ミロキサ

訓練

 地の揺らぐような一歩。
 詰められた距離、同時に繰り出されるミロの拳。流そうにもあたる瞬間に止められる拳は一切の衝撃を逃すことなくキサラギへ叩き込まれ、彼の肘関節までも軋ませる。
「痛い」を停止し、続く掌底に顔を逸らす。肘裏を叩けばミロの胸に隙ができたが、簡単に潜り込むことはできない。
 平素であればキサラギは「クソが」とでも吐き捨てていただろう。叩かれ揺れた体をそのまま回転させたミロから叩き落とされる背面回し蹴り。一瞬合ったミロの目が凍るように燃えている。
 戦うことにおいて真っ直ぐなミロ。必ず喰らいついてくるミロ。貪欲に、貪婪に、刷り込まれたものであっても。
 防ぐ、弾く、取った距離がまた詰められる。
 空気を裂く音も一拍置き去りに、一撃、二撃、三、四、五。連撃の合間にミロが吐き出す短い呼気には不思議と色気があった。
 受けて、流して、反撃してもミロはまとわりつくようにキサラギへ向かってくる。
 ミロの蟀谷に浮かぶ汗がてらてら光るのを視界の端に、キサラギは嘆くような気持ちになる。
(ああ、勘弁してくれよ)
 どうしてこんなことになっているのか。答えは分かっている。
 分かっていたってキサラギは納得できないのだ。人間のように。
「なあ、俺が悪かったから……
「手を抜くな、キサラギ」
 感情の起伏が表れるようになっていた声音を淡々と、無拍子の裏拳がキサラギの顎を強かに打つ。人間であれば脳が揺れて失神していただろう。キサラギとて思考機能が一瞬遅延した。
 戦術という点が甘くとも、ミロには純粋な戦闘力があるのだ。重たい一撃と、それを命中させるための技術。
 左様、あてるための技術だ。
 息を吐く間もない拳を、キサラギはやっとの思いで交差した腕で捕らえた。あとは絡げ取った腕を引くだけで人体は転げるようにできている。そのはずなのだ。そのはずなのに。
「お前、こういうの苦手だったじゃねえか……
 人型に限らぬ対侵略者において有効となる純粋な打撃が得意なミロは、人体構造を利用した技術を不得手としていたはずだ。この瞬間までそうとキサラギに記憶されていた情報が書き換えられる。
 ざりざりと地面を抉りながらミロはそこに立ち続けていた。優れた体幹と筋力で技術をねじ伏せた。
 だが、下手に動くこともできなくなっているのだろう。歯を食いしばり睨むように見つめるミロに、キサラギは眉を下げて微笑み、一瞬。
 脚を蹴り払われ今度こそ倒れたミロの悔しそうな顔に、キサラギは仕方のない子を愛おしむように告げる。
「もう疲れたろ……終わりにしようぜ」

 ──ある日の昼下がり。几帳面に四角を作りながら洗濯物を畳んでいた自身の肩に、ミロがのす、と顎を置いてきたのでキサラギは「腹でも空いたか」と手を止めないまま訊ねた。
「ん。これ作れるか?」
 そろそろ襟ぐりの伸びが著しいシャツを膝に置き、キサラギはミロの無骨な手が差し出してきた本を見る。赤茶のくまがでけえ蜂に囲まれている表紙の絵本だ。
 バディを組んだばかりの頃は虫笑いも備えていなかったミロに、少しでも情緒が育つようにとキサラギは絵本を読み聞かせている。この絵本はその一冊だ。年齢だけを見れば絵本などとうに読まなくなっているだろうが、ミロは毎晩大人しく、ときに興奮しながらキサラギの朗読を聴いていたし、こうして自ら持ってくることもある。
 はて、うちの可愛い坊やはなにが気になったのかしらね、と絵本を受け取ったキサラギを待たず、せっかちな手つきで横からミロがページを捲りだした。
「これ。はちみつが沢山入ってるらしい」
「ケーキか」
 いつか、やはり絵本に出てくるカステラを作ってから、ミロは絵本に登場する食べ物をねだってくるようになった。大変結構。ミロがなにかに興味を持つのもなにかを望むのもキサラギにとって幸いであるし、それを叶えられることを喜びとしている。
「レシピ詳しいから楽だな」
「できるかっ?」
「今日は無理だが」
 途端、ミロが「どうして……」とばかりに口を小さく結ぶので、キサラギは彼の鼻を軽くつまんでやる。くしゃっと歪んだ顔にけらけら笑う。
「はは……この前、どこぞのクソッタレによる襲撃があったろ。近場の店で諸々の仕入れが滞ってるんだよ」
 戦闘員の食糧は支給など多少融通されるが、嗜好品に使われる材料となれば民間人に倣う。絵本に出てくる材料の幾つかはすぐに入手するのが難しかった。
 説明すればミロは落ち込んだりクソッタレ……侵略者へ怒りを向けたりと忙しい。その間もキサラギはさり気なくミロに手伝わせつつ洗濯物を畳む。
「いつ頃になったら仕入れは再開する?」
 シャツを袖畳みにするミロに問われるが、麦や芋の流通はともかく、材料の一つであるサワークリームの入荷事情までキサラギは把握していない。
「まあ……良い子にしてりゃすぐに再開するだろ」
 そのまま正直に言うのもがっかりさせそうだったので、キサラギは大人の便利な言い回しを使った。
「こうやって手伝い……
「分かった」
 手伝いをしていればすぐだ、とこれまた大人らしく狡猾なことを言おうとしたキサラギは、決然としたミロの声に顔を上げた。嫌な予感がした。
 ミロはやけに真面目な顔でキサラギを見たかと思えば、己の拳を握っては開き、またぐっと握ってキサラギへ視線を戻す。
「明日からは一層、訓練に励もう」
 とても、とても自然に「兵士」としての「良い子」になろうとするミロ。
 咄嗟に薄く開いた口からはなにも出てこなくて、キサラギは無言で腕を伸ばす。畳みかけの洗濯物が落ちてぐちゃぐちゃになるのも構わず抱きしめれば、ミロは「キサラギ?」と不思議そうにするばかりで、キサラギはそんな構造をしていないのに痛む胸に歯を食いしばった。
 足りないもの、間に合わないものが多すぎた。

 ──という、キサラギがちっとばかし感傷的になっちまう出来事があったのだが、元々猪突猛進に侵略者へ突っ込んで戦果を上げるミロが励むとなれば、相応にえらいことになる。 
 真面目に良い子に訓練へ勤しむミロは常に全力で、相手をするキサラギは堪ったものではなかった。侵略者の襲撃前に怪我をしたらどうするのかと説けばムっとした顔で加減するミロなのだが、しばらくすればまた全力になっており、キサラギは一日に何度「この戦闘馬鹿が」とミロに対して思ったか知れないし、店に早く仕入れ再開してくれもう再開したか頼むから再開してくれとしつこく連絡を入れる悪質客になったし、ありもので作れるちょっとしたおやつの腕が上がった。
「ほら……今日はもう上がろうぜ」
 手を差し出せば悔しそうな顔をするミロが掴むので、キサラギはそのまま引き上げてやりながら(これだけひとのことボコっておいてなにが不満なんだよ……)と停止していた痛覚機能を再起動する。後悔した。
「あー……お前、少しは手加減しろよ……
「それじゃ訓練にならないだろ」
「そうね……確かに訓練の甲斐あったわな」
 ミロの「だろう?」という得意そうな顔。先ほどまでキサラギを鋭く睨んでいたとは思えない彼は、確かにその戦闘力を伸ばしている。優れた兵士として磨かれている。それを悲しいと思ってしまえば、頑張るなと言ってしまえば、ミロの生存率が下がる。侵略者を前に生き残るには、勝ち残らなくてはならない。
 ままならないものだ、とため息を堪えたところで、訓練所の隅に置いていた端末が鳴った。司令部からの命令であれば直接「耳」へ届くが、外部からの連絡であれば個人が持つ端末へ入るようになっている。
 誰からだろうかと情報収集の過程で出会った顔を思い浮かべるキサラギだが、表示される相手はそのどれもと違い、もしかするとそのどれよりも嬉しい相手であった。
「はい、お待たせいたしました。はい……はい、日々お世話になっております。ええ、ほんとうですか!」
 常になく明るい声音で話す自身にミロが怪訝な顔をするので、キサラギは手招きしてまんまと近づいてきた彼の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
 通話中なのでろくに声も上げられないミロを好き勝手撫で回していれば相手は早口に用件を伝え終わり、さっさと通話を切ってしまう。だが荒々しい通話終了などなにとあらむ。
「喜べ、ミロ」
「なん、なんなんだ……
「仕入れが再開した」
 再開次第連絡をくれと店に要求していた悪質客がにっこり笑えば、ぽかんとしたミロはだんだんと顔に期待を浮かべてキサラギの手を握った。その手は熱心な力が込められているのに、ちっとも痛くない。
「はちみつケーキ作れるのか!」
「ああ。だから……おい、走るな。おい、風呂が先だぞ!」
 止める声が聞こえているのだかいないのだか、急かすミロに手を引かれるキサラギは早足で彼に並ぶ。それでもミロがまた急ぐので、繰り返し追いかける。何度も、何度も。
 手はずっと、繋いだまま。