えたいと、お側でなにもかもお手伝いしたいと思う心は日々増して抑えることなど到底できやしなかった。
「もう、兄上のお力になることはできません」
 二ヶ月。二ヶ月で必ずレオナールの側に行くと約束したミランは、背中に冷たい汗を掻きながらルネへと告げた。
 ミランがレオナールから声をかけられていることなどとっくに承知のルネは最初、ミランの選択を怒りもしなければ笑いもしなかった。ただ、ゆっくりと首を傾げていた。
「有能なものならば他にもいるだろうに。そこでお前を選ぶ辺り、王太子殿下は大層兄君がお嫌いなようだな?」
 ミランがルネの補佐から外れれば、ルネはルイゾンへ仕え続けるのに支障を来たすことになるだろう。ルネはなんとかするだろうが、ルイゾンの側にいる時間も減るかもしれない。
「驚いた。我が主からまだ奪えるものをお探しか」
 外国の歌を聴いたように「ふうん」と頷いたルネの面は白く、恐ろしかった。恐ろしかったがミランはこの兄に抗わねばならないのだ。
「あの方はそのような方ではありません。ルイゾン殿下への悪意で私をお召しになったのではない」
「懐柔されるのが早いな。有能と褒めそやされたからといって、成れば数ある側近の一人に過ぎない。一時浮かれるのは結構だが、それで私を煩わせるな」
「兄上! 私は……私は、レオナール様を支えたい。あの方のお側で仕えたいのです。数ある側近の一人であろうと、そこから代えの利かない一人になってみせます」
 ルネが一瞬浮かべた苦い顔を覚えている。「囀るな」と嘲るように吐き捨てる声も。
 最初から話し合いなどまともに成立せず、ミランも言葉による説得を諦めるのは早かった。兄弟喧嘩というにはミランが一方的に怒鳴り、がむしゃらにルネへ向かう日々。
 ルネがルイゾンへ仕えたいと父へ訴えたときと同じことをしていると自覚をしたのは随分と後のこと。レオナールと約束した二ヶ月がぎりぎりに迫り、ルネの頬を打って彼から「勝手にしろ」という言葉を引き出したその後である。

「──どうかしたか?」
……いえ、なにも……今日もきれいなお髪だと思って」
 レオナールの髪を梳かしていミランは一瞬止めてしまった手を再開させ「失礼しました」と詫びる。ふと兄とのやり取りを思い出してぼうっとしてしまった。
 本来であればレオナールの世話役がすべき仕事を、ミランはレオナールに無理を言って任せてもらっていた。美しい銀糸の髪へ櫛を入れ、丁寧に結えることは毎朝の楽しみで、その最中に余計な考え事など、とミランは己に呆れる。
……昨日と変わらないだろう」
「昨日もお綺麗でしたが、今日はさらにお美しくていらっしゃいます」
 日々四方を照らすように美しいミランの主は、しかし鏡越しに合っていた視線をぎこちなく逸らす。姫君のように頬紅をはたいたわけでもないのに薔薇色を帯びるレオナールの頬は、触れればきっと熱いだろう。そうと考えればこの可愛らしい主へ惹かれてならぬミランは触れて確かめたくなったが、不敬であると緩く首を振って気持ちを切り替える。最近、こういうことが多い。ふとするとレオナールへ手を伸ばし、目を潤ませる彼を見たくなるのだ。
……どうした? さっきから様子がおかしいが……疲れているなら今日は休んでもいい」
 心配そうに眉を下げるレオナールの顔が鏡に映っている。
「いいえ、疲れてなどおりません。そう見えるような態度でいるなどいけませんね……如何様にも罰してください」
「そんなことはしないが……
 振り向き、とうとう直接見つめてくる黒い目。ミランが体調不良を誤魔化しているのではないかと探っているようだが、体調はほんとうに問題ないのだ。あるのは心根の問題だけ。
 見つめられるこの瞬間にも、ミランはレオナールの唇を喰んでしまいたいという衝動に駆られている。
 行儀のいい、レオナールが重用するに足る側近でありたいのに、ミランは主へとても口にできないような浅ましい欲を抱いているのだ。
……お髪をまとめしょう」
……分かった。頼む」
 納得いっていない顔で鏡へ向き直ったレオナールにほっとして、ミランは彼の髪を優しくまとめていく。襟の詰まった服装でなければ、レオナールの白い首筋は露わになっていただろう。それを見ても冷静にレオナールの髪へリボンを結ぶことができるのか、ミランには自信があまりない。
「痛くはありませんか?」
「いや、丁度いい」
 左右のバランスを整えて結んだ赤いリボン。加減を問えばレオナールが微笑を以て頷いている。重畳。
「では、私はまた後ほど執務室へ伺います」
「ああ、頼む」
 立ち上がろうとするレオナールへ手を差し出せば、躊躇しつつも掴まってもらえた。
 このやり取りもいつか慣れてもらえるだろうか、とミランが考えた瞬間、レオナールが「あっ」と声を上げた。躓きかけたレオナールにミランは慌てて反対の腕も回して彼を支える。
「っ悪い」
「いいえ。ご無事ですか?」
 ああ、と頷いたレオナールの顔が間近にある。
 至近距離で見つめ合い、どちらの体も不自然に固まった。放さないといけないと思うのにミランはレオナールを抱き寄せるように腕へ力を込めていて、さっと朱に染まった彼の顔に鼓動が速くなる。
 触れたい。弱ったように目を伏せる様に思う。触れたい。なにかを言いかけて薄く開く唇に思う。触れたい。触れたい。
…………立てます、か」
「だ、大丈夫だ……!」
 堪えた。
 レオナールがしっかりと自分の足で立ったのを確認し、ミランは名残惜しさからゆっくりと腕を放す。望まれればこのまま抱いて運ぶことだってしたけれど、そんなことを望まれるわけもない。
……もう行く」
「はい。後ほど執務室に伺います」
「ああ」
 急ぎ足で部屋を出ようとするレオナールにドアを開ければ、ちらりと向けられた視線。薄く潤む目と銀色の髪の間から覗く赤い耳。
 ああ、この部屋から出したくない。
 ミランが痛切に思ってもレオナールは視線を前に戻して部屋を出て行き、多くの使用人が彼を迎える。すぐに無機質にも見える表情へと変わった顔だが、一瞬前を目撃したものはいやしないだろうか。いたらどうしようか。
 ……どうしてくれようか。
 頭を下げてレオナールの背中を見送るミランは、自覚する嫉妬に唇を噛み締める。
 主を得たことはミランにとって途方もない幸せだった。
 だが、レオナールを主としてだけでなく慕う心は、ミランの胸を焦がす。
……兄上の執着を笑えないな)
 いつかレオナールを強く求めてしまう予感がする。
 そんな日が来てはいけないと思うのに、ミランにはその日の足音がすぐ背後に迫っているように感じてならなかった──