リズマナ

「彼女をください」と言われたリズベス

「彼女が好きなんだ。くれないか?」
……ハぁン?」
 大聖堂へ来てからこちら、優しい聖職者たちによって食う寝る住むを提供されて、世の浮浪者が羨むような生活をリズベスは送っている。寝食は不要だし、屋根や壁がなければ衰弱するような心身もしていないけれど、親切というものはいつだって笑顔で受け取るのが礼儀だってことは、そこそこの人里生活でリズベスだって知っているのだ。ここでは笑っときましょ、謝っておきましょっていうやつ。化け物さておき性根が捻じ曲がってやしないかと、大聖堂で指摘されたことはない。素直っちゃ素直だもの。
 人様からの親切に感謝して、平和に平穏に今日もてってけてってけ健やかに生きていたリズベスは、逆への字の口をそのままに、そう、爪一枚分も開くことなく剣呑な声を出す。
 青空に浮かぶ雲を見てあらあらそろそろ季節の移り変わりかしらなどと情緒豊かに思っていたリズベスに、その男はおっとりと話しかけてきた。
 やや垢抜けない素朴な顔立ちに、絵本でも読めば寝かしつけに大層才能光りそうな声。出来立ての白パンよりもふわふわした笑みを浮かべる若い男だ。悪魔ではないようだけれど、聖職者であるかは分からない。リズベスの知らない相手なので。
 警戒心というものを人に与えない作りをした男だ。
 リズベスもそうだ。男に話しかけられて、ふんわりのんびりと会話した。雲を指してやはり季節の風が吹いたのか、今日の夕飯はなにが出そうだ、誰それが子猫を拾って隠しているらしい……優しいやさしい日常の話をした。
 それが、ヱ?
 なんだってそんな言葉が出てきたのかね。リズベスに話しかけて、出てきた「彼女」が誰を指すのかなど固有名詞を聞くまでもない。そこまでリズベスは愚鈍ではない。「彼女」が関わるのだから尚更だ。
 びっくり仰天なんぞという言葉で追いつくものかよ。
「ア? なに、なんだって?」
 ならず者のような口調で、頭の鈍くなった老人のような言い回しで、リズベスは男に機会を与える。大聖堂でもらってきた親切を還元しているのだ。思い遣りっていうやつが巡って成り立つのが平和だ。そうだろう。
「彼女が好きなんだよ……ずっと」
 照れたように、しかし真剣に。
 男はどうして惚れたどこで益々好きになった、どういうところが好きだと続ける。リズベスにも同意、賛同できる部分が中々多い話であった。「分かってんじゃん!」と肩のひとつも叩こうかと思うほど。
 そこで終わっておけばよかったのだ。そうすればリズベスは「そうか、あの子を好きなやつがいるんだな……良い子だもんね。分かる」としたり顔で日常に帰っていた。
 男は続けた。
 リズベスが彼女の隣にいると。
 言い難そうにしていたし、迂遠な物言いではあったけれど、まとめればリズベスが邪魔ということだ。悪魔のリズベスが彼女に沿おうだなどとふざけるなと怒っているのだ。これも、リズベスは分からんでもない。好きな相手がいて、その相手に恋人がいればそりゃ邪魔だ。直接殺さずともあわよくば死ねと思うだろう。種族の違いも、悪魔と聖職者という立場も、確かにふざけるなの言葉はごもっともだ。
 男の大半の話はリズベスにとってうんうん頷いて、共感しているように見える仕草をしてやれるものだった。
 たった、ひと言。
「だから、彼女を俺にくれ」
 男はリズベスのくれてやった機会を拾わなかった。
 くれ。
 ください。
 ほんの短い言葉が男の長ったらしくそれっぽく繕ったクソくだらねえ妬みの一切合切をリズベスに拒否させる。無駄に吐いた息を祈りに変えた方が、まだしもリズベスには痛痒になっただろう。
「金銭発生しなきゃ人身の取り引きしてもいいの、法律の欠陥だよね!」
 げらげら。こんな場面ではこんな笑い声が相応しいのでしょう?
「人権意識低すぎ」
 好きだって。彼女のことを。
 リズベスだって好きだ。大好きだ。恋をしている。
 だから。
 男がくださいと続けた言葉。
 だから、彼女を大切にする。
「あの子の周囲で顔見せてみなよ。その体の中身ひっくり返してやるから」


 リズベスは「彼女」……マナと平和に平穏に、飴を口の中でころころと転がしていた。物をろくに食べられぬリズベスのために、マナは様々な飴を用意してくれる。今日は猫の形をした飴で、食べる前にひとしきり可愛いとはしゃぐマナこそ可愛いとリズベスはにこにこ嬉しい気持ちを笑みに造って表していた。
「リジーさん、どうぞ」
 鈴のようなマナの声と、薄い貝殻を乗せたような細い指先。差し出される飴をリズベスが口で受けたときのさっと染まった頬の色。
 なにもかもが幸せで、この時間を思えばこそ平和が尊ばれる理由もリズベスにはよく理解できた。平和を守りたいと、自らは血と涙に濡れる戦士の気持ちが理解できた。
「ねえねえ、マナちゃん。マナちゃんは喧嘩って見たことある?」
「え! えっと……言い争っている方などは、時々……
 おろおろするマナに物騒な話を切り込んでしまったな、と反省しながら、リズベスは「じゃあさ」と続ける。
「この泥棒猫! とかいう台詞聞いたことはある?」
「ど、泥棒猫さん……? な、なんとなく……?」
 突拍子ないリズベスの質問に目を白黒させるマナに、リズベスは彼女のこういう部分もとても愛しいと思う。世間知らずと悪い言い方をされてしまうこともあるけれど、周囲の人は彼女にとって優しくあったということだろう。伸ばされる手は慈しむためのもので、暴力ではなかったのだと思うのだ。大切にされて、大切にすることを学んで、実際に他者を大切にできるマナがリズベスは愛おしくてならない。そういうひとでなければ、マナはきっといまリズベスの前にいなかった。
「ふふ……料理しようとしてるときにね、忍び込んで魚を持っていく猫がいるんだって! マナちゃんは見たことある?」
「ええ!! ほんとうに泥棒猫さんなんですかっ?」
 腰を抜かさんばかりに仰天するマナに、リズベスはそうそうと頷く。
「誰かが隠して飼ってるらしいよ。まだちっちゃいって」
 このくらいかなあ、とマナの両手を掬うように取る。その柔らかさと小ささに、リズベスはいまでも時々驚く。唐突にやわやわと握って感触を確かめてしまうが、マナに怒られたことはないのでただ触りたいからすることもある。
「ちっちゃい猫さん……
 想像したのだろう。そわそわするマナにリズベスは内緒の約束をするように耳元へ口を近づける。
「こっそり探してみるね。見つけたら教えてあげる」
「で、でも……
「こっそり。ね!」
 隠しているものを、という躊躇いのありそうなマナの顔を、彼女のためだけの笑みで見つめる。
……はい。こっそり、ですね!」
 花のように、という言葉があるけれど、リズベスにとっては花よりもずっときれいで可愛い笑みが返る。
「マナちゃんは可愛いなあ!」
「わっ、あ……
 思った気持ちを正直に、痩身を抱きしめながら言えばほんのりとマナの体は暖かくなった。
 細い腕が背中に回されて……時告げの鐘が鳴る。
「あ……
「あー……
 しょんぼりした顔を見合わせる。マナの仕事の時間。聖職者の仕事は悪魔に関わることだけではない。
「また、後でね」
「はい……リジーさん。また……
 引き留めることはしてはいけない。名残惜しいけれど、マナがそう思ってくれることも分かるけれど、リズベスは遠ざかるマナにぱたぱたと袖を揺らしながら手を振って見送るのだ。マナは悪魔に悪影響など受けていないし、悪魔はマナによっておとなしくしている。共にいて文句を言われる筋合いはない……こともないだろうが、少ない。
「──そうでしょ?」
 踏み込みは一歩。化け物の身体能力が十メートル以上の距離を容易に詰める。
「じろじろじろじろさあ、恋人同士の逢瀬ってやつに無粋だと思わない?」
 自分の味わえない美味い餌を見る猫のように、物陰から恨めしいような妬ましいような視線を送ってきていた男にリズベスは最初から気づいていた。マナと一緒にいることのほうが大事であるし、男から話しかけられたわけでもないので無視したが、マナがいなくなったのであれば別だ。
「マナちゃんの周囲で顔見せんなって言ったよねええエエェ?」
 唇に隙間もなく喋る。
「あはは」
 まばたきも、呼吸も、生き物であれば当たり前のほんの僅かな振動もなく、躍動的な体勢を取らせた人形のような様で笑い声だけがする。
 不気味と異様を固めて練り上げて現実に擦り付けて汚したような存在を前に、拒否感を堪えきれない男が嘔吐く。それにさえ、リズベスはぴくりとも動かない。ただ、声だけがする。虫のようにきちきちと感情のない、不愉快な声で喋る。
「悪魔の所業が見たいならそう言えよ」
 ──神様と同じくらいの奇跡を見せてやる。