フォンタラ

成立

 タラッタに対する印象が周囲と違うことに気づいたとき、フォンソは周囲の言葉を否定することも己の考えを話すこともしなかった。
 悪魔に対して肯定的、好意的な認識を持ち、他者へ意見し申し上げる聖職者など暗君の治世よりも悍ましい。結構と存じ奉り仕りましてございます。自身の立場、置かれた状況を俯瞰して見れなければ今日を生きるのも難しい経験がフォンソにはあった。
 されど、フォンソは聖職者が悪魔を罵る言葉に迎合を打つことはしない。
 他者の経験と自身の経験。結果として構築された考え方に違いがあるのは当然のことであり、相手の過去を軽視した侮辱になりかねないことは態々口にするべきではない。
 疑問、質問であれば答えよう。
 言い回しを変えることはあっても、フォンソは己の考えを伝えよう。
 違うのであれば。己の思想に同意することを望むだけであるのなら。
 フォンソは己の「現在」に口出ししてくれるなよ、と思っている。


「──タラッタくん」
 夜。
 フォンソの呼ばう声にタラッタが顔を上げるのは早い。手燭よりも尚眩く光る金の目をぱっと開き、傍へ寄ってきてくれる足に迷いがないことを周囲はもちろん、以前のフォンソも驚くだろう。いや、フォンソは今のように喜んだかもしれない。
 存外触れ合いを好んでくれるタラッタはフォンソが差し出す手をしっかり握ってくれて、歩き出すのについてきてくれる。建前は見張り。大聖堂のなかでフォンソはタラッタと手を繋いで歩くことが多い。それはもう他の聖職者から侮蔑も嫌味も叱責も受けるが、微笑ましさを表情に言葉にして伝えてくる聖職者もいない訳ではない。聖職者の役目を考えれば後者は多いほうだろうか。
 柿渋の塗られた紙が覆う手燭、その仄明るさで照らしながら歩く大聖堂。タラッタを連れたフォンソはまさか彼と散歩に勤しんでいる訳ではない。
 ふたりには約束があった。約束というには細やかかもしれないが、成そうとタラッタと言葉で交わし合えばフォンソにとっては約束であった。ましてや、フォンソはできることをできない、しないとは言わない。
 故に、フォンソはタラッタと夜の大聖堂を歩いている。
 世には近く手を伸ばせそうでも掴めぬものがある。それは大望であったり、夢に描く願いであったり、自身のなかにあるものかもしれない。
 フォンソは今日、タラッタへ掴めぬものを渡したかった。
「寒くはない?」
「平気だ。お前こそ……
 大聖堂のなかより外、結界の内側。拓けた屋外に出れば小夜風が足元から立ち昇るように体を撫でる。寒さを案じればタラッタは首を振り、逆にフォンソを気遣う顔をする。見目に寒々しいのはタラッタのほうであるが、いくら悪魔として弱っていようともフォンソの身体はタラッタほどの頑健さを持たない。悪魔から見れば人間は脆弱そのものだろう。
「大丈夫。慣れてるのもあるかな」
 大聖堂へ戻る前にはいつでも雨風凌げる場所で寝起きできた訳ではないので、強がってはいない。つまり、何という問題もないので手燭を地面に置き、タラッタの手を放したフォンソは自らの外套を脱ぐことを躊躇しないし、タラッタの肩へかけるのも当たり前なことであった。自身より頑丈であることは気遣わないということに繋がらない。平時であるのだから余計に。
「なにを……あり、がとう」
 返そうと動いたタラッタの手を取って引く。もう片方の手は手燭を持ち直した。外套を受け取ることはできないと態度で示す。こういうときにフォンソが聞かないことをタラッタも知っている、知っていてくれるだけ積み重ねたものがあり、フォンソに向けられるのはぽつりとした礼。小さな声が照れているからだとも、顔を見れば赤くなっているであろうことも知るだけのものもまた、フォンソのなかで積み重ねられている。知らぬ振りはすればタラッタの顔を近く覗き込む口実になっただろうかとフォンソは喉でくつくつ笑う。
……なにかあったか?」
「きみを可愛いと思っただけ」
 手を握られる手が強くなる。詰まった声も、熱を伝える手も、フォンソにとっては全てが可愛らしいと感じる。
 フォンソが馬鹿であれば「え? あなたタラッタくんの可愛いところも可愛いということも知らないんですか? 人生損してますね」と悪魔死すべしとする聖職者へ真っ向から抜かすかもしれない。聖職者間であれど殺し合いに発展してもおかしくない言葉は、声にせぬフォンソのなかの本音であった。
「この辺りならいいか」
 大聖堂の天辺の向こうにも夜空が見える場所。
 冷い風が鳴らす木立、その枝葉。音より向こう、頭上を遥かに越えた先には満天の星が広がっている。
 夜空は青い。深く、ふかく、果てない青が黒と錯覚するほどに重なり、月光と星々によってもとの色を取り戻すのだ。
 フォンソが横目で見たタラッタの顔には美しいものへの歓び、僅かな悔しさ。どちらの感情も間もなく増すだろう。
「もうすぐかな」
「ああ」
 大聖堂では星を詠み、記している。神の軌跡を追ったものであり、空を窺うものである。星々を観察し続けた過去は、やがて未来の輝きを予測した。
 書架の一角を埋める観測記録は東雲へ向かう今日の空を読む。
 つい。
 走る。
 走る、はしる。
 ──星が流れる。
 空に弧を描き、輝く星が流れていく。
 一つ、二つ。またひとつ。群をなして空を往く星々。
……きれいだね」
「ああ、きれいだ。すごく……っ」
 言ってから声にするのは無粋かと思ったが、タラッタはこくこくと頷き夢中で流れる星々を見つめている。
 今日という空に星が流れると知ったフォンソは、タラッタへ観せたいと思った。タラッタの重ねた年月を思えば幾度か観たことがあったであろうが、彼の手にない輝きはきっと目に捉え、記憶に抱くことができる。一瞬一瞬がタラッタのものになる。
「フォンソ」
 染みるような声に呼ばれる名前。タラッタの音でなぞられる文字が胸で弾むようになったのはいつからだろうか。後ろへ流れ続ける「過去」が「現在」を引き寄せた。
……なんだい」
 応える声は震えていないだろうか。その震えは小夜風に押されたものだと心配されないだろうか。ならば杞憂であるのだと、声以上に強くフォンソはタラッタの手を強く握る。
 星が流れる。
 流れ落ちた先であるかのように、タラッタの目が瞬いた。
 いま空にある星よりもゆるやかに弧を描いたタラッタの口が、いま空にある星よりもりんと鳴るように言った。フォンソだけが聴いた。
「──よかった」
 いつか、現在を過去にした未来、フォンソはタラッタへ伝えるだろう。

 私はきみの笑みよりもうつくしいものを知らず、その笑みが向けられることよりも喜ぶものはないのだよ。