冬人と水樹さん

お弁当

 恋人になったら触れたくて堪らなくなった。

「では、失礼しますね」
 よっこいしょ、と水樹がベッドへ潜り込み、冬人は彼を抱き寄せた。水樹の驚くほど痩せていた体は随分としっかりとして安堵を覚える。
「狭くない?」
「狭いほうがいいです」
「そう……
 はっきりと言われた言葉が面映ゆい。
 水樹が家に泊まるようになって用意した来客用の布団は、出番がなくなってからもう幾分かしている。初めの頃は抱き寄せるなどしておらず、肩が少し触れ合う程度の距離で互いの寝息を聞いていた。
 いまでは潜り込む水樹を抱き寄せることも、葛藤と躊躇いが縒り合わさっていた指を絡めることもできる。それが嬉しいのだと伝えることも。
 並べた枕の間、掛布から僅かに出した手同士を繋ぐ。握ったり、指を絡めたり、指先で手の甲をなぞってみたり。恋人になってから一番触れ合っているのは手かもしれない。
 冬人は体温が低くひやりとしていた水樹の手を覚えている。青い寝顔に浅い起伏を繰り返していた胸を忘れることはないだろう。忘れることはないけれど、じわりじわりと現在に上書きされていくのも分かる。冷えた手の温度は思い出す頻度が少なくなって、思い浮かべる水樹の体温はいま重ねている温かな手になっていくだろう。
「明日は早起きだね」
 寝る前でも楽しみを目前にした水樹の声は弾んでいる。
「うん。時間に余裕あるから少し遅く起きても大丈夫だよ」
「楽しみすぎて眠れるか怪しいんですよ。ここは子守唄とかどうでしょう」
……羊を数えてね」
「残念!」
 明日は向日葵畑に行く予定である。以前行った場所とは違い、背丈の高い向日葵で作られた迷路だ。冬人は背の高いほうであるが、二メートルを超えるものがあるというので頭が見えることはないだろう。せっかくの迷路で目印になってしまうのは面白みがない。
 面白み。
 水樹と出会わなければ、冬人は半分も感じることがなかっただろう。絶景を見ても淡々とカメラを構え、データをPCに移動させて満足するのが以前の冬人だった。そこにあるものを体験することは冬人にとって遠い出来事だったのだ。
「卵焼きの腕前が随分上がったからね。シェフもびっくりしますよ。お弁当の彩の一助となるのを期待してください」
「楽しみにしてる。まあ、シェフはオムレツのほうが得意ですが」
「大人様ランチを作るときに是非入れてください」
 電気を消していなければ晶晶とした目をしているのが見られたに違いない。冬人は水樹の榛色の目が濁りなく輝いているのを眩しく思う。
「ウインナーも、入れて……タコ、の……
……おやすみ」
 やがて、持っていく弁当についてぽつぽつと話しているうちに水樹の声が途切れとぎれになっていく。それに気づけば水樹がすこっと眠るのはあっという間のことで、冬人は寝つきのいい彼に小さく笑う。眠れるか怪しいと言っていたのに。
 水樹が眠っても抱きしめる腕も重ねた手もそのままだ。
 恋人の距離だと冬人は思う。けれど、もっと縮まる距離を冬人はもう知っている。
 暗がりに慣れた目で捉える水樹の輪郭と、唇。寝ている相手にとは分かっているけれど、急に触れたくなってしまって冬人は目を逸らす。
 どうしようか。どうかしてもいいだろうか。水樹は寝ているのだからどうもしようがない。だから、ずるいことだろう。
 ……水樹の目が覚めたら。朝になったら。そうしたら。

「見てください。こんなにきれいな卵焼きができましたよ……もっとも出来が良いと言われた三ヶ月前を上回る出来です」
「ボジョレーヌーヴォーかな?」
「いいえ、卵焼きです」
「はい、そうですね」
 くるくると器用に巻かれた卵焼きは見るからに美味しそうで、前日聞いたように水樹の腕が上がったのを実感する。元より器用な彼は少し教えただけでぐんぐんと料理が得意になっていくのだ。
「では、シェフ……依頼のほうをよろしくお願いします」
「準備はもうできてるよ」
 卵焼きが冷めるのを待つ間に炒めるウインナーは水樹から重々しく依頼されたとおり、タコさんとなっている。悪戯心でカニさんも作ったら大層喜んでくれて、冬人は彼の少年心に微笑ましさを覚える。こういう部分でも水樹は全力で楽しむのだ。
「いつかさ、おべんとうの歌のお弁当も作ってみたいな」
「卵焼きないけどいいの?」
「ぐ……いいんです。そのときは浪漫の追求を目指します」
「そっか。ちなみにシェフにとっては未知の領域です」
「冬人さんなら大丈夫」
「全幅の信頼が重たい……
「冬人さんなら大丈夫」
……これくらいのお弁当箱の定義をしようか」
「確かに! これくらい……え、結構大きくない?」
「これくらいのお弁当箱」の枠を指で作る水樹が真剣な顔をするのに吹き出しそうになるのを冬人は必死に堪える。
「あ、もういいか」
「タコさん、御目通り叶い光栄です」
「カニさんもあるよ」
「カニさん、ご機嫌麗しゅう。シェフ、味見はできますか」
「できます」
 爪楊枝でタコさんを一匹串刺しにして、冬人は水樹の口元へ運ぶ。
「あ……ぁえっ?」
 運んで、直前に逸らす。
 驚いて水樹が開いた口を閉じた瞬間を狙い、冬人は彼へ顔を寄せた。
 はむ、と軽く喰んだ唇。一拍遅れて水樹の顔が赤くなる。まだ慣れないことをした冬人の顔も熱い。
……昨日からずっとしたかったんだ」
……昨日のちゅーは昨日のうちにしてください。今日の分を改めて要求します」
 打ち明けた冬人をじっと見た水樹が武士のような顔で言った。
……願ってもありません」
 冬人は再度水樹にキスをする。
 一秒のキスをして、離れてもう一度。
「ごめん。一度じゃ足りなかった」
……願ってもありません」
 水樹のほうから寄せられた顔。
 出かけるまでには時間に余裕を持っている。
 キスはあと何回できるだろうか。