たかなる

黒歴史

 孝文は人生でこんなにも焦ることがあるのかと新鮮な驚きとともに、背中を冷や汗でびっしょり濡らしていた。
 目の前には今日も美人でクラブにでもいればひっきりなしにナンパされていそうな恋人、成実がきょとんとしながら孝文を見つめている。対する孝文は今日も冴えないし同じ趣味の人間のなかでしかはきはき喋ることもできない隠キャ野郎。成実に装いを見立ててもらってようやくどうにか彼の隣を歩いていられるようになる孝文は現在、とてもではないが成実の隣はおろか世間様の前に現れることもできない格好をしていた。
 いや、格好というのも烏滸がましい。孝文はパンツしか身につけていなかった。無地のグレー。
 場所は自宅。配達の人の前に出るのでもなければ自由に過ごして咎められることはないと開き直ることもできなくはないが、相手の膝に手を置いて息の一つも吹きかければハイブランドのバッグの一つや二つ簡単に手に入りそうな成実を前に、どうして左様な厚かましさを発揮できるだろうか。
 あまつさえ、状況が最悪であった。
「えー、なにしてたの?」
 くすくすとおかしそうな笑みを含みながら成実が言うのに、孝文は血反吐が込み上げそうだ。
「あ……っす……なに、してたんですかね」
 ぼそぼそ言いながら、孝文はかろうじて穿いてはいたものの尻が半分見えるほど下げていたパンツを引き上げる。
 時間は夜。渡していた合鍵を使って訪った成実。訪問はもちろん、その連絡にも気づいていなかった孝文は、彼に半ケツをバンバン叩きながら兎跳びをする姿を晒していた。ほんとうに、なにをしているのだろうか。孝文は自分でも分からない。
 分かるのは自分が恋人にドン引き必至のとんでもねえ奇行を披露したということだけだ。
「ちがうんです」
「なにが?」
 浮気が見つかった女のように意味のない否定をした孝文だが、成実から返るのはご尤もすぎる疑問。孝文が半ケツバンバンしていたのはなにも違わない。言い訳をするのなら趣味と依頼の締切が重なって追い詰められていたのだ。どうにかこうにか全てを捌き切った直後で、冷静さも理性も理知もなくしてしまっていたのだ。孝文はただのチンパンジーだった。
「あの……ドア入るところからやり直すことってできませんか」
 今から入れる保険はないだろうか。
「どうして? っていうかなんで敬語?」
 嫌味や攻撃の意図は一切なく、ただただ不思議そうな成実に孝文は居た堪れなくて仕方ない。こんなところにも自分はオタクのノリが出てきてしまうのだ。「俺のバカ!」と自分で自分を引っ叩くのだけはどうにか堪える。いきなりそんなことをすれば気持ち悪すぎる。成実から極寒の目で「うわ……」と言われた瞬間に孝文はベランダから飛び降りる。
「いや……その、疲れてて……
 疲れていたとしても、しない人はケツバンバンなど決してしない。
「忙しいって言ってたもんね。顔色悪いよ。ご飯買ってきたけど食べる?」
「神か? 口座番号教えてください。言い値で振り込むんで」
「あはは! いらないよー」
 聖母の生まれ変わりは片手に持っていた袋から惣菜や弁当を取り出す。その辺のコンビニやスーパーでは見かけない、なにやらおしゃれな食べ物ばかりである。デパ地下かしら。
「──美味しい……文明の味がする……
「ディストピア飯だっけ。ずっとあれ食べてたの?」
「いえ……そんなん作る暇もなくてぇ」
「もしかしてカップ麺とかばっかり……
「っす……
 途端、むうっと眉を寄せた成実が「はい!」と生ハムサラダを取ったフォークを孝文の口元へ突きつけるので、孝文はおずおずと口を開けて食べる。あまりにも自然に行われた「あーん」に、童貞を卒業したばかりのオタク野郎は顔を真っ赤にした。
「ねえ……まだ忙しいの?」
 せっせと孝文の口に食事を運ぶ成実からの心配は、どきどきと弾んでいた孝文の心臓をきゅうっと締め付ける。
 忙しい間、孝文は成実に連絡もまともに取れなかった。事前に忙しくなるととは伝えていたが、それにしたって恋人としてあんまりだという自覚がある。
「もう終わった……ごめん」
「んーん、心配しただけ」
「ごめん……
 労わる言葉にも、優しく頬を撫でる手にも、孝文はどう応えたらいいか分からない。
 恋というものは孝文にとって縁が薄くて、成実のようにいつだってハイテンポなジャズでステップを踏める人間は遠かった。もし成実と出会っていたのが高校であれば、教室の机に伏せて休み時間を過ごしていた孝文は成実と視線も合わなかっただろう。きっと彼は沢山の友達と明るい笑い声を心地よく響かせていた。
「もー、なに落ち込んでんの! お仕事? 終わったならこれからいっぱい遊ぼうよ。もちろんちゃんと休んでね」
 ぱし、と成実に軽く背中を叩かれて孝文は頷く。成実はうじうじとする孝文に気を遣った風もない。彼の前向きな優しさが胸に染みて、孝文は「なんでもします。足とか舐めます」と言いかけるのを舌を噛んで飲み込む。
「それと……
 成実が口紅を引いて艶々な唇ににまっと笑ませた。
 未だに一枚きりの装備。成実が孝文の股間を下着越しに撫でる。
「溜まってるでしょ? いっぱいエッチしよ♡」
 無精髭の生えた顎にやわこい唇の感触、上手なリップ音。
 汚れの目立つ無地グレーの下着が窮屈になるのを感じて前屈みになった孝文は、ひっくり返った声で「へぁい」と返事をするので精一杯だった。
 この後に浴びるシャワーは爆速で終わるだろう。