こいみる

出会いとその後

「こっちはお金払ってんのよっ? バカじゃ話になんないから上司出しなさいよ!!」
「本件の担当は私ですので……
 役に立たないカスハラ対策マニュアルに則り対応し続け今日だけで何度目か、最後まで吐き捨てられた暴言に耳を痛めながら、綴はやっと終業時間を迎えて帰宅が叶った。
 灯りを点けた部屋は雑然としている。しばらく掃除ができていないし洗濯物も溜まっている。今朝は洗い物も間に合わなかった。夕飯……食欲すらない。鈍麻した脳が片付けねばならない家事を列挙するも、壁に寄りかかる綴はそのどれもに行動できないままスマホをだらだらと眺める。
…………レンタル彼氏」
 表示されたサイトの下部で、電子書籍の広告がレンタル彼氏を題材にした作品を紹介している。
 レンタル彼氏という言葉だけは綴も知っている。店を介した相手と疑似恋愛を楽しむものであったと思う。常であればいまのまま「そういうものがあるのは知っている」に留まるであろうが、綴は重たいまばたきをしながら詳細を調べた。比べるように出張ホストについても出てきたが、違いは性的なサービスの有無。一般的にレンタル彼氏の場合は接触も随分制限があるようだ。
 ふうん。へえ。
 まともに頭が回っていれば電子広告など留まることなく流れていただろう。
 綴は疲れていたのだ。

「小絲さんですか?」
 あの後、綴はぼんやりしながらレンタル彼氏のサイトに登録し、回らない頭で選んだキャストの予約を取っていた。我に返ったのはキャンセルができなくなってからで、後悔混じりの緊張に強張りながら綴はキャストとの待ち合わせ場所に立っていた。
 待つといっても大した時間ではなかった。綴はかけられた声にぱっと振り返るが相手は想定よりも背が高く、まず見えたのは顎先。
 必然、視線を上げて相手の顔を見た綴は、咄嗟に「誰かとお間違えではありませんか?」と言いそうになった。
 ──ドえらい美形が立っていたのだ。
 髪は色素が薄く軽やかに小さな顔へかかり、硬質な輪郭のなかにははっきりとして印象深いパーツの一つひとつ。特に切れ長の目は睫毛が目尻にかけて長いためか際立って見えて、華やかというにはどこか物憂い美々しさがある。
 前方に見つければ横切った後も振り返って見つめたくなるような、当世風の美青年であった。
 こんなに格好いいひとの時間を自分は買ったのか。お金を払っただけで叶っていいのだろうか。綴は放心する。
「あの……すみません、人違いでしたか?」
「っいえ、ぼくが小絲です。すみません、びっくりして……
 青年が眉を下げて確認するので、無意識に息を止めていた綴は慌てて返事をした。声も格好良かった。
「よかった。水松町です。今日はよろしく」
 物憂い雰囲気をコロンのように香らせながら、水松町が浮かべる笑みは存外やわこい。その左目側、睫毛に潜むような泣き黒子を見つけた綴は、喉をく、と押されたように瞼を痙攣させた。
「はい……よろしくお願いします」
……せっかくデートなんだから敬語やめないっすか?」
 当たり前のように出てきたデートという言葉に綴は水松町の顔を凝視し、彼が「あ、嫌なら全然……」と言葉を引っ込めようとするのを首を振ることで止める。元々恋人であるように振る舞ってくれるキャストもいるというが、ネットで読んだ体験談は大袈裟に盛られていると思っていた。
「ううん、そのほうがいい。えっと、こういうの初めてだから緊張してて」
……俺も」
 水松町が斜め下に目を逸らす。
「俺も、緊張してる」
(初手からここまでのサービスあるんだ……
 水松町は疑似恋愛に慣れたキャストなのだろう。
 ──水松町がキャストだと意識しなければ、跳ねた鼓動を無視できなかった。

 繋いだ手を見る。指を絡めた恋人繋ぎ。
 少しだけ力を込めれば実貴の顔がぱっと綴を見て、照れたようにうっすらと頬を染める。実貴は格好いいけれど、可愛いひとでもあった。
「無事に試験終わってよかったね」
「無事かは分かんないすけど……
 実貴は難しそうに眉を寄せるが解放感はありそうだ。彼は大学生で、ほぼ最近とはいえ社会人になった綴とはまた違った忙しさがある。直接互いの予定を擦り合わせられるようになっても、今日会えたのは久しぶりのことだった。繋いだだけといえばそれまでだが、絡めた指一つひとつも離し難い。
「小絲さんも忙しかったんすよね? 体調とか……大丈夫?」
 窺う実貴の声に心配の色。
「ありがとう。ちゃんと食べてたし睡眠も摂ってたよ」
 仕事関係で顔色を悪くしていた綴を知っているので、会うまでに間が開くと実貴は心配そうに、時には泣きそうな顔をする。顔色や体型に変化がないか窺っている実貴を、綴は心配性だと流さない。
 以前から、会う回数が増えてから、不安や戸惑いを見せるようになった実貴が綴にとっては愛おしいのだ。それは決して仄暗い喜びではなくて、彼が後ろ手に隠して守っていたものだと分かるようになったからだ。
「それならいいけど……俺と会うのに無理してたら嫌だから」
 実貴のぽつぽつとした呟きは本音もだが、きっと嫌われたくないという気持ちもあるのだろうと綴は思う。そんなことはないのに。実貴自身もそんなことはないのだと自信を持ち切れていないのは、自分の不甲斐なさだと綴は一層の努力を決める。
……あのね!」
 考えて、一拍。綴は繋いだ手をぶん、と大袈裟に振った。
「わ、ッと」
 つんのめることはなかったが、勢いにつられた実貴の肩がとんっとぶつかった。実貴が体勢を直す前に合わせた視線。
「会いたかった。水松町くんに早く会いたくて、待ち遠しくて、そればっかり考えてた」
 嘘なんて一つもない。阿る世辞など欠片もない。
 恋人に会いたかったと、大好きなのだと伝える言葉のどこに本音以外があるだろう。
 丸くなった実貴の目がばちっとまばたきをして、やがて和らいだ笑みの形に変わる。
「俺も、俺も会いたかった」
 ぎゅうっと握られた手を離す気はない。実貴も離されるなんて考えていないだろう。そうあってほしいし、頬を染めながら浮かべられた笑みに信じている。
「どこ行こうか……少し歩いてもいいし、先にご飯食べる?」
……せっかくデートだから」
 照れたときほど小さくなる実貴の声を零さぬように、綴は「うん」と頷き彼をじっと見つめる。
…………ふたりきりになりたい」
 言い終えて、耳まで真っ赤になる実貴の頬に手を添える。
「うん……ぼくも。ぼくもふたりきりがいいな」
 実貴は格好良くて可愛くて、綴の愛しい恋人なのだ。
 ──実貴が恋人だと実感すれば、彼の唇への口付けに我慢はいらなかった。