フォンタラ

海とサイダー

 船室を出て、まず感じたのは眩しさであった。
 頭上に高らかな海鳥の声を聴きながら降り立った白亜の街。
 フォンソはタラッタとふたり、大聖堂から遠く海に囲まれた古い街へ来ていた。
「疲れはない?」
「大丈夫だ」
 晶晶と目を輝かせるタラッタを見て、フォンソは口元を綻ばせる。目的地をここに、海辺に決めたときからタラッタはただ旅に出るという以上にそわそわと期待を膨らませていた。タラッタのコレクションのなか、絵画では海を題材にしたものが多かったのをフォンソは覚えている。
「先に浜辺のほうへ行こうか」
「いいのか?」
「もちろん」
 そのために来たのだから。
 肘近くからオリーブ色へと変わるタラッタの手を引いて、フォンソはもう一度「行こう」と繰り返す。広く海を見渡すのに船着場は雑然としている。
……ああ!」
 弾んだ一歩を踏み出すタラッタに合わせ、結い上げられた彼の髪が揺れた。

 路地裏さえも明るくなるような白塗りの建物が並ぶ街を進み、断崖の下にある浜辺へと向かう。フォンソが壁に描かれる幾何学模様に興味を向ければ、タラッタも一つひとつ異なる模様を見て時折振り返っていた。
……欲しくなった?」
……以前なら、な? フォンソはどれが好きかと思って……
 目を細めながら窺ってくるタラッタに、改めてフォンソは己の癖を自覚する。好ましいかどうかよりも、歴史的な由来を、文化的な意味を見てしまっていた。フォンソはタラッタのように興味ある対象に豊かな情緒や純粋な感性を向けるのが遅いし、彼がいなければまだまだ多くを通り過ぎてしまう。
「そうだね、私は……いや、あとでゆっくり見て回ろう。付き合ってくれるかい?」
「当然だ」
 力強く頷くタラッタがそのままトン、と肩を寄せた。気温は高いが、からりと乾燥した気候は日陰の道を寄り添って歩くのに心地良い。繋ぐ手の指同士を絡めるのにも。
 途中、マスティハの栽培される区画を抜ければ、細波の音が近くなる。
 絶壁を下るような急勾配──空よりも青く透き通る海が広がった。
 乗ってきた船では船室にいる時間のほうが長かった。やっと存分に見渡すことのできる海に、タラッタは僅かに上気した顔を上げたまま急な斜面を下っていく。流石の身体能力であった。
 タラッタがひと足早く浜辺に足跡を残すのに続き、フォンソは彼が自由に歩けるよう手を放す。
「フォンソ?」
「行っておいで」
 途端、無言でじいっと見つめられ、フォンソは苦笑した。
「私もちゃんと行くよ。タラッタくんが好きに歩き回りやすいかと思っただけ」
 他意はないと納得はしたようだがタラッタの表情は僅かにむうっと不満の色を帯びて、フォンソが放した手は彼によって繋ぎ直される。
「このままのほうがいい」
 先ほどまでよりも強い力に、フォンソは一瞬だけ強く目を瞑った。
(この子はどうしてこんなに可愛いんだろうね……
 愛し上手で愛され上手。
 たとえば、一歩でも離れれば腕を掴んで引きずり戻すような束縛をしたとしても、タラッタは喜ぶのだろうとフォンソは想像できる。
……波のところまで行こうか」
 フォンソが手を引けば満足そうに、ぴたりと身を寄せてタラッタも歩く。砂浜に並ぶ足跡は途中で裸足のものに変わった。
 近づくほどに光を乱反射する波が眩しい海は、季節もあってか足が浸かる程度の場所であれば温かい。足裏の砂も柔らかく、ぼうっと立っていれば安らぎを覚えた。
 ぱしゃん。
 蹴らずとも打ち寄せる波ははしゃいだ音を立てる。
「そうだ。ここにある神殿の遺跡に一応行かないといけないんだが……
 異教の神話の名残。旅の口実のために、大聖堂ではそれらしい報告書を出す必要がある。
「フォンソが行くなら俺も行く」
 海へ急いだときのような興奮のないタラッタは、どれだけ貴く壮大な歴史と価値あるものであっても、朽ちた残骸には興味がないのだろう。フォンソもタラッタが然して興味を持っていないのを承知で訊いたし、自らも熱心に調べる気はない。もう、その必要はない。
 所詮「仕事」はこじつけたに過ぎず、この旅はタラッタとともに満喫するためにあるのだ。
「きれいだな……やはり、絵じゃ敵わない。フォンソと来れてよかった」
 青々とした海の水平線まで見つめたタラッタは、手に入れることの叶わぬ海に目を細めながら片足でフォンソへ波を送った。やわく、くすぐったい波であった。

「あ、美味しい」
「マスティハが使われているんだったか? 初めて飲む」
「この島でしか生息していないらしいからね」
 ふたり岩場に腰掛けながら、近くの店で買った炭酸水を飲む。樹の香りが口の中でぱちぱちと弾けながら広がる炭酸水は、この街でしか飲めない。
「いつか、真珠と呼ばれている海辺の街にも行こう。この街は白と青でできているが、あそこは白と赤で……フォンソにも見せたい」
 海風に結った髪をまばらに散らすタラッタが楽しそうに言う。
「いいねえ、楽しみだ。タラッタくんが言うなら相当だろう」
「ああ、フォンソもきっと気に入る」
 にこにこと笑うタラッタの笑みを遮る前髪が鬱陶しく、雑に掻き上げながらフォンソも偽りのない期待を込めて微笑んだ。
 世界は陸地だけではない。海の上、海の底、きっと見渡し切ることはないのだろう。炭酸水に浮かぶ気泡と同じく、時代の先々で新しいものも生まれていくのだ。
 フォンソは海に向かって瓶を透かし、そのままぐっと呷った。
 それは、タラッタと過ごした今日を飲み込むように。