トーキョー・ブルーサマー

pixiv再掲
鷲このも含まれます、ご注意ください。
本誌で絡み(一緒に立ってただけだけど…!)のあった花巻くんと木葉くんが、仲が良かったらいいなあという妄想から生まれました。お互いの彼氏と喧嘩して、受け同士が慰め合うお話…花+こののつもりで書きました。

 流れ出る人の群れは地下鉄の入り口からわらわらと這い出し、それぞれの目的地に向かっている。俺は目的地が無いから、何もないからっぽな中身をごまかすように、さも予定があるフリをしてチカチカ光る夜の街の明かりを通り過ぎる。
 本当に、からっぽだ。仕事は今あてもなく、良さそうなところをハローワークで見つけては面接をうける日々。友人も後輩も、今は側にはいない。唯一慰めてくれる恋人にはあと一週間先まで会えない。それも遠距離だから、またすぐに離れなければならない。
 焦ってはいる。でも、この空洞ができた気持ちを共有できる人はいない。はあ、と空へ紡いだため息をひとしきり三度は押し出して、今日はそんなわびしい気分を振り切ろうと酒を飲みにやってきた。

 ──週末。騒がしい街、東京。どうしてここにいるのか。それは俺が、上京という言葉に安易に憧れて飛び出したからだ。やりたいことも定まらず、大学を出たらすぐさま東京へと気持ちをはやらせた結果、ブラック企業の職場戦線に負けて辞職。同期は皆、早々と目星をつけて次なる活躍場所で腕を奮っている。誘われもした、「花巻なら絶対一緒に良い方向へ行ける」と。でも俺には、常にチラつく恋人の背中があった。
 宮城にいつかは帰りたい。ずっと東京砂漠で枯れていくことはしたくない。恋人は「いいじゃない、離れてるって言っても、陸続きではあるんだから」と呑気なもんだ。それは相手も、男だから。結婚ができないのなら、細く長く、ゆっくり続けることが最優先だと恋人は暗に告げているのだ。
 あいつは生き急ぐなと言う。俺は生き急ぎたいと言う。電話越しに喧嘩して、もう四日経った。最後に聞いた恋人のセリフは、「じゃあ何で東京へ行っちゃったの?」だ。
 俺は子供だ。憧れの街の光を追いかけて、まわりが巨大なビルとひしめく人で埋まった時、夜にまたたく星が見えていた田舎の空をどんなに恋しく思っても、自分が選んでここに立っているんだというちっぽけなプライドが邪魔をする。謝るのはこっちなのに、俺から電話をかけることができないでいる。スマホはあれから鳴らないし、簡単なメッセージさえも来やしない。
 まつかわ。
 咽び泣くような千切れる声が、心の中でこだました。ぐっと涙を堪えて歩き出す。
「一週間後に行くよ」と言ってくれたあの柔らかいふわふわの甘やかす声は、もう聞けないんだろうか。
 飲み屋のドアを開く音がして、自分がどうやらヤケクソ気味に適当な飲み屋に入ったことがわかった。そこは半分ほどの席が埋まっていて、これから繁盛しそうな雰囲気。ハッピーアワーで安いビールを頼んでカウンターに座ってみれば、お通しで出された枝豆が少し乾いていて嫌だった。仕方がない。懐の寂しさからか、ビールなのに景気良くぐいっと飲めず、ちびちび口をつけていると、カウンターの端の席で、何やら電話で喋る男がいた。
「だからっ……ああ、わかったよ。もういい、切るからな」
 口ぶりが荒くなったと思えば、最後にはムスッとしてスマホの画面をタップして通話を終わらせた。その細い目をさらにきゅっと吊り上げて怒っている男は、ビールの二杯目を注文する。あっちも乾いたつまみを今更目にしたらしく、ますます顔が渋くなってる。
 俺は思わず、ぷっと吹き出して笑う。
 俺と一緒だ。そう思ったら、バチッと目が合ってしまった。
「あ、ごめん……お通し、ひどいよな」
 こそっと店員に聞こえないように言うと、キョトンとした顔をした男は次の瞬間気が抜けたみたいで、「ほんとよ」と流暢な、東京訛りの言葉で言う。
「俺そんな顔に出てる?」
「うん、コロコロ変わるの面白い」
「よく言われる」
 あいつに。
 そう言いかけて、男はハッと取りつくろう。多分あいつって、さっき喧嘩してた相手のことなんだろうか。そうでなかったらこんな怒った顔しない。
……喧嘩?」
「んー……まあ、滅多に無いんだけどな……
 ぶつくさと呟いて、俺の席に一席分近づいた。金髪の、丸い頭で前髪のすっきりした男は、高校の時の俺の髪型と少し似てる。
「付き合い長いから、わかってるつもりだったんだけどな」
 カウンターの椅子に改めて座り直して、ビールを傾ける。お通しはまずいけど、ビールは良く冷えていて美味い。俺も同じように喉を潤して、相手の薄い唇についた泡が、舌で舐め取られるまでを見た。舌は小さくて赤くて、先が尖っている。
「長い付き合いって、どんくらい?」
「高校から」
「へえ、すごいな」
「高二の、秋にな。俺、名前『秋紀』って言うんだけど、何か……それにちなんでさ」
 へらっと笑うこいつもお相手も、ずいぶんロマンチストなのかもしれない。
 それにてっきり彼女だと思って聞いていたけれど……何となく、こう、秋紀と言った男は、他人を抱いているような印象を持ちづらい。失礼だとは充分承知してる。
 細い体の線、糸のように華奢な金色の髪、切れ長の狐目は時々小さな黒だけをこっちに向けるけど、それがつるりと俺の全身を眺めていってまた正面に戻る仕草は、色っぽさもあるし、おそらくは「鑑定」に近い視線の動きだ。同族なのかどうかの。
 だから俺は、唾を飲んで爪先を一度揃える。体を縮こめて自分を守るように姿勢を丸めたかったけれど、席の作りがそうはさせてくれない。それはきっと、相手も同じだ。
 自分の恋人が、男であるということを暴かれる瞬間は、いつだって肝が冷える。どんなに世間が、ずいぶんマイノリティに優しくなったとしても。
 探り探りの会話にゾクゾクする。
「秋紀、から告白したの?」
「いや、あっちから」
「ふうん……最初から、喧嘩少ない?」
「そうだなあ、あいつ、ほんとにいい奴だからわがままなの俺の方かも」
「はは、いつも聞いてもらってんだ?」
「結局な」
「近くに住んでんの?」
「遠い。長野だぜ」
 応酬される文章の中に、薄い薄い疑いと好奇心を織り交ぜて。ビールはすっかり底をついた。ほんのり赤い頬をしたまま、「遠距離、大変だな」と俺がまるで他人事のように言う。
 秋紀は、ジョッキについた水滴を人差し指で掬い取りながら、ぽつりと言う。
「離れてたら、どんどんあっちが知らない奴になってくみたいで……怖い」
 ぎゅうっとその言葉にやけに締め付けられた心臓は、やはり松川のことを思い出させた。
 スーツが似合うようになった。夜に電話をしていても、知らない単語が出てくるようになった。固有名詞を出されて、それが人間であれば、女性かそうじゃないかをすごく気にするようになった。たまに送ってくれる画像の中に、きれいな爪や手入れされた肌が写っていないかびくびくしながら見ていた。
「宮城は美人が多いから」俺が働いていた頃に出身地を述べた時、上司が行った些細な一言である。それだけで俺はぐらりと歪んでしまうくらい不安だった。
 美人と歩く松川は、どんなに絵になり格好がつくだろう。
……怖い、よな。うん」
 秋紀の言葉が噛み砕かれて体の中に溶けていくのに、ちっとも時間はかからなかった。むしろその「怖い」というセリフは、氷菓子みたいに内側にじんと甘い痺れを起こす。
 もしかしたら、もしかすると。
「俺も、その……遠距離の奴がいるんだけど。今、喧嘩中で」
「え、そうなの?」
 傾けたビールを律儀に置いてくれて、秋紀はびっくりした顔をした。うん、と頷く俺の声と、ジョッキを置く音は同時だった。
「お前んとこのは? どこにいんの?」
「宮城。地元に残って就職しててさ、俺はこの間働いてたとこ、辞めちまって」
 相づちに、するすると乗せられる。初対面なのに、いや、初対面だからこそ今夜だけの仲だろうから饒舌じょうぜつになる。きっと忘れてくれるだろう。そんな安直な考えで秋紀に吐露する気持ちの良さは、俺が長らく求めていたものだ。
「こっちは再就職で焦ってて、あいつはそんなの気にするなって言ってくれて……でもカッコ悪ぃし、早くちゃんと、対等になりたくてさ」
 うん、うん。共有するたびに秋紀は静かに頷いてくれる。そのたびに、さっき感じた甘い痺れは俺の胸を震わせる。
 もしかしたら、もしかすると。
 切実に、俺は今、共感を求めていて、そして摂取している。こんなに「誰かにわかってほしい」と渇望してるなんて、一体俺はいつから寂しさを埋められていなかったんだろう。
「ごめんな、何か、うまく言えなくて」
 さっきから文章がでたらめで、いい加減な作りでしか話せない。「いいよ」と言う秋紀のなめらかな口調は、松川の肯定とはまた違う、穏やかな気持ちをもたらしてくれる。
「高校の時の部活の奴、もっと喋り方めちゃくちゃだったから」
 はにかむように笑った顔は、秋紀を少年に戻した。
「何やってた?」
「バレーボール。主将やってた奴が、おかしくて」
 思い出してふふっと笑う秋紀に、「俺もバレーだった」と伝えれば嬉しそうに破顔した。高校、どこ? うわ強いとこじゃん。ひとしきり盛り上がる話題は、懐かしさと切なさを生んだ。その話には松川の存在が不可欠だからだ。繰り返し話すたびに、会いたくなる。もどかしくて身をよじる俺は、きっと秋紀に不自然に映っている。
 そんな気持ちがダダ漏れだった俺は、ついに秋紀に攻め込まれてしまった。
 ミドルブロッカーの奴がさ。そう口火を切ったら、こいつは周りをキョロキョロ見て、その後に俺に「耳貸せ」とジェスチャーだけで合図する。
 騒がしい店内は、いつの間にか満員だった。客同士は近いしカウンター席も混んできた。がやがやとうるささすらある。内緒の話は普通に話しても聞こえなさそうだけど、秋紀が警戒して耳打ちしようとするということは、きっとよほどの秘密であって、それはおそらく俺と同じ秘密なんだと確信する。
「なあ、遠距離の相手って、そいつ?」
 体の熱が上がるのを感じる。それは耳元で触れた秋紀の息が、長年閉じられているピアスホールにかかったからかもしれない。俺はこくりと頷いて、こいつの細い指先が、自分の顔からそっと離れていくのをつい目で追いかけてしまった。
「俺も、そうなんだよね。同じ部活の、奴でさ」
 そいつもミドルブロッカーだよ。
 そう言われて、思わず俺は心のどこかが、決壊したようにとろとろと崩れていくのがわかる。そのぽっかり開いた口に放り込まれた氷菓子は、ひどく甘い。
 秋紀になら、話せるんだ。そういう弾んだ気持ちが溢れ出て、俺は感動してしまう。今までマイノリティな関係でさらに悩みなんてわかってもらえることが本当に限られてる内容だっただけに、ここまで境遇の似通ったところのある人間に出会えることは、ありがたかった。
……うち、来る?」
 秋紀の誘いに、俺は間髪入れずに頷いた。大衆がいてまずい飯をここで食べるよりも、二人だけで気に入ったつまみを持ち寄ってひっそりと話したい。共感という名前の甘い痺れを、もう少しだけ食べていたい。ポケットに入れておいた財布からそれぞれ札を取り出して、会計へ急ぐ。

 思いの外、秋紀の住むマンションは飲み屋から近かった。俺が住んでる場所とあまり変わらない造りの1DKの部屋は、こぎれいに整っていて男の一人暮らしにしてはきっちりしていると感心する。そう思っていたら、「三日後にあいつが来る予定だったから。早めに片付けちまって」と照れ臭そうに言う秋紀が、缶ビールを二つ持ってきてくれた。途中のコンビニで調達したつまみや弁当をローテーブルにおざなりに広げると、箸を割って二人で手を合わせる。
 そうか、三日後。俺は床に座ってもぐもぐと咀嚼そしゃくしながら、秋紀の言葉も同時に飲み込むように理解する。
「ずいぶん直前に喧嘩しちまったんだな」
「おう」
 ソファに座っている秋紀がぽりぽりと頭を掻いて、ほんのり色づいた頬を膨らませた。かわいい仕草をしてくるこいつの彼氏が、惚れたのもわかる気がする。こいつは何だかほっとけない。だって無防備に、初対面の俺を家に上げるなんて。
 缶のまま飲み干されたビールは、冷たい喉越しのまま胃に落ちていく。レースカーテンのたなびく室内は、エアコンがなくても風が通って心地良い。体の内も外も涼しく快適な状態で、俺の頭はふわふわと浮いたようだ。
「秋紀は他の奴がいいなって思ったことねぇの?」
 差し出されたつまみの袋の口を開けた。皿に無造作に開けたチーズ、カルパス、ジャーキー。半端に口をつけながら、ビールでそれを流し込む。
「ん……あいつ以外はあんまり、ないかも」
 秋紀がつまむのは、決まって一つ、ピーナッツだけだ。塩気のついてる指先を、あの舌がぺろりと舐める。
 今日着ていたであろうスーツがハンガーにかかって干されている。あれを着て仕事をしている秋紀と、仕事のない俺。一つの物に集中して食べるこいつと、色んなものを適当につまみ食いする俺。前髪の短いこいつと、長く伸ばした俺。まだまだわからないことだらけだけど、今のところ正反対の俺たちなのに、選んだ恋人は似通っている。
 そして同じく、今の恋人以外の奴を考えられない、というところも。
……俺たち、似てるな」
 秋紀の膝に頭を乗せた。そんなことをしても、怒られないような気がした。
 案の定秋紀は怒らない。さらりと髪を撫でてくる。二人でそうして静かに触れ合い、風の通る窓からの涼しさを甘んじて受ける。
 ──どちらから言い出したのか。今日は一緒に、いてくれないか? と多分秋紀から先に言われた。どうりで無防備だと思ったら。最初からそういうつもりだったんだと言った後に秋紀は少しはにかんで、
「おんなじ悩みの奴、なかなかいなかったから、さ」
 思考回路をそのまま読まれたかのように、こいつの口から漏れたその言葉は俺の心をぽかぽかと暖めた。
 シャワーに入り、Tシャツとハーフパンツを借りて、先にベッドに滑り込む。酒の入った体はまだ火照っているけど、程よく冷たいベッドが足元から冷やしてくれる。
 暗い部屋で、スマホのライトが見えた。俺の方じゃない、秋紀のだ。
 通知に出てきた表示は「鷲尾」。これがあいつの恋人だろうか。メッセージが出てくる、さすがにプライバシーの侵害だから内容は見なかった。ガチャリと開いたドアから、俺と似たような格好の秋紀が入ってくる。俺は短く「メッセージ、来てる」とだけ固く言ったから、すぐに秋紀も察知して、スマホへ駆け寄った。
 ……タップする音が、真横で聞こえる。カツカツと画面を叩いて、案外すぐにスマホは閉じられた。
「俺、帰った方がいい?」
 うつ伏せで腕を枕にしながら尋ねると、頭を横に振った秋紀はすぐにベッドに滑り込んできた。
「ん、いい……大丈夫」
向かい合って囁く秋紀の顔が、目が夜に慣れてだんだんはっきりわかる。
「何か、言われた?」
 額を突き合わせれば、また頬を膨らませるから、俺はおかしくて笑った。
「ううん、全然……これからの、予定とか送ってきた」
 いわゆる業務連絡というやつだ。ふぅんと怒ったような相づちを打ってしまった俺に、今度は秋紀がクスリと笑う。
「喧嘩の後に、そうやって連絡すんの、ずりぃよな。時間経って、機嫌直ったか確認されてるみたいでさ」
「ほんとだよな」
 松川も、たまにやる手段だ。直接的には謝らないくせに、ちょっとずつ機嫌を取っていく。結局うやむやになって怒っていたことを忘れるんだけど、今回はきちんと謝ってもらいたい。
 そんなことを考えながら、ふうとため息をつくと、その息が秋紀の耳元にかかった。
「ん……
俺よりも少しだけ低い位置にある金髪が、ぱさっと枕に髪の束を落とす。ゆるい半円を描く金色は、きらりと輝く。
「耳、弱い……?」
 秋紀の耳に指で触れてみた。俺もだけど、こいつも白い肌だから、赤みが差したのが暗い中でもわかる。少し固い軟骨部分を撫でれば、くすぐったいのか身をよじる秋紀は、俺の体により近づいた。
 こっちを見つめた秋紀の顔は、唇をぱかっと開く。濡れた透明の唾液が見えて、まだ風呂上がりでしっとりしている体が吸い付くように俺にぴたりとくっついた。縮まった距離は当然顔同士も近づける。
……名前、なんていうの?」
 お前の。そう言いながら秋紀が俺の腰に手を回した。互いの下腹部が合わさって、芯をもち始めてる。ゆらり、と揺れる腰は擦れて少しばかりの快感を生む。
「貴大」
 応えれば、満足した顔で秋紀は続けた。
「なあ、貴大はさ、最後にセックスしたのいつ……?」
 背骨をさする手は、ゆっくりゆっくりなぞっていって、尻の割れ目の近くまでくる。
……いつだろ、二ヶ月前とか?」
「ふうん、貴大は……どっち?」
……下、だけ、ど」
「一緒だ」
 人肌がずいぶん久しぶりで、まどろむ意識の中で快感だけがぴくんと脳に刺激を送ってくる。触れられるところがどこもかしこも心地良くて、自然と声が漏れる。
「ごめん……俺も、誰かと一緒にいるの、久しぶりだから……
 秋紀の芯は、ずいぶん固くなってきた。
「いいよ、生理現象、ってやつだし」
「ふふ。そう言ってもらえたら助かる」
 Tシャツの上から、薄い胸が当たる。乳首がかろうじて布越しに触れるから、変な声は上がりそうになるけど、ぐっと我慢した。堪えるのは、さっき画面に映し出された、鷲尾、の文字を思い出すから。
 何となく、秋紀のことは、守ってやりたいなと思う。兄弟みたいな、そんな感覚。それはおそらく、秋紀も一緒だと思いたい。さっきから腰を触る手つきもぎこちないし、友情を超えてこない。
 きっと俺たちは、仲良くなれる。額にキスをしてやれば、応えるように秋紀が頬をすり寄せた。
 触れ合うだけで、心地良い。抱きしめ合う二つの腕は、壊れないように互いを包んで守っている。少しばかり淫らな熱が生まれているけれど、二人の間にはやがて静かな睡魔が足音を立てずに忍び寄る。とくとくと鳴る心臓が子守唄のように、互いの意識を深く眠りに落としていった。

 車の通る音がして、目が覚めた。近くの時計を見れば、朝の六時。酒を飲んだ翌日なのに、ずいぶん早起きをしてしまった。
 隣を見ると、金色の見慣れない髪。昨日の記憶を少しずつたぐり寄せれば、そうだ、と思い出す。
 ともだち、を手に入れたんだった。静かな寝息を立てる秋紀のことを、そう呼ぶのはどこか面映い。くすりと笑うと、どこかからスマホの振動音が聞こえた。
 秋紀のスマホはベッド横にある。たとえば仕事用のスマホを秋紀が別で持っていたとしても、今日は土曜の朝早く。こんな時間に鳴るなんてことはないだろう。
 だとすれば、俺のしかない。
 起こさないようにベッドから抜け出して、投げ出していたズボンのポケットを探った。案の定、俺のスマホのライトが眩しく辺りを照らす。
「松川」たった二文字の漢字は、胸の中にずしりと鉛のように落ちる。今はその文字が、ごうごうと嵐みたいに俺の内側で渦巻く。
 不在着信、一件。これまでずっと求めていた表示だ。それをなぞるように見つめれば、再度画面が振動と共に切り替わる。
 密かに撮った横顔の、お気に入りの松川の写真が表示された。すぐに出るのは腹が立つ。だけど、早く声を聞きたい。この横顔から発する声がどんなに俺を安心させるかを、俺自身が一番よくわかってる。
……出なよ」
 鳴り止まない振動を両手に持ったまま俺が座っていると、後ろから優しい声がした。秋紀の手には、同じように震えるスマホが握られてる。
「同じこと考えてんのは、彼氏も一緒なんだな」
 晴々しくて、今まで見た顔のどれよりも、秋紀に似合っている。飄々として、おもしろおかしそうに笑う顔。秋紀は部屋のドアを閉めながら、「……はい」と通話を始める。
 俺も、腹を決めた。ぐっと持ち直したスマホの画面を震える指でタップする。
……もしもし」
『花巻やっと出た』
「朝早ぇよ……なに?」
『今、新幹線のホームにいるんだけど』
……はあ?」
 俺が裏返った声を出したと思ったら、あっちの部屋で秋紀も同じように「へ?」って声を出している。それは電話口には聞こえないほどの小さい音だったから助かった。
「ホームって、お前……
『少し早い夏休み、もらえたから』
 なんてことないように言う口調は、早朝のホームにいる人のガヤガヤとした喧騒で聞き取りづらい。それでも震えるような掠れたあいつの声は、ずっと俺が聞きたかった松川の音だ。朝に弱いあいつは、起き抜けは声がみっともなく掠れるんだ。
「職場に迷惑かけてんなよ」
『大丈夫だよ、今まで休まなさ過ぎだって怒られたぐらいだし。それに』
 どこかで発車のベルが鳴る。松川の乗る新幹線が来たのか発つのかわからない。松川の声は、やや焦りの混じったものに変わる。
 それでもどこか、柔らかいふわふわで、とても俺を甘やかす。
『会いたいから』
 自分の頬が染まるのがわかる。おう、と短く応えたら、じゃあまたあとでと言われて急ぎ足の通話が終わった。
 ふんと鼻息を鳴らした俺は、秋紀の方はどうなったかを顔を上げて確かめた。
 うん、うん。と小さな頷きが聞こえた。あちらは秋紀の方が少し慌てている。わかった。と通話を終えて、部屋から出てきたその顔は、俺と同じく赤くて熱い。
「鷲尾……駅に来てるんだって。夜行バスの……
 俺に「鷲尾」という人物が誰なのか説明するのも忘れて、熱に浮かされた顔で秋紀はスマホを握りしめる。互いに顔を見合わせて、笑いが漏れるのは何秒後か。
 そして俺たちは肩を竦める。結局、二人ともまだ謝ってもらっていない。鷲尾は秋紀と喧嘩をしてから、バスに飛び乗って駅に着いたと知らせただけ。松川も、激務の中でやっともぎ取った休みの始まりを、新幹線のホームで伝えただけ。
 わざわざ迎えに行こうと腰を上げるのは、俺たちにも喧嘩の非はちょっぴりあったかな、なんて会いたい理由を折れてやることでごまかして、軽い足取りを悟られないようにするため。
 ──数十分後には、着替えを終えて部屋を見渡し、玄関を閉める俺たちがいる。慌てたせいで靴がまともに履けてない秋紀に、俺はスマホを差し出した。
 ラインを交換しようとして、だったのだけど、秋紀は軽く首を横に振る。仲良くなれたと思っていたのは俺だけだったかな、と傷つく前に、こいつは言う。
「俺、いっつもあそこら辺で飲んでるから」
 きっと俺たちは、また会える。
 そう言った秋紀は、「じゃあな」と気さくに手を振って、家の前で別れた。

 朝からすでに暑い気温は、じんわりと手に汗を握らせる。
 さて俺は残された時間、どう過ごそうか。朝飯でも食いながら、どうやって松川が現れるかを想像する? なんて言うか、考える?
 ……体の芯に宿っている、燻った熱を早くどうにかして欲しくて、すぐにベッドに誘う?
 俺は浮かれながら、最寄りの駅へプラリと足を向ける。それはスキップしそうな軽快さで、ニヤニヤと笑いながら。
 突き抜ける青空に青みがかった薄い雲は、風に流されてかき消えていった。