冬人と水樹さん

コンソメ

 コンソメというのは料理人にとって基本であり、また究極でもある。
 ひたすらに根気と神経質なまでの丁寧さがあって、やっと理想の形に出来上がる。濁らず、油の浮かない透明なスープ。
 作るのに半日を要するコンソメを、冬人は職場を借りて作っている。店で提供もするので学生時代には先輩後輩の仲であった店長が気前良く厨房を貸してくれ、時折野球場のような野次を飛ばしてくるなかで作っていた。大変に鬱陶しいが、店長の腕は確かであり冗談振った口調でも指摘は勉強になった。
 料理人としての成長は確かであったが、しかし冬人の目的は少々外れている。
「美味しい……冷えた骨身に染み渡る……
 うんうんと頷いて温かいコンソメを飲む水樹に、本日も恙なく……と冬人は安堵した。
 料理人として平々凡々、調理師免許もバイトで厨房の勤務年数が二年を超えたから取得した。そんな冬人がコンソメを一から丁寧に作り始めた切っ掛けは、水樹である。
 断じて軽くない病によって長く入院していた水樹は、退院してからも簡単には体力や身体機能が年齢平均に追いつかなかった。味付けともに管理された食事量も然りである。
 少ない量であっても一度に摂れる栄養を。
 滋養や健康を意識したものではなく、嗜好品に近い料理を提供するのが冬人の職場であり、冬人が腕を振るってきた料理である。おじややパン粥などは簡単に作れるが、栄養を求めての料理となると悩ましい。店を訪れては笑顔でカトラリーを持つ水樹を見れば、尚更。
 考えて、立ち返った基本。あらゆる料理に繋がるコンソメ。
 野菜、牛肉、鶏ガラ……ひたすらに煮て煮て煮て練ったり漉したり灰汁を掬って掬って掬って漉してやっと出来上がり。
 栄養と旨みの凝縮されたスープの出来上がりである。
 初めて水樹の前に出したとき、しれっとした顔をしながらも水樹が飲み始めるまで冬人はひどく緊張した。自分が味見したときも、店長や同僚に味見を頼んだときも悪いものとは思わなかった。だが、肝心の水樹はどうであろうか。病院で出される塩もほとんど使われない野菜を、心底美味しいと感じていた水樹である。舌や喉に引っかかりはしないだろうか。一回食べるきりの料理とは違うのだ。違ってくれればと、思っているのだ。
 ひと口飲んだとき、水樹の顔がぱっと明るくなり、まあるくなった榛実色の目がきらりと光ったのを覚えている。
「美味しい……! え、冬人さん、なに……なんですか、美味しいんですけど……
 ひと口、ふた口と飲む合間、皿と冬人の顔を何度も見比べる水樹に、冬人は背中で拳を握った。視界の端では壁に寄りかかった店長が腕を組み、訳知り顔で頷いていた。
「ちょっとー。困りますよ、シェフ。ぼくの舌が肥えちゃうじゃないですか」
 まったくもう、と態とらしく肩を上下させる水樹だが、口元は緩んでいた。
「それは困るね。水樹くんには色々食べてもらわないと」
 水樹が沢山食べられるようになってほしいと思っての言葉だったが、水樹は「まだまだ食べたいものも、また食べたいものもいっぱいあるからね。何度でも伺いますよ」とまるで会社の重役のような口調や身振りで言った。
 そういうつもりでは……と返そうとした冬人であるが、水樹の紅潮した頬を見れば無粋な言葉かと飲み込んだ。
「このスープもまた食べたいな。美味しさがぎゅっと詰まってるんだけどさっぱりしてて、濃く感じないっていうか……するする飲めちゃう」
 事戯を引っ込めた水樹に、冬人の拳からも肩からも力が抜けた。じわりと胸に満ちる喜びと、溶けるような安堵。
「うん、いいよ」
 水樹がどこへだって走り回り、興味の向くまま勢いのまま赴けるようになる助けができるのであれば、冬人は出来うる限りをしたいと思うのだ。
「やった! 約束だからね!!」
 力強く水樹が持ち出した「約束」に未来を感じ、冬人は頷いたのだ。
 ──そうしてせっせとコンソメを作って何度目か。
 ある日、冬人の自宅で深刻な顔をした水樹が言い出した。
……シェフ……家でも、このスープが飲みたいです…………
 テーブルの上で組んだ両手に顔を伏せ、まるで祈っているようにも苦悩しているようにも見える姿。思わず冬人は吹き出した。
「うん、いいよ」
 冬人の返事を聞き、水樹はゆっくり立ち上がってゆっくり両手の拳を上げる。冬人自身が普段からしているままに、凍らせてジップロックに入れたコンソメを見た水樹が宇宙へ打ち上げられるのは、夕方を過ぎてのことだった。