フォンソ

大聖堂に戻る前

 婚姻をせず、姦淫など以ての外と考えていた大聖堂で、されど淡く恋の話を交わした過去がある。
 稚いほどに無邪気で、理想の自身へ成るべく日々を努めていた。真面目に勉強をして、しっかりと働いて、親孝行をしなければと考えていた。
「どんな子が好き?」
 同年代の少年たちで集まって気恥ずかしい話題をこそこそと交わし合う。
 思いおもいに描くのは、自身の隣にどんなひとがいてくれたら。どんなひとに惹かれるか。
「にこにこしている子が好きだな」
「抽象的すぎる」
「お前がにこにこさせてやれよ」
「影で流す涙も拭えねえのか」
 フォンソが口にしたのは周囲に比べると具体性に欠け、個人の名前すら挙げていた少年たちには不評であった。ぼろくそ。そこまで言うか。当時から世話焼きな面のあったフォンソの頭を、つんつん突いてやりたい気持ちがあったのかもしれない。こいつだってお子様なのだと。
 落ち込みはしたけれど「お前がにこにこさせてやれ」という意見にフォンソは成程と頷く。なにも相手は常にご機嫌ということはないだろう。ならば、一緒にいて相手が笑顔になるような自分にならねばなるまい。にこにこしてもらえるように、心を尽くそう。その顔の形も、そもともにいる相手がいるかも分からないのだけれど。なにせ聖職者である。
 さて、その会話から幾年か、頬の円みが削げ始めた頃にフォンソはひとつの役目を仰せつかった。
 悪魔の調査。
 世界に滲む悲しみの幾つかは悪魔が関わっている。フォンソが命じられたのはそのうちの一件。
 同期はフォンソを心配したが、彼の能力を不安視するような心配の仕方ではなかった。悪魔と対峙する可能性が高いのだから、心身損なうことのないよう願う気持ちと一体だ。
 フォンソは気を引き締め、現地へ向かう汽車の切符を手に大聖堂を出て──惨劇を知る。
 とある商人が悪魔に願った。
 素晴らしい跡取りが欲しい。
 自身に子がいない商人は、しかし繁盛した商いを築いた富を引き継がせる相手がいない。自身が老いて弱れ掻っ攫おうとするものばかりが思い浮かぶ。女はいる。金で娶ることができる。子が、子だけがいないのだ。養子を取って育ててという選択肢は、血筋への固執故に選ばれない。
 金に伝手にで商人は悪魔を召喚する方法を調べた。幸いと言っていいのは犠牲が出ていない場合、事を犯した本人のみに報いがあった場合だ。この件は幸いではなかった。
 召喚された悪魔は商人の願いを叶えた。
「よろしい、素晴らしい跡取りをあげよう。お前の『情』と引き換えだ」
 果たして商人は素晴らしい跡取りを得る。
 最初に気に入らなくなったのは声であった。忙しい商人は疲れた身にかけられる甲高い子どもの声を嫌った。
「願ったのは素晴らしい跡取りであるはずだ」
 商人は再び呼び出した悪魔に願いと違うと訴えた。悪魔は応じた。
 商人の妻から声がなくなった。商人は気にかけない。情がないので。
 次に気に入らなくなったのは顔だ。突然変わった己の声に不安と怯えを浮かべる子どもの顔が不満であった。
 商人は再び呼び出した悪魔に願いと違うと訴えた。悪魔は応じた。
 商人の妻が顔を焦がした。商人は気にかけない。情がないので。
 次は髪の色、次は歯並び、次は手足、次は次は次は。
 商人の妻は髪も歯も手足も何もかもを失くしていく。商人は気にかけない。情がないので。
 最後に知恵を願った。
 子どもは自身が母親を継ぎ接ぎして作られた恐ろしい呪いの子であると理解して、幼い身で自害した。
 商人は気にかけない。情がないので。ただ、跡取りを失ったことを悪魔に訴えた。
「お前の願いはもう叶えただろう。与えたものが失くなったところで知ったことではない」
「では、また新しく跡取りが欲しい」
「よろしい、新しい跡取りをあげよう。お前の克己と引き換えだ」
 果たして商人は新しい跡取りを得る。
 最初は美しい声が欲しくなった。忙しい商人は疲れた身を癒す歌声が欲しくなったのだ。
 次に愛らしい笑顔が欲しくなった。自分のしてやったことには常に喜びを向けるべきだ。
 次に髪を、歯を、手足を。商人は何もかもを欲しがった。商人は止まらない。克己がないので。
 商人の欲に悪魔が応える度に、商人の周囲から様々なものが失くなった。
 商人は気にかけない。情がないので。
「──俺は願いを叶えてやっただけだ」
 フォンソの前で悪魔が嘲笑う。
「お前は武器を憎むか? 武器を売ったものを憎むか? 刺したその手を宙ぶらりんにするのかよ」
……笑わせるなよ、共犯者」
 刺す手に添えられた手が白い訳などない。
「自らの法で裁くのかよ。傲慢め!」
 悪魔はげらげらと嘲笑い続けた。
 フォンソは最初の一件で成功した。あの悪魔も商人も捕らえられた。人間への失望や嘆きで信仰を陰らせることのなかったフォンソは悪魔調査への適正有りと見做されて大聖堂の外、世界中を巡って聖職者として従事することになる。
 血を見た肉を見た骨を見た。涙を欲を。現実に焦点の合わなくなったもの、空虚へ向けられる笑み。
 頬が痩けたことも、目の下に陰鬱な影ができたことも、治らぬ頭痛に悩まされたこともある。寝入り端に肩を叩くのは聖句ではない何事かを延々と垂れる己。人肌に触れなくてはならなくなったとき、罪悪感とともに込み上げる饐えた胃液はフォンソの喉を灼いた。


…………………………よろしい」


 宜しい。
 場数、経験、適応、なんでも宜しい。
 備え、積み上げ、フォンソは受け入れた。呑み込んだ。
 種族へ期待を込めて見上げることを止め、種族への固定観念を捨てて目に映るままに物事を見れば以前よりも世界が広くなる。
 鏡に映るフォンソにはもう少年の円い頬など残っておらず、ただ己を仕方なさそうに見つめ返したあと、穏やかな笑みで促す。汽車の時間が近づいているぞ。
 切符を手に駅へ向かうフォンソの背中、いいや、彼が掛ける神の徴に祈りの声が捧げられる。その街で一番敬虔深いという女。昨夜しなだれかかっていた男の肌は熱かったか?
「あなたに神の祝福がありますように」
 聖職者は心から祈った。


 ──そして現在。
 方々巡って気づけば二十数年。報告ではなく正式な帰還命令に何事かと慌てて戻ってきた大聖堂。
「お清め……
 平穏とはいえない日々にすっかり皺もできた中年を呼び戻してまで、と思ったが、成程。若者にばかり押し付けるものではない。聖職者としての経験はあるのだから、内容はどういうものであれ率先して行うべきだろう。
 納得は早い。するべきことがあり、できることであるのだからフォンソは行う。
 長く離れていた大聖堂には知らない顔が多く、逆に知っている悪魔がいて大いに驚くこともあった。見つけることのできた同期とはお互い老けたなと笑い合い、久方の雑談に興じる。
「色々な子がいるみたいだねえ」
「気性が荒いのも妙に懐っこいのも……ああ、捕まって観念したのかやたらと無気力な悪魔もいるな」
「へえ……
 気づいたように同期が顔を向けた先にいるのだろう。追って視線を向ける。
 まばたきをひとつ。
 フォンソの目はなによりもうつくしい笑みをまだ知らない。