フォンタラ

煙草

 酒は味が好きではない。煙草もまた好んでいるわけではない。
 香りが好いのだ。
 好ましい香りは人を癒す効果があるという。否定しないが、実感するほどの効果があるかといえば、フォンソにとってはそうでもなかった。
 ただ、そういった効果があると知ってから、フォンソは偶に嗜むことにしている。
 疲れたとき、疲労を感じたときに、フォンソは仄かな酒精をまとい、紫煙をほろほろと口に転がす。香りは自らを癒しているのだ、身に取り入れ終われば自身は癒やされたのだ。規則性。
 過去を想起させるという難点は、舌に残る味よりも苦いけれど。

 高級であるという意味で贅沢品と呼ばれる葉巻を炙り、フォンソは静かに口元へ寄せる。用の済んだ長ったらしい燐寸を払えば、後は月明かりばかりの薄暗さに燃える点が残った。
 かろうじて浮かぶフォンソの口元は、弧を持たない。いや、常よりも口角が下がっているので、微かには弧を描いているともいえるだろうか。
 肺へ取り込まれることなく吐き出される紫煙は、雨上がりの山間部を覆う霧よりも濃密だ。葉巻を指に挟む手の動きは僅かで、それすらフォンソの大儀を隠さない。
 静かであった。
 緩慢な動作、吐息さえも幽なければ、静寂こそがうるさくなる。
 なに、と目立つことはない。フォンソの今日に視界を明滅させるものも、鼓膜を揺さぶり立てるようなものもなかった。それこそ、ほんの数分前までフォンソは笑みを浮かべていた。彼は平素、目立って本心を隠したり、印象を取り繕いはしていない。所謂、猫被りや類似するものは、手近な場所へ常備するほど必要としていない。喜怒哀楽は感情の表出であり、貼り付けているものではないのだ。
 ふと、疲れたと思っただけ。
 薄衣を重ねた果てに重石となったなにかに、足を掴まれているだけ。
 頻繁にあることではない。ないが、無視をすることはしない。対処法があり、対処する時間があればさっさと解決するべきだ。
 酒精で灼くか、紫煙と吐き出すか。簡単だ。呆気ない。それだけで済む。
 今日は葉巻を選んだだけ。紙巻よりも尽きるに遅い一本を吸い終えるかどうかのうちに、フォンソの身は軽くなる。そのようにしている。してきた。他者によってはなにか大仰な心の澱に見えるかもしれないが、真実大したことではないのだ。人間、誰しも疲れる。精神的疲労だったかしら。色を見るだけ、風を聞くだけで疲弊することを知らないものは存外多い。「なにもないのに疲れた」という言葉だけは、行き交っているというのに。
 眼前で解けていく紫煙をぼんやりと見つめて「ああいいかおり」などとゆぅらりした思考。
「──フォンソ?」
 フォンソの半分降りたような瞼が持ち上がる。
 聴き逃すことのない声。
 顔を向けて、視界に捉えた。
 あ。
「タラッタくん」
 タラッタがいた。
 暗い廊下の先、燐寸で火を灯すよりも、月を見上げるよりも明るく見えたのは錯覚か。
 感情が追いつくよりも早くフォンソの顔に笑みが浮かぶ。タラッタの側にあって、一番多く浮かべているであろう表情だ。彼の側にいて、一番純粋な心の表出だ。
 フォンソに重なっていた薄衣がひらりと払われ、紫煙のように消えていく。
 しかし、一拍。
 己を認識したであろうタラッタが固まった。
 なに。なにか。なにが、と星が流れるよりも速く巡った思考、フォンソは手にしたままの葉巻をもみ消した。タラッタの前で喫煙したことはない。驚かせたかと思ったフォンソだが、タラッタが胸を押さえたことで吸い殻さえも放り捨て、常より高い足音を立てながら早足で彼のもとへ向かう。
 何事もなくするような仕草ではないのだ。フォンソの反応は過剰ではない。少なくとも、彼のなかでは。
「なにかあった?」
 それは自分に解決できるものか?
「っ大丈夫、なんでもない」
 慌てたようなタラッタの返事。問題はないのだと言うが、明らかに反射的といった応えであればフォンソは平然と良しなどできない。
「いや、大丈夫って……あ、ごめん」
 案じるままに伸ばした手を、フォンソは途中で止める。
「ほんとうになんにも…………なぜ謝る?」
 咄嗟に挟んだ詫びに、タラッタが浮かべる不思議顔。端正な面差しに無防備な感情が表れるのをよく知るフォンソだが、いまは気まずく目を逸らす。重ねられた言葉から何事もないのは確かなようだが、だからこそ安堵は己の粗忽を気づかせる余裕になった。
「煙草のにおいがね……
 フォンソは喫煙直後だ。言い訳がましくなるけれど、紙巻よりも、フォンソ個人の感覚でいえば下手な香水よりも葉巻の香りは好ましいが、煙草であることに違いはない。厭うものもいるだろう。タラッタが当てはまらないとは限らない。
「におい? ああ……気にしない。俺も偶に吸うことはあるし」
 当てはまらなかった。が、側に来るタラッタへ腕を広げながら浮かぶ疑問。
……偶に?」
 この大聖堂で、聖職者もこそこそと夜に紛れての喫煙だというのに、タラッタはどこで煙草を入手して喫煙していたのだろうか。タラッタと一緒にいる時間のほうが長い自覚のあるフォンソだが、思い当たる節がなかった。監視束縛をしたいわけではない。純粋な疑問である。
「ん? 勧められたときだけだ」
 大聖堂へ来る前か、と理解がフォンソの頭でぱちんと音を立てる。
「きみは良い銘柄を知っていそうだな……
 思い出すのは訪れた豪奢な館、足りぬを知らぬとばかりの痕跡。
「勧められるようなものしか吸ったことはないから、それなりの銘柄を知っているかもしれない」
 答えるタラッタに抱き締められながら、フォンソはその躊躇いのない腕に目を細める。
「吸いたいものはある?」
 取り上げられたものを物質で補いたいのではない。望むようであれば用意できるという話。そも、物で補うにはタラッタが失った宝は多すぎる。思い返す度に、フォンソは胸の奥底に煤をまぶしたような心地になるのだ。
……大体のものは揃えられるよ」
 酒と煙草を呑めねば受け入れられぬ場所が多かったので、フォンソは大凡の銘柄は把握していた。嗜好品ひとつで人間は態度を変える。
「ん……なら、フォンソおすすめを教えてくれ。お前の好きなものは全部知りたいし、試したい」
 予想外。でもないのかもしれない。
 熱烈な言葉の通り、タラッタが自身へ心を傾けてくれることを、フォンソは知っている。
「私の……
 すり、と懐くタラッタ。夜を跳ね除ける金糸と更に伸びる影色、指にも留まらずさらさらと流れ落ちる髪の感触。組木を合わせるよりもしとりと馴染む肌の持つ熱。全て大事に抱き締めながら、フォンソは己の煙草入れの中身を考える。
 良いものだから共有しようと勧められるものは、ない。
 自分自身の好みが碌にないのだ。必要だから吸っていただけで、葉巻でさえあればフォンソ自身が求める効果は満たせる。
 言葉をつっかえさせるフォンソに、しかしタラッタは楽しそうな笑みを向ける。笑みという括りでも、タラッタは様々な表情を見せてくれるようになった。嬉しいこと。可愛いこと。愛おしくて堪らない。湧き出て止まぬどれだけを伝えられているだろうか。心がものであったなら、そのまま取り出し渡すことができるのに、とフォンソは焦れることがある。
「そうなのか。じゃあ今度買いに……はいけないか。覚えているのを教えよう」
 外に出られぬことをあっさりと。フォンソの耳に、タラッタの声が暗澹を滲ませているようには聞こえなかった。
……うん、教えて。楽しみだな」
「ああ……お前が気に入るといいが」
 気に入らぬわけがない。
「たとえば──」
 指で絵を描くように語られる、懐かしのこと。
 タラッタの話すもの。彼が覚えているもの、感じたもの、いつのこと、誰がいて、なにがあって……一つひとつを聴きながら、フォンソは顔を綻ばせる。
 思い出とは特別な過去だ。過去は積み重ねた歴史だ。歴史は生きた道だ。
 フォンソは知らぬ道を辿る。知らぬ場所、知らぬ顔、知らぬ声。タラッタの唇が燻らせる香りを利く。
 そうして辿り着いた先の現在で、フォンソはタラッタと並びながら同じ紫煙をまとうのだ。
「──ああ、いい香り」
 懐かしいと香りを楽しむタラッタの隣、フォンソはゆぅるり蕩けた声で呟く。
 疲弊はない。
 満ちて溺れるほどの幸福と、胸に熱を与える眷恋に、フォンソは初めて煙草を美味いと思った。手に収まる煙草ひとつがタラッタと結びつき、フォンソに彼を想起させる。
 酩酊に得る多幸感がこれほどならば、手放せぬものの気持ちを理解できる。紫煙となった思慕に視界が烟るのは、微睡みに見る夢のようだった。
「本数が増えるかもしれないな」
「む、それはそれで……嬉しいが、身体が心配だ」
 タラッタはいつも素直にものを言う。照れて口が重くなりがちでも、意地を張って思いもしてない言葉を発するなど、少なくともフォンソがされたことはない。偽りなく差し出してくれる言葉に、どうして誠心を見せずにいられるだろう。
 眉を下げるタラッタに、フォンソは初めて得た「嗜好品」を手放すのに躊躇しない。
 タラッタへ預ければ、あとは彼に誘われ、ともに同じ香りをまとうのを待ち侘びる。時折は……ねだろう。フォンソにはそれだけで十分だ。
「どうだろう?」とタラッタの目尻を撫でつつ問えば「んっ」と彼は小さく身を跳ねさせた。ささやかに伸ばす指にも過敏な反応をされると、幾度も辿り舐った肌の記憶を突かれてしまう。
……わかった。適切な本数などは詳しくないが……お前にねだられるというのも、良さそうだ」
「いじわるはしないでね?」
「ふ、しない……頻度によるがな?」
 くすくすと交わした笑い声。フォンソは早速新たにねだる。
……まあ、いいか。気に入ってくれるのは嬉しい……ただ今日は最後だ」
 可しとされたが、タラッタの顔は最後にむうと難しい。本人よりも余程自身を大事にしてくれているタラッタに、フォンソは健康長生きできそうだと内心で冗句。もはや長生きどころではない。
「しっかり味わうよ」
 指に挟む煙草はまだまだ尽きない。燻らせ過ごす夜は長いだろう。
 タラッタがいなければ夜も日も明けないけれど、彼さえいるのならとフォンソは思うのだ。
 尽きぬほど、長いほど好い。こんな夜を繰り返したいと思うのだ。