秋麗

鰹飯

 身を炙るような暑さが続いていた。
「俺、ほんとうに手伝わなくていいんですか?」
 台所へ向かう秋仁の背中へかかる声。
 気怠げな顔でソファで横になっている麗を振り返り、秋仁は苦笑してから彼のもとへ戻る。
「いいから。できたら呼ぶ」
 くしゃりと撫でた頭は片手で掴めてしまいそうなほど小さく、辿った頬は以前よりもやや薄い。人間は昼行性であるし、真夏は陽が昇っている時間以外でも体調に気をつけなければならない。最近の麗の様子に秋仁は「夏バテだ」と彼へ休むように言葉を尽くしていた。
……はあい」
 少しの不満と、期待。秋仁が家事をする横でなにもしないでいるのは落ち着かないが、幸いにも麗は秋仁の作る飯を美味いとも思ってくれているようだった。
 秋仁としては体調が悪いときくらい堂々と甘えてほしいのだが、麗のしたい甘え方は上げ膳据え膳に世話を焼かれることを指すのではないのだろう。分からなくはないが、体調不良の自覚を持ってほしいとも秋仁は願っている。
 小さくため息。
 雑に袖をまくり、炊飯器のスイッチを入れた。流しで手を洗ってから取り出すのは大葉、生姜、茗荷。千切りにして水にさらして笊にあけ、鍋に砂糖と醤油、出汁と日本酒を適当に合わせて軽く煮る。この家に料理酒と味醂はない。麗は初めて醤油や酢と一緒に清酒の一升瓶が並んでいるのを見て呆れていたが、奉納された日本酒のお下がりが多いだけで秋仁に台所での立ち飲み習慣があるわけではない。
「いい匂いしますね……夕飯の匂いだ」
 一人横になって待っているのはやはり嫌だったのか、作ったタレに鰹の中落ちを放り込んだところで顔を出した麗がすん、と鼻を鳴らして、嬉しそうな、ともするとこどもっぽいともいえる表情を浮かべた。窓の向こうはまだ明るいが夕焼けの赤に眩しさはなく、建物は壁面を葡萄色にしている。ほんのりと甘辛い醤油の匂いを外で聞けば、家路へ急ぐ気持ちになるだろう。
「味見するか?」
「します」
 即答。
 あ、と開けられた麗の口元に、タレの絡んだ鰹を乗せた木匙を持っていけばぺろりとひと口。
「飯と混ぜるんだが……大丈夫そうか?」
「美味しいです。このまま食べたいくらい……おつまみ?」
「飲むな。もう少し手を加えるともっと美味くなる」
「じゃあ我慢します」
 聞き分けよく頷くものの、少し離れるだけで麗は台所から出ようとしない。
 無言で見つめる。見つめ返される。
 数秒の沈黙。
……せめて、座っていてくれ」
「はあい!」
「病人のくせに……
「病人じゃないですよ。秋仁さんが過保護なだけです」
 ふふん、と得意げな麗の笑顔に、秋仁は短く息を吐く。安堵によるものだった。

 青葱の散った鰹飯はしっかりとタレを煮詰めながら混ぜたご飯に味が染み渡り、香り高い薬味と合わさって非常に食欲を掻き立てる。
 実際、大きなひと口を運べば甘辛い飯にはタレが染み込みねっとりとした鰹の旨みたっぷりで、薬味の爽やかな香りがくどさを吹き飛ばすので続けて何度だって食べたくなる美味しさであった。それこそ、細くなった食も戻っておかわりしたくなるような。
「茗荷っていい香りですね。美味しい……
「あまり食わんか?」
「そう、ですね……そんなに食べた記憶ないかも」
 記憶を辿るように視線を彷徨わせた麗がうん、と頷く。
「でも、これすごく美味しいからまた作ってほしいです」
 小さな口に鰹飯を頬張ってにこにことしている麗に、好物になったならなによりだ、と秋仁はゆるく微笑み、表面をかりっと焼いた厚揚げに箸を伸ばす。
「じゃあ、鰹が旬のうちにな」
「うん……はい」
 でも、と麗が続ける。
「今年じゃなくてもいいですよ」
 茗荷と胡瓜の酢の物を食べながら、麗が「ね?」と首を傾げる。
「毎年作ってくださいよ……う、ちの風物詩に」
「うち」という音には不自然な抑揚、照れて視線を揺らした麗が「酸っぱい」と随分遅れて頬を押さえる。その仕草は素人目にも演技で、だからこそ彼の素でありのままの姿だ。
 来年、再来年、五年、十年……いつか麗は当たり前に「うち」と言うようになるのだろう。
……分かった。では、来年も作ろう」
「約束ですよ?」
「ああ」
 秋仁はその日が来るのがとても、とても待ち遠しかった。