こみこずとくもうん

CP未満

 教室の床を掃いていた手を止めて、國正が教室の一点を見ている。一緒に床掃除をしていた翔はそれを不思議に思わなかったが一応は國正の視線を追い、案の定の相手がいてため息というには短い息を吐き出す。
「見過ぎ」
「いった……いや、だって不来方さんがいるから……
「しまいには不来方さんに穴が開くぞ」
……つい追いかけちゃうんだよ」
 あまり反省の見えない國正が箒を動かす前に名残惜しそうに見ているのは、窓の外へ腕を伸ばして黒板消しを叩いている愛廻の後ろ姿。シュシュで結った髪が動きに合わせて揺れていて、翔が視線を戻せば國正は蕩けるような顔をしている。
 愛廻に一目惚れをしてから國正が彼をずっと想っていることを翔は知っている。というか、クラスメイトで知らない人間はいないのではないかと思っている。いま浮かべている表情のように、國正はそれほど露骨であからさまなのだ。どういうわけか、本人には届いていないのだけれど。
「はー……可愛い。どうしよう」
「まずは手を動かせよ」
「翔はそんなんだから捨てられるんだよ」
「それ言うのはなしだろ!!」
 恋人からつい最近振られた翔は憎たらしい親友にどうしてやろうかと思ったが、直後に後ろから「わ……っ」と声が聞こえて慌てて振り返る。
「どうしたのぉ? 喧嘩?」
 蹈鞴を踏むように一歩後ろへ下がって立っているのは恋で、親友である愛廻同様に細身である彼は真新しいちりとりを両手に構えるように持った。
「ごめん、運否さん。國正が百悪いけど喧嘩じゃない」
「いや、七十ぐらいは翔のほうが悪いから気にしないで。具体的には不来方さんにはなにも言わないで」
「態々お前のこと訊かれるわけねえだろ。自意識過剰」
「その泣き黒子引き千切られたくなかったら口を慎めよ……?」
「あはは、箒構えるのやば。ゴミ散らかるよ……ってかほら、愛廻気づいたし」
 手の甲を口元にあてて笑う恋がその指でちょい、と指したほうには、黒板消しを手にぽかんとした愛廻が目を丸くしてこちらを見ていた。「え、喧嘩……?」と呟く声を耳聡く拾った國正の素早く下げた箒の柄が翔の肩にぶつかる。
「いっだ……
「悪い。なんでもないよ! いまめっちゃ真面目に掃除してるとこ」
 謝罪はもらえど愛廻へぶんぶんと手を振る國正に翔は肩の一発くらい殴ってもいいのではないだろうかと思ったが、彼が頬を染めてあまりにも幸せそうな顔をしているのでその気も失せた。好きなひとに夢中でそれしか目に入っていない状態を、翔自身も知らないわけではない。つい最近、その状態から振られたのだが。
……運否さん、ちりとり取りに行ってくれてありがとう。この馬鹿がこれ以上散らかす前に片付けよ」
「ん、ふふ……! いいよ、全然。ちゃっちゃとやろっか」
 教室に元々あったちりとりは使う直前になって割れた。代わりを持ってきてくれた恋が「よし、こーい」と構えるちりとりへ翔はさかさかと箒で集めたゴミを入れ、遅れて自分の足元のゴミを掃いてきた國正とともにゴミ袋へとまとめる。
「じゃ、これ捨ててくるわ。他に捨てるもんあるー?」
 教室へ向かって声を掛ければ愛廻がぽん、と手を打って「ちょっと待って」と黒板消しを置いて駆け寄ってくる。
「準備室に溜まってる使わないの捨てるらしいから一緒に持っていってもいい?」
 國正が問答無用でゴミ袋を握り締めた。翔をゴミ捨てへ行かせる気配が一切ない。自ら動こうとするのは良いことなのかもしれないが理由があからさますぎる。
「うん、一緒に行こう! 確かあれかさばったよね。一緒に持つから」
「そんな大したことないし大丈夫だよ?」
「不来方さん、その馬鹿に持たせてやって」
「時間間に合う程度にゆっくり行ってきなよぉ」
「な、なんで……?」
 なんなら愛廻は手ぶらだって構わない、と翔が國正の後押しをすれば、おかしそうに笑いながらも恋が続いた。愛廻は首を傾げて國正とこちらを何度も見比べていたが、その仕草さえ可愛いとばかりににこにこ笑う國正が「時間なくなっちゃうよ」と促せばおずおずと頷いて彼の隣を歩き始め、ひらりと恋のほうへ手を振って教室を出ていく。
……あいつ、普段あんなに足ゆっくりじゃないから」
「そうなんだ。なるべく一緒にいたいんだねぇ」
「気持ちは分かるけどな」
「ね。気持ちは分かる」
 恋の横顔を見れば彼も翔のほうを向いて苦笑する。へにゃ、と僅かに下がった眉に、翔は反対に片眉を上げた。
「なんかあった?」
「んー? 別に。なんにもないよ」
 さらりと乾いた声。
 なにもないことはないのだろうな、とは思っても翔は踏み込めるほどの関係を恋と築いているか自信がない。「親友の片想い相手の親友」にはただのクラスメイト以上には親しみを覚えているし会話もしているほうだと思うけれど、それとこれとは話が別だろう。
……なんかあったら言って」
「なんかって?」
 言ってはみたが、こうやって具体的に訊き返されると難しい。
……嫌なこととか」
「特にないよ」
「楽しいこととか」
「愛廻と小宮くんのやり取り、傍目には面白いよねぇ」
「不来方さん、全然本気にしないよな」
「しないっていうか、しないようにしてるからね」
 分かりやすいどころか隠していない國正に対する愛廻の反応を思い出し、翔は納得する。
「このままあいつが押せばいけそう?」
「んふふ……どうだろうねぇ? 小宮くんが心配?」
 じ、と猫のような恋の目に見つめられて翔は視線を床へ落として考える。
 心配はしていない。國正は愛廻が自分以外と付き合っている姿を見ていても、悲観することなく見つめる目を揺るがせなかった。相手の態度に、愛廻への仕打ちに憤ることはあったが、振り向いてもらえないことは國正の気持ちを左右する問題にならない。そうやって國正は愛廻を恋慕っているのだと翔は知っている。だから、心配はしていない。
……幸せになればいいなって思ってるだけ。不来方さんも」
「愛廻も?」
「俺の親友、絶対に不来方さんのこと一番大事にする」
 ぱし、ぱし、と長い睫毛を上下させた恋は、次第にまばたきと同じくらい緩やかに唇へ弧を描く。
「それは安心だねぇ。ふふ、幸せになればいいのにね」
「ほんとうにな」
 肩を竦め、翔は窓辺へと歩み寄る。ついてきた恋が「あ、ふたり見つけた!」と指す窓の向こうには、のんびりと並んで歩いている國正と愛廻が顔を見合わせている。表情までは分からないがなんとなく楽しそうな雰囲気だと翔は思った。
 教室での様子を思い返せば、見ているのも気恥ずかしいやり取りをしているのではないかと想像できて、翔が視線を逸らした一瞬。
 窓に映る穏やかな恋の微笑。
……運否さんってめっちゃ美人だな)
 思わず見惚れた翔は、凝ってもいない肩をほぐす仕草で窓に映る恋から目を逸らす。
 國正と愛廻に幸せになってほしいと思ったが、恋にも、彼がこういう顔でいられる相手がいればいいと、翔はこのとき初めて思った。「なんか」なんてないような恋をしていればいいと、そう思ったのだ。
 ──まだ失恋の引っ掻き傷が残る頃、新しい恋を知る前のことである。