白露とリュウイさん

虫干し

「あれ、懐かしや」
 久方振りとなる蔵書の虫干し。一人では難儀する膨大な量に、白露がかけたアルバイトの募集。応えてくれたリュウイとせかせか動き回って一段落したところで、なにか気になった本があれば、と彼に伝えたのが先ほどのこと。
 白露は戻ってきたリュウイの手にする本を見て、きょとりと目をまたたかせる。彼女の左目よりも一瞬遅い右目の動きを慎ましくも注目しないリュウイは、改めて表紙を上にして持ち直した。はらりと開かれる本。
「『興味深い魔法が載っていた。先生は使ったことがあるだろうか』」
 青い宝石のような爪先でなぞられたのは、花の栽培に関する魔法の一つである。ただ、大仰なものではない。むしろ、児戯めいた実験に近かった。
 白露はその懐かしい内容に目を細め「ええ」と短く頷いて、リュウイの手から本を受け取る。蔵書に数えてから久しい本は見るにも懐かしく、だからこそリュウイにとっては新鮮なものに映ったのかもしれない。
「実用的なものではないから、楽しむのに良い魔法よ」
「『実用的ではないから?』」
「必要もないのにするのはいつだって楽しいことか、逃避だわ」
 そういうものかと頷くリュウイは教師としての目線で見ても真面目な生徒なので、試験前に片付いた部屋を掃除することはないかもしれない。リュウイから熱心な質問をされたことはあれど、勉学で泣きつかれたことのない白露は内心でよい子よい子とほろほろ笑う。
 そんなよい子が興味を集中させている魔法。
「やってみましょうか」
「『先生は疲れていないか……?』」
 蔵書の虫干しを終えたばかり、表情には浮かばずとも心配する気配のリュウイに白露は「これでも元気なおばあちゃんなのよ」と拳を握って見せたのだが、関節が立てた剛毅な音は元気を主張し過ぎである。リュウイの無表情にこれほど感謝したことはきっとないだろう。

 本に記載された魔法に必要なのは、花の種子であった。種類は問わない、というよりも意味がない。今回用意したのは瑠璃唐草である。
「『在り方を変えると思うと罪深い気もするな』」
 綴られた理論と実践する白露を見て魔法を構築するリュウイは、羽一枚落とすような静謐さで言った。
 いまリュウイが構築している魔法は種子から既存の魔力を抜いて、その空いた隙間に己の魔力を満たすというものだ。そうすると種はそれぞれ違う成長、あるいは変化を遂げ、本来とは異なる花を咲かせるのである。
「在り方とは、随分と曖昧なものを持ち出したわねえ」
「『曖昧だろうか?』」
「判断という点のみではそうではないかしら」
 たとえば、骨を丈夫にする作用のある薬。服用の影響で背が伸びたとしても、そのもの本来の在り方を変えたというものは稀だろう。
 たとえば、赤い石の嵌められた指輪。赤い石を黄色の石と取り替えたのなら、その指輪はもう本来の指輪ではなくなっているだろう。
 たとえば、白露の右目。生来は空洞のそこに義眼を嵌めたからといって、彼女は白露という鬼女ではなくなっただろうか。
 在り方を変えるとは言い換えれば影響を与えた結果であるが、変えた変わったと断じるのは本質を知っているからであり、よそから見るものは際立った差異がない限り判じることも叶わない。影響を与えたものとて結果が微々たるものであれば「なにもなかった」と言いすらしよう。
「『差異か……』」
「この花が図鑑通りに咲いたとして、魔法をかけなかったことにはならないけれど、変わらないままのこともあるわ」
 この魔法が児戯めいているのは、種子に宿る魔力は微々たるものであり植物としての成長にほぼ影響がないこと、よって与えた己の魔力の影響も然りという点である。もちろん思いもよらぬ花が咲くこともあるが、種子の個体差によるものが大きい。リュウイの持ち出した本が近年に発行されていたのならば「自分だけの花を咲かせよう」とこどもに読みやすい字で題されていたはずだ。実際はもっと仰々しくしかつめらしい文字が綴られている。
「『先生はなにが変わらないと思うんだ?』」
「咲いて、散ること」
 簡潔な内容にリュウイの目が意外そうにまあるくなり、赤い瞳孔を際立たせる。
「あとは愛でられることかしら? これはひとによるけれど、お前はよく面倒を看そうね」
 種から手をかけているのだもの。
 一拍置いて頷いたリュウイは、それから彼らしい沈黙を以て魔法を構築していく。
 小さな種が淡く光ったのはそれほど経たない時間のこと。簡単な魔法ではあるが、これほど早く終わったのは頓にリュウイが優秀であるからだろう。教えている最中もリュウイの無表情は変わらず、眉間に皺をちいとも寄せないまま、ただ足音を聴く蘭のような横顔をしていた。
「今度はお友達とおやり」
「『ああ』」
 薄様に種を包んで渡せばリュウイは大事そうに受け取る。僅かに左上へ向けられた視線は、友人を思い出しているのだろうか。リュウイ自身は静かながら、賑やかな彼の周囲を思って白露はひっそりと笑む。
 金糸雀城での出会い、学んだものはリュウイをどのような大人に花開かせるのだろう。白露が知るいまのリュウイとはどう変わっているのだろうか。変わらないと懐かしむとしたら、それはどんな面なのだろう。
……リュウイ、いつか咲いたところを見せに来ておくれ」
 楽しみで楽しみでならない。
「『ああ。必ず』」
 こくりと頷くリュウイの力強い返事に、白露は長生きしなくては、と手のひらを握る──関節が向こう五十年は元気そうな音を立てた。