白露とリュウイさん

シャカ……

 ぐずぐずと海へ向かう夕陽が、金糸雀城の外壁をのっぺりと杏色に染めていた。
 生徒の多くは寮へ帰るか部活に精を出しているだろう校内で、白露は明日の授業に用いる資料を揃えている。古い古いものなので、複製魔法の一つにも気を遣って時間がかかっていた。私物なので緊張はましだが、他者を頼れないのもあって気づけば親鴉が山で鳴いている。
(やれ、もう帰らないといけないわねえ)
 白露は寮住まいではない。魔法で繋いだ道に距離などあってないようなものとはいえ、帰路を往くと思えば大儀になる。
 物を探すように机を撫でると、肉の落ちた彼女の手の下に塗りの文箱が現れた。蒔絵で描かれた藤を「封じ」として、白露は自分以外が見てはいけないものをしまうのに使っている。文箱より倍は厚みがある複製資料であるが、蓋を被せれば墨へ沈むように中に収まった。あとは抽斗に入れて鍵をかけておくだけ。
 研究室を出て、透かし編みの肩掛けを片手に退勤手続きへ向かう。
 ──…………シャ……
 奇異な音。
 怪訝を浮かべた顔で、白露は音色を追う。
 ──……シャ……カ。シャ……
 小豆を研ぐのに似た音は白露の後ろ、魔法の明かりが灯る直前、沈む夕陽が作るぽっかりとした暗闇の向こうから聞こえてくる。
 ──……カ。シャ……カ、シャ。
 近づいてくる。
 振り返り、針に糸を通すように目を凝らして探るも怪しの気配はなく、爪牙をきちきちと研ぎ澄ます獣の興奮もない。危機感を煽るものはない。重畳。ほとんどが帰寮しているとはいえ、ここは学舎である。危険などあってはならないのだ。
 あっては、ならないのに。
 ──シャカ!!
 その異様は影から水が溢れるように、ぬるりとして白露の前に現れた。
「ぁ……
 いっそ無防備に薄く口を開け、白露はただの音を溢した。
 全身と頭部を包む元々は生成色をしているであろう覆いは未だ灯りの灯らぬ廊下の影を引き摺るのに、覆いを突き抜け天へ伸びる角、魚影のようにゆらりとする長い尾は名残の夕陽に照らされ痛いほどの眩しさを放つ。だが、緑、赤、青。生成色に差す場違いな鮮やかさの印象たるや、比ではない。
 ぽかりと碧色の穴……に、牙。
 それが、口を開けた。
 せ ん せ い 。

 白露は研究室に戻ってきていた。「暗くなるから少しだけね」と淹れた茶は二杯。自分と、リュウイのものである。
「楽しいことをするなら賑やかにしてちょうだいな」
「『……善処する』」
 未だに滲む目尻の涙を拭う白露の前でリュウイが心底不可解そうに言うが、それすらも白露の笑いを引き起こす。
 先ほど、夕暮れの廊下に現れたのはリュウイであった。その装いは常とは異なり、乾いた風と砂の風情と陽気な情熱に燃える国の装束を纏っており、両手にはどういう経緯で持つことになったのかマラカスが一本ずつ。
 分厚い金縁の色眼鏡に立派な髭をつけるリュウイがなにもおかしいことなどないというように、いつも通りの頭に響く言葉で「先生」と呼んだので、白露はもうおかしくておかしくて堪らなかった。
 暮れる潮騒をも遠ざけるような笑い声を上げた白露に大層戸惑ったのだろう、おろおろとリュウイが手を上げ下げする度にマラカスがシャカ……シャカ……と鳴って、これにもう堪えられず白露は廊下に座り込んでしまったのだ。彼女がもう少し蓮っ葉であれば廊下を手のひらが赤くなるほど叩いていたに違いない。
「『……似合ってはいないだろうか?』」
 途方に暮れそうであっても、優しいリュウイは白露を放置できなかったのだろう。手を引いて研究室まで連れてきてくれたのだが、その間も廊下に片手に二本となったマラカスがシャカシャカと鳴るので「勘弁してちょうだい」と白露は何度もリュウイへ懇願した。一切理解してもらえず、むしろ「『女性の手を引くのは失礼だったか』」と紳士的に気遣うので、装いとの差によって白露は正しく老婆の歩みになったのだ。
「ふふ、ほほほ……似合っていないことは、ないわね」
「『ふ……だろう?』」
 得意気に浮かべられたほんのりとした笑みに合わせ、リュウイの付け髭がきゅ! と大仰に持ち上がる。
 どうやらこの装いは友人との戯れによるものらしく、その友人とどういう話をしたか、遊んだかと話すリュウイ。常であれば幾らだって聞いていたい心和やかな話であるというのに、時折加わる身振りでマラカスを鳴らし、薄い表情を象徴主義的に際立たせる色眼鏡と付け髭が白露を会話に集中させてくれない。
……また、また明日聞かせてちょうだい」
「『先生、先ほどから具合が悪いのか……? 先生の家は……』」
「だいじょうぶよ……大丈夫だから。ほら、もう暗いもの……
 震える白露がどれほど言ってもリュウイは心配の気配も色濃く、彼女が帰路への道を繋ぐまで付き添ってくれた。
……じゃあ、また明日ね…………
「『ああ。また……あ』」
 リュウイが手を振りながら鳴らしたマラカスに、どこからか飛んできた南国の鳥がのしっと止まった。
 奇しくも、白露が魔法の道へ踏み出した瞬間のこと。


「本日、白露先生が不慮の事故で遠方にいらっしゃるので、本日は授業内容を変えて──」