冬人と水樹さん

晩夏

 八月の末、天気予報で知る気温は上がりこそすれ下がる日を見ないというのに、うなじを灼く日差しが幾分和らいだように感じるのは錯覚だろうか。
 コンビニを出た冬人は冷い空調と地面から這うぬるい風に挟まれて、重たげなまばたきをしながら首筋を手の甲で撫でる。レジ袋が音を立てた。
「お、わ……
「大丈夫?」
 隣から聞こえた慌てた声と乱れた足音。冬人はぱっと顔を向けた。
「ん、大丈夫」
 風で飛びかけたのだろう、脱げかけたバケットハットを外した水樹がひらひらと手を振る。夏になる前は生っ白いという言葉の浮かぶ肌の色をしていたが、気づけば彼の腕は随分と日に焼けていた。バイトで鍛えられているのもあってか以前よりも筋肉がついたようだし、雑に前髪を掻き上げる際に見える一瞬の無表情は意外にも男らしい。
(意外は失礼か……
「なにかあった?」
「いや……夏も終わりそうだなって」
 被り直したバケットハットの下で水樹の目がさっと上を向き、淡い色の虹彩が晩夏の赤い夕暮れを帯びる。
……まだこんなに暑いのにねえ」
「明日はまた三十五度超えるらしいから……出かけるなら気をつけて」
「それは冬人さんもでしょ。気温だけ聞くと夏終わると思えないなあ……
……まあ、蜻蛉も飛んでるし」
 レジ袋を腕に提げたまま指をさしたのは、頭上で滞空する赤い蜻蛉。名前は知らないが、秋が近づくとよく見ていたような気がする。
「ツバメも巣から飛んでいっちゃったみたいだしね……終わっちゃうのかな」
 もしや捕まえようとしたのか、伸ばした手の先から去った蜻蛉に残念そうな顔をする水樹が「民意がこれを夏の終わりっていうならね……」などと言いながらやれやれと態とらしく首を振る。冬人は彼のこういう軽妙なところが好きで、口に手の甲を当てながらくつくつと笑った。
「民意に逆らってでもしたいことある?」
「花火は絶対にしたい! 西瓜もまだ食べたいし、あと──」
 冬人が水を向けたとき、水樹はあまり悩むことがない。彼にはやりたいことが沢山あって、それを実際に行うだけの行動力があると分かる瞬間が冬人にとってはどうしても嬉しかった。
……あ、まずはこのアイス溶ける前に食べるのが最優先ミッションかな」
 パチンと鳴らした水樹の指がさすレジ袋から水滴が伝い、アスファルトの地面に落ちる。
 熱気がこもっているだろうに、しかしちっぽけな水滴がすぐに蒸発することはなかった。

 りん、と硬質な涼が鳴る。
 先日、水樹と行った風鈴の手作り体験で彼が作り、絵をつけたものだ。せっかく作ったのだから水樹が持っていたほうが、持ち帰ったほうが彼の母も喜ぶと冬人は言ったのだが、どういうわけだか水樹作の風鈴は冬人の手元に、冬人作の風鈴は水樹の手元にある。
 ひまわり畑に行った際の画像をデジカメで見ながら描かれたひまわりは、なかなかに精緻でありつつでっかい種がぽつぽつと描かれているところに水樹らしさを感じる。窓を閉め切りエアコンをつけていることが多いので、部屋のドアを開けた際の風圧で鳴るばかりなのが寂しい。
 いまも麦茶のおかわりを淹れて戻ってきたところで、行儀悪く後ろ足でドアを閉めた冬人は顔を水樹がいたほうへ向けて苦笑する。
 座卓に顔をべちゃりと伏せる水樹。
 鍛えられてもやはりまだ細い肩は健やかに上下していて、近づけば寝息が聞こえた。
 起こさないように盆をラグの敷かれた床へ置き、冬人は座卓に頬杖を突きながら水樹の寝顔を眺める。
 少し前であれば、伏せた顔を上げない水樹を見て痛いほどに鼓動が胸を殴ったかもしれない。不安に眉が寄ったかもしれない。
 いまは早速汗をかいているコップを持つ手が強張ることもなく、水樹の寝顔を見ていられる。肉の薄そうな頬も押しつけられれば潰れた饅頭のようで、冬人は吹き出しそうになるのを堪えた。
……結構美味いな」
 気を逸らすためにも飲んだ麦茶は水樹が仕入れてきた知識によってインスタントコーヒーが加えられていて、想像していたよりも香ばしく美味しい。自宅で試さず冬人に言って初めて飲むはずだった水樹の分はこのままぬるくなるだろうから、彼にとっては残念なことだ。淹れ代えるのは当然構わないが、寝起きに飲むにはきっと丁度いい。
 ひと口、ふた口と飲んでから冬人はタオルケットを取りに立つ。寝ている人間にとって空調の効いた部屋は寒いだろう。ただの風邪であろうとも、病など患わないほうがいいのだ。
「あ」
 そうっと肩にタオルケットかけてやりながら見つける。水樹の腕に小さなバッテン。蚊に食われて爪を刺した痕。
 そのときの水樹の様子をやたらとはっきり思い描きながら、冬人はスマホを取り出し──デジカメに持ち替える。
 窓の向こうから聴こえるひぐらしの鳴き声に紛れ、機械的なシャッター音。
 ──新しいアルバムをめくる水樹は首を傾げるだろう。
「夏の名残りだよ」
 エアコンの風にひんやりと頬を撫でられて、冬人は眠たげに目を細めた。