リズベスは人間に興味を持ち、調べるために人間の真似をしている。人間になりたいとはこれっぽっちも思っていない。興味は憧れではない。リズベスの魂は隠れたことがない。
──歌を聴いた。
妙なる調べと人間が称賛するであろう歌声。
リズベスに歌の良否を判断するのは難しい。楽譜に踊る記号と照らし合わせでもすれば別であるが、ただ聴いただけでは歌と認識するより先にはなかなか進まない。
しかし、その瞬間に聴いた清かな声は、人間への乏しいリズベスの感性をしても美しいと理解できるものであった。
興味。
知識欲のままに声をかけたのがマナとの出会いである。
ぐちゃり。
人型の内側で肉が蠢く。
特に趣味も持たずのんびり生きてきたおかげか、リズベスは大聖堂に囚われても未だに人型を保ち、構造を変化させることができる。少し前には肉が詰まっているばかりの口の奥、咽頭が「それらしく」なった。声帯に重きを置いたのだが、空気の振動により音を発するという感覚には慣れない。長い年月を人体構造とかけ離れたところで過ごしていたので、一朝一夕に人間式へ対応するのは難しいのだ。できる悪魔も多いようだが、器用なのか若いからだとリズベスは思っている。
「ぁ゛、あ……んー、よし!」
人間式の発声を明日の自分に任せ、リズベスは標準となっている口を逆への字にした笑顔で大聖堂の外廊下をてってけ歩き出した。背中には朝日、今日も太陽は燦々と輝くであろう。
大聖堂からほろほろと聞こえてくるのは早朝から始まる祈り。我が子を殴る親の金切り声を聴いた人間は、きっとこんな気持ちになるのだろうなとリズベスは思っている。不快だし怖いので聴きたくない。
ほどほどに祈りの声から距離を取りながら、リズベスは袖を手繰り寄せて取り出した飴を口の中へ放り込む。りんごの味。
飴はマナから貰ったものである。菓子を分け合う機会にものを飲み込める造りをしていなかったので飴だけを貰ったところ、リズベスが飴を好んでいると思ったマナがキャンディポットを携えてやってきてくれたことはいつまでも印象に残っている。
信仰深い聖職者が。悪魔の捕縛や制圧に慣れているわけでもない繊弱な身で。
対抗手段あっての余裕ならば理解できるが、マナにはそのようなものあるとはリズベスには見えず「この子、大丈夫かしら」と思ったものである。空気も距離も機微も読まない己が付き纏うのをあしらうのではなく、自ら色とりどりに揃えて持ってきてくれたのだ。純粋な好意だな、とリズベスは判断しているし、純粋な好意だから心配……左様、心配になるのだ。
マナは悪魔好みの性質であるようにリズベスは思う。
悪魔なんぞという白い服を泥だらけにして遊んで得意になっているクソガキ種族からすれば、マナは白い服そのものだ。大聖堂の外で暮らしていれば清けき歌声が悲鳴に変わる日々を送っていることだろう。人間にちょっかいを出すようになったのが最近の悪魔の想像であり、理解できぬ趣味であるが。
「ろくなものじゃない」
かつ、と飴を噛んで独り言。リズベスは自身が呼ばう声に振り返った表情が歪むことを望まない。
視線も動かさず太陽の位置を把握して、リズベスは祈りが終わる頃だと判断する。
てってけてってけ歩いて向かえば、口内から飴が消えた頃にマナの背中を見つけた。細く小さな背中。
「マナちゃん、おはよう」
声をかけて手を振る。大仰な動作に揺れる袖は目立つことだろう。
違和感。
振り返り、動かないマナ。
朝、こうして声をかけるのは必ずしも毎日のことではない。
声をかけて、必ずしも同じ反応があるわけではない。
振り返り、リズベスを認識していながらマナはひと言も発さず、一歩も動かない。
どうしたのだろうか。なにかあっただろうか。なにかしただろうか。
──やっと悪魔への警戒心でも芽生えたか?
リズベスは口を逆への字にしたままマナへ歩み寄る。魚が泳ぐようにゆらりと、袖を楽しげに弾ませて。
「えっ」
マナの目の前に立ち、リズベスはばちっと音を立てるように強くまばたきをする。
リズベスが彼女へ渡したどんぐりよりも大きなマナの目から、降る星のような涙が伝い落ちているのだ。
涙。涙の存在をリズベスはきちんと知っている。なんなら自分も出せる。痛いときや悲しいとき、悔しいときや怒っているときにも出てくるものだ。
マナが泣いている。
痛いのか、悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか。リズベスには涙の理由が分からない。
「どうしたの……」
肌を裂かぬようにと慎重に、ぎこちなく涙を拭うリズベスの指先で爪が濡れる。
「リジー、さ……ごめんなさい……っ」
ぎこちなく呼ばれる名前。この大聖堂ではマナだけが使うリズベスへの呼称。
震える声が哀れであった。涙に濡れて束になる長いまつ毛も、自身の服を掴む小さな手の白さも。目の前に立つのが化け物でなければ湧き立つ愛憐のまま、花も飴もやろうと抱き上げていたであろうほど。
「わたし……わたし、リジーさんと……お清めが、したいです……」
一層強く握り締められる服、白くなるマナの手。
造ったものであるからこそ意図せねば動かぬ逆への字の口、場違いな笑みの顔をそのままに、リズベスは小刻みなまばたきを繰り返す。身につけた仕草であり、思考を己へ促す合図であった。
すれば? 義務でしょ?
この言い方をしたら、マナは二度と自身の前で歌うことも笑うこともしなくなるのだろうな、とはリズベスでも分かったし、マナが従わずを得ない義務への嫌悪で涙しているのではないとも分かった。
マナから清めを受けたことはない。リズベスはマナの衣の下に手を伸ばしたこともない。されなかったし、しなかったというだけのこと。マナの信仰心から清めを受ければリズベスは弱体化するだろう。しかし、それはリズベスにとって然して困った事態ではない。造った人型は中途半端に終わるであろうが、人型を造ることは元々人間を調べるという目的に必要とした手段である。悪魔であることを隠さぬ大聖堂では必須なものではない。リズベスが納得すればいいだけのこと。そして、リズベスは節制して細々と生きるよりもしたいことをして消滅するほうが好ましかった。
「……マナちゃん」
呼べば震えたマナの頬にまたひと筋涙が伝うので、リズベスはその涙を拭って濡れた手をマナの手に重ねた。
「ちっちゃいねえ」
服から外した手は小さくて、冷えて強張っている。柔く揉みながら、リズベスは数拍考える。どう伝えればマナは泣き止むだろうか。
考え、なぞる記憶に浮かぶ子守唄。マナが教えてくれた、歌ってくれた。相手がいるから在る歌だ。相手を思って歌うもの。人里にいた頃、母親が腕の中の小さな我が子に歌っていたのを見かけたこともあった。
リズベスは眉と目尻を下げながら瞼をやや伏せる。唇は緩やかな弧に変えた。使い慣れぬ声帯を叱咤して、花びらを食むように口を開く。
マナが心穏やかになるように、斯くあれかしと願う顔を声音をリズベスは真似する。いまこの一瞬、人間であったなら。
「なんで謝るの。泣かないで……したら……一緒に寝よっか。きっと暖かいよ」
──人間の皮を被った化け物による心からの造りものに、ふわりとりんごの飴がいまさら香った。
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