白露と瑞冥さん

先生なふたり

 古き歴史を持つものは、辿れば自然と現存する資料は乏しく、また風化を伴う。
 手書きによる筆致の差異、複写に伴う誤字による意味合いの変化。皮肉なことに、原本から離れるほど現存は易くなる。
 現在では印字機で打鍵することで筆致の概念もなく文字は統一され、円筒、木版、活版……印刷という技術も洗練されていった。
 白露は襤褸同然の絹、木版による「書」を手に、懐かしさも覚えぬ古を辿る。蔵書家である彼女はその実、揃える資料の形を本に限らない。そも、白露の感覚として、紙を綴じたものは近年の発明である。
「あら……
 硬く綴られる風光明媚のなかに知った文字、種族の名。
 土地が違えば、民族が違えば、山ひとつ川ひとつ挟んだ向こうと手前ですら変わる口碑は、長い年月を経ても白露が知るものと重なる部分があった。
「確かに……平和と調和を尊ぶ方ね」
 ほほ……と袖に隠した口元に笑声ひとつ。白露は同僚の顔を思い浮かべた。

 鳴神の大音声。
 飛び上がる生徒が何事かと振り返るなか、近くを通った白露は「あれまあ」と呑気ともいえる顔をした。
「あなたというひとは……!!」
 発生源は運動場、ひょい、と覗いてみれば常は気性穏やかな瑞冥が眦を吊り上げている。目の前には縮こまる生徒がいて、なにやら煤けた箒を縁とばかりに抱きしめていた。どうやらやんちゃを仕出かしたらしい。
 その時点で白露は微笑ましさを覚える。
 勢いは烈火の如き瑞冥を見れば「まあまあ」と取り成し生徒を庇おうとするものも現れそうであるが、瑞冥の口から出るのは生徒の行いがどのような危険に繋がるか、それを防ぐためにこそある規則の必要性、なによりも生徒を案じたものである。根本に触れれば、瑞冥が守ろうとしているものが見えるように白露は思うのだ。
 生徒にはその余裕もなさそうであるが「今」はきっと「いつか」に繋がるだろう。
 されど、それは傍目が見るに過ぎない。
「──ですから、厳しく言いすぎたかもしれないと……
 ため息こそ零さないが悩む色を含む様子の瑞冥は、まずはひと息、と白露が置いた茶を飲んで少しばかり肩から力を抜いた。
 約束していた本を受け取りに、白露の研究室へやってきた瑞冥がどうにも桂の眉を寄せがちであるので、茶に誘いそれとなく水を向ければやはり先ほどの出来事を話し出す。
 その場で激すれど、平素の瑞冥は温厚だ。両極端な性質に瑞冥は時折思い悩む姿を見せる。
「怪我をしそうだったのでしょう? それも、周りを巻き込んで」
「はい、とても危険な行為でした」
 断ずる声はきっぱりと、黄玉の目がゆらりともせず光る。
「では、必要なことをなさったのね。瑞冥先生が叱らなければ、この先も怪我を負っていたかもしれないわ」
 元より白露はそうと思っている。
「ですが、随分萎縮させてしまって……もう少し穏やかに教えられたらと」
「教えたいものを伝えるのは難しいわねえ。十を説いても一受け取られるかも怪しいもの」
「そうですね……今回もですが、よく実感します。どうすればいいのか日々悩んで止まない」
 うんうん唸る瑞冥の姿をこそ、白露は生徒に見てほしくなる。
 ねえ、あなたたちの先生はいつだってあなたたちに心を砕き、傾けている。
 だからこそ、白露は瑞冥に気付いてほしくなる。
「瑞冥先生は生徒思いな方ね」
 ──あなたの厳しさは、千鈞の重みをも超えるのよ。