はなれ
2024-11-13 11:44:09
9641文字
Public ソルバン
 

脆弱ユスティーツ

OoC後にサージュ・ソネガンが正義感を引き出すというていの二次創作。cp無し。
⚠サージュ・ソネガンの『俺』タメ口表現
⚠戦闘・流血・怪我の描写
⚠多大なる設定の捏造
情けないサージュ・ソネガンが見たくない人はブラウザバック推奨です。

「わたくしの〝正義感〞が暴走、ですか……?」
「副頭取に調べて貰ったところ、一番歪みが大きいのはそこだろう、と」
 どこか申し訳なさそうに告げるヤーシャラージャに、サージュはいつもの飄々とした笑みを翳らせた。
 ここは幻想銀行ローカパーラの頭取室。
 室内には頭取であるヤーシャラージャと、彼女の背後に佇むルダン、面白くなさそうに眉をひそめるサージュがいた。
「おそらく先の一件で〈ヴィナーヤカ〉という自我が芽生えたことにより、その思念が当行の機構に影響しているものと思われます。封印も緩んでいるようで……
 報告書をめくりながら、ヤーシャラージャが呟く。
 ローカパーラの魔力が暴走し、行内の資産が流出した事件から早数か月。
 異界から現れた魔法使いの助力により、全ては円満に解決した――はずだった。
 異変を察知したのは、銀行を運営するために誰よりも魔力に気をくばっているルダンである。
 行内の魔力の流れがおかしいことに気が付き調べたところ、先の事件で再封印されたはずのサージュが預けた〝正義感〞が金庫内で暴れていることを突き止めたのだとか。
「封じられている資産が変質したのか、それとも金庫自体に異常が起きたのか」
 書類に目を落としたまま、ルダンが口を開いた。
「他の流出した資産の変動値が許容範囲だということを鑑みるに、そもそも封印措置に何らかの不具合があったのか……
 淡々と言葉を紡ぎながら、琥珀色の瞳を細めたルダンがサージュを見据える。
 試すような、挑発的な視線を向けられて、サージュはおどけたように肩を竦めた。
「まさかルダンさんはわたくしが手を抜いたと仰せで?」
「あくまで私の見解を述べたまでだ。なんだ、何か思い当たる節でも?」
 ふたりの視線がかち合い、なんともいえない冷ややかな空気が場に満ちる。
「おふたりとも、私語はそこまでに」
 その間を鈴のような声で遮りながら、ヤーシャラージャが話を続けた。
「この状況に際して、サージュさんには一度〝正義感〞を引き出して貰うことにしました。その後金庫の点検をし、何事もなければわたくしが再封印を施します。何か質問はありますか?」
 ヤーシャラージャに問いかけられて、ルダンとにらめっこしていたサージュはバツが悪そうに襟を正す。
……ありません。頭取のご指示ですから」
……そうですか。では早速、資産の回収をお願いしますね」
「かしこまりました、頭取」
 サージュは謹厳なほどに恭しく、片手を胸に当ててヤーシャラージャに一礼した。
 振り返ったその背には、わずかな遣り切れなさが滲んでいる。
「ご武運を」
 祝福のようにかけられたヤーシャラージャの声に、サージュは軽く頭を下げて、頭取室を出て行った。
……本当に、ひとりで行かせてよろしいのですか」
 パタン、と扉が閉じると同時に、その後ろ姿を見送っていたルダンが呟く。
「あら? では代わりにあなたが行きますか? 副頭取」
……それは」
「サージュさんは、許さないと思いますよ。自分のけじめは自分でつける。そういうところは、変わっていないはずですから」
……出過ぎた言を申しました。ご容赦ください」
「本人に言えば喜ばれたかもしれませんね」
「はぁ、あいつはすぐ調子に乗るので」
「まぁ手厳しい」
 ルダンのわかりづらい心配にくすくす、と微笑みながら、ヤーシャラージャは胸元でざらつく不安に、そっと気付かないフリをした。


 ◇ ◆ ◇


 扉を開けると、氷原だった。
 サージュはジャケット越しにも凄まじい冷気をものともせず、慣れた足取りで歩き出した。
 正直言って、気は乗らない。
 別に、この前の事件が特別大袈裟だっただけで、行内での細かな事件なんて山ほどある。そういうのは大抵ルダンがどうにかするし、それでも解決しなければ今はヴィレスやラシュリィもいる。だからサージュが手を出すまでもないし、できることなら余計な仕事はしたくない。というのが本音。
 でも今回は、自分が預けたものが原因だというのなら、そうも言っていられない。
……
 サージュが溜息を溢せば、冷えた空気で白く染まる。
 気は乗らない。が、仕方ない。
 サージュは氷原を抜け、ジャングルを進み、火山を渡る。
 時折現れる魔物を軽く一掃しながら、淡々と。
 もうそろそろ金庫だろう。
 また、扉に手をかける。
――これは」
 一歩踏み出して、足を止めた。
 レンガ造りの、見慣れた街並み。
 いつか、サージュが身を切り捨ててまで守った街の景色が、そこにはあった。
 ただその街並みは、焼け焦げ、崩れ、荒れ果てていたけども。
「我ながら趣味の悪い」
 吐き捨てるように呟いて、サージュは刀の柄に手をかける。
 いた。
 目の前に、正義の面を被った獣が。
 頑固さを貫いたが故の純真さを現したような白銀の髪と、流れた血のように赤い外套が黒煙になびく。
 鎧をまとった人型の異形――ヴィナーヤカが振り返り、その深紅の瞳がサージュを見つけた。
 警戒を強めるサージュは、その奥に見える金庫の扉が開いていることに気が付くと顔を歪める。
 仰々しく、本来であれば封じられているはずの金庫の扉が、開いていた。
「守るつもりが壊してるなんて訳無いな。大人しくしてればいいものを」
『如何ナル悪モ……許サヌ……!』
 サージュは目の前で唸るような声を上げているヴィナーヤカを一瞥すると、気怠そうに抜刀した。
 前回相まみえた時と違い、今回は妖精郷の宝箱が封印されたままであることは確認済み。
 ならば、充分戦える。
 サージュは手にした二刀をガチン、と重ね合わせ一振りの大剣へと変えた。
「ヴァイシュラヴァナ、開門。資産魔法〈紫電一閃マハーカーラ――限定発動。そんじゃ、ちゃちゃっと締めようか」
 面白くなさそうに告げて、サージュはヴィナーヤカの元へ駆け出した。
 しかし、それをヴィナーヤカが黙って見ているはずもなく、彼の周りを浮遊していたナイフがサージュに迫る。
『オマエハ…………!』
「そりゃどうも」
 サージュは何の捻りも無く一直線に飛んでくるナイフの軌道を刀で逸らし、ヴィナーヤカの死角であろう右から斬りかかった。
 だが、ヴィナーヤカの装甲は〈紫電一閃〉をもってしても容易くは斬れない。
 返して胴体を狙った二撃目はヴィナーヤカが扱う長剣で防がれる。
 金属同士が擦れる甲高い音が金切り声のように響いた。
 サージュは回し蹴りでヴィナーヤカの顔面に踵を叩き込むと、そのまま蹴り飛ばして距離を取った。
「やれやれ。一筋縄じゃいかないか」
 誰に聞かせるまでもない呟きが土埃にまじる。
 ヴィナーヤカの纏う鎧は堅牢だ。元より簡単に片が付くとは思ってない。
 だが、永遠不朽でもない。
 それは、サージュ自身が一番よく理解している。
「手始めに牙でも折ろうかな」
 颯爽とヴィナーヤカに肉薄したサージュは、防ごうと構えられた長剣に、思いっきり幻想刀門を薙いだ。
 今度はそのまま刃を押し込む。
 骨が折れたような、嫌な音がした。
 魔法の光を宿したサージュの刀が、ヴィナーヤカの長剣を斬り飛ばしたのだ。
 続けて、ヴィナーヤカの周囲を浮遊するナイフも両断する。
 それは業務的な刀さばきだったが、それ故の精確さがあった。
 一太刀、傷つけた部分を続けざまに攻撃する。
 壊れた鎧の破片が、サージュの頬を掠めていった。
 サージュの刀が跳ねる。躍る。翻る。
 ヴィナーヤカは吼える。怒る。憤る。
 勝敗などとっくのとうに決している。
 それでも、ヴィナーヤカは止まらない。止まれない。
 傷だらけになりながら、それでも己を睨みつけるヴィナーヤカに哀れみの視線を向けて、サージュは勢いのままヴィナーヤカの首を刎ねた。
 ゴトリ、と地面に落ちた首があの日の――若かりし頃の自分の姿に変わる。
……どうして』
 乱れた黒髪の隙間から、後悔と憤慨がないまぜになった瞳がサージュを射抜いた。
 どうして、と一言。
 何度も切り捨てられたことを悲観してか、今更迎えに来たことを呆れているのかはわからない。
 ただ、その問いかけに対する答えを、サージュが持ち合わせていないことだけは確かだった。
「そんなこと……俺が聞きたいぐらいだよ」
 人型の異形がコインとなって消えていくのと同時に、周りの景色も元の――銀行の廊下へと戻っていく。
 慣れた手つきで刀を納めたサージュは、どうしようもなく焦燥感に駆られる胸に手を当てた。
 ドクンと脈打つ鼓動が痛い。
……戻らないと」
 サージュは邪魔な思考を霧散させるように頭を振って、元来た道を引き返した。


 ◇ ◆ ◇


 さて、あれから数日後。
 結局金庫に異常が見られ、ヤーシャラージャとルダンが対処に当たっている。
 が、通常業務も並行しているのでサージュは未だ正義感を引き出したままであった。
「副頭取、こちら頼まれていた書類です」
「あぁ、悪いな」
 サージュからきっちり揃えられた書類を受け取って、ルダンはふとその顔を覗き込む。
……わたくしの顔に、何か」
「おまえ、ちゃんと寝ているのか?」
……繁忙期の副頭取に比べれば、寝ている方だと思いますけど」
 ルダンの探るような視線に見つめられ、サージュはそっと目を逸らした。
 正義感を引き出してからというもの、サージュの軽薄さは鳴りを潜めている。
 表面上は何も変わっていないように見えても、付き合いの長いルダンやヤーシャラージャはその変化を無視できずにいた。
 実を言うと、多少なりとも仕事を減らされていたりする。
 頭取と副頭取に仕事を隠されてしまえば、一部下であるサージュに知る由はない。
 そうまでする理由は、それほどまでにサージュがひどい顔をしているからなのだが、本人がそれに気付いているのかは、わからない。
「他に御用がなければわたくしはこれで。お先に失礼致します」
 これ以上の詮索を避けるように、サージュは早々に事務室を後にした。
 少し価値観が変わっただけなのに、どうにも世界が違って見える。
 いや、変わったのは、サージュ自身なのだけれど。
 正義感を引き出してからというもの、ギュッと胸を締め付けるような不快感が拭えない。
 それどころか、あまりに正反対な自分に吐き気すら催す始末。
 サージュは己の首に刻まれた、消えることのないタトゥーに手を伸ばした。
 シャツは胸元が開き過ぎているほどだというのに、息苦しい。
 先程のルダンの視線を思い出して、居たたまれなくなって立ち止まる。
 獲物を見定める猛禽類のようなルダンの目が、サージュはどうにも苦手だった。
 あれは、強い目だ。
 諦めることを知らない不屈の瞳。
 何が違えば、自分もそう在れたのだろうか。
 何が違うから、自分は苦しんだのだろうか。
 あの目で見つめられるたび、今まで気にしていなかった心の澱の重さに押し潰されそうになる。
 羨むだけだった理想の道を、進みたくなってしまう。
 そんな衝動に突き動かされるように、サージュの足は頭取室へと向いていた。
「サージュさん、どうなさいました?」
「頭取。お願いが、あります」
 次に続いたサージュの言葉に、ヤーシャラージャは困ったような、悲しそうな表情を浮かべた。


 ◇ ◆ ◇


 なんとなく、違和感。
 ルダンは眉間にシワを寄せながら、睨むようにサージュを垣間見た。
 金庫の点検はこの前済ませたし、頭取に再封印を施された、はずだ、この男は。
……サージュ、次の調査対象の書類だ。目を通しておけ」
「あぁ、はい。わかりました」
 サージュはどうでもいいとでもいわんばかりの態度で書類を受け取ると、これまた面白くなさそうに目を通している。
 見知った仕草のはずだ。間違いない。
 それなのに、なんとなく違和感があるのだ。
 その理由を形にすることはできないのだけど、何か喉の奥につっかえているような違和感に胸騒ぎがする。
「大体覚えました。緊急性は……無さそうですね」
 サージュはそう呟くと、億劫そうに腰を上げた。
「待て、サージュ」
「まだ何か?」
 ルダンの制止に、サージュがニヒルな笑みを浮かべながら振り返る。
……いや、なんでもない」
 思わず声を掛けてしまったものの、やはりこの違和感を言葉にできなくて、ルダンは口を閉ざした。
「それでは、お先に失礼しまーす」
 取って付けたような間延びした語尾が耳に残る。
 行き場を失った手を、ルダンはひっそりと握りしめた。
「サージュさん、調査に赴かれるのですか?」
 サージュがロビーの扉に手をかけた所で、ヤーシャラージャに引き留められる。
「えぇ。今日は他に、することがありませんので」
……本来なら、これは言うべきではないのでしょうけど」
 ヤーシャラージャは独り言のように呟いて、サージュの元へ近づいた。
「わたくしとの約束、どうかお忘れなきように」
 その言葉は、女神のお告げ、というよりは王の命令だった。
 威圧すら感じさせる黄金の瞳を見つめ返して、サージュは下手な笑みを浮かべる。
「承知しておりますよ、頭取」
 それきりヤーシャラージャは何も言わず、去り行くサージュの背を憂いを帯びた眼差しで見つめていた。


 ◇ ◆ ◇


 カビ臭いコンクリートのにおい。
 郊外の薄暗い廃墟に、サージュは調査に赴いていた。
 壊れた窓から西日が覗く。
 朽ちかけの柱に隠れながら、サージュは廃墟を進んでいった。
 ローカパーラの調査任務は、大まかに分けて二種類ある。
 一つは、融資先の調査。これは魔道具を貸してもいいものか見極めるための調査であり、そこまで危険なものでもない。
 だがもう一つの――封印すべき神秘の探索や怪しい組織、違法な魔道具の調査は、危険度が跳ねあがる。
 今回の場合は、後者だ。
 とある犯罪組織が尋常じゃない力をもって巷を騒がしているらしい。
 人間の範疇でおさまる問題なら簡単に対処可能だが、未だ知られざる神秘や、魔道具の力が利用されているのならローカパーラの銀行員として見過ごすわけにはいかない。
 サージュは慎重に、どんな証拠も見逃さないように進む。
 廊下の突き当りまでやってきたところで、地下への階段を発見した。階下に頑丈そうな扉が見える。
 サージュは足元に転がる石ころを拾うと、その扉に向かって投げつけた。
 中からの物音は無し。
 思い切って、扉の先へと突入する。
……これは」
 地下牢が立ち並ぶ廊下だった。
 ただ、サージュが知る警察のそれとは違い、鉄格子で区切られただけのおざなりなものであったけれど。
 長い間密閉されていたのか、空気が淀んでいて鼻が曲がりそうになる。
 更に奥まで進んでいくと、少し開けた部屋に出た。
 人がいた痕跡はあるが、机や椅子には埃が被っており、ここが長らく使われていないことを示している。
「相変わらず人の気配がない。この拠点は捨てたと見るべきか……
 ルダンから渡された書類にも、ここ以外の拠点がいくつか書かれていたはず。
 早まったな、とサージュが踵を返そうとした時、異変は起こった。
 音が聞こえる。
 地響きのような、低く、腹の底を揺らすような、音が。
 途端、コンクリートの壁が突き破られた。
 迫る殺意を目視するよりも先に反射で抜刀する。
 力任せに押し切られそうになって、咄嗟に刀をずらし距離を取った。
 ――狼、だろうか。
 姿は、四足歩行の獣のそれに見える。
 ただ、サージュの胸元辺りまでは有りそうな体躯に、むき出しの牙は赤黒く、鋭い鉤爪がはめ込まれた四肢には血管が浮き出ていた。
(魔物? ……それにしては何の痕跡も……
 考えている暇は無い。
 サージュは短く息を吸い込み、ガチン、と二刀を重ね合わせた。
「ヴァイシュラヴァナ、かいも――
 いつものように、二刀を重ね合わせる。
 いつものように、呪文を口にする。
 だが、扉が現れない。
 ヴァイシュラヴァナが開かないのだ。
 そうだ、あまりに当たり前のこと過ぎて忘れていた。
 〈紫電一閃〉は『あるべき秩序がどう乱れようと知ったことではない』者にしか扱えぬ魔法。
 だから今の――正義感を引き出したままのサージュには、使えない。
「っ!」
 一瞬の隙を狙われ、狼の振るう前腕にサージュは吹き飛ばされた。
「かはっ……
 壁に強く背中を打ちつけ息が詰まる。
 うまく受け身を取れなかったせいで腕が痺れていた。
 だからといって、敵の攻撃が止まる訳ではないのだけれど。
 眼前に鋭い牙が迫る。
「ッあ"ぁ"!」
 避けきれず、その凶牙に左肩を穿たれる。
 サージュは痛みに喘ぎながらも、なんとか右の刀で狼を引き剝がした。
 もう左腕は使えそうにない。
 それでも、刀は手放さないよう握りしめる。
「こんなっ……ところで……
 耳元に心臓があるかのように、鼓動の音が忙しなくうるさい。
「敗れる、訳には……ッ!」
 本当なら、ここで退くべきなのだろう。
 分かっている。分かってはいても、サージュは止まれなかった。
 馬鹿正直に、真面目に、ひたすら突き進むことしか、出来ない。
 そんなサージュを嘲笑うように、狼は吼える。
 空気を震わすそれが、無性に傷口に障った。
 それでも。
「手早く、締めます」
 サージュの、ロードクロサイトのような瞳が煌めく。
 いつかのように、強い意志を湛えた瞳が、欠けた刃の代わりに瞬いた。


 ◇ ◆ ◇


「もう定時は過ぎていますよ、ルダンさん」
「お互い様でしょう。あなたこそ、今日の仕事は終わっているはずでは?」
「それはそうなのですが……なんとなく、そういう気分ですので」
 就業時間を過ぎたローカパーラに、ヤーシャラージャとルダンは残っていた。
 その理由は。
「虫の知らせ、というのかもしれませんね」
……縁起でもありませんな」
 ふたりはそれきり、何も口にしない。
 その何かを形にしてしまえば、よくないことが起こりそうで。
 ルダンは一つ溜息をつくと、ロビーから出て行ってしまう。
 ほどなくして戻ってきた彼の手には、テーカップがふたつ、握られていた。
「どうせしばらく、ここにいるのでしょう?」
「おや、珍しい」
「なんとなく、そういう気分でしたので」
 告げながら、ルダンはいつもなら座らないロビーのソファに腰掛ける。
 やはり、ふたりの間に会話はなく、だから、扉が開く音が、はっきりと聞こえた。
「サージュ、遅かった――
「サージュさん!?」
 帰ってきたサージュを見て、ルダンは言葉を失い、ヤーシャラージャは声を上げる。
「とう、どり……ただいま、っ、もどり、ました……
 扉から手を離した瞬間、床に崩れ落ちそうになったサージュをルダンが受け止めた。
 おびただしい量の血が滲む制服は所々破け、痛々しい傷口が見え隠れする。
 青を通り越して土気色の肌が、事の深刻さを物語っていた。
「頭取ッ! 資産番号――の稟議を! おい、しっかりしろサージュ! あぁくそ、こんな所でくたばったら承知せんぞ貴様!」
 朧げな意識の中で、それでも己を叱咤するルダンの声を聞きながら、サージュは意識を手放した。


 ◇ ◆ ◇


 痛みで、目が覚める。
「気が付いたか」
 ゆっくりと瞼を持ち上げながらサージュは声の主を呼んだ。
……るだんさん」
「ここが何処だかわかるか?」
……ローカパーラの、医務室……?」
「どうしてここに運ばれたか、覚えているか?」
「え、と……調査に、出て。そこで現れた狼と戦って……そうだ、あの狼! 魔物かどうか調べる必要が……っ~~~!」
 ルダンとの問答で段々意識が覚醒してきて、サージュは勢いよく起き上がる。
 が、左肩に激痛が走ってベッドの上で丸まった。
 戦闘中はほとんど感じていなかったが、声も出ないほど痛むとは。
「記憶の混濁はなさそうだな。あぁそれと、怪我が治るまでは大人しくしているように。まったく、余計な手間ばかりかけさせおって……
 サージュが悶えているのを横目に、だいぶ長い溜息をついたルダンはサイドテーブルに置かれていた魔道具を手に立ち上がる。
「では頭取、私はこれで。魔道具の後片付けをして参ります」
「ありがとうございます、ルダンさん。今日はそのまま上がっていただいて結構ですよ」
 ヤーシャラージャに軽く頭を下げたルダンは、数歩進んだ先で振り返った。
「そうだ。サージュ」
 名を呼ばれ、自ずとサージュもルダンの方を向き、ふたりの視線がかち合う。
「気が済んだらさっさと戻れ。おまえがそんなだと調子が狂う」
 それだけ告げると、ルダンはさっさと帰ってしまった。
「ふふ、ルダンさんも素直じゃないですね。あれでも真っ先に治癒の魔道具を申請するぐらいには心配していたんですよ? ちゃんとお礼を言っておいてくださいね」
 しゃなりとした、鈴のような声。
 なるべく目を逸らしていたが、ルダンがいなくなってしまったので仕方ない。
 叱られる子供のように、おそるおそる、サージュはヤーシャラージャの顔を見た。
……頭取」
「サージュさん。私との約束、覚えていますか?」
……無茶はしないこと、ですね」
「はい、そうです。だから、約束を破ったサージュさんには、お仕置きです」
 ヤーシャラージャは椅子から立ち上がると、その小さな指で、サージュの額にデコピンする。
 その指先に魔方陣が現れ、サージュに吸い込まれていった。
「大事なものは大切に、しまっておくのがよござんしょう」
 正義感が封印されたのだ、とサージュは理解した。
 なんだか急に気が抜けてしまって、サージュはベッドに倒れ込んだ。
「ハハ、結局俺は〝正義感〞を捨てない限り、頭取あなたの為に働くことすら出来ないんですねぇ……
「それは違いますよ、サージュさん」
 自嘲気味に呟かれた台詞に、ヤーシャラージャが微笑みかける。
「あなたのそれは、捨てないために当行に預けたものでしょう?」
「!」
「失うのではなく、売りさばくのでもなく……ただ、当行に預けることを選んだ。だから、あなたが失いたくない預けていたいと望む限り、当行わたしが守り続けます。ですので安心して邪道を歩いてくださいね」
 それに、と悪戯が成功したような笑みを浮かべて、ヤーシャラージャが告げる。
「サージュさんの正義感も、当行を営むために有用な資産の一つですから。そういう意味でも、引き出したままにしておく訳にはいきませんよ」
 その台詞を聞いて、サージュは一度瞬きをする。
……どちらかというとそちらが本音では? ですが、そう割り切って貰った方がありがたいですね。……本当に、あなた方には敵いませんよ」
 己を諭すようなヤーシャラージャの言葉が3年前と重なり、サージュは懐かしさを胸に目を伏せる。
 ここに敵はいないと安心したからか、血を失い過ぎたのか、はたまたそのどちらもか、目を閉じた途端、ひどい眠気に襲われた。
「おやすみになられますか?」
 包み込むような、ヤーシャラージャの優しい声がする。
 なんとか返事を、したつもりなのだけれど、出来ているのかは分からない。
……サージュさん。私より先に、いなくなったらダメですよ」
 未だ幼い夜叉の王の、ささやかな命令に顔を綻ばせながら、サージュは眠りについたのであった。