シャーナとオルテンシアちゃん

お茶会準備

「おねえさま、だいすきよ!」
 まじないのように甘やかな言葉であった。

 大聖堂は不思議なところであった。あるいはそこかしこにある矛盾で作られていた。
 ここは既に神を謳い祈る場所ではなく、悪魔を清め、消滅させるための施設なのだとシャーナが感じたのは、大聖堂へ来た当日のこと。大聖堂での役割を恰幅のいい聖職者に説かれてからすぐのことである。
 貴族として生まれたシャーナは音にされない言葉を読み取り、過剰に盛り込まれた言葉を捨てて聞くことが常であった。故に、どれだけ高尚に説かれようとも大聖堂が娼館も驚くような甘苦い香りの満ちた場所であると、早々に判断したのだ。
 シャーナがいままで直接に対面したことのなかった悪魔は強大な力を持つという。市井で微睡む人間ではまず太刀打ちできず、聖職者であっても神の徴を突きつけようが祈りを叫ぼうが消滅するに至らない。捕縛が精々であるという。
 ならばどうするか。
 信仰に浸った体を用いるのだ。大聖堂が出した答えである。
 シャーナ個人にとって信仰は馴染み深いものではない。あくまで聖堂は家にとっての取引先であったので、彼女の信仰心はたかが知れている。それでも大聖堂は構わないのだ。構っていられないのだ。悪魔信仰でもしていなければ、人は多かれ少なかれ神を認めている。そのちっぽけな祈りを十も百も束ねれば悪魔の一体くらいは消滅が叶うだろう。
 左様ですか。承知いたしました。
 もはや貞節である必要もない体である。欲の捌け口として嬲られるのならともかく、大義あって役立つというのであれば使えばよろしい。生家と関わりを絶ったシャーナに拒む理由はなかった。
 きっと、誰かが見れば投げやりだとか自棄になっていると言うのだろう。シャーナは今度は与えられた役目を全うしたいと思うだけだった。
 だから、この子の存在はシャーナにとってあまりにも予想外であり、零幸であったのだ。
「──おねえさまだわ!」
 回廊へ差し込む日差しの眩さに手を翳していたシャーナはぱっと振り返る。
 おねえさま。稚い発音で自分をそう呼ぶ相手は、ここ大聖堂ではひとりしかいない。
 幼く愛らしい顔に浮かべられた笑み、小さな体で駆け寄るオルテンシアにシャーナも自然と笑みを浮かべ、彼女のために両腕を広げた。
 ぱふっと音を立てて腕のなかに飛び込んできたオルテンシアは、そのまましがみつくようにシャーナの腰へ腕を回して抱きついてから、大きな目を細めてシャーナを見上げた。真っ白な髪が揺れ、陽光を弾いて輝いている。
「ご機嫌よう。オルテンシアは今日も元気ね」
 良いこと、とシャーナはオルテンシアの形のいい頭をなぞるように彼女を撫で、手櫛で髪を梳る。
「ごきげんよう! おねえさまはおげんき?」
 小さなレディのご挨拶。
「ええ、元気よ。こうやってオルテンシアを抱っこできるくらいだわ」
 少し屈んで伸ばした腕で、オルテンシアの小柄な体を支える。シャーナは然して力のある人間ではないが、オルテンシアのように自分の腰ほどしかない幼い女の子であれば両腕で抱き上げることができた。
 きゃあ! と楽しそうに上がる声。ぎゅうっと抱きつかれれば柔らかな体がぴったりと合わさり、体温を伝えてくる。
 オルテンシアの笑顔も体温もシャーナにとっては特別なものに思うのだ。
 貴族において家族とは当主を一番上として明確に上下関係が存在し、血をなによりも尊びながら血の通わぬ間柄であることが珍しくない。例外はあるだろうが、シャーナの家は当てはまらなかった。
 乳母に抱かれた記憶すら遠く、親しみのなかった温度と形が腕のなかいっぱいにある。それが最初は不思議で不思議でならなかったが、抱きしめることを自然にできるようになった頃には大切で、大事にしたくてならなくなっていた。
「ねえ、おねえさま。またおはなししてくださる? わたし、きのうのつづきがきになるの!」
「ここが好きだったわ」「あれはどうなるの?」と期待を浮かべるオルテンシアは「続きはまた明日」で締めた話を求め、シャーナの両肩に手を置きながら目を晶晶とさせている。磁器で作った人形のような顔立ちだけれど、活きいきとした表情や身振り手振りには生気ある花の可憐さがあった。
「それではお部屋で『オルテンシア』がどうするのかお話ししましょうか」
「ええ、ええ! おちゃをしながらききたいわ。あまいおかしもよういするのよ!」
 こどもらしくしたいことが沢山あるオルテンシアに、シャーナは「素敵ね」と賛成する。
 お茶とお菓子を用意して、昔の噺にどこかの話、誰かの詩をオルテンシアへ語って聴かせる時間を、シャーナは胸のうちで小さなお茶会と呼んでいる。即興で作り上げた話の主人公をオルテンシアの名前にすると彼女は大層喜び、シャーナはもう幾つも「オルテンシア」の幸せな結末を語ってきた。全てのオルテンシアが幸せであればいいと願う気持ちを切々と込めて。
「クッキーがいいかしら。それともマドレーヌ? スコーンを温めてたっぷりジャムを乗せるのも美味しそうね」
「まよってしまうわ……
「少しずつ全部でもいいのよ」
 沢山はだめ。お腹がいっぱいになってご飯を食べられなくなってしまうから。
 まるで姉のように言うシャーナに「それがいいわ!」とオルテンシアの真っ白な頬に朱が差す。
「くっきーはなっつがはいっているのがいいわ。まどれーぬはちょこで、じゃむはべりー! おねえさま、くりーむもだめかしら?」
「ふふふ! スコーンにクリームは欠かせないわね」
……たっぷり?」
「たっぷりよ」
「ほんとうっ?」
「ほんとうよ」
 喜びを湛えて声を上げるオルテンシアを抱きしめたまま、シャーナは明るい回廊を進む。食堂へ行ってお菓子をもらおう。急いで腹を満たし、栄養を摂る必要に迫られる聖職者は多いから、食堂には常に手軽に食べられる菓子があるのだ。お茶はもう一人で淹れられるようになった。けれども。
「ミルクには蜂蜜を入れましょうか」
 オルテンシアは紅茶よりもミルクが好きだから。
「いれるわ! おねえさまのぶんもわたしがするのよ!」
「あら。一等美味しくなるわね」
 火傷しないようにシャーナが見守るなかで、オルテンシアはとろとろとミルクに蜂蜜を注ぐのだろう。上手にかき混ぜて、できたら得意そうににこにこ笑って自分を見上げる姿をシャーナは知っている。だから、シャーナは以前よりもミルクが好きになった。
 回廊を渡り切り、日差しが遮られる影のなか明暗に眩む目を伏せる。シャーナはオルテンシアを落とさないように抱きしめた。
「んふふ……だいすきよ、おねえさま」
 オルテンシアがすり、と懐く。首の後ろへ回された細い腕、頬をくすぐる真白の髪。おねえさまと呼ぶ声。
「私もオルテンシアが大好きよ」
 小さな妹のような子。自分をおねえさまと呼ぶこの子に、この世の幸せ全てが降り注げばいいとシャーナは心から思う。
 聖職者でありながら悪魔に幸いあれと祈る自分もまた、大聖堂における矛盾の一つなのだろう。ここはそういう場所なのだ。大義も実情も思惑も全てが噛み合わないまま成立しているのだとシャーナは感じる。
 そんな場所でよかった。
 ここへ来れてよかった。
 そう思う理由を抱きしめながら、シャーナは大聖堂の奥へと進む。
 やがてミルクが甘やかに香るだろう。