リズマナ

成立

 あ。
 口を開けて杯を逆さにして、リズベスは酒精よりも甘さの際立つ葡萄酒を口の中へ流し込む。
 味覚を造った舌と喉が僅かに灼かれる感覚がして、葡萄酒は喉の奥へ流れていく。石を水へ投げたような音。行き止まりの管に葡萄酒が溜まった。
 リズベスは喉頭までを造ったが食道から先が出来ていない。管があるのは識ってはいるのだけど。喉から腹までを、開いて見れば分かるのだけど。
 してはいけない、ことだろう。
 あの子は驚き腰を抜かすだけでは済まないだろう。
 他の聖職者たちに散々止められて尚止まらなかった知識欲を自制する理由。
 感覚として好まないが、肉に染み渡らせれば喉頭にある葡萄酒の水たまりはなくなっていく。これが固形物であればできない。まだ、できない。溶ける飴であれば人間がするのと同じように口内で溶かせるのに、変わらぬ仕草が叶うのに。
 既に慣れたため息をひとつ。リズベスは先日の光景を思い出す。
 てってけと大聖堂のなかを散歩していたリズベスは、聖職者同士で茶の席を設けたあの子、マナを見つけた。
 声はかけない。悪魔が忌避されることは分かっているので、マナが他者と交流している際にリズベスは近寄らないようにしている。ただ、少しの間、人間が及ばぬ視力で遠目に眺めることはある。
 マナの小さな口が焼き菓子を喰み、紅茶茶碗を唇へ添えて僅かに傾ける。
 人間によくある、否、必須の飲食風景である。リズベスにはできないこと。
 人間は共有と共感を好む。リズベスはマナと共に口内で飴を転がすことがあるけれど、食卓についたことはない。マナの飲食風景を遠目に見ていると、食事を共にする相手がいるときのマナは楽しそうだ。他者との共存を喜ぶ性質を持つものは、飲食物を分け合うことを楽しむ傾向にある。「同じ食器で食べる」だったかしら。逆に一人での食事には寂しがる。単身で生き難い生き物。
 リズベスは極々限られた部分でしかマナに共感することができない。共有できるものがあまりにも少ないから。今後は分からないけれど、現状でリズベスの造った人型は仕様が追いついていない。
 どうか、この子が泣かないように。
 願う感情、心は本物だ。
 では、どうすればあの子は泣かずに笑っていられる?
 人間の体ではなく、人体の構造ではなく、人間という種ではなく、マナを知りたかった。
 そも、泣かせたくないと思う理由も見えていないのだけど。


 時折、リズベスはマナと街へ行くことができる。
 花の季節なのだろう。どこからかひらひらとやってくる花びらにマナは楽しそうで、リズベスと繋いでいないほうの手を伸ばすことがあった。
 街へ行くことができた初めの頃は迷子防止かしらと思っていたマナと手を繋いで歩く理由、いや、手を繋いで歩いているときの気持ちがいつからか変わったように思う。
 マナの小さな手を包み、一定の温度で保たれていた熱がマナと同じものになるのが嬉しい。共有を超えて混ざり合ったような感覚。そう思っても、感じても間違いではないだろうとリズベスは頭のなかで、あるいは胸のうちで誰かに話しかける。誰かは、人間から散々に聞いてきた言葉を返すのだけれど。
 ──化け物が笑わせる。
 …………知るかよ。煩えな、話しかけんな。失せろ。消えちまえよ、馬鹿野郎。昔も今も聴いてるような声しやがって。この化け物が。
「リジーさん?」
 思考が現実へ焦点を合わせた。
 とん、と肩へ寄せられたマナの頭がすり、と懐く猫のような感触をリズベスへ与えた。見上げてきたマナのくっきりと大きな目と視線が合ったので、自然に浮かべられるようになってきた、マナのために造った笑みを向ける。ほんのりと頬を染めるマナがいつからか、恥ずかしげに目を伏せるようになったことにリズベスは気づいている。
 きっと、マナはこの表情が好きだと思うのだ。そうであればいいな。自分に都合のいい解釈をしたがるのは、悪魔の性だろうかと表情を保ったままにリズベスは自嘲する。自嘲、自嘲ときたもんだ!
リズベスは反射的にマナと繋ぐ手に力を込めた。弱く、マナの手が痛まないように。
……痛くない?」
 自信を持てなかった。
「ふふ。大丈夫です」
 面映ゆそうなマナの返事にリズベスは安堵する。
 リズベスの造った人型は、彼の制御下から外れることが多くなった。反射的になんていい例だ。本性であればどうだろうか。大聖堂に捕えられてから、損傷、崩れかけることはあっても完全に元々の姿を晒したことはない。人型のように本来は意識して動かしているものではないから、反射、咄嗟、意図せず、動いてしまうことがきっとある。
 それでも。それでも、だ。
「マナちゃんが痛くなることはしないから」
……はい。リジーさんは、そんなことしません」
 断言。細くて小さい、やわらかなマナの見せる凛とした強い意思。悪魔へ向けるには大きすぎる信頼に、肉しか詰まっていない筈なのにリズベスの頭がくらりと揺れる。動きだけは細かく人間に寄せた目も、少し揺れた。
 揺れて、離れた向こう、二人の人間が視界に入る。リズベスにとっては知らない、興味もない、一秒前であれば気にも留めない塵芥の人間たちが視界に入る。
 花びらが隠して見えないなにかを渡した一人。もう一人が泣きそうな顔をする。泣き……泣いた。
 泣きながら笑って、相手の手を握り締めた。まるで、大切なものを預けるように、落とさぬようにと握り締めている。
 似ても似つかないと思うのに、既視感。
 嗚咽につっかえながらの「ありがとうございます」が、リズベスの遠くない記憶をりん、と鳴らした。
 あのとき、マナと握り合った手にはなにが包まれていた?
 狂った。
 ばらばらと本を捲って探すように思い出したものは、時を経て読み返した本と同じくがらりと違うものに見える。
 透明な水滴は空へ散ったとしても見失うことのない星に、血の巡りが染めた目尻は降る花びらが飾ったように、常より冷えた手は氷晶石を磨いた細工のようで。
 マナも笑っているけれど、泣いていた。
 リズベスの知る涙は痛いとき、悲しいとき、悔しいとき、怒っているものだから、どうか、どうかこの子が泣かないようにと、リズベスはリズベスなりに精一杯できることをした。
 どうして、どうしてだ。
 涙が消えれば笑みが残るでしょう。笑みを浮かべるのは嬉しかったり楽しかったり……幸せなときではないの。
 マナを幸せにしたかったのではないの。
 ぱちん。
 ぱちん。ぱち、ぱち。ぱちぱちぱち!
 何処かの誰かがリズベスに拍手する。それともまばたきの音かしら。身につけた癖。
 促された思考が方向性を変える。理性は僅かに低下。感情を支配下に置かれ、心が震える。これが狂ったのでなければなんと云うのか。
 ああ、そうか、なるほど。
 狂ったから、分かった。

 恋をした。

……ねえ、マナちゃん」
「はい。なんですか?」
 短い返事も鈴が鳴るような声。人間には好ましく思われるだろう、なんて他人事はとんでもないことだ。
 マナの声は、リズベスの好きな声なのだ。
 好きだ。好きなのだ。
「ぼく──マナちゃんに恋をしたよ」
 意識もしていないのに、表情が変わったのを感じた。