世の中に初恋が実るひとはどれだけいるだろうか。初恋は実らない、そんな言葉が生まれるほどには稀で、幸福なことなのではないだろうか。
いいや、間違いなく幸福だ。
ブランカはその幸福の最中にいる。
昔、恋をして世界が鮮やかに色づいたという言葉を聞いた。羨望と憧憬を抱いた言葉は真実だった。
ブランカの世界は恋しいひとの色を知った。もしも、この色を失くしてしまったなら、ブランカの目はものを見ることさえも拒否するだろう。
先輩聖職者に手伝ってもらったものの、苦手な書類仕事を終えたブランカは目をしょぼしょぼさせながら歩いていた。白い紙に踊る文字は目を凝らさないとはっきり見えないことがあるのだが、職務の一環となれば尚のこと間違えないようにと気を遣わなければならない。先輩聖職者然り、いつまでも周囲の助けを必要とするのは申し訳ないことであった。
歩いてどれほどか、普段よりもぼやけて見える視界で広い大聖堂の似たような廊下を歩くのは難儀で、どうやら途中で道を間違えたらしいと気づいたのは周囲から人の気配がなくなってからだった。
広ければ広いほど生活圏や仕事場はある程度区分けされ、自然と人が多く出入りする場所は限られるようになる。それなのに誰も見かけないということは、ここへまで用のあるものがほとんどいないということだ。つまりは、ブランカが道を尋ねられる相手もいないのである。
静かな廊下に立ち止まり、ブランカは耳をそばだててみたものの、やはり人の話し声や物音は聞こえない。ブランカには人と区別できないが、悪魔の気配もないのだろう。
周囲に誰もいないという事実を諦めて受け入れたブランカだが、彼に戻れないかもしれないという不安はなかった。
大聖堂の規模を「いつか遭難者と行き倒れが出る」などと揶揄するものもいるなか、視界に不自由するブランカは以前の自分ならば有り得ると思いはしても、いまはその心配がない。
かつん。
突然、誰の気配もなかった廊下に足音。それはブランカの背後から。
「あ」
振り返ったブランカの前に立つのは真白の美丈夫、フロルがおろおろと心配した様子で立っていた。
「来てくださったんですね」
「ブランカが普段行かない場所にいるようだったから……迷惑だったか……?」
「まさか! 途方に暮れていたところに来てくださったので嬉しくて」
「そうか……」
フロルの安堵した声を聞き、ブランカは少しの気恥ずかしさを覚える。
フロルがここに来てくれたのは、彼がブランカに与えてくれた魔法によるものだろう。フロルにはブランカがいまどこにいるのかが分かり、ブランカが彼を呼べば来てくれるという魔法。大聖堂で幾度か迷っているという話を聞いたフロルは、そういう魔法が込められたものをブランカに与えてくれたのだ。
呼べば、フロルは来てくれる。だから、ブランカは知らない場所にいても不安がなかった。
「早く呼んでくれてもよかったんだが」
「戻れそうにないと思ったのがついさっきで……」
方向音痴ではないが、似たような風景が続いたので気づくのが遅れたのだ。
「もっと構造を覚えないとだめですね」
「……無理に覚えなくても、俺がいるだろう?」
首を傾げるフロルに対し、ブランカ反射的に「可愛い」と呟いた。
「え……?」
「なんでもないです。いえ、なんでもなくはないんですが……」
好きなひとの可愛らしい仕草がなんでもないわけがない。
「そう、か?」
今度は反対側に首を傾げるフロルに、ブランカは頬の内側を噛んで込み上げる気持ちを抑える。
「……ええと、フロルさんに頼り切りになると、僕が出歩くたびに呼ばれてしまうかもしれませんよ?」
ブランカは無理やり話を戻した。
「構わない。そのために渡したんだ。それに、そんな頻度で迷うなら呼ばれないほうが心配だしな」
苦笑しているが、フロルの心配は嘘ではないのだろう。魔法について持ちかけたときも、いまここへ来てくれたときも、フロルは危なっかしいものを見るようにおろおろとしていた。まさか、ブランカが行き倒れになるとは思っていないだろうが、一日中歩き回ることにはなると想像しているのかもしれない。
「フロルさんはもう大聖堂の間取りに詳しいんですか?」
「ブランカよりは長くいるからそれなりにだが……ここは広いからな。必要な道は覚えているから、ちゃんと戻れる。安心しろ」
「それは心配していませんが……でも、やっぱり覚えたいな」
「……何故だ」
ブランカはむう、とするフロルの手を取り、指を絡める。跳ねたフロルの指先がほんのりと温かくなった。美しい花顔を窺っても、ブランカには長い睫毛を震わせるフロルの顔がどんな色を刷いているのか分からない。だが、こうして肌に触れれば、その熱は分かるのだ。彼の気持ちが分かるのだ。
「近道じゃなくて、遠回りする道も覚えたいんです」
「どう、してだ……?」
「フロルさんと長くいられますから……いつでも呼んでいいんですよね?」
そもそもの最初に提案されたとき、フロルはそう言ってくれたのだ。フロルはしたくもないことを偽らないだろうと、ブランカは思っている。
手を繋ぎ直し、ブランカはフロルの手を頬にあてる。
「僕、フロルさんといたくないときなんてないんです。あなたが好きで堪らないから、少しでも一緒にいたい」
フロルに恋をする前からブランカは言い訳をして、周囲に嘘だって吐いて、彼と一緒にいようとした。そうしたかった。その気持ちはフロルへ恋慕う心を伝えたときから一層増している。溢れても止まないのだ。
「だめですか?」
「ぅ……だめ、では……ない」
いよいよ熱くなった手とフロルの恥じらうような表情に、気づけばブランカは踵を上げていた。
背伸びをして届いたフロルの花唇へ、自分の唇を重ねる。一度、微かに触れるように。二度、確かめるように。三度、両手で頬を包んで喰むように。
短い時間だろうか、キスには長かっただろうか。ぎゅう、とフロルの手が服を握る感触に、ブランカは踵を床へ着ける。とろりとした目と視線を合わせ、フロルの体に両腕を回した。
「フロルさん、回り道を教えてください」
「…………分かった」
返事はとても小さな声だったけれど、抱き返される腕は強かった。
視界いっぱいに眩い白色。フロルの色。ブランカの世界で、初めて名前を持った色。
恋は世界に鮮やかな色をもたらす。真実だった。
ブランカは幸福に胸を蕩けさせ、フロルへ頬を寄せながら伝える。
「ずっと、あなたを愛してる」
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