かなすい

一目惚れ

……う゛っ」
 突然撃たれたような呻き声を上げて、かなえはベッドに倒れ込む。
 ひりひり血が吹き出そうな頭と、ぎりぎり潰れそうな胸を抱えて熱っぽく赤くなった顔は皺くちゃ。毎日、毎晩、かなえはひとつのことしか、ひとりに関わることしか考えられず、それが幸せで苦しくて、昨日が寂しく今日が愛おしく明日が恐ろしくなっていた。
 恋煩いってやつだった。
 風邪ならお医者さんからお薬もらってあったかくして眠れば治るものだが、恋には医者も草津の湯も効かぬと古くから伝わっており、現代医学を以てしても治療法や特効薬が見つかっていない。
 平安の世に生まれていたらこのまま死んじまうってくらい、かなえは深く大きな恋をしている。その恋が実っていないので、死にそうになっている。
「い、いやだ……いいお友だちで終わるのはいやだ……
 夜にひとりでいると起きるようになった発作に七転八倒しながら、かなえはナイトテーブルに置いてあるデジタル時計を見つめる。日付は間もなく変わる。かなえの脳裏には今日の出来事が浮かんでいた。

 ──アパレルショップの店員さんに一目惚れをしたかなえは、客であれば誰でも名札を見て知ることのできる名字だけではなく、彼が寿衣という名前だと知る段階まで辿り着いていた。初期の初期。人間関係の出だし。けれど大切な一歩。
 その名前をいつ呼ぶか、呼んでいいのか、かなえは大学の受験勉強よりも頭を悩ませた。知った際に「名前で呼んでもいい?」と訊ねればよかったのに、好きなひとの名前を知っただけでふわふわした心地になり、適時を外してしまったのだ。
 しかし、自身にはそれよりもよく考えなければならないことがあるのを、かなえは自覚していない。
「瀬切さん、デートに誘ってもいい?」
「へっ?」
 かなえは寿衣に対し、名前をいつ呼ぶか悩んでいる場合ではない距離の詰め方をしていた。
 会計中、他の店員さんや客の目がない瞬間を狙ったかなえに、畳み掛けの服を崩した寿衣がひっくり返った声を上げる。当たり前である。寿衣からすれば日々の業務を真面目にこなしているところに、客の一人から私的な誘いをかけられたのだ。八割から九割の確率で厄介客と判断される所業。
「えと……あの、お店でそういうのは……
 視線を彷徨わせる寿衣が接客マニュアルに記載されているであろう文言を歯切れ悪く返すのを聞き、かなえは「分かった。急にごめんなさい」と眉を下げつつも即座に引き下がった。かなえは寿衣に対する好意を隠さないが、迷惑をかけてはいけないという常識は残している。
 ただの客の一人からの好意は迷惑ではないのか。これに関してはかなえなりに引けない理由がある。
 完全な接客対応や塩を振るような対応をされていたのなら、かなえはものの道理を弁えて引く姿勢を見せた。しつこい付き纏いや哀れみを乞うなどは決してしない。かなえはSNSのアイコンを真っ黒になどしないのだ。
 だが、こうして好意をあからさまにするかなえに寿衣の反応は。
「でも、あの……明後日、休み、で」
 水蜜桃のように染まった頬。手元へ視線を落とした寿衣が、忙しない手つきで服を畳み直しながら言う。熱っぽく潤んだ目でちら、と上目遣いにかなえを見て、へにゃりとやわく笑ってから恥じらうように慌てて俯く。
「それで、大丈夫ならお出かけ……
「デートしてください」
 これで諦めろというほうが酷だとかなえは主張する。
「は、はい……
 ショッパーががさ、と音を立てるのに紛れるような小さい声が耳に届けば、かなえの心に春が訪れた。後ろに別の客も訪れた。
 まだ待ち合わせ場所も決めていない、と一瞬焦るかなえを前に、寿衣がレジ脇にあるベルを鳴らす。颯爽と現れるレジのヘルプ。寿衣が「出口まで」とショッパーを持ちながらかなえを促した。なんて鮮やかな流れだろう。惚れそうだったし惚れていたし惚れ直した。
 自分に惚れてほしいと、胸がしくしく痛むほどに願った。
 そんな痛みを引きずり夜になって、かなえは恋煩いの発作を起こしている。
 今日を思い返している間に日付は変わり、寿衣とのデートは明日である。
……好きだなあ」
 思い出すのはドアを境にした別れ際、ショッパーを受け取るときにほんの少しだけ触れた指先。スクエアに整えられたネイルのミントグリーン。首筋へかかるインナーカラーとよく似合っていた。
 明日、その手と手を繋げるだろうか。
 そもそも。
「ゔ……名前、呼びたい……呼んでほしい」
 呼んで、振り返ってほしかった。

 ──ということがあってから随分経ち、かなえは寿衣の魅力にくらくらする日々を送り、いっそ心配になり独占欲も湧いて合意のもと彼を大事にしまっている。
 左様。普段はこの可愛い恋人をかなえは独り占めにして自宅にしまっているのだが、今日は別である。
「外って寒い? 上着どうしよう……邪魔になっちゃうかな」
「いまはあったかいけど、寒くなったら俺の貸すよ」
 出かける寸前、自身の袖をちらりと見ながら上着を羽織るか悩む寿衣に、かなえは自身が着るつもりであった薄手の上着を指す。
「いいの?」
「むしろ着てほしいです」
 かなえは寿衣がゆったりした服を着ているのが好きである。それが自分の服だと大変にぐっとくる。
「ふふ。じゃあ、借りるね?」
 かなえが腕にかけた上着をにこにこと撫でた寿衣は、少し前なら恥ずかしそうに頷くに留めていたかもしれない。「そっか」と落ち着かなさそうに言っている声や仕草をかなえはよく知っているが、その寿衣はもう自分からかなえと自然に腕を絡めてくれるのだ。
「早く行こ! かなえくんに着てほしい服、色々あるから」
「うん。あ、ちょっと待って」
「なに?」
 弾んだ声を出す寿衣に胸がふわふわするほど愛おしくなりながら、かなえは彼を引き留めてそうっと玄関のドアへ押しつけた。
「へ……ンん゛っ」
 きょとんとする寿衣へ覆い被さるように、かなえはきつく抱きしめた彼の唇を何度も喰み、絡めた舌をぬるぬると擦り合わせてはじゅる、とはしたない音を立てながら吸う。
「っん♡ン゛む、ぅ゛♡♡」
 服越しに背中へ立てられた寿衣の爪を心地良く感じながら、まだ足りない、もっとしたいと思う自分を堪えてかなえはようやく唇を離した。
「は、ぁ……かな、えくん……♡」
 目をとろんと潤ませた寿衣の赤くなった唇が濡れててらてらと光り、ちろりと覗く舌がかなえの名前の音を作ってうねっている。
 かなえだけが知っている寿衣だ。今日のようにデートへ行くときであっても、すれ違う誰も寿衣のこの顔を見ることはできない。しまっていた寿衣と外へ出る前に、かなえは自分だけの寿衣をうっとりと見つめた。
「ねえ、寿衣」
「なあに……?」
「名前呼んで」
 長い睫毛がぱし、と音を立てそうなまばたき。身長差で自然と上目遣いになる寿衣がほんのりと顔を赤くしながら微笑んだ。
「かなえくん」
「うん。寿衣、寿衣……大好き。急にキスしてごめんね」
「ん……びっくりしたけど、嬉しい。俺も大好き」
 力が抜けたようにくったりと身を寄せる寿衣がふにゃりと笑い、かなえの指をやんわりと握る。かり、とやわらかく指の間をなぞっていった爪の感触。ネイルの色はフェアリー・ランド。寿衣が丁寧に塗ったネイルを硬化させている間、邪魔をしてはいけないと隣に座って待っていたのを思い出す。ほんの短い時間でも「すぐ終わるからね!」と何度も振り返る寿衣が可愛くて仕方なかった。その寿衣もかなえだけの寿衣だ。
「行こうか」
「うん!」
 絡めた指でそのまま手を繋ぎ、かなえはデートのために開けたドアを寿衣とくぐった。